(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
2011年5月15日、新潟競馬場第4レースの3歳未勝利戦は、競馬ファンから特別な感傷に満ちた注目を集める一戦となった。それは、かつて日本競馬を代表するオーナーブリーダーとして知られた「メジロ軍団」の所属馬が走る最後のレースだった。
日本競馬のオールドファンにとって、「メジロ」という響きは特別な意味を持つ。
「ダービーよりも天皇賞を勝ちたい」
という言葉があまりにも有名な北野豊吉氏によって率いられ、ごく初期の例外を除いて「メジロ」の名を馬名に冠したこの軍団は、約50年間の歴史の中で、天皇賞7勝をはじめとする輝かしい栄光をいくつも手にしたが、そんな歴史ある軍団も、豊吉氏やその妻であるミヤ氏の死による代替わりと時代の流れによって、その勢いはいつしか衰え、21世紀に入ってからは、Glはおろか、重賞を勝つ機会も少なくなっていた。そして、「メジロ軍団」の中核法人である「メジロ牧場」、そして軍団そのものの解散が発表され、その所有馬が走る最後のレースがこの日だった。
「メジロ軍団」最後のレースに出走したメジロコウミョウは、単勝980円の5番人気と、前評判こそ決して高くはなかったものの、レースではその評価を覆して優勝し、名門の有終の美を飾った。いつもの未勝利戦とは違う歓声と興奮に包まれたこのレースをもって、「メジロ軍団」の輝かしい歴史の幕は、静かに下ろされた。
「メジロ軍団」の最後の勝利は、前記の通り2011年5月15日の3歳未勝利戦だったが、最後のGl勝利は、2000年の朝日杯3歳S(Gl)でのメジロベイリーである。メジロ軍団最後の天皇賞馬メジロブライトの弟として生を享けたメジロベイリーは、兄の「晩成のステイヤー」というイメージに反して旧3歳Glを制したことで、翌年のクラシック戦線、そしてそれ以降の活躍が期待されていた。その期待は、結果としてはかなわなかったものの、メジロベイリーこそが栄光ある「メジロ軍団」のGlにおける最後の光芒となったのである。
1998年5月30日、北海道・羊蹄山のふもとにあるメジロ牧場で、1頭の黒鹿毛の牡馬が産声をあげた。やがて20世紀最後の朝日杯3歳Sの覇者、そして「メジロ軍団」最後のGl馬へと駆け上る、後のメジロベイリーである。
メジロベイリーの母であるレールデュタンが競走馬として残した22戦4勝という戦績は、平凡とは言えない。・・・ただ、重賞は京都牝馬特別(Glll)に1度出走しただけで着順も5着というと、特筆するべきとまででもないかもしれない。現役時代はメジロ軍団と特に関係がなく、それゆえに馬名にも「メジロ」の冠名を持たない彼女は、マルゼンスキーを父に持つ血統を買われてメジロ牧場へ迎えられ、繁殖牝馬となった。
しかし、繁殖牝馬となったレールデュタンは、まず第3仔のメジロモネ(父モガミ)がオープン級へ出世したことで注目を集め、さらに第6仔のメジロブライト(父メジロライアン)が97年クラシック戦線の主役へと躍り出たことで、その存在感を一気に高めた。個性派世代として名高い97年クラシック世代で常に中心的地位を張り続けたメジロブライトは、三冠レースでそれぞれ1番人気、1番人気、2番人気に推されながら、4着、3着、3着にとどまって無冠に終わったが、菊花賞が終わった後は中長距離Gllを3連勝し、その勢いで挑んだ天皇賞・春(Gl)では、「メジロ軍団」にとっては7回目の天皇賞制覇、そして自身にとっては悲願のGl制覇を果たした。いつも人気を背負っては不器用な追い込みで栄光に迫りながら、最後は惜しくも敗れることを繰り返してきたメジロブライトが日本競馬の頂点に立ったこのレースは、
「羊蹄山のふもとに春!」
という実況が生まれたことでも知られている。
レールデュタンの第9仔となるメジロベイリーが羊蹄山のふもとのメジロ牧場で生まれたのは、4歳上の半兄メジロブライトの戴冠から約1ヶ月後のことだった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
「日本ダービーとは何か」
―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。
しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには
「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」
とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、
「ダービーだけは特別だから・・・」
と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。
このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。
ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。
しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。
1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。
戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。
アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。
大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。
しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに
「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」
と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。
アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。
アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。
しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。
テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。
テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。
その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。
そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、
「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」
と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち
「うちに入れてくれないか」
という申し出があったという。
だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、
「手の施しようがありません」
と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、
「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」
と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。
すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。
結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。
そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も
「いい子が生まれた」
と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。
次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。
中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。
この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに
「こいつは走る・・・!」
という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。
大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。
アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。
加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。
ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。
中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。
ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。
「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」
と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は
「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」
と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。
しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。
もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。
実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。
調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって
「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」
では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。
「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」
こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。
しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。
しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。
馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。
中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。
加藤師は中野騎手に声をかけた。
「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」
中野騎手は、こう返したという。
「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」
中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。
「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」
次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。
「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」
中野騎手は、震えた。
中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から
「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」
と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。
中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に
「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」
と思ったという。
しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。
(こいつは走る!)
柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。
「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」
中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。
そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。
栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。
その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。
だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、
「フォアボールを出してしまうかもしれない」
と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは
「お前の好きな球を投げろ」
と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。
試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、
「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」
と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で
「わたしは雨を愛した詩人だ
だがわたしは江川投手を愛する故に
この日から雨がきらいになった
わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」
と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。
野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。
サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。
サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。
サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。
サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が
「どんな馬だろう」
と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、
「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」
と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。
そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。
谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。
谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。
兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、
「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」
などと話し合っていたという。
ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、
「サクラセダンの子が生まれた」
と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。
サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。
谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。
「この馬はきっと走る!」
彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。
全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。
とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。
だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。
「3000万円!」
・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。
こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本ダービーを勝った競馬関係者のインタビューを聞いていると、よく
「ダービーを勝つことが夢だった」
というコメントが出てくる。「日本ダービーこそが日本最高のレースである」という認識は、日本競馬における多くのホースマンたちが共有するものであり、それゆえに、ダービーを勝つことが、多くのホースマンたちの夢、そして人生の目標となってきた。
しかし、その反面で、新世代のホースマンたちの間には、日本ダービーを必ずしも特別視しない風潮が生まれてきていることも確かである。「ダービーといえども数あるGlのひとつである」と考え、「馬に最も合った条件、距離のレース」を選ぶ際に、もし条件が合わないと判断すれば、それがダービーであってもすっぱりとあきらめる・・・。近年増えてきたそんな選択の背景には、番組の多様化、特に短距離やダート路線の選択肢の増加という要素がある。
もっとも、ダービーを勝つことを生涯の夢とし、その目的のためならすべてを賭けて当然と考えてきた古いタイプのホースマンたちにしてみれば、そのような傾向は、かなり理解しづらいものかもしれない。
かつての日本競馬界に、日本ダービーを勝つことに命を賭けた男がいた。独立した際は日本のどこにでもある小牧場のひとつだった自分の牧場を、自分一代で日本最大の牧場へと育て上げた彼だが、父から受け継いだ夢である日本ダービーの制覇はかなえることができないまま、人生の晩年を迎えていた。幾度もの失敗の向こう側に、必ず成功がある。そう信じて戦い抜いた男は、繰り返された数々の挫折の後に、ただ一度の栄光をつかむこととなる。
彼の戦いの記録は、いまや日本競馬の歴史とともに歩んだ日本ダービーの歴史の1ページとなった。サラブレッド列伝では、そんな男の夢を託された馬たちの挫折と栄光を語ることで、男たち戦いの歴史を現在へと継承してみたい。今回は、まずは男の夢と野望を託されながら、時に利あらず挫折したスクラムダイナの物語である。
1982年3月21日、スクラムダイナは、日本最大の牧場である社台ファームの分場のひとつ、白老社台ファームで生まれた。
スクラムダイナの血統は、父ディクタス、母シャダイギャラント、母父ボールドアンドエイブルというもので、ガーサントからノーザンテーストへと続いた社台ファームの種牡馬の王道から一歩はずれたものだった。
社台ファームの歴史を語る際、牧場の基礎を築いた種牡馬が1961年に輸入されたガーサントであり、日本一の牧場としての地位を不動のものとした種牡馬が76年に供用を開始したノーザンテーストであるということは、もはや争いようのない歴史的事実である。だが、社台ファームは、その間の時期にも多くの種牡馬、繁殖牝馬を導入したり、新しい用地を購入したりすることによって、牧場の拡張を図っていた。
種牡馬ガーサントの成功は、社台ファームに安定した種付け料収入と優れた繁殖牝馬をもたらし、その経営基盤は大幅に強化された。だが、社台ファームの総帥である吉田善哉氏が選んだのは、ガーサントによって築かれた経営基盤に基づく安定を目指すのではなく、そこを足がかりとして、牧場をさらに拡大していく道だった。
しかし、巨額の投資はすぐには成果につながらず、社台ファームの借金は、大きく膨れ上がった。そのため善哉氏の周辺からは、常に
「牧場が潰れるんじゃないか」
と危惧する声があがり、中には善哉氏の拡大路線をいさめる者もいたが、善哉氏はそうした声には一切耳を傾けなかった。
スクラムダイナの牝系は、善哉氏が押し進めた、見る人によっては無謀に近いともいわれた拡大路線の中から社台ファームに根付いた血統だった。スクラムダイナの母方の祖父にあたるボールドアンドエイブル、母方の祖母にあたるギャラントノラリーンは、いずれも「ガーサント以降、ノーザンテースト以前」の時代に社台ファームに導入された血統である。
ボールドアンドエイブルは、この時期に社台ファームが導入し、「失敗続き」とされた種牡馬の中では、比較的ましな成績を収めたとされているが、1980年に13歳の若さで早世したため、投資に見合う収益を牧場にもたらすことはなかった。繁殖牝馬ギャラントノラリーンの系統からも活躍馬は少なく、スクラムダイナ以外だと、03年東京ダービー、04年かしわ記念(統一Gll)などを制したナイキアディライトが出た程度である。
だが、目立った成績をあげてはいなくとも、堅実な成績で牧場に利益をもたらす血統もある。シャダイギャラントは、競走馬として2勝を挙げ、さらに繁殖入りしてからはダイナギャラント、ダイナスキッパーという2頭の牝馬の産駒がそれぞれ4勝、3勝を挙げたことで、派手さはなくとも堅実な繁殖牝馬であるという評価を得ていた。
ただ、シャダイギャラントとの間でダイナギャラント、ダイナスキッパーをもうけた種牡馬のエルセンタウロは、1981年に死亡してしまった。そのため社台ファームは、シャダイギャラントの能力を引き出すための、エルセンタウロに代わる交配相手を探す必要に迫られた。1頭の種牡馬と1年間に交配可能な頭数が、今よりもずっと限られていた当時、シャダイギャラント級の繁殖牝馬に社台ファームの誇る名種牡馬ノーザンテーストをつける余裕はない。そこで白羽の矢が立ったのが、社台ファームによって輸入されたばかりの新種牡馬ディクタスだった。
ディクタスは、現役時代に欧州ベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞優勝をはじめとする17戦6勝の戦績を残し、種牡馬としても、フランスで供用された際に、サイヤーランキング2位に入るという素晴らしい結果を残している。
社台ファームは、ノーザンテーストの成功が見えてきた後も
「ノーザンテーストだけでは二代、三代先に残る馬産はできない」
ということで、新しい種牡馬の導入を続けてきた。新しく連れてきたディクタスの種牡馬としての可能性を見極めるために、堅実だが華やかさに欠けるシャダイギャラントとの交配はうってつけだった。
ところで、シャダイギャラントとディクタスは、ともにかなりの気性難として知られていた。ディクタスはもともとステイヤー血統の馬だったにもかかわらず、気性がきつすぎて中長距離戦は距離が持たず、マイル路線に転向して成功したというのは有名な話である。シャダイギャラントも、実際の戦績は2勝だが、気性さえまともならばもういくつかは勝ち星を上積みできていただろう、というのが牧場の人々の共通認識だった。
そんな両親から生まれたスクラムダイナは、父と母の気性を受け継いで、幼駒時代から非常に気が強かった。同期の馬たちはたちまち子分として従えるようになり、ボスとしての権力と権勢をふるっていた。また、人間に対しても気に食わないことはとことん反抗するため、牧場の人々からはスクラムダイナに手を焼き、「暴れん坊」と呼んで恐れていたという。
スクラムダイナは、生まれてしばらくした後、社台ファームが新たに購入した土地で「空港牧場」をオープンさせるに伴い、その新設牧場に移された。牧場の主流をやや外れた血統、「空港牧場第1期生」にあたるその出生時期・・・様々な面から、スクラムダイナは社台ファームの拡大路線の申し子とも言うべき存在だった。
もっとも、激しすぎる気性を除けば、スクラムダイナは将来を嘱望された期待馬だった。牧場の人々は、早くからスクラムダイナの馬体について、「トモの下がやや寂しいこと以外はほぼ完璧な馬体である」として期待していた。また、スクラムダイナが生まれて間もなく社台ファームにやってきた矢野進調教師も、この馬を一目見てその素質の素晴らしさを認め、
「これ、くれよ」
と場長に申し出た。
矢野師は、当時社台ファームが1980年に始めた共有馬主クラブ「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の主戦調教師的な地位を占めていた。また、矢野師の実績はそれだけでなく、1977年から79年にかけて、バローネターフで3年連続最優秀障害馬を勝ったこともある。ちなみに、矢野師と障害の縁をたどると、矢野師の父親である矢野幸夫調教師は、1932年ロス五輪の馬術競技で金メダルを獲得した「バロン」こと西竹一氏の弟子の1人という話である。
スクラムダイナも「社台ダイナースサラブレッドクラブ」の所有馬として走ることになったため、矢野厩舎に入ることへの支障はなかった。こうしてスクラムダイナは、美浦の矢野厩舎からデビューすることに決まった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。
日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。
だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。
日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、
「オグリキャップがいたら・・・」
という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。
時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。
そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。
サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。
サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。
サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。
もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は
「若い奴にはチャンスを与えないといかん」
ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。
すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。
谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。
現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。
だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。
マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。
朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、
「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」
そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。
こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。
現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドを語る際によく使われるのが、生まれた年、すなわち「世代」による区別である。競馬では、完成した古馬と未完成の若駒を最初から一緒に走らせるのは不平等なことから、4歳(現表記3歳)の一定の時期までの間は同世代のみでその強弱を決し、その後に上の世代の馬たちとの世代混合戦に進むレース体系となっていることがほとんどである。そこで、日本競馬でサラブレッドを分類する場合、同じ年に生まれたサラブレッド全体をまとめて「○年クラシック世代」と呼ぶことが少なくない。
また、「世代」という概念は、単に同じ年に生まれた馬の総称にとどまらず、一定の方向付けを持った評価として使われることもある。
「○年クラシック世代は古馬になってからも活躍した名馬が多く、レベルが高い」
「×年クラシック世代は世代混合Glでほとんど勝てなかったから、弱い」
「△年クラシック世代は、実力は普通だったけれど、ファンに愛された個性派の世代だった」
等の評価は、「○年クラシック世代」という呼び方が、そこに属する馬たちを語るために不可欠なグループとしての意味をも持っていることを物語っている。
そうした数々の「世代」という概念の中で、ひときわ異彩を放っているのが、「1987年クラシック世代」である。
この世代を強弱という側面から語る場合、「強い世代」に属することは、おそらく多くの競馬ファンが同意することだろう。1987年クラシック世代からは、87年のサクラスターオー、88年のタマモクロス、89年のイナリワンという3頭の年度代表馬を輩出している。全世代の実力が均等だとすれば、1世代に1頭ずつとなるはずの年度代表馬を3頭出したという事実は、それだけでこの世代のトップクラスの馬たちが高い実力を持っていたことの証である。他に3頭の年度代表馬を輩出した世代といえば、G制度が導入された84年以降にクラシックを戦った世代に限ると、他にひとつもない。また、競馬の歴史全体に遡っても、「TTG世代」のように極めて限られた例しかない。
だが、この世代がファンに印象を残すのは、その強さより、むしろ儚さによってである。5歳(現表記4歳)になってから本格化したタマモクロス、6歳(現表記5歳)になってから中央へと転入したイナリワンは、クラシック戦線に出走していないが、この世代でクラシックに出走した有力馬たちは、その多くが悲劇と無縁ではいられなかった。皐月賞の1、2、3着馬が数年のうちにことごとくこの世を去ったことで、彼らは「悲劇のクラシック世代」とも呼ばれるようになるのである。
そんな世代の中で、世代の頂点というべき日本ダービーを制したメリーナイスは、不思議な存在感を醸し出している。彼は「強い世代」のダービー馬であり、また朝日杯馬であるはずだが、その彼を「強いダービー馬」と見る向きはほとんどない。メリーナイスといえば、日本ダービーを6馬身差で圧勝し、映画「優駿」のモデルになったことで知られているが、そんな彼につきまとうのは、属する世代のイメージとはあまりに対照的な「イロモノ」としてのイメージだった。
メリーナイスは、悲劇の世代に生まれ、悲劇のクラシックを戦いながら、その悲劇性とは無縁のままの競走生活を終えた。そして、かつて戦いをともにした戦友たちが生の歩みを止めた後も、流れ続ける時代とともに歩み続けた。今回のサラブレッド列伝は、そんな特異なダービー馬・メリーナイスの物語である。
メリーナイスの生まれ故郷は、静内の前田徹牧場である。当時の前田徹牧場は稲作と馬産の兼業で、繁殖牝馬はアラブとサラブレッドを合わせても、5頭程度しかいなかった。中央競馬には生産馬を送り込むことすら滅多にない地味で目立たない個人牧場で、1984年3月22日、未来のダービー馬は産声を上げた。
しかし、メリーナイスの血統は、小さな牧場なりの筋が通ったものだった。メリーナイスの母ツキメリーは、NHK杯勝ち馬マイネルグラウベンの姉であるとともに、自らも大井競馬で東京3歳優駿牝馬を制し、南関東の3歳女王に輝いた実績を持っていた。
ツキメリーは、前田徹牧場の生産馬ではない。これほどの実績馬である彼女が前田徹牧場程度の小さな牧場に繋養される理由はないように思われるが、実際には、ツキメリーの馬主は以前から前田徹牧場と付き合いがあり、その縁でツキメリーは前田徹牧場に預託されることになった。前田徹牧場にやってきた時、ツキメリーは以前にいた牧場で種付けされたコリムスキーの子を宿していた。無論、まだ生まれてもいないその子こそが未来のダービー馬となることなど、誰もが知る由もない。
メリーナイスの父・コリムスキーは、自分自身の成績は目立ったものではなかったものの、血統的にはノーザンダンサーの直仔であり、牝系も素晴らしいものだったことから、種牡馬としての供用開始当初は、それなりの人気を集めていた。
ところが、実際に産駒がデビューしてみると、コリムスキー産駒からはなかなか活躍馬が出なかった。メリーナイスが誕生する前後の時期、種牡馬としてのコリムスキーの人気は、むしろ低落傾向にあった。
コリムスキーとツキメリーという配合は、南関東の3歳女王を母に、産駒はダート馬の傾向を示す父をかけた配合であり、地方競馬に対して一定のアピール力を持つものだった。
やがて生まれたのは、鮮やかな四白流星を持つ栗毛の牡馬だった。前田徹牧場では彼の行き先としてむしろ地方競馬を想定していたが、実際にはこの美しい栗毛の子馬は、地方競馬ではなく中央競馬に入厩することになった。
彼を預かることになった橋本輝雄師は、美浦に厩舎を構えており、騎手時代にはカイソウでダービーを勝った経験もある人物だった。
当初、メリーナイスの最大の特徴は、四白流星の栗毛という外見であると思われていた。競馬歴の浅いファンでもひとめで区別できるこの美しい馬は、血統的にはそこまで期待を集める存在ではなかった。
しかし、このグッドルッキングホースが非凡なのが外見だけではないことに周囲が気づくまで、そう長い時間はかからなかった。牧場にいたころや入厩当初のメリーナイスの気性は、とても穏やかなものだった。だが、美しい馬体は、人間たちが追い始めると、その気配は一転して鋭い瞬発力と負けん気を発揮するようになった。馬体も成長するにつれて、充実したものとなっていった。
メリーナイスの仕上がりは順調で、夏の函館では早々にデビューを飾った。その時には、メリーナイスは美浦の評判馬の1頭に数えられるようになっていた。
函館で戦いの舞台に降りたったメリーナイスは、期待どおりにデビュー戦での勝ち上がりを果たした。ここで彼が破った相手には、後の名脇役ホクトヘリオスも含まれていた。
デビュー勝ちを果たした後も、メリーナイスは3歳戦線を戦っていった。後から考えれば、メリーナイスが戦った3歳戦線の相手関係は、非常に充実したものだった。スタートで出遅れて4着に敗れたコスモス賞(OP)の勝ち馬は、後の阪神3歳S(Gl)馬ゴールドシチーだった。また、東京へ戻っての初戦となったりんどう賞でアタマ差差された相手は、天馬トウショウボーイを父に、三冠馬シンザンを母の父に持つ内国産馬の傑作サクラロータリーだった。
こうした強敵たちとの戦いを通じ、メリーナイスは確実に強くなっていった。彼は続くいちょう特別を勝って2勝目を挙げると、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl)へと駒を進めたのである。
朝日杯3歳S(Gl)でのメリーナイスは、単勝200円のホクトヘリオスに続く単勝360円の2番人気に支持された。メリーナイスとホクトヘリオスといえば、新馬戦で一度対決しており、この時はメリーナイスが勝利を収めている。しかし、メリーナイスに敗れたホクトヘリオスは、その後折り返しの新馬戦、函館3歳S、京成杯3歳Sを3連勝し、一度は遅れをとった評価を取り戻しつつあった。
ただ、このレースの馬柱には、もし出走できていれば確実に1番人気となったであろうある馬の名前が欠けていた。それは、りんどう賞でメリーナイスに勝ったサクラロータリーである。
サクラロータリーは、りんどう賞の後に府中3歳Sに出走し、名門シンボリ牧場が送り込んだ大器マティリアルを破って、無傷の3連勝をレコードで飾った。
「今年の朝日杯はこの馬で決まった」
とも噂されたサクラロータリーだったが、その後骨折によって戦線を離脱し、朝日杯に駒を進めることはできなかったのである。
本命馬が消えた朝日杯は、メリーナイスとホクトヘリオスの一騎打ちムードとならざるを得なかった。メリーナイスの鞍上・根本康広騎手は、どうすればいかにホクトヘリオスに先着するかを考えた。そして、ホクトヘリオスが追い込み一手の不器用な馬であることを見越して、道中はとにかく中団、ホクトヘリオスより前でレースをする作戦を採ることにした。ホクトヘリオスが後ろにいる間に前方へと進出し、直線で早めに先頭に立つことで、直線に入る前にホクトヘリオスに可能な限り差をつけておき、瞬発力に優れたホクトヘリオスが届かない展開に持ち込むためだった。
そうすると、根本騎手の作戦は、見事に当たった。直線に入るとホクトヘリオスが猛然と追い込んできたものの、早目に進出していたメリーナイスには1馬身半届かなかったのである。メリーナイスは、同世代の馬たちに先駆けて、見事Gl馬となった。
こうしてGl馬となったメリーナイスだが、その一方で、この勝利は「サクラロータリーの故障で転がり込んだ」とみられることも避けられなかった。
「サクラロータリーが出走していれば、結果はどうなっていたか・・・」
「サクラロータリーこそ実力ナンバーワン」
そうした声もあがっていたが、メリーナイスにはそれらを払拭するすべはない。あるとすれば、それはサクラロータリーと再戦し、そして勝つよりほかに道はない。
しかし、実際にはメリーナイスにその機会が与えられることはなかった。サクラロータリーは、故障の回復が思わしくなく、ついに3戦3勝、不敗のまま引退してしまったのである。
血統的にいうならば、トウショウボーイ×シンザンの血を持つ内国産馬の星が「ただの早熟馬でした」とはなかなか思われない。素晴らしい血統を持つスター候補生の引退は、多くのファンを残念がらせ、彼を惜しむ声は彼のことを「幻の朝日杯馬」と呼ぶという形で表れた。「幻の朝日杯馬」の前では、「現実の朝日杯馬」の影はその分薄くならざるを得なかった。
メリーナイスがサクラロータリーの故障によって、朝日杯をより楽に勝てたことは否定できないが、その引退によって後々まで、朝日杯3歳Sの栄光をサクラロータリーの幻に支配されることになってしまったことも事実である。果たしてサクラロータリーの故障と引退は、メリーナイスにとって幸運だったのだろうか、不運だったのだろうか。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
80年代から90年代にかけて新たに競馬に関心を持ったファンに対し、そのきっかけとなった名馬を聞いた場合、そのパターンはそれほど多くないことに気づく。かつては確かに「なんとなく後ろ暗いギャンブル」というイメージも根強かった日本競馬がこの時期に急成長したのは、「ギャンブル」とは無縁な一般大衆にも受ける分かりやすいスター性や物語性を持った名馬たちの登場によって大手マスコミに取り上げられ、その記事をきっかけに、多くの新規ファンが誕生したためである。それらのきっかけとなった名馬たちとは、「オグリキャップ」であり、「ナリタブライアン」であり、「サイレンススズカ」といった名前が挙がるが、彼らによって競馬に心を奪われた新規ファンが、自分が競馬を知る以前の馬のことを知りたいと思えば、当然のことではあるものの、後世の記録、映像を通してということになる。
1人の競馬ファンが直接見聞きしうる競馬など、日本競馬の長い歴史の中では、しょせんひとコマかふたコマの限られた一部に過ぎない。歴史が過去から連綿と続く積み重ねであり、人の寿命に限りがある以上、競馬界を知るために自らの見聞ではない知識に頼らなければならないことは、避けることができない。
たとえ一時代前の馬であっても、誰もが認める名馬の場合は、後世の記録、映像として取り上げられることも多くなり、新しいファンがその功績、特徴に触れる機会も増えていく。「オグリ以降」のファンも、多くはシンザン、ハイセイコー、TTG、そしてミスターシービーやシンボリルドルフといった名馬たちのことを知っており、また程度の差こそあれ、その偉大さも認めている。
しかし、すべての馬が記録や映像によって大きく取り上げられるわけではないのも競馬の現実である。記録や映像としての競馬を伝えるマスコミは、本質が営利企業である宿命で、その関心は大衆の興味を引きやすい馬・・・ごく限られた歴史的名馬や比較的新しい馬に集中しがちである。マスコミに取り上げられない多くの馬たちは、当時は一流馬として認知された馬であっても、やがて忘れられ、マスコミに頻繁に取り上げられる同時代の名馬たち、新たな時代の名馬たちによって歴史の片隅へと追いやられていく。
1985年の朝日杯3歳S(Gl)を制したダイシンフブキも、まさに歴史の片隅へと追いやられる悲劇を背負った馬である。最初に挙げた馬たちをきっかけに競馬に関心を持ったファンの大多数は、おそらくそのほとんどが名前すら知らないであろうダイシンフブキだが、彼は無敗の4連勝で朝日杯を勝って世代の頂点に君臨したほどの強豪だった。そんな彼が不当な評価に甘んじたのは、その極端な短距離血統ゆえに、クラシックに挑む前から「血統的にクラシックは無理」という評価に支配されてしまった不運ゆえだった。そうした声を一掃すべくクラシックの前哨戦となる弥生賞をも勝ち、ようやく主役としての地位を勝ち得たダイシンフブキだったが、そんなを待ち受けていたのは、渇望していた歓喜と栄光ではなく、予期せぬ失意と屈辱だった。・・・(旧)3歳時に同世代のサラブレッドの頂点に立ったダイシンフブキの栄光の季節はあまりにも短く、まるでその名にし負う「吹雪」のように、春の訪れとともに去っていったのである。
ダイシンフブキの生まれ故郷は、公式では浦河の鎌田牧場とされている。だが、彼を実質的にこの世へと生み出した牧場は、鎌田牧場ではない別の牧場である。
ダイシンフブキの血統は、今はなき浦河の名門牧場・ヤシマ牧場に遡ることができる。戦後間もない時期の大レースの勝ち馬生産者欄に多くの名を連ねるヤシマ牧場は、1953年にはボストニアン、56年にはハクチカラという2頭のダービー馬を出して黄金期を迎えた。なお、53年の菊花賞で二冠馬ボストニアンを破って三冠を阻止したのはハクリョウだが、この馬もヤシマ牧場が他の牧場に預託馬として預けていた牝馬から生まれた馬だった。
そのヤシマ牧場によって1961年に英国から輸入された繁殖牝馬のアーイシャは、英国2000ギニー馬Martialの妹という良血を期待され、将来のヤシマ牧場の屋台骨を担う主流血統となることを期待されていた。
しかし、そんな期待を背負って日本へやって来たアーイシャは、輸入直後の62年に牝馬のギフトヤシマを生んだものの、その翌年に受胎しながら流産したのを最後に、その後9年連続して不受胎に終わり、繁殖牝馬としての使命を終えることになった。アーイシャのただ1頭の娘となったギフトヤシマも、母に似て受胎しにくい体質だったのか、生涯に残した産駒は3頭、そのうち牝馬は1頭だけという繁殖成績に終わった。
ダイシンフブキの母となるラビットヤシマは、そのギフトヤシマが残したただ1頭の牝馬である。アーイシャ、ギフトヤシマと続く「一子相伝」の牝系を受け継いだラビットヤシマは、競走馬としては5戦未勝利に終わったものの、繁殖に上がってようやくまともに産駒をだすようになった。アーイシャから数えて、実に3代目のことだった。
・・・ところが、ギフトヤシマが産駒を出し始めたころには、肝心のヤシマ牧場の方が活力を失い始めていた。かつて毎年のように出走馬を送り出していた大舞台からヤシマ牧場の名前が消え、やがて重賞で見出すことさえできなくなっていった。1940年代後半から50年代にかけて音に聞こえた名門牧場としてならしたヤシマ牧場は、時代の流れとともに勢いを失い、ついに閉鎖されることになった。
閉鎖が決まったヤシマ牧場の繁殖牝馬たちは、次々と新しい買い手がつき、他の牧場へと移っていった。だが、ラビットヤシマだけはなかなか買い手がつかない。ラビットヤシマが繁殖牝馬としてはもう高齢だったことに加え、彼女の産駒自体も、ダイシンフブキ以前に生んだ7頭の兄姉のうち勝ち馬が1頭だけでは、他の牧場から敬遠されるのもやむを得なかった。
「ラビットヤシマが売れ残っている」
その話を聞いて興味を持ったのが、やはり浦河にある鎌田牧場だった。ラビットヤシマが英国2000ギニー馬の妹の系統であることを知った鎌田牧場は、売れ残っていたこの牝馬の引き取り先として手を上げ、鎌田牧場へと迎え入れることに決めた。
鎌田牧場へ移って来た時、ラビットヤシマはすでに、ヤシマ牧場で交配されたドンの子を宿していた。その子こそが、後のダイシンフブキである。
1983年2月18日、ダイシンフブキは母親のが移籍したばかりの鎌田牧場でその産声をあげた。「兎選」・・・それが、生まれたばかりのダイシンフブキに与えられた幼名である。名前のうち「兎」は、母の「ラビット」からとられている。
ところで、この世に生を受けた兎選は、非常に特殊な・・・というよりは異常ともいうべき血統を持っていた。
もともと彼の母であるラビットヤシマは、母の父の父がNasrullah、父の母がRivazという血統だった。NasrullahとRivazは、父Nearcoと母Mumtaz Brgumの間に生まれた全兄妹である。
古くから、馬産界では「インブリード」と呼ばれる近親配合は、「名馬を生み出す配合」と信じられており、無数に繰り返されてきた。歴史を振り返ると、何頭もの歴史的名馬が強い「インブリード」の結果として生まれている。しかし、そんな少数の成功の裏には、その数十倍、数百倍の失敗がある。もともと父系をたどればわずか3頭の「三大始祖」に行き着く閉鎖的な血を持つサラブレッドにとって、さらに近親の血を重ねる「インブリード」の弊害は小さくなく、強い馬どころか競走馬にもなれない虚弱な馬、あるいは精神に狂気を宿した馬が生まれたことも多かった。
ラビットヤシマは、彼女自身の中に強い「インブリード」の血を持っていた。このような繁殖牝馬は、配合相手の種牡馬を選ぶ際には、徹底的に「インブリード」を避け、同系の血を持たない馬を選ぶのが普通である。ところが、ヤシマ牧場はそんなセオリーを無視して、ラビットヤシマの配合相手にドンを選んだ。
ドンは、現役時代にフランス2000ギニーなどを勝ったスピード馬で、種牡馬としてはアイルランドで4年間供用された後に、日本へと輸入されていた。代表産駒が「日の丸特攻隊」サクラシンゲキであることからうかがわれるとおり、その産駒は一本調子の短距離馬がほとんどだったが、種牡馬としての信頼性は高かった。問題は、ドンの血統である。
ドンは、Nasrullahの直系の孫だった。ただでさえNasrullahとその全妹の濃厚な「インブリード」がかかっているラビットヤシマなのに、そこへNasrullahの直系の孫を交配するというのだから、これはもはや「異常」というよりほかにない。
Nasrullahといえば、今でこそ歴史に残る世界的大種牡馬として認められているが、競走馬としての通算成績は10戦5勝、主な勝ち鞍もチャンピオンSで、クラシックとは無縁だった。彼の大成を阻んだのは、先頭に立ったとたんに気を抜くくせ、そしてあまりに激しすぎる気性ゆえだった。種牡馬としては卓越したスピードを子孫に伝えて多くの名馬を輩出したNasrullahだが、その半面で彼の産駒たちも父に似て気性が激しく、その血統は「狂気の血統」としても恐れられていた。ヤシマ牧場が残した配合は、Nasrullahのスピードと狂気を一身に集めた魔性の血だったのである。
]]> 競馬が人々を感動させる場合の黄金パターンとして、「奇跡の復活」がある。かつて強豪と呼ばれた馬が故障で長期間戦列を離れたり、あるいは不振に陥って勝てなくなったりした後に見事な復活の勝利を遂げた場合、我々はそのドラマに感動し、涙を流す。前者の代表例としてはトウカイテイオー、後者の代表例としてはオグリキャップが有名であり、いずれもその劇的な復活劇は、競馬界の伝説として今なお語り継がれている。
しかし、これらの復活劇は、いずれもそのドラマ性のみによって語り継がれるようになったわけではない。トウカイテイオーやオグリキャップは、最後の復活劇がなくても名馬として語り継がれうる資格を持った名馬だった。その彼らが奇跡の復活を遂げたことによって、もともと高かった彼らの人気がさらなる高みへと達したにすぎない。先に挙げた伝説は、奇跡の復活というドラマ性と主人公たちのカリスマ性とのふたつが融合したことによって、初めて伝説になったという方が正確だろう。
実際には、他の馬がトウカイテイオーやオグリキャップ以上に長いブランクから復活を遂げる例も少なくはない。だが、そうした復活劇も、普通の馬が主人公では、さほど騒がれることはない。競馬界とは、もともと非常に大きな不公平が内在する世界なのである。
今回取りあげるエルウェーウィンも、「奇跡の復活」と称賛されるに値する復活劇の主人公である。彼が乗り越えたブランクの期間は、先の2頭とは比べものにならないほどに長い。しかし、彼について「奇跡の復活」という形容が使われる場合、先の2頭に対して使われる場合とは微妙に色合いが変わってくる。エルウェーウィンの場合、尊敬や感動というよりは、むしろ憐れみやもの悲しさが混じった視線で語られてしまうのが悲しいところである。
しかし、あるいはそれでいいのかもしれない。何はともあれ、エルウェーウィンの名はその数奇な馬生によって歴史に刻まれ、私たちの記憶に残る。そして、その復活劇によって歴史と記憶に刻まれたエルウェーウィンという文字は、ほんの少しではあっても深くなったことに間違いはない。Gl馬は多しといえども、3年11ヶ月ぶりの重賞制覇という形で歴史に名を残す馬は、これまでエルウェーウィン以外にはいなかったし、これからもそうそうは現れないに違いない。
エルウェーウィンは、アイルランドのE・ホールディングス牧場で生まれた外国産馬である。
エルウェーウィンの父カーリアンは、名競走馬にして名種牡馬であるNijinskyllの直子の中でも最大級の成功を収めた名種牡馬である。1998年に死亡したカーリアンは、その種牡馬生活の中で、英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを筆頭に多くの名馬を輩出し、生涯に2度英愛リーディングサイヤーに輝いた。これほどの種牡馬につけた以上、母もそれなりの期待馬だったのではないかと思われる。
しかしながら、素人的にはいまいちその価値が分かりづらい母系であることもまた確かである。母のラスティックレースは、通算8戦1勝という平凡な戦績しか残していない。母父のラスティカロ(Rusticaro)も、日本ではまったくなじみのない種牡馬である。ラスティカロはその名のとおりCaroの直子だが、戦績はフランスで16戦5勝、主な勝ち鞍はラ・クープ・メゾンラフィット(仏Glll)と目立たない。種牡馬としては、産駒のダンジカが伊オークス、フォスカリニがハリウッドダービーを勝っているくらいだから、それなりのクラスなのではあろうが、日本での実績はゼロに近い。
それはさておき、調教セールで好仕上がりをアピールしたエルウェーウィンは、父カーリアンの魅力か、はたまた何かの縁か、日本人馬主に買われることになった。カーリアン産駒は日本の芝への適性が高いのも特徴で、エルウェーウィン以外にもシンコウラブリイ、フサイチコンコルド、ビワハイジがGl勝ちを収め、その血統は日本で特に人気が高かったことも影響したであろう。
やがて日本へとやって来たエルウェーウィンは、大物感こそなかったものの、素直な気性と環境の変化に動じない精神的な強さが認められ、栗東の坪憲章厩舎に入厩することになった。
岸滋彦騎手を鞍上に迎えてデビューしたエルウェーウィンは、新馬戦、京都3歳S(年齢は当時の数え年表記)といずれも地元京都のレースで2連勝を飾った。この2戦はいずれも直線で混戦になったものの、エルウェーウィンは新馬戦ではハナ差、京都3歳S(OP)では同着優勝、と持ち前の勝負根性とねばり強さで2連勝したのである。
早くも2連勝でオープン馬となったエルウェーウィンだが、そうなると必然的に出走できるレースも限られてくる。そして、エルウェーウィンの次走は、初めての東征で、いきなり3歳王者決定戦の朝日杯3歳S(Gl)(現朝日杯フューチュリティーS。年齢は当時の数え年表記)に挑むことが決まった。
しかし、その晴れやかなレースで、エルウェーウィンの鞍上にこれまでの主戦騎手だった岸騎手の姿はなかった。岸騎手は、エルウェーウィンではなく、その最大のライバルとなるビワハヤヒデの鞍上にいた。
2戦2勝とはいえいずれも僅差勝ちのエルウェーウィンと、これまで3戦3勝で、もみじS(OP)、デイリー杯3歳S(Gll)と連続レコード勝ちを収めている本命馬のビワハヤヒデとを比較した場合、岸騎手の選択はやむを得ないものだった。ましてや、エルウェーウィンは外国産馬であるがゆえに翌年のクラシック出走権がないのに対し、ビワハヤヒデは翌年のクラシックへも出走できるとなれば、なおさらである。
とはいえ、このような乗り替わりにあっては、乗り替わられた方にはもの悲しい雰囲気が漂うのも、競馬界の習わしである。クラシックに出られないからこそ、外国産馬は朝日杯に賭けざるを得ない。そこで岸騎手に替わってエルウェーウィンの鞍上に配せられたのは、南井克巳騎手だった。岸騎手がだめなら、少しでもいい騎手に騎乗してもらってエルウェーウィンの力を引き出してやりたいというのが、坪師たちの気持ちだった。
南井騎手といえば、直線で「追える」騎手として定評がある。斬れる脚こそないものの、直線でたぐいまれなる勝負根性を発揮するエルウェーウィンにとって、南井騎手の特性は、強力な援軍だった。