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桜花賞 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Thu, 30 Jan 2025 00:25:01 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 マックスビューティ列伝~究極美伝説~ https://retsuden.com/horse_information/2022/11/507/ https://retsuden.com/horse_information/2022/11/507/#respond Thu, 10 Feb 2022 15:54:26 +0000 https://retsuden.com/?p=507  1984年5月3日生。2002年2月27日死亡。牝。鹿毛。酒井牧場(浦河)産。
 父ブレイヴェストローマン、母フジタカレディ(母父バーバー)。伊藤雄二厩舎(栗東)
 通算成績は、19戦10勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、オークス(Gl)、
 神戸新聞杯(Gll)、4歳牝馬特別(Gll)、ローズS(Gll)、オパールS(OP)、チューリップ賞(OP)、
 紅梅賞(OP)、バイオレットS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『究極美伝説』

 日本の中央競馬においては、皐月賞、日本ダービー、菊花賞というそれぞれ条件の異なる3つの世代限定Glが「三冠レース」として位置づけられ、世代最強馬を決する戦いとして高い格式を誇るとともに、多くのファンの関心と注目を集めてきた。

 ただ、これらのレースは建前としては「牡牝混合戦」とされているものの、事実上は牡馬しか出走しないのがほとんどである。これらのレースを牝馬が勝った例を探してみると、日本競馬の長い歴史の中でも5頭が6勝を挙げただけで、それも1947年にトキツカゼが皐月賞、ブラウニーが菊花賞を勝った後、2007年にウオッカが日本ダービーを勝つまでの約60年間にわたって、牝馬による三冠レースの制覇は途絶えている。

 中長距離戦で牡馬と牝馬を同じレースで走らせた場合、牡馬が圧倒的に有利であるというのが、長らく競馬界の常識だった。そこで、牝馬たちのために用意された独自路線が、出走資格を牝馬に限定した、いわゆる「牝馬三冠」である。桜花賞、オークス、秋華賞からなる「牝馬三冠」は、牝馬による「三冠」挑戦があまりに難しいことから、一流牝馬たちのローテーションとしても承認されており、世代別牝馬チャンピオン決定戦として定着している。

 ところで、「三冠」をすべて制した「三冠馬」は過去8頭が出現しているものの、「牝馬三冠」をすべて制した「牝馬三冠馬」は6頭にとどまっている。中央競馬が範をとった英国競馬では秋華賞にあたるレースが存在せず、日本で「牝馬三冠」が成立したのは1970年にビクトリアCが新設された(76年にエリザベス女王杯に改称、96年にはエリザベス女王杯の古馬開放に伴って秋華賞に改編)後であることを考慮に入れたとしても、皐月賞、日本ダービーを勝った二冠馬は16頭(三冠馬を除く。2021年まで)いるのに対し、桜花賞、オークスを制した牝馬二冠馬は9頭(牝馬三冠馬を除く。2021年まで)しかいないという差は、明らかに有意な差であるといわなければならないだろう。

 牝馬が牡馬に比べて体調管理が難しく、消長も激しいことは、多くのホースマンたちが口を揃えるところである。その名を青史に刻む多くの牝馬たちが、あるレースでは圧倒的な強さを示しながら、やがて牝馬ならではの困難につきあたって敗れることで、そんな評価の正しさを心ならずも証明してきた。1987年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬マックスビューティも、そんな系譜に名を連ねる1頭である。

 マックスビューティ・・・日本語で「究極美」という意味の名前を持つその牝馬は、日本史上初めてにして20世紀唯一の牝馬三冠馬・メジロラモーヌが牝馬三冠戦線を戦った次の年の牝馬三冠戦線に現れ、メジロラモーヌ以上の安定感と破壊力をもって戦い、そして勝ち続けた。桜花賞、オークス、そしてそれらのトライアルまで勝ちまくったマックスビューティが、秋に8連勝でエリザベス女王杯のトライアルレースであるローズS(Gll)を制した時には、誰もがマックスビューティの歴史的名馬たることを信じ、彼女が前年のメジロラモーヌに続く三冠牝馬となることを疑わなかった。それは、もはや歴史の必然ですらあった。

 ところが、栄光とともに戴冠するはずだったエリザベス女王杯で、マックスビューティの連勝と伝説は終わりを告げた。その後の彼女は、それまでの栄光の日々とは対照的に長い不振にあえぎ、苦しみ続けた。競走生活が終わってみると、彼女が頂点に君臨した期間は1年にも満たず、さらにその範囲も、世代限定の牝馬三冠戦線のみにすぎなかった。そんな彼女の戦いの光景は、私たちに牝馬の消長の激しさを改めて思い知らせるものだった。

 ・・・それでいてなお、マックスビューティがその短い期間に放った輝きは、私たちを魅了するものだった。「究極美」というその名に恥じない美しさ、そして強さを兼ね備えた彼女の牝馬三冠戦線は、競馬界の歴史、そしてファンの記憶に残る。なればこそ、彼女の「その後」もまた、競馬の難しさを表すエピソードとして語り継がれる。

 「名は体を現す」ということわざがある。今回のサラブレッド列伝では、その名によって自らを現し、そして自らの戦いによってその名を表現し尽くした名牝マックスビューティについて語ってみたい。

『名門の冬』

 マックスビューティの生まれ故郷は、浦河の酒井牧場である。消長が激しいサラブレッドの生産牧場の中で、創業が1940年まで遡る酒井牧場は、浦河で指折りの名門牧場だった。先代の酒井幸一氏が指揮を取っていた1961年には、生産馬のハクショウが日本ダービー、チトセホープがオークスを勝ち、牡牝それぞれのクラシックで世代の頂点を独占するという栄光の歴史を持ち、後にも93年のエリザベス女王杯(Gl)を制し、さらに交流重賞の黎明期に交流重賞10連勝という金字塔を打ち立てた「砂の女王」ホクトベガを輩出している。

 ただ、マックスビューティが出現する直前期は、酒井牧場にとって、そんな栄光の狭間となる「冬の時代」だった。75年に父の幸一氏から牧場の実験を譲り受けたのは酒井公平氏だったが、代が替わった途端、牧場の生産馬が走らなくなったのである。名門牧場の看板の重み、先代が残した輝かしい実績・・・それらとは対照的に、その後の酒井牧場の生産馬による重賞制覇は途絶えていた。

 このままではいけない。なんとかしなければいけない。酒井氏は悩み苦しんだ末、様々な手を打った。繁殖牝馬はもちろんのこと、牧場の土をすべて入れ替えたりもした。・・・それでも結果は出なかった。酒井氏の耳に入ってくるのは、周囲の

「酒井牧場は、跡取りのせいでダメになった・・・」

という声ばかりだった。酒井氏は、やがて自分の馬産に自信を失っていった。そんな矢先に突然酒井牧場に降り立ったのがマックスビューティであり、自信を失いかけた酒井氏、そして衰えゆくかに見えた名門牧場を救う光明だった。

『意味不明の配合』

 父、ブレイヴェストローマン。母、フジタカレディ。マックスビューティの血統自体は、決して目立ったものとはいえない。ブレイヴェストローマンは、後には種牡馬としての評価も定まって高く評価されるようになったとはいえ、当時は輸入初期の産駒が走り始めたばかりで、自らの競走成績から、奥行きの無いマイラーと思われていた。トウカイローマンがオークスを勝ったことでブレイヴェストローマン産駒の実力と距離適性が再評価され始めたのは、マックスビューティが生まれた84年のことである。

 マックスビューティの母フジタカレディも、自らは未勝利馬だった。この牝系の血統表からアルファベットの馬名にたどりつくには、1918年生まれの9代母Silver Queenまで遡らなければならない。ちなみに、8代母のタイランツクヰーン産駒には「幻の馬」トキノミノルがいる。

 だが、そんな一族も、トキノミノル以降は鳴かず飛ばずとなり、それ以降の彼女の一族の代表馬は、1972年のAJC杯をレコード勝ちし、ヒカルイマイが勝った71年の日本ダービーで5着に入った・・・というよりは、吉永正人騎手の騎乗とともに「後方ぽつん」の追い込み馬として知られたゼンマツ、80年から83年にかけて重賞を3勝したフジマドンナが出た程度だった。

 これほど古くから日本にあった系統でありながら、ここまで活躍馬が出ないというのは、もはや運やめぐり合わせの問題とは言い難い。この血統は、活力が失われつつある一族と評価される・・・というよりは、評価される価値すら認められていなかった。

 もともとは青森屈指の名門である浜中牧場で生まれたフジタカレディだったが、そんな彼女に目をつけ、彼女を管理していた松山吉三郎師に頼み込んで牧場に連れてきたのが酒井氏だった。上の2頭は期待外れで未勝利に終わったフジタカレディだったが、酒井氏は彼女への期待を捨てきれず、この年はマルゼンスキーと交配する予定にしていた。

 ところが、フジタカレディがいざ発情した当日、マルゼンスキーは予約がいっぱいで種付けができない状態だった。そこで急きょ交配されることになったのが、ブレイヴェストローマンだった。

 後になって、なぜこの時数いる種牡馬の中からブレイヴェストローマンを選んだのかを聞かれた酒井氏は、

「分かりません。あの時の僕は、何を考えていたんでしょうかねえ」

と首をひねっている。酒井氏は、本来フジタカレディにプレイヴェストローマンは体型的に合わないと考えており、最初に配合を考えた際には、真っ先にリストから外したほどだった。

 マックスビューティをはじめとする活躍馬を輩出した後、馬産地では酒井氏が配合について独自の理論を持っていると評価されるようになり、浦河近辺の馬産農家で、配合に困って酒井氏に相談したことがあるという者は少なくないという。そんな酒井氏が選んだ、意味不明の交配から名馬が現れるのだから、競馬は深遠である。

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1991年牝馬三冠勝ち馬列伝~彼女たちの祭典~ https://retsuden.com/horse_information/2021/12/56/ https://retsuden.com/horse_information/2021/12/56/#respond Fri, 12 Nov 2021 11:50:29 +0000 https://retsuden.com/?p=56  ~シスタートウショウ~
 1988年5月25日生。牝。栗毛。藤正牧場(静内)産。
 父トウショウボーイ、母コーニストウショウ(母父ダンディルート)。鶴留明雄厩舎(栗東)。
 通算成績は、12戦4勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、チューリップ賞(OP)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『牡牝の差』

 「牝馬は、牡馬よりも弱い」―これは、競馬界では近年まで一種の常識とされてきた。確かに、ごく最近だけをみれば、JRAのGl最多勝記録をついに更新したアーモンドアイだけでなく、グランアレグリア、クロノジェネシスらの歴史的名牝が中距離戦線を席捲しているが、日本競馬の歴史を振り返って牡牝混合Glの勝ち馬を並べてみると、牡馬の勝ち鞍がまだ圧倒的に多い。牝馬ながらに天皇賞・秋(Gl)を制し、ジャパンC(国際Gl)2着、有馬記念(Gl)3着の実績を残して1998年度代表馬に選出されたエアグルーヴは、近年の名牝たちと比較するとかなり控えめの戦績に見えてくるが、それでも彼女は「稀代の名牝」「女帝」などとして称えられた。これは、彼女がそれらの実績によって「牡馬よりも弱い牝馬」という大多数の原則から外れた例外として、十分な歴史的価値を認められたからにほかならない。

 では、「牝馬は牡馬よりも弱い」とされていた時代の牡牝の実際の能力差は、果たしてどの程度あったのだろうか。牝馬クラシック戦線のGlを勝った馬たちであっても、レースのほとんどが牡牝混合戦になる古馬戦線では、クラシック戦線と同程度、あるいはそれ以上に活躍することは、極めて稀だった。そのことをもって「牝馬は牡馬よりも弱い」とされていたことの根拠として挙げることは、可能かもしれない。

 しかし、このような考え方はできないだろうか。確かに、長らくの間、牝馬が牡馬に比べて、ある種の能力が劣っていたことは、事実として認めざるを得ないだろう。だが、競走能力のピーク時に激突した場合、牡馬の一線級と好勝負できた牝馬は、いつの時代にも少なからず存在したことも、また確かである。そうであるにもかかわらず、牝馬のGl馬たちの中に、古馬戦線で息長く活躍した者が少なかったのは、彼女たちが己の持つ能力のすべてを競走生活のごく限られた時期に燃やし尽くすからではなかっただろうか。もしそうであるとすれば、牝馬が牡馬よりも弱いということは、必ずしも当てはまらないことになる。

 1988年の春に生を享け、1991年の牝馬三冠戦線を戦った牝馬たちも、それぞれの大舞台に己の持てる能力のすべてを燃やし尽くした牝馬たちである。非常に高いレベルと言われた世代の三冠戦線の中で、彼女たちはGlという栄冠を目指し、激しくしのぎを削った。そして、その完全燃焼の度合いをあらわすかのように、栄冠を得た牝馬たちは、それぞれのGl勝ちの後は二度と勝利を得ることなく、また同世代の牝馬たちを含めて、彼女たちの世代が古馬Glを勝つことはなかった。

 今回のサラブレッド列伝は、1991年牝馬三冠戦線にスポットを当て、その勝ち馬である3頭、桜花賞を制したシスタートウショウ、オークスを制したイソノルーブル、そしてエリザベス女王杯を制したリンデンリリーについてとりあげてみたい。

その1 =シスタートウショウの章=

『桜花賞の異変』

 1991年4月7日、第51回桜花賞の発走予定時刻を迎えた京都競馬場のスタンドは、異様な空気に包まれていた。

 例年ならば阪神競馬場で開催されるのが通例となっている桜花賞だが、この年は阪神競馬場が改修工事中だったため、阪神でなく京都で開催される変則開催となっていた。例年と違う舞台なら、例年と違う雰囲気になるのは当然かもしれない。しかし、この時の空気の異様さは、場所の違いだけにはとどまらなかった。そのころスタート地点付近では、桜花賞戦線の中心になると思われていたある馬に、重大な異変が発生していたのである。

 この年の桜の女王争覇戦で、台風の目となることが予想されていたのは、それまで5戦5勝、ステップレースの4歳牝馬特別(年齢表記は当時の数え年)を含めて重賞2つを勝ち、出走馬の中でも実績ナンバーワンを誇るイソノルーブルだった。

 前年の牡牝混合の3歳重賞10レースでは牝馬が6勝をあげ、年が明けて4歳になってからも、シンザン記念、ペガサスS(現アーリントンC)を牝馬が制したというこれまでの重賞戦線の結果を受けて、この年の牝馬三冠戦線は、例年よりも相当高い水準での争いになるだろう、というのがもっぱらの評判となっていた。イソノルーブル以外にも、デイリー杯3歳S(年齢表記は当時の数え年)とペガサスSを勝ったノーザンドライバー、まだ重賞勝ちこそないもののチューリップ賞(当時はOP特別)を勝って戦績を3戦3勝とし、無敗のまま桜花賞へと進んだシスタートウショウ、クイーンCと札幌3歳S(年齢表記は当時の数え年)を勝ち、前走チューリップ賞でも2着に入ったスカーレットブーケといった面々が有力馬とされていた。

 しかし、こうした有力馬たちも、無敗のまま牝馬クラシックロードの王道を驀進するイソノルーブルの前では一歩譲らざるを得なかった。他の3頭のオッズが400円から500円台に集中して人気が拮抗していた中で、イソノルーブルだけは単勝280円の支持を集めていた。

 イソノルーブルは、血統的には、他の有力馬に比べて目立たないどころか、むしろ一枚も二枚も落ちる存在にすぎなかった。彼女は一般に安い馬の代名詞とされ、「走らない」と言われる抽選馬でもあった。そんな彼女が、並み居る良血馬たちを抑えて桜花賞戦線の中心にいる。春のGl戦線の始まりを告げる桜花賞を前にして、ファンの関心は

「イソノルーブルがシンデレラ・ストーリーを完成させることができるのか」

に注がれていた。

 ところが、その桜花賞発走直前になって突然発生したアクシデントは、人々を大きな混乱へと引き込み、発走時刻を過ぎてもレースが発走できない事態を招いてしまった。しかも、そのアクシデントの主人公がレースの主人公となるはずだったイソノルーブルだったとなると、人々の戸惑いと混迷はますます深いものとならざるを得なかった。

『始まりは喜劇のように』

 大アクシデントは、むしろコミカルな光景から始まった。発走を目前に控えて各馬が輪乗りをしている途中、イソノルーブルに騎乗していた松永幹夫騎手は、どの馬のものかが分からない蹄鉄がスタート地点付近に落ちていることに気付いた。そこで彼が

「誰か、蹄鉄落ちてますよー」

と声をかけたところ、返ってきたのは

「お前のだよー」

という返事だった。あわてて確かめてみると、確かにイソノルーブルの右前脚の蹄鉄がなかった。

 とはいえ、普通単なる落鉄だけで、ここまでの大混乱になることはない。レース前に出走馬が落鉄した場合、発走時刻を数分遅らせて蹄鉄を打ち直し、その後に発走となるのが普通である。JRAは、この時もいつもと同じように、イソノルーブルの蹄鉄を打ち直す時間をとるために発走を遅らせることにし、場内にもその旨がアナウンスされた。しかし、本当のトラブルが起こったのはその後だった。

 イソノルーブルは、Gl開幕を待ちかねたスタンドの大歓声に興奮してしまい、蹄鉄を打ち直すためにやってきた蹄鉄師を暴れて寄せ付けず、蹄鉄の打ち直しができない状態に陥ったのである。打ち直しができないまま、ただ時間だけが無為に過ぎていった。場内の歓声はざわめき、そして困惑へと変わっていった。

 イソノルーブルの「抵抗」の前に、主催者はついに蹄鉄の打ち替えを断念し、桜花賞のスタートを決断した。イソノルーブルを含めた18頭がゲートへと誘導されてゲートが開いた時、時刻は発走予定より11分も遅れ、そして何より、1番人気イソノルーブルの右前脚には、蹄鉄がないままだった。

『魔の桜花賞ペース』

 波乱の幕開けとなった桜花賞だが、レース直前のアクシデントは、レース展開にも影響を与えずにはおかなかった。それまでのレースでは、いつもスムーズに先頭を奪って単騎逃げに持ち込んできたイソノルーブルだったが、この日はハナを奪うことができず、レースの主導権を握ることができなかったのである。

 例年、桜花賞では「魔の桜花賞ペース」と呼ばれるハイペースが形成される。ただ、このペースには阪神芝1600mコースの構造も影響しているといわれているところ、この年は京都競馬場での開催だった。また、イソノルーブルという絶対的な逃げ馬がいることもあり、事前の予想では「魔の桜花賞ペース」とは縁がないだろうとされていた。

 ところがふたを開けてみると、すんなりとハナを切るはずだったイソノルーブルがトーワディズニー、テイエムリズムといった他の逃げ馬を引き離すことができなかった結果、先頭集団は何頭かが団子状で競り合う展開となってしまった。テイエムリズムが脱落したと思ったら、今度は第3コーナーでノーザンドライバーが先行集団から進出してきて先頭争いに加わる始末である。その結果は、1000m通過が57秒6という例年以上の激しいハイペースとなった。

 こんなハイペースでは、逃げ馬が残ることは難しい。それどころか、好位置にいる馬でさえ残ることは容易ではないはずである。この日も先行馬が総崩れになっても不思議はない展開だった。

『突き抜ける』

 このようなレースでは、先行馬の騎手がハイペースに気づいた場合、極力手綱を抑えて馬の行き脚を抑え、仕掛けどころを少しでも遅らせるのが常道である。そうでなければ、最後の直線でばてて末脚をなくしてしまう。

 しかし、この日の戦場には、そんな常識を無視した男がいた。角田晃一騎手である。スタートから騎乗馬を好位につけさせた角田騎手は、道中ずっとその位置どりを維持しただけでなく、第4コーナーから積極的に仕掛けていった。外を突いて上がっていった彼は、一気にイソノルーブルら先頭集団へと襲いかかったのである。

 5連勝中のイソノルーブルだったが、さすがにこのハイペースの中では逃げ粘れなかった。さらに、右前脚の蹄鉄がなかったことも影響した。蹄鉄がないまま走るということは、人間でいうなら裸足で走るようなものである。二流血統から桜の女王へと成り上がるはずだった「シンデレラ」が、まさか靴を忘れて裸足で走るところまで「シンデレラ」になるとは、誰も予想していなかった。イソノルーブルの逃げ脚にいつものようなしぶとさはなく、また彼女に続いたノーザンドライバーらも、やはりハイペースに巻き込まれて脚をなくしていった。

 しかし、先行馬たちが潰れていく中で、角田騎手の騎乗馬だけは騎手のゴーサインに合わせて上がっていった。先行するイソノルーブルらをとらえて先頭に立つと、そのまま食い下がる後続を引き離していく。馬群から完全に抜け出したその馬は、たちまち独走態勢を築き、中団待機策から追い込んできた人気薄ヤマノカサブランカの追い込みもまったく問題としないままにゴールを駆け抜けた。

 ゴール板の前を駆け抜けると同時に桜の女王へと突き抜けたその馬は、イソノルーブルと並ぶ無敗馬ではあったが、この日は4番人気にとどまっていたシスタートウショウだった。

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https://retsuden.com/horse_information/2021/12/56/feed/ 0
1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~ https://retsuden.com/horse_information/2021/29/32/ https://retsuden.com/horse_information/2021/29/32/#comments Sun, 29 Aug 2021 11:20:55 +0000 https://retsuden.com/?p=32 ~ダイアナソロン~
 1981年3月18日生、1994年9月20日死亡。牝。鹿毛。ランチョトマコマイ(苫小牧)産。
 父パーソロン、母ベゴニヤ(母父ヒカルタカイ)。中村好夫厩舎(栗東)。
 通算成績は、13戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、サファイヤS(Glll)、
 エルフィンS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『失われた物語』

 歴史を振り返ってみると、古今東西を問わず、重要な出来事は、分散して起こるのではなく、特定の時期に連続・集中して起こることがある。そうした出来事の中には、ある出来事が他の出来事を誘発して起こるものもあるが、まったく無関係であるはずの出来事が、まるで天の配剤であるかのように偶然同じ時期に重なるものも少なくない。

 中央競馬を「歴史」という視点から振り返った場合に、非常に重要な意味を持つのが「1984年」という年である。この年の最も本質的な事件といえば、中央競馬でのグレード制度の導入とレース体系の大変革が挙げられる。現代へと続く近代競馬の原型は、この年にできあがったといっても過言ではない。この変革は、日本の競馬の基本に関わる大事件であるがゆえに、様々な方面に大きな影響をもたらした。

 だが、この1984年という年に、グレード制度の導入という制度面の改革では説明できない重大事件がいくつも重なったことも、否定できない事実である。この年は、シンボリルドルフが空前絶後の「無敗の三冠馬」として戴冠し、ジャパンCでは、カツラギエースが日本馬として初めて悲願の制覇を成し遂げ、さらにマイル戦線ではニホンピロウィナーが王者として君臨した。「名馬が時代を築く」といわれることがあるが、日本の競馬史を振り返ると、1984年に限らず、競馬そのものが大きく変わる時代の変革期には不思議と名馬が現れている。その観点からすれば、むしろ正しいのは、「時代が名馬を求める」という言葉なのかもしれない。名馬たちによって旧時代の遺物、悪弊が淘汰されてこそ、新しい時代は名実ともに幕を開けることができる。それが時代の変革というものである。

 しかし、牡馬三冠戦線、古馬中長距離戦線、短距離戦線といった、新制度における各レース体系で次々と名馬が現れる中で唯一、この年に歴史に特筆できる名馬が現れなかった路線があった。それが1984年牝馬三冠戦線である。

 1984年の牝馬三冠戦線は、桜花賞をダイアナソロン、オークスをトウカイローマン、そしてエリザベス女王杯をキョウワサンダーとまったく違った馬たちが分け合っている。彼女たちの戦いは、それぞれが絶対的な決め手を欠く同レベルでの争いであり、三冠を通じての絶対的な主役は、ついに現れることがなかった。牝馬三冠戦線に新時代を象徴する名馬が現れるのは、2年後の1986年、当時としては中央競馬史上初めてとなる20世紀唯一の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌの出現を待たなければならなかった。

 だが、そのことをもって1984年牝馬三冠戦線を過小評価することはできない。絶対的名馬によって淘汰されるものは、決して悪しきものばかりとは限らない。1984年以降の中央競馬は、近代化の波の中で合理的、論理的なものとなっていくが、その反面でファンの間には、それ以前の競馬が有していた非合理性、非論理性をこそ懐かしむ声が少なくないのもまた事実である。

 1984年牝馬三冠戦線の勝ち馬たちは、いずれも古色蒼然たる伝統を持った日本の古い牝系の出身だった。古い歴史を持つ牝系とは、競馬を単なるギャンブルとは区別する「血のロマン」の象徴であり、近代競馬において台頭する輸入牝馬の系統にはない独特の魅力でもある。そうした牝系が輝きを見せた1984年牝馬三冠戦線とは、急速に進む近代化とともに失われゆく競馬の非近代的なるものへの鎮魂歌だったのかもしれない。

『セピア色の残照』

 1984年の桜花賞(Gl)を制したのは、パーソロンとベゴニヤの間に生まれたダイアナソロンである。牝馬三冠戦線においては、桜花賞が最も「固く決着する」レースとされており、実際に桜花賞馬は、その後も長く活躍することが多い。この年も例外ではなく、3番人気の桜花賞を5馬身差の圧勝で制した彼女は、その後オークス、エリザベス女王杯で1番人気に支持され、1984年の牝馬三冠戦線の主役として活躍した。

 ダイアナソロンの血統は、父が当時のトップサイヤーだったパーソロン、母の父が史上初の南関東三冠馬であり、さらに「マル地」として初めて天皇賞を制したヒカルタカイというもので、これだけでもファンに与えるインパクトは強い。だが、彼女の血統を最も強く印象づけるのは、彼女の父でもなければ母の父でもなく彼女の曾祖母であり、その子孫を「亡霊の一族」と呼ばしめることとなった悲しくも数奇な物語だろう。

 ダイアナソロンの血統表を見ると、曾祖母の名前は「丘高」となっている。だが、「丘高」にはファンに親しまれたもうひとつの名前があった。彼女の競走馬時代の名前・・・「クモワカ」といえば、ある程度のキャリアを持つ競馬ファンはすぐにピンとくるに違いない。クモワカは1948年に生まれ、競走馬として32戦11勝、桜花賞2着、菊花賞4着といった戦績を残した牝馬である。

 ただ、彼女の名前は彼女自身の戦績より「流星の貴公子」テンポイントの祖母としての方が名高い。そして、クモワカの血統は、本来ならば後世に残るはずのない血統だった。1952年、京都競馬場でレースを走ったクモワカの体調に異変が生じた際に、獣医によって「ウマ伝染性貧血の疑いあり」という診断を下されたのである。

 「ウマ伝染性貧血」・・・一般に「伝貧」といわれるこの病気は、感染すると赤血球が減少して貧血症状を引き起こす。また、周期的に高熱を発しては解熱することを繰り返すが、その回数を重ねるごとに衰弱し、最後には100%死亡するという、サラブレッドにとっては不治の病である。しかも、ウイルスによって引き起こされるこの病気は、ハエ等を通して他のサラブレッドたちにも次々と伝染する性質を持つため、馬産家、厩舎関係者からは恐怖の死病として恐れられていた。日本では、伝貧の診断を受けた馬はもちろんのこと、その疑いがある馬についても殺処分としうることが法律で定められている。

 ただし、クモワカの場合、その診断は「伝貧の『疑い』あり」で、彼女の症状には、典型的な伝貧と一致しない点も多かった。・・・それでも、「京都競馬場で伝貧発生」という報告を受けた京都府は、獣医の診断に従ってクモワカを殺処分とするよう命令を下した。馬主による抗議は、聞き入れられなかった。

 やがて京都競馬場から、クモワカの姿が忽然と消えた。馬主からは殺処分の報告がなされ、セフトを父、月丘を母とする「クモワカ」の名前は、血統登録から抹消された。クモワカ騒動は、ここでいったん幕を閉じた。いや、この時点では、「騒動」ですらなかった。1952年当時の日本では、農耕馬、アラブ馬なども含めて年間約9000頭の馬が伝貧、またはその疑いがあるとして処分されていた。クモワカのことも、1頭の不運なサラブレッドが病気によって殺処分を受けた、ただそれだけのことだった。

『亡霊の一族』

 ところが、クモワカの姿が京都競馬場から消えた3年後、北海道の早来で大騒動が勃発した。3年前に死んだはずのクモワカが生きたまま、早来の吉田牧場に連れてこられたのである。

 クモワカが伝貧とは信じられない馬主やその周辺の人々によってひそかに京都競馬場から脱出させられていたクモワカは、「不治の病」であったはずなのに、なぜか健康を取り戻していた。別の獣医から「伝貧ではない」というお墨付きを受け、吉田牧場へと姿を現したクモワカのために、彼女の関係者たちは「丘高」という名前で血統登録するよう申請した。この日のために、彼女の血統登録書は、破棄しないまま大切に保存されていた。

 ・・・しかし、「丘高」の血統登録は、拒否されてしまった。いったん伝貧として殺処分を命じたクモワカの「復活」を認めることは、競馬界全体の秩序を乱すものとされた。登録をめぐって人間たちが争っている間に、クモワカは次々と子を産んだ。伝貧の発病に至った牝馬が出産することはありえない。後の北海道による検査によってクモワカへの診断は公式に誤診と認められ、殺処分命令は取り消された。それでも「丘高」の血統登録は、認められなかった。ついに裁判に持ち込まれ、その結果「丘高」とその子供たちの血統登録が認められたのは、クモワカが京都競馬場から姿を消してから実に11年目のことだった。

 クモワカの「復活」が認められた後、最初に生まれた産駒であるワカクモは、母の子として晴れてデビューし、かつて母が勝てなかった桜花賞を勝った。ファンは、一度死んだはずのクモワカを「亡霊」と呼びつつ、その一族の数奇な運命に喝采を送った。やがてこの一族からは、天皇賞・春、有馬記念を制して1976年の年度代表馬に輝き、「流星の貴公子」と呼ばれたテンポイントも現れた。・・・だが、歴史に残る真の名馬として日本の競馬界にその名を残したテンポイントは、かつて祖母が誤診によって競走生命と繁殖牝馬としての11年間を奪われた運命の地・京都競馬場で、粉雪舞う中に散っていった。「亡霊の一族」の物語は、そんな悲劇性から逃れられなかった。

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