(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の華ともいうべき中長距離戦線における最も典型的な「名馬像」とは、次のようなものだろう。
3歳(現表記2歳)時にデビューし、1戦目か、遅くとも2戦目までに勝ち上がる。4歳(現表記3歳)時には、皐月賞トライアルから皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞と続くクラシック戦線の主役を張ってファンに実力を認知させ、その後はジャパンC(国際Gl)か有馬記念(Gl)で、上の世代の強豪たちと対決する。5歳(現表記4歳)になってからは、天皇賞・春(Gl)に始まり有馬記念に終わる古馬中長距離Gl戦線を戦い抜き、上の世代、下の世代も含めた競馬界の中での決着をつけた上で、それまでの実績を手みやげに引退し、種牡馬入りする・・・。
今や中長距離戦線とは全く異なるレース体系を構築するに至った短距離戦線、ダート戦線はさておき、中長距離戦線の場合、一部の馬が大レースへの出走を制限されていた時代の馬でもない限り、「名馬」といわれる馬のほとんどがこうした道を歩んできた。ファンは、競馬界に確立されたそんな道のことを「王道」と呼ぶ。こうした道を外れれば外れるほど、その馬は「名馬」とは呼ばれにくくなっていく。
しかし、「王道」という価値観がまったく揺るがぬものと思われていた平成の世に、そうした常識に真っ向から挑戦状をたたきつけた1頭の名馬が現れた。それが、1996年のJRA年度代表馬・サクラローレルである。
サクラローレルの場合、多くの名馬たちの登竜門となるクラシック三冠では、その名を出馬表に連ねることすらなかった。また、いくら晩成といっても、いくらなんでも5歳(現表記4歳)になればGl戦線に台頭してくるものだが、サクラローレルは、その大切な1年のほとんどを故障で棒に振っている。彼がGl戦線に姿を見せるようになったのは、一般的な名馬は引退していても不思議ではない6歳(現表記5歳)になってからのことだった。
サクラローレルが6歳(現表記5歳)を迎えた1996年の年頭時点では、競馬界における彼の地位は「Glllを1勝した馬」にすぎなかった。だが、サクラローレルが華やかな光を浴びる檜舞台で輝きを放ち始めたのは、それから後のことである。慢性的な脚部不安ゆえに、出走するレースをかなり限定せざるを得なかった彼だが、レースを選びながらナリタブライアン、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった青史に名を残す選ばれし強敵たちと戦い、そして勝ち抜くことで、彼は自らの威名と評判を高めていった。そして彼は、ついに1996年のJRA年度代表馬に選出されたのである。
さらに、競馬界の頂点に立つと功成り名遂げて引退するケースが多いが、サクラローレルは違っていた。日本の頂点に立った彼が最後に目指したのは、中長距離戦線の名馬たちが夢見ながらも、現実には挑戦することさえ久しく絶えていた世界の頂点だった。今回は、平成の名馬としては異端ともいうべき戦いの軌跡をたどったサクラローレルをとりあげてみたい。
サクラローレルの血統はもともと欧州の系統で、サクラローレルの母であるローラローラは、仏3歳王者Saint Cyrien産駒として、フランスで生まれた。フランスでのローラローラの戦績は6戦1勝であり、数字だけを見れば目立たない戦績だが、その中にはフランスオークスへの出走歴が含まれている。血統と将来性を現地でも高く評価されていたローラローラが早めに引退したのは、
「あまり走らせすぎて消耗させると、繁殖牝馬としての将来に悪影響があるから」
という理由だった。ちなみに、短期免許で何度も来日して日本でもおなじみとなっているフランスのトップジョッキーであるオリビエ・ペリエ騎手は、まだ騎手見習いだったころにローラローラにまたがらせてもらい、
「なんていい馬なんだ・・・」
と感動したことがあるという。
そんなローラローラは、まずフランスで繁殖入りし、現地に1頭の産駒を残した後に日本へと輸入された。その時ローラローラは、ヨーロッパを代表する名種牡馬の1頭として知られるレインボウクウェストとの間の子を宿していた。レインボウクウェストは、凱旋門賞(仏Gl)、コロネーションC(英Gl)優勝、愛ダービー2着等、欧州の格式あるクラシックディスタンスの大レースで活躍した強豪であり、種牡馬入りした後も、父として英国ダービー馬クウェストフォーフェイム、凱旋門賞父子二代制覇を成し遂げたソーマレズを輩出し、名種牡馬としての地位を確固たるものとしている。
やがて日本へ到着し、静内の名門牧場である谷岡牧場へと預けられたローラローラは、1991年5月8日、レインボウクウェストとの間の栃栗毛の牡馬を無事に産み落とした。その子馬が、後の年度代表馬サクラローレルである。
谷岡牧場は、これまで牝馬ながらに天皇賞と有馬記念を制したトウメイ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)を勝ったサクラチヨノオー、その弟で朝日杯3歳Sを勝ったサクラホクトオーといった多くの強豪を生産してきた。その谷岡牧場の人々も、ローラローラが日本で初めて出産する子馬には、熱い期待を寄せていた。
「この血統から、果たしてどんな子馬が生まれてくるんだろう・・・」
父、母の双方から欧州の名血を受け継ぐその血統は、日本での馴染みこそ薄いものの、世界的にも一流で通用するものだった。あとは、血統に恥じない子供が現実に生まれてくれるかどうか、の問題である。
固唾を呑んで出産の時を迎えた谷岡牧場の人々だが、彼らは、自分たちが見守る中で立ち上がったその子馬の姿に、思わず言葉を失った。欧州の名族の血を引くその子馬の立ち姿は、彼らが寄せていた過剰ともいうべき期待をまったく裏切らない・・・それどころか、それをも超えるものだった。
「こんなにきれいな馬は見たことがない」
「これは3年後が楽しみだ・・・」
それまでに何頭もの名馬の誕生に立ち会ってきた谷岡牧場の人々だったが、サクラローレルの素晴らしさに、思わずうならずにはいられなかった。
さらに、サクラローレルが生まれた日、美浦の調教師である境勝太郎調教師が谷岡牧場を訪れていたが、その境師も、サクラローレルを一目見るや、たちまちその虜となってしまった。境師は、その日のうちに、サクラローレルを自分の厩舎に入れるよう、話を決めてしまった。ローラローラは「サクラ軍団」の総帥・全演植氏の所有馬として輸入されており、その子馬も将来は「サクラ」の勝負服で走ることになっていたため、「サクラ軍団」の主戦調教師である境師が望めば、そのこと自体は簡単なことだった。
サクラローレルが生まれた1991年は、後から振り返れば、谷岡牧場産の「サクラ軍団」の馬の当たり年だった。この年の谷岡牧場では、サクラローレルだけでなく、皐月賞(Gl)で2着に入ったサクラスーパーオーや、弥生賞(Gll)を勝ったサクラエイコウオーが産声をあげている。しかし、当時のサクラローレルに対する期待感はこの2頭をはるかに凌駕しており、将来の「サクラ軍団」を背負って立つべき若駒として、周囲のすべてから将来を嘱望されていた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本の馬産界には、「一腹一頭」という格言がある。それは、どんな期待の繁殖牝馬であったとしても、その生涯で本当に走る産駒は1頭送り出せれば十分成功といえるのだから、それ以上を求めてはいけない、ということを意味している。
牡馬であれば、人気種牡馬は1年で100頭以上、生涯では2000頭以上の産駒を残すことも不可能ではない。しかし、牝馬の場合は、どんなに頑張っても1年に1頭しか子を生むことができない以上、生涯で残すことができる産駒も、せいぜい十数頭に過ぎない。1頭の牝馬から名馬が生まれる確率が本来天文学的確率であることからすれば、「一腹一頭」という言葉の説くところは、至極もっともであるといえるだろう。
「一腹一頭」の正しさを裏付けるように、毎年何十頭もデビューする「Gl馬の弟や妹」たちの中から兄や姉を超える名馬が現れることは、滅多にない。それでも、ごくまれにGlのきょうだい制覇を果たす馬が現れることもないではないが、「名馬」の必須条件ともいえる「Gl2勝以上」を両方が記録しているきょうだいとなると、その数はさらに限定される。
日本競馬において、輝かしい戦績を挙げたきょうだいといえば、パシフィカスを母とするビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟、スカーレットブーケを母とするダイワメジャーとダイワスカーレットの兄妹、オリエンタルアートを母とするドリームジャーニーとオルフェーヴルの兄弟などの名前が挙がる。いずれも単独でも名馬と呼ばれる水準の産駒が同じ母から生まれるという奇跡は、もっと高い評価を受けてしかるべきであろう。
しかし、兄弟合わせてGl6勝を挙げ、その勝ち鞍もいわゆる「八大競走」か、それに準ずるレースばかりという、競馬史に特筆すべき実績を残していることは明らかなのに、その栄光が忘れられがちとなっている例もある。
その例とは、メジロオーロラを母とするメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟である。厳密には、弟に対する評価は、現役を退いてから約30年が経過しつつある現在においても「天皇賞親子三代制覇」という金看板を背負って誰からも「名馬」と認められている。しかし、弟と同じ2400mを超える長距離でその実力を最大限に発揮したステイヤーであり、自身も菊花賞と有馬記念という根幹Glを制したはずの兄が、現役時、そして引退後ともぱっとしない扱いを受け続けたことは、極めて残念であるというよりほかにない。
確かに祖父、父とも芦毛の天皇賞馬であり、自らの天皇賞制覇によって父子三代天皇賞制覇という奇跡を成し遂げた弟と違い、地味な輸入種牡馬を父としていた兄に、弟のような分かりやすい物語はなかった。また、2つのGl勝ちはいずれも人気薄の時でのもので、しかもレース中に有力馬のアクシデントがあったため、印象が薄くなりがちという不幸な面もあった。しかし、そうした要素はメジロデュレンにはあずかり知らぬことである。そもそも、実力がない馬ならば、Glを2つも勝てるはずがない。
生涯を通じて堅実な成績を収め、どんなレースでもそれなりに走った優等生の弟とは違い、兄は調子の悪い時にはまったく勝ち負けにもならず、大崩れすることが珍しくなかったため、「気分次第の一発屋」というイメージがつきまとったことは事実である。しかし、兄が勝ったレース・・・菊花賞、有馬記念優勝という実績は、弟の存在を切り離したとしても、十分「一流」の賞賛を受けるに値するものである。こと長距離で能力を最大限に発揮した時に限れば、メジロデュレンの強さは、決してメジロマックイーンに引けを取るものではなかったのではないか。さらに、メジロデュレンは、名門メジロ牧場に初めて牡馬クラシックをもたらした馬であるということも、忘れてはならない重要な事実である。私たちは、メジロデュレンという馬について、もっと正当に評価する必要があるのではないだろうか。
メジロデュレンは、その冠名が示すとおりに「メジロ軍団」の馬ではあるものの、生まれはメジロ牧場ではない。メジロデュレンが生まれた浦河の吉田堅牧場は、当時の繁殖牝馬10頭のすべてがメジロ牧場の仔分けであり、メジロデュレンもそんなメジロ牧場の仔分け馬メジロオーロラの子として生まれている。ちなみに、「仔分け」とは、馬主が繁殖牝馬を自らの所有馬として牧場に預け、産まれた子供の所有権は馬主が得ることをあらかじめ約束しておく方法である。
メジロデュレンの母メジロオーロラは、メジロ牧場の基礎牝系のひとつであるアサマユリ系に属している。アサマユリは、自らの現役時代こそ平地で21戦2勝、障害で4戦未勝利とパッとしない成績に終わったものの、繁殖に上がってからは2頭の重賞馬を出しただけでなく、さらに毎年のようにターフへと送り出した産駒のうちの娘たちを通じて、その血をさらに拡げたメジロ牧場の主流血統のひとつだった。
アサマユリの初子メジロアイリスは、平地、障害でそれぞれ3勝ずつを挙げている。そのメジロアイリスに、英国の重賞を4勝して輸入され、ダービー馬のオペックホースやオークス馬のアグネスレディーやテンモンなどを輩出した名種牡馬のリマンドが交配されて生まれたのがメジロオーロラである。
『情熱が人を動かす』
メジロオーロラが吉田牧場にやってくることになったのは、吉田堅(かたし)牧場の先代・吉田隆氏の情熱のたまものだった。
吉田牧場がメジロ牧場の仔分けを始めたのは、1968年ころのことである。彼の牧場の仔分け馬からは、天皇賞、有馬記念で続けてハナ差の2着に入ったり、天皇賞6回、有馬記念5年連続出走という怪記録を作ったりして「個性派」として人気があったメジロファントム、牝馬ながらにセントライト記念で菊を目指した牡馬たちを完封したメジロハイネ、そして中山大障害を勝ったメジロジュピターが次々と重賞を勝った。そして、彼らの母はすべてアサマユリ系のメジロハリマだった。
しかも、吉田牧場から重賞を勝った3兄弟が出たのと時を同じくして、やはりアサマユリ系の繁殖牝馬を預かっていた近所の牧場の生産馬からも、同じように活躍馬が何頭か現れた。不思議なことに、吉田牧場の近所では活力ある発展を見せていたアサマユリ系なのに、メジロ牧場を含めた他の地域からは、活躍馬がなかなか出てこない。吉田氏は、いつしか
「きっと、この周辺の土地が、アサマユリ系と相性が良いのだろう・・・」
と確信するようになっていった。
そう思っていた矢先に、アサマユリ系の出身で、しかも吉田氏がかねてからその血を導入したいと思っていた種牡馬リマンドを父とする牝馬が、「メジロオーロラ」としてデビューするという噂が飛び込んできた。当時の日高にはリマンドの娘が滅多におらず、その血を持つ繁殖牝馬もなかなか手に入らない。吉田氏はこの機をおかず、メジロオーロラを引退後には自分の牧場で預からせてもらえるよう、メジロ牧場に頼み込むことにした。
もっとも、メジロオーロラに競走馬としてあまり良い成績を挙げられると、「預からせてください」とはいいにくくなる。メジロ牧場自身も生産牧場を持っている以上、優秀な成績を挙げた繁殖牝馬は、なるべく自分の牧場に留めておきたいというのも人情である。・・・しかし、幸か不幸かメジロオーロラは、5歳いっぱいまで走ったものの、1勝を挙げたのみで引退することになった。
吉田氏は、メジロ牧場の総帥・北野豊吉氏に直接会った際、
「ぜひオーロラを仔分けの繁殖牝馬として預からせてもらいたい」
と頼み込んだ。すると、北野氏は、
「そんなに気に入った血統なら、どうぞ連れて行ってください」
と吉田氏の頼みを聞き入れ、繁殖に上がったばかりのメジロオーロラを吉田牧場へと送り届けたのである。
このような事情で、吉田堅牧場がメジロオーロラを預かった時点で、彼女から生まれる子馬が将来メジロの勝負服で走ることは、既に決まっていた。
仔分けの繁殖牝馬の配合については、馬主と牧場の個別の協議によって異なるようだが、メジロ牧場と吉田牧場の間では、最終的にはメジロ牧場が決めるものとされていた。繁殖に上がったばかりのメジロオーロラの初年度の交配相手として選ばれたのは、メジロ牧場がシンボリ牧場などと共同でフランスから購入したフィディオンだった。
フィディオンの競走成績は、通算8戦2勝に過ぎない。主な勝ち鞍がボワルセル賞・・・という彼は、英国ダービーに出走してはいるものの、グランディの8着に敗れており、競走馬としては二流のまま終わったと言わなければならない。
しかし、フィディオンの馬主は、メジロ牧場の北野豊吉氏がシンボリ牧場の和田共弘氏をはじめとする有力馬主とともに結成した日本ホースマンクラブであり、その代理人として欧州に渡った野平祐二騎手(後に調教師)が、2歳の時点で将来的な種牡馬としての資質と未知の魅力を見出して、競り落とした馬だった。当初から競走馬より種牡馬としての資質に着目されていたフィディオンは、引退後にはダンディルートらとともに日本へ連れてこられた。
こうして日本で種牡馬入りしたフィディオンだったが、北野氏や野平師にとって計算外だったのは、この馬がとんでもない気性難だということだった。輸入したての頃に、メジロ牧場の従業員に2人立て続けに大怪我を負わせたのである。あまりにも危険なために一時は種牡馬としての供用を中止することまで検討され、結局その案は思いとどまられたものの、メジロ牧場からは追われて別の牧場で供用されることになった。
しかし、種牡馬としてのフィディオンは、野平師の目にかなっただけのことはあり、その子供たちはなかなかの実績を残した。そう多くもない産駒の中から、京都記念と金杯を優勝し、天皇賞・春と宝塚記念で2着に入ったメジロトーマス、阪神大賞典優勝のメジロボアール、ステイヤーズS優勝のブライトシンボリ・・・といった活躍馬を次々と輩出したのである。これらの馬たちの実績をみれば分かるとおり、フィディオンは真性のステイヤー血統だった。これは、天皇賞制覇を最大の名誉とし、強いステイヤー作りを究極の理想に掲げたメジロ牧場にとって、うってつけの血統だった。
メジロオーロラの初めての種付けに当たっても、第一に意識されていたのは、「天皇賞を勝てる馬」を作ることだった。種牡馬として実績を残しつつあったフィディオンと交配されたメジロオーロラは、1983年5月1日、やや小柄な鹿毛の初仔を産んだ。この牡馬が、後に「メジロデュレン」と名づけられ、「メジロ軍団」に初めての牡馬クラシックをもたらすことになる。
『母の愛を知らず』
ところが、メジロオーロラは、初仔であるメジロデュレンに対して冷たい態度しか示さなかったという。メジロオーロラは、もともと気性に問題のある馬だったが、初子であるメジロデュレンに対しては、乳を飲ませることすら嫌がった。幼いメジロデュレンが乳を飲むために母のもとへとすり寄っていくと、メジロオーロラは座り込んで、メジロデュレンが乳を飲めないようにしてしまう。メジロデュレンは、生まれながらにして母に疎まれるという悲しい運命を負っていた。
それでも無事に成長したメジロデュレンは、当歳の10月にはメジロ牧場に移され、育成のための調教を積まれるようになった。狂気の血を持つ父、子をも拒む激しさがある母。そんな両親の血と気性を受け継いだメジロデュレンも、この頃から既に気性の激しさを見せていた。
しかし、それと同時に、彼は当歳離れした勝負根性・・・他の馬たちに決して負けまいとする強い意思を持っていた。子別れ以前から母に突き放されて育った幼いメジロデュレンは、他の同期よりもはるかに早く、ひとりで生きていくための覚悟を身につけていたのかもれない。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
有馬記念と言えば、ファン投票によって選ばれたサラブレッドたちによる「ドリームレース」であり、また日本競馬の1年間を締めくくる年末の風物詩として、ファンから日本ダービーとは違った意味で親しまれている大レースである。20世紀終わりころから短距離戦線やダート戦線も以前よりは確実に注目を集めるようになり、それ以前とは大きく様変わりした日本競馬だが、それでも天皇賞・秋、ジャパンCから有馬記念と続く秋の中長距離Gl戦線は今なお日本競馬の華であり、その最後を飾る有馬記念を勝つことは、それだけでも名馬の証となる。
そんな有馬記念の勝ち馬の中でも、ひときわ異彩を放っているのが、1991年に従来のレコードを1秒1縮める2分30秒6という脅威のレコードで駆け抜けて圧勝したダイユウサクである。彼が記録した有馬記念のレコードは、2003年にシンボリクリスエスが2分30秒5を記録するまでの12年間にわたって破られることなく、有馬記念のレースレコードとして輝き続けた。
ダイユウサクというサラブレッドには、「有馬記念を勝った」という輝かしい実績だけでは決して語りつくせない特異さがある。彼が生涯最大・・・というより、おそらく唯一といっていい栄光の舞台となる中山競馬場に姿を現した時の大多数のファンの反応は、
「何しに出てきたんだ」
という程度のものだった。当時の有馬記念は、日本競馬の華ともいうべき中長距離の中でも最も高い格式を誇るレースのひとつとされるだけでなく、Glの中でも番狂わせが少ないレースとして知られていた。そんなレースに紛れ込んだ彼は、間違いなく異質な存在であり、本気で勝ち負けできると信じていた者など、おそらくほとんどいなかった。まして、その年の有馬記念の出走馬には、当時絶対的な王者といわれていた名馬メジロマックイーンまでいた。単勝オッズ13790円で15頭だての14番人気にすぎなかったダイユウサクは、笑われながら出走したそのレースで、メジロマックイーンをはじめ並み居る強豪たちをまとめて切って捨てた。その大番狂わせの衝撃は、翌日のレース評論で
「世紀末を理不尽馬が駆け抜けた」
と評されるほどだったのである。
ダイユウサクの有馬記念は、ただのフロックというにはあまりに鮮烈な印象を私たちに残した。脈々と続く有馬記念の歴史の中に、燦然と輝く栄光とともにはっきりと刻まれている彼が歩んだ道とは、いったいどのようなものだったのだろうか。
『ダイユウサク』
ダイユウサクは、1985年6月12日、門別の優駿牧場(現・待兼牧場)に生まれた。
父のノノアルコは、世界的な種牡馬であるNearcticの子にあたる。Nearctic産駒としてはNorthern Dancerが圧倒的な知名度を誇っているが、ノノアルコも英2000ギニーなどGl4勝を含め10戦7勝という実績を残し、一流馬といっても遜色のない成績を残している。日本への輸入前には欧州でも供用されていたノノアルコは、仏2000ギニー馬メリーノ、愛1000ギニー馬ケイティーズ(ヒシアマゾンの母)を出しており、日本に輸入されてからもGllを3勝したカシマウイングなど多くの重賞馬を出し、なかなかの成功を収めたと評価されている。
ダイユウサクの母は、1勝馬のクニノキヨコである。彼女の産駒のうちダイユウサク以外に特に活躍した馬を挙げるとすれば、名古屋競馬で15勝を挙げたダイソニック(父カネミノブ)が挙がる程度である。ただ、彼女の母クニノハナは、ビクトリアC(現エリザベス女王杯)や京都牝馬特別など6勝を挙げており、血統的には悪くないものを持っていた。当時の優駿牧場は、牧場の方針として、廉価な種牡馬を種付けして零細馬主でも気軽に買ってもらえる馬の生産を中心的に行っており、その中でのノノアルコは、種付け料がかなり高い部類に属していた。
クニノキヨコにノノアルコを交配したのは、優駿牧場の人々がクニノキヨコに対して期待していた証明である。ノノアルコを父として生まれたダイユウサクは、生まれた時には当然のことながら牧場の人々の期待を集めていた。
生まれたばかりのダイユウサクは、牧場の人々に将来への期待を抱かせるに足りる存在だった。彼の馬体はバランスが取れており、たまたま馬を探すために優駿牧場に来ていた中央競馬の内藤繁春調教師が目をつけ、すぐに自分の厩舎で引き取るよう決めてくれたほどだった。内藤師は、ダイユウサクについて
「うまくすれば準オープンあたりまでいけるかもしれん」
と話していたという。安い馬の中からそこそこ走る素材を見つけるという点での相馬眼には定評があった内藤師の太鼓判は、中小馬主をターゲットとする馬産を目指していた優駿牧場にとっても、ありがたいものだった。
ところが、成長するにつれて、ダイユウサクは牧場の人々の期待を裏切るようになっていった。成長したダイユウサクの動きからは、競走馬としての成功を予感させる何かがいっこうに見えてこなかった。それどころか、生まれた時には良かったはずの馬体のバランスさえ、成長するとともにどんどん悪くなっていったのである。
当時のダイユウサクは、サラブレッドとしては相当の遅生まれといえる6月12日生まれということを差し引いても、かなり小柄な方で、同期の馬たちと比べると馬格も明らかに見劣りがしていた。体質が弱かった上、腰の甘さもひどく、さらに強く追うとすぐにばてて体調まで崩すため、かなり成長するまでの間、ろくに追うことさえできなかったという。
生まれる前からダイユウサクに期待していた当時の牧場長は、ダイユウサクのあまりの惨状にため息をつかずにはいられなかった。彼は、日ごろからダイユウサクを捕まえて
「おい、お前のおとっつあんは凄い馬だったんだぞ。お前のおばあさんも6つも勝ち鞍を挙げているんだ。お前にはヒンドスタンやダイコーター、ネヴァービートの血が流れているんだぞ」
と、とくとくと言い聞かせていたという。どんな馬にもとりえはあるもので、当時のダイユウサクは、そんなお説教も嫌な顔ひとつせずに聞くほどおとなしい馬だった。ただ、そのおとなしさが災いしたのか、ダイユウサクは同期の馬たちからはいつも仲間外れにされ、寂しそうに1頭だけぽつんといることが多かった。
このように、牧場時代のダイユウサクの評判は散々なものでしかない。仕上がりも遅く、牧場から栗東トレセンへと無事に送り出された時は、同期の馬たちの多くが競馬場でデビューを果たした3歳12月になってからのことだった。
こうしてみていくと、ダイユウサクが中央競馬でデビューできたこと自体、奇跡のように思えてくる。彼を預かることになっていた内藤師も、実際に成長した姿を見て
「早まった・・・」
と嘆かずにはいられなかった。入厩する頃のダイユウサクは、内藤師がかつて想像していた姿とはまったく違った方向に成長を遂げてしまっていた。自分が発掘してきたダイユウサクの成長を楽しみにしていた内藤師は、すっかり失望してしまった。
「俺の見込み違いだった」
と悔やんだ彼は、この馬を預かると決めてしまったことを、早くも後悔したという。だが、だからといっていまさら約束を一方的に破棄するわけにもいかない。
こんな感じだから、入厩したダイユウサクに、人々の期待が集まろうはずもない。しかも、ダイユウサクは体質が弱くて他の馬が食べている飼料が体質に合わない。内藤師は、そんな困ったダイユウサクに、入厩してから活躍し始めるまでのしばらくの間、厩舎の人々の残飯を食べさせていたという話である。
]]>