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天皇賞・秋 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Mon, 21 Apr 2025 12:28:38 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 タマモクロス本紀~白の伝説~ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/ https://retsuden.com/age/1980s/2025/21/410/#respond Mon, 21 Apr 2025 12:27:48 +0000 https://retsuden.com/?p=410 1984年5月23日生。2003年4月10日死亡。牡。芦毛。錦野牧場(新冠)産。
父シービークロス、母グリーンシャトー(母父シャトーゲイ)。小原伊佐美厩舎(栗東)。
通算成績は18戦9勝(旧4-5歳時)。1988年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、1988年天皇賞春秋(Gl)制覇、1988年宝塚記念、1988年阪神大賞典(Gll)、1988年鳴尾記念(Gll)、1988年京都金杯(Glll)。

第1章:「白い十字架」

★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。

時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…

『昭和最後の名馬』

 西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。

 時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。

 だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。

 日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。

 名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。

『白い稲妻』

 タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。

 名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。

 もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。

「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」

 シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。

 もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。

 しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。

『魅せられて』

 現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。

「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」

 錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。

 錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。

『予感に賭けた男』

 もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。

 初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、

「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」

「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」

 そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。

 しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。

 グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、

「この馬の子供は走る!」

と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。

 1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。

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スーパークリーク列伝~大河の流れはいつまでも~ https://retsuden.com/horse_information/2022/04/353/ https://retsuden.com/horse_information/2022/04/353/#respond Wed, 04 May 2022 12:15:11 +0000 https://retsuden.com/?p=353 1985年5月27日生。牡。鹿毛。柏台牧場(門別)産。
父ノーアテンション、母ナイスデイ(母父インターメゾ)。伊藤修司厩舎(栗東)。
通算成績は、16戦8勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞秋・春(Gl)、菊花賞(Gl)、京都大賞典(Gll)連覇、産経大阪杯(Gll)、すみれ賞(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『平成三強時代』

 日本競馬の歴史を振り返ると、その売上や人気を物語る指標の多くが、1980年代末から90年代にかけての時期に集中している。後に「バブル経済」と呼ばれる好景気はその中途にはじけ、日本経済は収縮の方向へ向かったものの、その後の経済の退潮はまだ好不況のサイクルのよくある一環にすぎないという幸福な誤解の中、中央競馬だけが若年層や女性を中心とする新規のファン層を獲得し続け、不況知らずの右肩上がりで成長を続けたこの時期は、JRAにとってまぎれもなき「黄金時代」だった。
 
 しかし、夢はいつかさめるものである。永遠に続く黄金時代など、存在しない。20世紀終盤に訪れたJRAの黄金時代は、時を同じくして日本が迎えた不況がそれまでとは異質なものであり、後世から「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれるようになる構造不況の本質が明らかになったころ、終わりを告げた。新規ファンの開拓が頭打ちとなり、さらに従来のファンも馬券への投資を明らかに控えるようになったことで、馬券の売上が大きく減少するようになったのである。日本競馬の90年代といえば、外国産馬の大攻勢によって馬産地がひとあし早く危機を迎えた時代でもあったが、これとあわせてJRAの財政の根幹を支えた馬券売上の急減により、日本競馬は大きな変質を余儀なくされたのである。
 
 しかし、日本を揺るがしたどころか、本質的にはいまだに克服されたわけではない不況の中で、中央競馬だけが20世紀末まで持ちこたえることができたというのは、むしろ驚異に値するというべきである。そして、そんな驚異的な成長を支えたのは、ちょうどこの時代に大衆を惹きつける魅力的なスターホースたちが続々と現れたからにほかならない。やはり「競馬」の魅力の根元は主人公である馬たちであり、いくら地位の高い人間が威張ってみたところで、馬あってのJRA、馬あっての中央競馬であるということは、誰にも否定しようがない事実である。
 
 そして、そうした繁栄の基礎を作ったのがいわゆる「平成三強」、スターホースたちの時代の幕開けである昭和と平成の間に、特に歴史に残る「三強」として死闘を繰り広げたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭である、ということは、誰もが認めるところである。当時はバブル経済の末期にして最盛期だったが、この時期に3頭の死闘によって競馬へといざなわれたファンは非常に多く、彼らが中央競馬の隆盛に対して果たした役割は非常に大きい。今回は、「平成三強」の一角として活躍し、天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇などの実績を残したスーパークリークを取り上げる。

『水源』

 スーパークリークの生まれ故郷は、門別の柏台牧場である。柏台牧場は、現在こそ既に人手に渡っており、その名前を門別の地図から見出すことはもはやできないが、平将門に遡り、戦国期にも大名として君臨した陸奥相馬家に連なる名門だった。しかも、その特徴は家名だけではなく、20頭前後の繁殖牝馬を抱える規模、そして昼夜放牧を取り入れたり、自然の坂を牧場の地形に取り入れたりするなど、先進的な取り組みを恐れない先進的な牧場としても知られていた。スーパークリーク以外の生産馬も、スーパークリークが生まれた1985年当時には既に重賞戦線で活躍中で、1987年の宝塚記念(Gl)をはじめ重賞を8勝したスズパレードを輩出している。
 
 スーパークリークの母であるナイスデイは、岩手競馬で18戦走って1勝しただけにすぎなかった。この成績では、いくら牝馬だからといって、繁殖入りは難しいはずである。しかし、幸いなことに、彼女の一族は、「繁殖入りすれば、くず馬を出さない」牝系として、柏台牧場やその周辺で重宝されており、ナイスデイも、その戦績にも関わらず、繁殖入りを果たした。

 そんな経緯だから、繁殖牝馬としてのナイスデイの資質は、当初、まったく未知数だった。ただ、ナイスデイの父であるインターメゾは、代表産駒が天皇賞、有馬記念、菊花賞を勝ったグリーングラスであることから分かるように、明らかなステイヤー種牡馬である。柏台牧場の人々がナイスデイの配合を決めるにあたって考えたのは、この馬に眠っているはずの豊富なスタミナをどうやって引き出すか、ということだった。

『菊を勝つために』

 しかし、「スタミナを生かす配合」と口で言うのは簡単だが、実践することは極めて難しい。一般に、スピードは父から子へ直接遺伝することが多いが、スタミナは当たり外れが大きいと言われる。スタミナを生かすためには気性や精神力、賢さといった別の要素も必要となり、これらには遺伝以外の要素も大きいためである。

 そこで、柏台牧場のオーナーは、ビッグレッドファームの総帥であり、「馬を見る天才」として馬産地ではカリスマ的人気を誇る岡田繁幸氏に相談してみることにした。オーナーは、岡田氏と古い友人同士であり、繁殖牝馬の配合についても岡田氏によく相談に乗ってもらっていた。

「この馬の子供で菊花賞を取るための配合は、何をつけたらいいでしょうか」
 
 気のおけない間柄でもあり、柏台牧場のオーナーは大きく出てみた。すると岡田氏は、
 
「ノーアテンションなんかはいいんじゃないか」
 
と、これまた大真面目に答えたという。

 ノーアテンションは、仏独で33戦6勝、競走馬としては、主な勝ち鞍が準重賞のマルセイユヴィヴォー賞(芝2700m)、リュパン賞(芝2500m)ということからわかるように、競走成績では「二流のステイヤー」という域を出ない。しかも、前記戦績のうち平場の戦績は25戦4勝であり、残る8戦2勝とは障害戦でのものである。しかし、日本へ種牡馬として輸入された後は重賞級の産駒を多数送り出し、競走成績と比較すると、まあ成功といって良い水準の成果を収めた。

 インターメゾの肌にノーアテンション。菊花賞を意識して考えたというだけあって、この配合はまさにスタミナ重視の正道をいくものだった。現代競馬からは忘れ去られつつある、古色蒼然たる純正ステイヤー配合である。

『いきなりの危機』

 しかし、翌年生まれたナイスデイの子には、生まれながらに重大な欠陥があった。左前脚の膝下から球節にかけての部分が外向し、大きくゆがんでいたのである。
 
 毎年柏台牧場には、自分の厩舎に入れる馬を探すために、多くの調教師たちが訪れていた。彼らはナイスデイの子も見ていってくれたが、馬の動きや馬体については評価してくれても、やはり最後には脚の欠陥を気にして、入厩の話はなかなかまとまらなかった。
 
 庭先取引で買い手が決まらないナイスデイの子は、まず当歳夏のセリに出されることになったが、この時は買い手が現れず、いわゆる「主取り」となった。1年後、もう一度セリに出したものの、結果はまたしても同じである。

 こうしてナイスデイの子は、競走馬になるためには、最後のチャンスとなる2歳秋のセリで、誰かに買ってもらうしかないところまで追いつめられてしまったのである。競走馬になれるかどうかの瀬戸際だった。

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https://retsuden.com/horse_information/2022/04/353/feed/ 0
オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~ https://retsuden.com/horse_information/2021/04/674/ https://retsuden.com/horse_information/2021/04/674/#respond Thu, 04 Nov 2021 14:54:42 +0000 https://retsuden.com/?p=674 1991年4月21日誕生。2011年8月29日死亡。牡。栗毛。加藤修甫厩舎(美浦)所属
父トニービン、母トウコウキャロル(母父ホスピタリティ)。村本牧場(新冠)。
旧3~8歳時28戦7勝。天皇賞・秋(Gl)制覇、七夕賞(Glll)、新潟記念(Glll)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『1998年11月1日』

 1998年11月1日という日付は、日本競馬における悲劇の一日として、多くのファンに記憶されている。日付を聞くだけではピンとこないファンも、「沈黙の日曜日」と聞けば、その日に何があったのかを思い出すのではないだろうか。

 この日、東京競馬場で行われた古馬の最高峰である第118回天皇賞・秋(Gl)において、当時…否、おそらくは日本競馬史上でも最高クラスの圧倒的なスピードで大逃げを打ったある馬が、ゴールを待たずして、故障による非業の最期を遂げた。このレースが大詰めを迎えたはずの直線の攻防は、本来競馬場を覆うべき喚声と歓呼ではなく、悲鳴と怒号の中で繰り広げられたと言っても過言ではない。

 しかし、果たしてこの1日は、日本競馬にとって、単なる悲劇としてのみ語り継がれるべき1日だったのだろうか。

 この日の競馬場が、誰も予期しない大きな悲劇の舞台となったこと自体は、確かに間違いのない事実である。だが、悲劇に塗り潰された府中の直線を、それでも一生懸命駆け抜け、そして古馬最高のレースを先頭でゴールした1頭のサラブレッドの栄光は、果たしてどの程度正当に評価されただろうか。

 このレースの勝ち馬は、競走馬にとって不治の病とされる屈腱炎を3度にわたって発症しながら、決してあきらめることなく復帰に向けて戦い続け、8歳にして本格化して初めて重賞を勝ち、Glll連勝を果たし、そしてついには天皇賞・秋(Gl)で栄冠を勝ち取った。また、彼の馬主にとっては、父子二代で制覇を夢見た特別なレースをついに勝ち得た…はずだった。

 そんな彼らの栄光の象徴となるはずだった「1998年11月1日」という日付は、20年以上が経過した現在もなお、日本競馬の大多数から、「悲劇の日」として記憶されている。彼らにとっては、それこそが「悲劇」でなくて何と呼ぶべきなのであろうか。

 今回のサラブレッド列伝では、「1998年11月1日」に行われた第118回天皇賞・秋を制しながら、彼自身とは本来関わりのない事故によって栄光に翳を投げかけられる結果となった「悲劇」の主人公であるオフサイドトラップの軌跡をとりあげてみたい。

『ある一族の物語』

 1991年4月21日、オフサイドトラップは、繁殖牝馬トウコウキャロルと凱旋門賞馬トニービンの子として、新冠の村本牧場で生まれた。

 村本牧場の名前が、それ以前の日本競馬に華々しく登場したことはなかった。それもそのはずで、1954年の開設以来、村本牧場の生産馬が中央競馬の重賞を制したことはなかった。もっとも、優勝はなくとも、2着は過去に4回もあり、その中でも91年の金鯱賞(Glll)は、生産馬のトーワルビーが勝ち馬ムービースターにわずかにハナ差届かなかったという惜敗で、牧場の人々にも「何かの巡り合わせさえかみ合えば・・・」という思いは強かった。

 トウコウキャロルの牝系も、非常に筋の通ったものだった。彼女の牝系は、1907年に小岩井農場によって輸入された20頭の基礎牝馬の1頭であるアストニシメントまで遡る。

 アストニシメントは、小岩井農場の基礎牝馬の中でも特に成功した1頭とされており、彼女の子孫たちからは、現代にいたるまで多くの活躍馬が輩出されている。その中のチトセホープは、61年クラシック戦線で桜花賞2着、オークス優勝の実績を残し、さらにはオークスからなんと連闘で臨んだ東京優駿でも、ハクショウとメジロオーによるハナ差決着から遅れることわずか1馬身での3着に健闘している。

 通算18戦6勝の戦績を残して引退し、繁殖牝馬となったチトセホープだが、直子の代から活躍馬を出すことはできなかった。彼女の娘で、後のオフサイドトラップに連なるミヨトウコウの戦績も、通算24戦4勝で、重賞での実績はない。しかし、彼女と馬主の渡邊喜八郎氏との出会いは、その後の一族の運命に、大きく深い影響をもたらした。

『宿命の邂逅』

 渡邊喜八郎氏は、「トウコウ」の冠名を持ち、1977年の菊花賞を制して「芦毛初のクラシックホース」となったことで知られるプレストウコウの馬主でもあった。そんな喜八郎氏は、「チトセホープの娘」と勧められて買ってきたミヨトウコウのことが大のお気に入りだった。喜八郎氏は、ミヨトウコウの子をすべて自分か、息子でやはり馬主資格を取得した渡邊隆氏の勝負服で走らせるようになった。

 さらに、喜八郎氏は、繁殖に上がったミヨトウコウを、自身の所有馬であるホスピタリティと繰り返し交配したりもした。ホスピタリティは、南関東で羽田盃を勝った後、中央に転入してセントライト記念などを勝った名馬である。競走生活を通じて脚部不安と故障に悩まされ、Gl級のレースは勝てなかったものの、通算成績は11戦10勝2着1回で、唯一先着を許したのが国際競走となるオープン戦での外国馬ということで、「生涯国内の馬に先着を許さなかった」という逸話を持っている。自分の所有する種牡馬と繁殖牝馬の間に生まれた子を走らせることは「馬主冥利に尽きる」と言われるが、喜八郎氏の愛情と執念によって生まれたのが、オフサイドトラップの母となるトウコウキャロルだった。

 トウコウキャロルが競走馬時代に残した成績は8戦1勝で、重賞での実績もなかった。しかし、喜八郎氏は、トウコウキャロルが大成できなかった理由を、ホスピタリティから受け継いでしまった脚部不安とみていた。

「脚部不安さえなければ、もっと走ったはずだ…」

という喜八郎氏の思い入れは、彼女もミヨトウコウと同様に、子どもたちがすべて自分か隆氏の所有馬として走るという形で表現されることになった。

 そんな理由で、オフサイドトラップも、生まれた時には既に渡邊一族の所有馬として走ることが運命づけられていた。

『オフサイドトラップ』

 生産者の村本氏によれば、生まれたばかりのオフサイドトラップは、「薄っぺらくて、小さな馬」「ひょろっとした馬」だったという。これらの表現からは、期待よりも落胆が読み取れる。

 しかし、かつてトウコウキャロルも管理していた加藤修甫調教師は、当歳のうちにオフサイドトラップを見に来て、

「大きくはないけど、バランスは良いし、品のあるいい馬だな…」

と評価し、その場で加藤厩舎入りが決まった。馬主こそ前記の事情でほぼ決まってはいたものの、調教師まで決まっていたわけではなく、現に、彼の1歳下の妹、2歳下の弟は別の厩舎に入厩しているから、これはオフサイドトラップへの期待の高さを表すエピソードととってよいだろう。

 さらに、2歳の時に、オフサイドトラップは、新冠地区の品評会で最優秀賞を獲得した。そんな周囲からの高い評価が重なり、ようやく村本氏からも

「少しはやれるかもしれない・・・」

と思われ始めたオフサイドトラップへの期待は、1世代上にあたるトニービンの初年度産駒が競馬場でデビューし始めたことで、さらに大きくなった。トニービンの初年度産駒から有力馬が次々と現れ、翌年のクラシックで日本ダービー馬ウイニングチケット、二冠牝馬ベガが大輪の華を咲かせた。そんな強豪たちと同じ父を持つオフサイドトラップが評価を上げるのは、競馬界では当然の習わしだった。

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https://retsuden.com/horse_information/2021/04/674/feed/ 0
ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~ https://retsuden.com/horse_information/2021/10/513/ https://retsuden.com/horse_information/2021/10/513/#respond Sun, 10 Oct 2021 12:56:11 +0000 https://retsuden.com/?p=513 1980年4月7日生。2000年12月15日死亡。牡。黒鹿毛。千明牧場(浦河)産。
父トウショウボーイ、母シービークイン(母父トピオ)。松山康久厩舎(美浦)。
通算成績は15戦8勝(旧3-6歳時)。1983年JRA年度代表馬。
主な勝ち鞍は、1983年皐月賞(重賞)、1983年東京優駿(重賞)、1983年菊花賞(重賞)、1984年天皇賞・秋(Gl)、1983年弥生賞(重賞)、1983年共同通信杯4歳S(重賞)。

第1章:「天馬二世」

★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。

 すべてを捨てて戦い、そして散っていくことによって大衆の魂に感動を残したお前は、勝利によってよりも敗北によって輝いた日本競馬史上最大の叙情詩だった・・

『時代の英雄』

 20世紀も終わりに近づく2000年12月15日、師走の競馬界に小さからぬ衝撃が走った。1983年に牡馬クラシック三冠すべてを制し、歴史に残る三冠馬の1頭に名を連ねた名馬ミスターシービーの訃報が伝えられたのである。
 
 三冠馬といえば、英国競馬のレース体系を範として始まった我が国の競馬においては、競走馬に許されたひとつの頂点として位置づけられている。ほぼ半年という長い時間をおいて、2000mから3000mという幅広い距離で戦われるクラシック三冠のすべてを制することは、身体能力、精神力、距離適性の万能性、そして運を兼ね備えた馬のみに可能な偉業である。三冠達成の偉大さ、困難さを証明するかのように、三冠馬は我が国の競馬の長い歴史の中でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、そしてナリタブライアンという5頭しか出現していない(注・2001年以降、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルが三冠を達成している)。ミスターシービーは、2000年暮れの時点で生存する2頭の三冠馬のうちの1頭だった。
 
 ミスターシービーといえば、20世紀の日本競馬に現れた5頭の三冠馬、そして日本競馬史に残る名馬たちの中でも、ひときわ強烈な個性の輝きを放った存在として知られている。ミスターシービーは、ただ「三冠馬になった」という事実ゆえに輝いたのではない。皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。ミスターシービーが行くところには常に波乱があり、感動があり、そして奇跡があった。時には出遅れての最後方からの追い込みがあり、時には失格すれすれの激しいライバルとのせめぎ合いがあり、そして時には掟破りの淀の上り坂からのまくりがあった。そんな常識破りの戦法を繰り返しながら、ひたすらに勝ち進むミスターシービーの姿に、大衆は歓喜し、熱狂し、そして最もドラマティックな勝ち方で自らの三冠を演出する名馬のドラマに酔いしれたのである。
 
 しかし、そんなミスターシービーに、やがて大きな転機が訪れた。古馬戦線で自らの勝ち鞍にさらに古馬の頂点である天皇賞・秋を加えたミスターシービーだったが、彼がかつて戦ったクラシック戦線から絶対皇帝シンボリルドルフが現れ、前年にミスターシービーが制した84年のクラシック三冠をすべて勝つことで、ミスターシービーに続く三冠馬となったのである。ここに日本競馬界は、歴史上ただ一度しかない2頭の三冠馬の並立時代を迎えた。
 
 ミスターシービーとシンボリルドルフ。それは、同じ三冠馬でありながら、あまりにも対照的な存在だった。後方一気の追い込みという不安定なことこの上ない作戦を得意とし、それゆえにファンの心に他のどの馬よりも強烈な残像を焼きつけ続けてきたのがミスターシービーならば、シンボリルドルフは先行抜け出しという最も堅実な作戦を得意とし、冷徹なまでの強さで後続を寄せ付けないまま無敗の三冠馬となった馬である。2頭の三冠馬は、果たしてどちらが強いのか。三冠馬を2年続けて目にした当時の競馬ファンは、誰もが「三冠馬の直接対決」という空前絶後の夢に酔った。
 
 ところが、夢の決戦の結果は、一方にとってのみ、この上なく残酷なものだった。2頭による直接対決は、そのすべてでシンボリルドルフがミスターシービーに勝利したのである。2頭の三冠馬の力関係は、シンボリルドルフが絶対的にミスターシービーを上回るものとして、歴史に永遠に刻まれることとなった。

 こうして三冠馬ミスターシービーは、自らも三冠馬であるがゆえに、不世出の名馬シンボリルドルフと同時代に生まれたという悲運によって、その名誉と誇りを大きく傷つけられることとなったのである。ミスターシービーは、三冠馬の誇りを泥にまみれさせられ、
 
「勝負づけは済んだ」
 
と決め付けられることになった。
 
 しかし、ミスターシービーの特異さが際だつのは、その点ではない。シンボリルドルフに決定的ともいうべき敗北を喫したミスターシービーが選んだ道が、既に大切なものを失いながら、なお残る己のすべてを捨てて、あくまでシンボリルドルフに戦いを挑み続けることだったという点である。
 
「三冠馬の栄光を傷つけるな」
 
 識者からはそう批判されたその選択だが、いつの世でも常に強者に優しく弱者に冷たいはずの大衆は、あくまでもミスターシービーを支持し、大きな声援を送り続けた。馬券上の人気はともかくとして、サラブレッドとしての人気では、シンボリルドルフはついにミスターシービーを上回ることはなかったのである。そうしてミスターシービーは、シンボリルドルフに戦いを挑み続けるその姿によって、競馬を支える大衆の魂に、勝ち続けていたころと同じように… 否、勝ち続けていたころよりもむしろ深く強く、自らの記憶を刻み続けた。
 
 結局、ミスターシービーの挑戦が、彼の望んだ「勝利」という形で実を結ぶことはなかった。だが、勝ち続けることによって記憶に残る名馬は多くとも、敗れ続けることによって記憶を残した名馬は極めて稀有である。大衆は、ミスターシービーの戦いの軌跡の中で、初めて彼が単なる強い馬だったのではなく、ファンの魂を震わせる特別な存在だったことを思い知り、その心に刻み付けることとなった。
 
 大衆の魂を動かす名馬には、必ず彼らが生きた時代の裏付けがある。果たして大衆は、一時サラブレッドの頂点を極めながらも、より強大な存在に挑戦し続け、そして最後には散っていったミスターシービーの姿の中に、自分たちが生きた時代の何を見出したのだろうか。

『馬に魅せられた一族』

 ミスターシービーは、群馬に本拠地を置くオーナーブリーダー・千明牧場の三代目・千明大作氏によって生産されたとされている。千明牧場といえばその歴史は古く、大作氏の祖父がサラブレッドの生産を始めたのは、1927年まで遡る。千明牧場の名が競馬の表舞台に現れるのも非常に早く、1936年にはマルヌマで帝室御賞典(現在の天皇賞)を勝ち、1938年にはスゲヌマで日本ダービーを制覇している。

 千明家がサラブレッドに注ぐ情熱は、当時から並々ならぬものだった。大作氏の祖父・賢治氏は、スゲヌマによるダービー制覇の表彰式を終えて馬主席に戻ってきた時、ちょうど自宅から電話がかかってきて、長い間病に臥せっていた父(大作氏の曽祖父)の死を知らされたという。その時賢治氏は、思わず

「あれは、親父が勝たせてくれたのか・・・」

とつぶやいた。
 
 そんな千明牧場でも、大日本帝国の戦局が悪化し、国家そのものが困難な時代を迎えると、物資難によって馬の飼料どころか人間の食料を確保することすら難しくなっていった。賢治氏は、それでもなんとか馬産を継続しようと執念を燃やしたものの、その努力もむなしく、1943年には馬産をいったんやめるという苦渋の決断を強いられた。この決断により、千明家が長年かけて集めた繁殖牝馬たちは他の牧場へと放出されることになり、広大な牧草地はいも畑と化した。

 年老いた賢治氏に代わって牧場の後始末を行ったのは、息子である久氏だった。彼が牧場に残った繁殖牝馬の最後の1頭を新しい引き取り先の牧場に送り届け、そこで聞いたのは、賢治氏の死の知らせだった。馬産に情熱を燃やし、かつて帝室御賞典、ダービーをも獲った賢治氏は、牧場閉鎖の失意のあまり病気を悪化させ、亡くなってしまったのである。
 
 二代の当主の死がいずれも馬産に関わった千明家にとって、もはやサラブレッドの生産は単なる趣味ではなく、命を賭けて臨むべき宿命だった。そんな深く、そして悲しい歴史を持つ千明牧場の後継者である久氏もまた、時代が再び安定期を迎えるとともに馬産の再開を望んだのは、もはや一族の血の必然であった。

 戦後しばらくの時が経ち、事業や食糧難にもいちおうのめどが立ってくると、久氏は千明牧場を再興し、馬産を再開することに決めた。1954年、久氏は千明牧場の再興の最初の一歩として1頭の繁殖牝馬を手に入れた。その繁殖牝馬の名前は、チルウインドであった。
 
 再興されてからしばらくの間、千明牧場は戦前に比べてかなり小規模なものにとどまっていた。戦前に長い時間をかけて集めた繁殖牝馬たちは既に各地へ散らばり、久氏は事実上牧場作りを一から始めなければならなかったからである。しかし、信頼できるスタッフを集めて彼らに牧場の運営を任せ、さらに自らも馬を必死で研究した千明家の人々の努力の成果は、やがて1963年にコレヒサで天皇賞を勝ち、そしてチルウインドの子であるメイズイで皐月賞、日本ダービーの二冠を制するという形で現れた。戦前、戦後の2度、そして父と子の二代に渡って天皇賞とダービーを制したというその事実は、千明牧場の伝統と実績の重みを何よりも克明に物語っている。そんな輝かしい歴史を持った千明牧場の歴史を受け継いだのが、ミスターシービーを作り出した千明大作氏である。

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レッツゴーターキン列伝~煌めく殊勲の向こう側~ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/542/ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/542/#respond Sat, 09 Oct 2021 12:55:13 +0000 https://retsuden.com/?p=542  1987年4月26日生。2011年1月30日死亡。牡。鹿毛。社台ファーム(早来)産。
 父ターゴワイス、母ダイナターキン(母父ノーザンテースト)。橋口弘次郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、33戦7勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、小倉大賞典(Glll)、
 中京記念(Glll)、谷川岳S(OP)、福島民報杯(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『旅路の果て』

 1992年秋の古馬中長距離Gl戦線の始まりを告げる第106回天皇賞・秋(Gl)当日、全国の競馬ファンの注目は、ただ1頭のスターホースに注がれていた。トウカイテイオー・・・それが、当時の競馬ファンの注目を独占したそのサラブレッドの名前である。

 トウカイテイオーは、日本競馬史上最高の名馬であるシンボリルドルフの初年度産駒であり、最高傑作とされる名馬である。偉大な父は、現役時代は中央競馬史上初めて無敗のままクラシック三冠を制し、国内の通算成績は15戦13勝2着1回3着1回と、ほぼ完璧に近い強さを誇った。引退までにGlを7勝したこの名馬の中の名馬を、ファンは畏敬の念すら込めて「絶対皇帝」と呼び、そして「絶対皇帝」の血を受けたトウカイテイオーもまた、父の後継者としてのファンの注目と期待を一身に集めていた。

 この日までにトウカイテイオーが残した戦績は8戦7勝だった。前年に

「皇帝の子・帝王現る!」

というセンセーショナルな見出しとともにクラシック戦線に躍り出た彼は、父と同じく不敗のまま皐月賞、ダービーを制し、二冠を達成した。父に続く三冠の夢は骨折によって絶たれたものの、父子二代で無敗のまま二冠を達成した快挙は、中央競馬の歴史の中でも当時としては初めてのことであった。

 その後のトウカイテイオーは、古馬になったこの年の春、天皇賞・春(Gl)でメジロマックイーンの前に生涯初めての敗北を喫したとはいえ、レース中に骨折していたことが判明したこともあり、多くのファンは、いまだに「中距離で最も強いのはトウカイテイオー」ということを信じていた。得意の長距離でトウカイテイオーを撃破したメジロマックイーンが、この秋は故障によって戦線を離脱していたこともあって、ファンの人気はトウカイテイオーただ1頭に集中した。血統的なカリスマ性がトウカイテイオーの人気を後押ししていたという側面は否めないものの、それを差し引いたとしても、トウカイテイオーがファンの支持を集めるに足りる戦績を残し、父の後継者と呼ばれるに足る存在だったことも、間違いない事実だった。

 天皇賞・春のレース中の骨折によって戦線を離れていたトウカイテイオーが迎えた復帰戦が、この日の天皇賞・秋だった。このレースは、父シンボリルドルフがいったん直線で抜け出しながら、伏兵ギャロップダイナにまさかの敗北を喫し、ついに制覇をなし得なかった因縁のレースでもある。

「帝王が、皇帝の果たし得なかった天皇賞・秋の制覇を果たすのか?」

 ファンの関心は、その一点のみにあった。トウカイテイオーは故障明けだったにもかかわらず、彼に対する信頼は絶大なものであり、ファンの夢と期待は、彼を単勝240円の1番人気に押し上げていた。

 ・・・ところが、そんな「トウカイテイオーのためのレース」だったはずの天皇賞・秋を待っていたのは、誰もが予想しない結末だった。ウィナーズサークルに立ったのは、圧倒的1番人気に支持されたトウカイテイオーと岡部幸雄騎手ではなく、単勝11番人気のレッツゴーターキンと大崎昭一騎手だった。2着にも5番人気のムービースターを連れてきた馬連は、何と17220円をつける大波乱となった。ローカルで地味な活躍を続けた古豪と、地獄を見た男とのコンビは、輝かしい戦果を挙げたのである。

 しかし、このコンビが栄光をつかむまでには、人馬それぞれに長い戦いと苦悩の積み重ねがあった。今回のサラブレッド列伝では、彼らが長い旅路の果てにようやくたどり着いた大殊勲、そしてそんな大殊勲の向こう側にあったものは何だったのか、というテーマを取り上げてみたい。

『社台の誇りの血』

 1992年の天皇賞・秋を制したレッツゴーターキンは、1987年4月26日、早来・社台ファームで生まれた。社台ファームといえば、いわずと知れた日本最大のブリーダーである。

 レッツゴーターキンは、母ダイナターキンの第3仔に当たる。レッツゴーターキンの牝系は、社台ファームを一代で日本最大の牧場へと育て上げた吉田善哉氏、そして社台ファームそのものの馬産の歴史が詰まったものだった。

 ダイナターキンの母、つまりレッツゴーターキンの祖母は、社台ファームに初めてのオークスをもたらした1969年のオークス馬・シャダイターキンである。シャダイターキンは、前年の桜花賞馬コウユウとともに、初期のシャダイファームを支えた名種牡馬ガーサントの牝馬の代表産駒とされることが多い。

 馬産界では、ガーサントを現在に続く巨大帝国・社台ファームの礎を築いた功労馬とする見方が定着している。ガーサントが日本へ輸入された1961年頃までの間、吉田氏は牧場の屋台骨を支え、拡大路線の推進力たりうる名種牡馬を求め、次々と海外の種牡馬を輸入していたものの、これらがことごとく外れるという、極めて厳しい状況にあった。社台ファームの経営自体が危うくなったことも、一度や二度ではないという。そんな時期に現れた救世主が、コウユウ、シャダイターキン、そして他の牧場の生産馬ながらニットエイト等を次々と輩出することで名種牡馬としての地位を確立したガーサントだった。ガーサントの存在は、社台ファームに莫大な種付け料収入をもたらすとともに、「母の父」として牧場の繁殖牝馬たちに底力を注入することで、血統水準の底上げに大きく貢献した。

 そんな社台ファームの躍進を象徴するオークス馬・シャダイターキンに対し、ガーサントの後に社台ファーム、そして日本の馬産界を支えたノーザンテーストを配合して生まれたのが、レッツゴーターキンの母親だった。ノーザンテーストについては、もはやここでの説明を要しないだろう。かつて11年連続チャンピオンサイヤーに輝いたノーザンテーストは、日本競馬に一時代を築いた種牡馬であり、その血が日本の競馬界に与えた影響は計り知れない。もし社台ファームがノーザンテーストを導入していなかったら、今の日本の馬産界はどのような勢力図になっていたかを想像することは、困難である。

 そんな社台ファームが誇る牝系に、ターゴワイスを付けて生まれたのがレッツゴーターキンである。父のターゴワイスは英仏で8戦5勝、エクリプス賞(仏Glll)などを勝った仏3歳王者であり、種牡馬としてもなかなかの成功を収めている。引退後3年間をフランスで供用されたターゴワイスだったが、その間に凱旋門賞などを勝ったオールアロング、仏1000ギニー馬エクレイヌを出し、初年度産駒がデビューした年には仏3歳リーディングに輝いている。日本に輸入された後は大物を出せなかったが、それでも粒揃いというに足りる産駒は送り出し、多くの重賞馬も輩出している。

『オチコボレ』

 もっとも、このような血統背景を持つレッツゴーターキンだったが、育成牧場での評判は芳しいものではなかった。

 社台ファームは、当時から生産と育成を分けて行っており、レッツゴーターキンも育成のために千歳の社台ファーム空港牧場に送られていった。当時の空港牧場は、当時から早来の本場の生産馬のうち約3分の1の調教・育成を担当していた。

 ところが、空港ファーム入りしてからのレッツゴーターキンは、とてつもない不良ぶりをいかんなく発揮するようになった。なにせ、厩舎の中でも放牧地でも、ちょっと目を離すと何をしでかすか分からなかった。機嫌が良いと思って乗り運動をさせていても、何を思ったか突然暴れたり、横へ吹っ飛んだりした。

 当時の場長は、あまりにもレッツゴーターキンのいたずらがひどいので、

「あんなアブない奴には他人を乗せる訳にいかない」

と意を決し、乗り運動ではいつも自分で乗っていた。しかし、レッツゴーターキンの奇行はいっこうにおさまらず、振り落とされたり、かまれたりで、場長には生傷が絶えなかったという。

 さらに、レッツゴーターキンは一口馬主クラブである社台ダイナースサラブレッドクラブの所有馬として出資者を募ることになったが、あまりに落ち着きがなくじっとしていないため、クラブのカタログに使うための写真すら撮れない。おまけに、大切なクラブ会員の見学ツアーの時には、いつも放馬する始末だった。

 レッツゴーターキンのあまりの態度の悪さに、場長は

「口が利ければじっくり話し合いたいけれど、そうもいかない。どうしてアイツは口が利けないんだ」

と嘆いていたという。しかし、場長に同情した他の従業員が交替しても、そのたびに危ない目に遭うため、結局は場長の手に戻さざるを得なかった。さすがに彼らも頭にきたのか、レッツゴーターキンの育成牧場で「オチコボレ」と呼ばれていたという。

 ちなみに、後の天皇賞・秋でレッツゴーターキンの2着に入るのはムービースターだが、レッツゴーターキンの1年前に同じ空港牧場を旅立ったこちらは、「オチコボレ」のレッツゴーターキンとは正反対の、手のかからない優等生だったとのことである。

『いまだ更生せず』

 そんな空港牧場の関係者たちの苦労も、ようやく終わる日がやって来た。3歳秋になって橋口弘次郎厩舎への入厩が決まった「オチコボレ」は、ようやく栗東のトレセンへと送り出されていったのである。ようやくその手から希代の問題児を放した彼らは、肩の荷を降ろした安堵感に、心の中で快哉を叫んでいた。

 もっとも、このことで問題が根本的に解決されるわけでもない。それまで空港牧場のスタッフが味わっていた恐怖と苦労を、今度は橋口厩舎のスタッフが味わうようになっただけだった。カラスを見ても大騒ぎするレッツゴーターキンに対し、橋口師は

「気性が悪いというよりも臆病なのではないか・・・」

と思ったりもしたが、だからといってどうなるものでもない。レッツゴーターキンは、橋口厩舎でも相変わらず乗り手を振り落としたり、指示を聞かずに勝手に走る方向を変えたりしていた。ある時などは、坂路に連れていったのに、1頭だけで厩舎に逃げ帰ってしまったという。

「全く期待なんてしていませんでしたよ。1つか2つ勝ってくれればいいなって感じでした」

 ・・・それが、橋口師の当初のレッツゴーターキン評だった。

『うら若き日々』

 さて、橋口厩舎の所属馬として12月にデビューしたレッツゴーターキンは、3歳戦を2度使われたものの、いずれも着外に終わった。レッツゴーターキンの初勝利は、通算4戦目・・・4歳4月まで待たなければならなかった。

 その後ほどなく2勝目を挙げたレッツゴーターキンは、出世の早さという意味では「オチコボレ」ではなく平均以上のペースだった。もっとも、平均以上とはいっても、レッツゴーターキンが春のクラシックとは無関係のところにいた、というのもまた事実である。

 レッツゴーターキンの重賞初挑戦は「残念ダービー」こと中日スポーツ4歳S(Glll)だった。ここでのレッツゴーターキンの人気は、12頭立ての11番目に過ぎなかった。たかだか4歳限定のローカルGlllでこの人気だから、この当時のレッツゴーターキンに対するファンの期待がどの程度のものだったのかは、自ずと知れるだろう。

 レッツゴーターキンは、ここで大方の期待を裏切ってロングアーチの2着に突っ込んだ。不良馬場だったことから「展開の紛れ」という冷たい声もあったが、重賞連対は重賞連対である。ここで本賞金を加えたレッツゴーターキンは、後のローテーションにも新しい可能性を切り拓くことになった。・・・それはクラシック最後のひとつ、秋の菊花賞への道である。

 秋のレッツゴーターキンは、菊花賞を目指して神戸新聞杯(Gll)に出走した。無論その道が楽なはずもなく、4着と可もなく不可もない成績に終わると、今度はクラスが準オープンにとどまっていることを利用し、菊花賞と同じコースを体験させるために嵐山S(準OP)を使ったが、ここでも4着となった。

 強い相手に混じった時の底力、長距離適性に確信を持てないままに菊花賞へと向かうことになったレッツゴーターキンだったが、案の定というべきか、菊花賞ではその力はまったく通用せず、9番人気、11着に終わった。菊花賞当日の京都競馬場は重馬場であり、不良馬場の中日スポーツ4歳Sで2着に入った実績があるレッツゴーターキンにチャンスが出てきたようにも思われたが、名馬メジロマックイーンの前に、まったく歯が立たなかったのである。

 レッツゴーターキンは、菊花賞の後もう1戦の戦績を重ね、4歳を終えて13戦2勝2着2回3着2回という結果を残した。この頃のレッツゴーターキンの位置づけは、せいぜい二流馬の上といったところだった。

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プレクラスニー列伝~勝者の屈辱~ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/141/ https://retsuden.com/horse_information/2021/09/141/#respond Thu, 08 Jul 2021 15:28:10 +0000 https://retsuden.com/?p=141  1987年6月10日誕生。1998年1月30日死亡。牡。芦毛。嶋田牧場(三石)産。
 父クリスタルパレス、母ミトモオー(母父ヴィミー)。矢野照正厩舎(美浦)。
 通算成績:15戦7勝(旧4-5歳時)。主な勝ち鞍:天皇賞・秋(Gl)、毎日王冠(Gll)、エプソムC(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『プレクラスニー』

 「日本の馬産界には血統の多様性が根付きにくい」という点は、日本の馬産界の構造的な欠点として、古くから指摘され続けてきた。

 競走馬の血統にも栄枯盛衰がある以上、ある時代、ある地域に特定の系統が流行するという現象自体は、当然に起こりうる。新たに流行する系統があれば、廃れる系統があるのもまた道理である。だが、日本の馬産界は、ある系統が日本で流行し始めるとみるや、後先を考えずその系統の種牡馬ばかりを大量に輸入することを繰り返してきた。日本の馬産家たちがあまりに同じ系統の種牡馬を買い漁ったため、本場のアメリカやヨーロッパからほとんど姿を消してしまった系統すら、いくつもあったほどである。しかも、そこまでしてかき集めた系統でも、日本での流行が過ぎ去ったとみるやたちまち忘れ去ってしまい、1代か、せいぜい2代ほどで滅亡させてしまうことを繰り返してきたかつての日本は、海外から「種牡馬の墓場」として強く批判されてきたのである。

 もっとも、無数に日本へ輸入された系統の中には、ごく少数ながら日本競馬界への高い順応性を示し、日本競馬に深く根づいたものも存在する。古くアローエクスプレス、フォルティノらによって成功がもたらされたGray Sovereignの血を引く系統は、その代表格ということができよう。

 この系統のうち、現在にも父系を残している系統は、凱旋門賞馬トニービンの子孫たちがほとんどであるが、それ以外の系統からも、シービークロス・タマモクロスと続いた系統や、ビワハヤヒデ、アドマイヤコジーン、エイシンキャメロンといった、当時を知るファンであれら馴染みの深い名馬たちを少なからず生み出している。長い歴史の中で日本の馬場への適性が証明されてきたGray Sovereign系の血統は、牝系を含めればかなり広い範囲で日本競馬に影響を与え続けていると言えよう。

 しかし、数々の栄光を謳歌したGray Sovereign系の片隅で、1998年春に、1頭の内国産天皇賞馬が、活躍馬を残すこともなく、否、その機会すらほとんど与えられることすらないままに、寂しくこの世を去ったことは、あまり知られていない。

 その天皇賞馬とは、1991年の天皇賞・秋(Gl)を制したプレクラスニーである。

 プレクラスニーは、古馬の最高峰とされる大レースを制しながら、その生涯を通じて実績にふさわしい評価をほとんど得ることができなかった、不遇の天皇賞馬である。彼が低い評価しか受けられなかったことの背景には、彼の恵まれなかった競走生活が、様々な形で反映している。

 競馬界の歴史とは、あらゆる人々から賞賛と尊敬を受ける少数の名馬だけによって築かれるものではない。正当な評価を受けることなく埋没していく多数の馬たちによって築かれた部分も多い。そして、後者の中に、プレクラスニーのようなGl馬が含まれることも、決してまれではない。今後のサラブレッド列伝では、そうした馬たちも含め、様々なサラブレッドの生涯を叙述していく予定だが、その第1回として、まずは古馬最高の名誉を手にしながら、不遇のままに短い生涯を終えたプレクラスニーの生涯を追ってみたい。

『最強世代に生まれて』

 プレクラスニーは、1987年6月10日、北海道三石町にある嶋田牧場で生まれた。1987年の競馬界における主なできごとをたどってみると、牡馬クラシック戦線では悲運の二冠馬サクラスターオーがクラシックを戦い、また牝馬クラシック戦線では、マックスビューティが圧倒的な強さを見せた年である。

 プレクラスニーの父は、仏ダービー馬クリスタルパレスである。クリスタルパレスは、もともと芝の短距離に向くスピード血統と言われてきたGray Sovereign系種牡馬の中では、同時にスタミナも兼ね備えるバランスのとれた父系と評価されていた。種牡馬としての彼は、日本へ輸入される前にフランスでも供用され、仏リーディングサイアーに輝いた実績もあったため、そんな名馬が導入されるということで、馬産地から寄せられる期待は非常に熱いものがあった。

 プレクラスニーの母は、7歳まで現役馬として走って通算53戦8勝の戦績を残し、重賞の新潟記念を勝ったミトモオーである。このタフな牝馬は、その他にもビクトリアC(エリザベス女王杯の前身)、牝馬東京タイムス杯(府中牝馬Sの前身)、毎日王冠で2着、オークスで5着といった成績を残している。

 視点を変えてプレクラスニーと同じく1987年に生まれた牡馬たちを見てみると、高い水準でしのぎを削った実力馬たちが揃った世代として知られている。彼らの世代の中でも早くから頭角を現したエリートたちが激突した春のクラシックでは、疾風の逃げ馬アイネスフウジン、ハイセイコー最後の傑作ハクタイセイ、そして鮮烈な差しでファンに愛されたメジロライアンが「三強」を形成し、皐月賞はハクタイセイ、日本ダービーはアイネスフウジンが制した。やがて夏を越し、三強のうち春のクラシックを制した二強が去った後の菊花賞では、無冠の大器メジロライアンを押しのけ、夏以降に力をつけていったメジロマックイーンが主役を演じ、中長距離戦線は彼のもとに統一されることとなる。

 また、彼らの世代からは、王道を歩む主役たちばかりでなく、「1番人気だと勝てない」という謎のジンクスを背負いながらもマイル~中距離戦線を荒らしまわったダイタクヘリオスや、独特の逃げで宝塚記念、有馬記念の両グランプリを制したメジロパーマーなど、いわゆる「脇役」と呼ばれる存在も多数輩出する、非常に層が厚い世代であった。

 しかし、若かりし日のプレクラスニーは、そんな高い水準の同世代の中で、いずれ一流馬に数えられるようになるとは思われていなかった。ロシア語で「素晴らしい」「非常に美しい」という意味を持つプレクラスニーという名を与えられたサラブレッドの姿は、華やかりしクラシック戦線には、影も形もなかったのである。それどころか、6月生まれと生まれた時期がかなり遅いこともあって、デビュー自体が4歳の2月までずれ込んでいる。

 また、プレクラスニーは、デビューが遅かっただけではなく、4歳時に残した戦績も、条件戦ばかりに出走して6戦2勝というものにすぎなかった。この時点での彼の成績は、高いレベルといわれるこの世代でなくとも、人々の脚光を浴びるような代物ではない。

 ただ、プレクラスニーにまったく将来の「兆し」すらなかったかというと、そうではなかった。プレクラスニーの鞍上は、デビュー直後の2戦を除いては、いずれも2000勝騎手の増沢末夫騎手が手綱を取っていた。また、4歳時に挙げた2勝はいずれも芝1800mでのもので、後に中距離戦線で活躍することになる伏線は、この時既に用意されていたのである。

『予感に満ちた夏』

 そんなプレクラスニーが本領を発揮し始めたのは、5歳を迎えて古馬の仲間入りをした後のことだった。2勝目を挙げた後は放牧に出されて4歳秋を全休したプレクラスニーだったが、放牧から帰ってきた彼を見た管理調教師の矢野照正調教師は、たくましく成長している様子を認め、

「秋にはきっと大きな仕事をする馬」

と彼に熱い期待をかけていた。

 そして、プレクラスニーも、矢野師の期待に応えて芝1800mの条件戦を次々と勝ち上がっていった。

 1991年の4月になると、それまでプレクラスニーの主戦騎手を務めていた増沢騎手が騎手を引退することになり、新たに江田照男騎手とコンビを組むことになった。江田騎手は1990年に騎手としてデビューしたばかりだったが、いきなり27勝を挙げて新人賞を獲得したり、同年のうちに重賞初勝利を挙げたりするなど、その将来を嘱望される有望な若手騎手で、プレクラスニーとの新コンビでの緒戦となる晩秋S(1500万円下)でも、5馬身差の圧勝によって実力の違いを示した。

「今なら、重賞でも通用する・・・」

 矢野師の承認のもと、プレクラスニーはいよいよ重賞への初挑戦を許された。彼のために用意された舞台は、それまで2戦2勝と相性の良い東京競馬場で開催される重賞で、通算5戦4勝の芝1800mコースで行われるハンデ戦(当時)のエプソムC(Glll)だった。

 エプソムCに出走するころには、プレクラスニーは既に競馬関係者や一部のファンの間で「東の成長株」として注目を集めつつあり、この日の単勝オッズ280円は、堂々の1番人気である。そして、このレースで終始2番手につけ、直線できっちり抜け出したプレクラスニーは、あっさりと重賞ウィナーの仲間入りを果たし、「関東の秘密兵器」という一部での評価が決して的外れなものではないことを示した。

矢野師をはじめとする関係者たちは大いに喜び、プレクラスニーはご褒美として秋までの充電に入ることになった。もっとも、これがただの休養であるはずもない。プレクラスニーの東京芝コースでの戦績は、3戦3勝となった。このとき矢野師の視線の先には、おそらく東京の芝2000mで行われる古馬の最高峰・・・天皇賞・秋の盾があったに違いない。

『盾への片道切符』

 夏を越して秋競馬が始まると、プレクラスニーの復帰戦は、毎日王冠(Gll)と決まった。毎日王冠の舞台はエプソムCと同じ東京1800mであり、コース適性という意味では、プレクラスニーにとって申し分ない。だが、ハンデGlllで天皇賞・春(Gl)、宝塚記念(Gl)といったGl戦線には足りない馬たちばかりが集まっていたエプソムCと異なり、毎日王冠は天皇賞・秋(Gl)の重要なステップレースと位置づけられている。このレースには、毎年天皇賞・秋を目指す強豪たちが集結しており、1991年もその例外ではなかった。

 この時の出走馬には、89年の安田記念(Gl)、90年のスプリンターズS(Gl)を制したGl2勝馬バンブーメモリー、90年の宝塚記念(Gl)でオグリキャップを破ったオサイチジョージがいた。また、この時点ではまだGlを勝っていないものの、後に91年、92年とマイルCS(Gl)を連覇する希代のクセ馬ダイタクヘリオスの姿もある。プレクラスニー自身を含めると、このレースに出走した13頭のうち、4頭が引退までにGlを計6勝したことになる。さらに、脇を固めるメンバーも淀巧者のオースミロッチ、無事是名馬のカリブソングという渋い個性派が揃い、それまで一線級との対決を経験していなかったプレクラスニーにとって、天皇賞・秋へ向けた見通し、そして彼自身の真価が問われるレースとなった。ちなみに、東京競馬場では、その週から初めて「馬番連勝」馬券が発売されている。

 この日のレースは、ダイタクヘリオスが力強く逃げる中、プレクラスニーは2番手を追走していった。力のある2頭に引っ張られ、ペースはつり上がっていったが、充実期を迎えつつあるこの2頭は、自ら作り出した厳しいペースに飲み込まれるような並みの馬とは次元が違う。直線に入ってからも彼らの脚色は衰えることなく、むしろ激しい叩き合いを続けたのである。そして、死闘の末に半馬身相手を競り落としたのは、ダイタクヘリオスではなくプレクラスニーの方だった。

 この日の勝ち時計は1分46秒1で、サクラユタカオーが持つコースレコードに僅か0秒1差という優秀なタイムだった。強い相手に強い勝ち方を収めたプレクラスニーは、見事に重賞2連勝を飾り、堂々と盾へと駒を進めることになった。

『第104回天皇賞』

 そして、運命の1991年天皇賞・秋、第104回天皇賞(Gl)当日がやって来た。単勝190円の圧倒的1番人気に支持されたのは、前年の菊花賞に続いて天皇賞・春(Gl)を制しているメジロマックイーンだった。

 名門メジロ牧場の誇りともいうべき天皇賞父子制覇を達成したメジロアサマ-メジロティターンを父系に、やはりメジロ牧場によって長い時間とともに育てられた基礎牝系たるシェリル系を母系に持つメジロマックイーンは、両親から晩成の血を受け継ぎ、前年の秋以降、その血を無限の成長力へと変えつつあった。既にGlを2勝しながらさらに充実の一途をたどる王者メジロマックイーンは、秋の緒戦に選んだ京都大賞典(Gll)で、他の馬たちが彼を恐れて次々と回避する中、いともたやすく楽勝することで、疑う余地のない圧倒的な実力を見せつけていた。彼の鞍上にいるのは、前々年のイナリワン、前年のスーパークリーク、そしてこの年メジロマックイーンで天皇賞・春3連覇を達成し、天才の名をほしいままにする「平成の盾男」こと武豊騎手である。

 しかも、メジロマックイーンのライバルたりうるとしたらこの馬しかいない、といわれ、宝塚記念(Gl)では悲願のGl制覇を成し遂げた東の横綱メジロライアンは、この時屈腱炎に倒れ、既に戦線を離脱していた。最大のライバルなき今、メジロマックイーンが史上2頭目の天皇賞春秋連覇を達成することは、もう既成事実のように言われていた。穴党はなんとか荒れる要素を探し出そうと血眼になり、「距離不足」「外枠不利の府中2000mで13番枠は外すぎる」という主張をむりやり引っ張り出してはいたものの、そうした主張の頼りなさは、主張する人々が一番よく分かっていた。大部分のファンにとってこのレースは「軸不動」で、あとは連下に何が来るか、というのが予想の焦点であり、注目と関心の対象だった。

 この日の2番人気は、前年に日本ダービー3着、菊花賞2着、ジャパンC4着という戦績を残したホワイトストーンだったが、秋はオールカマー(Gll)で公営の雄ジョージモナークに後塵を拝していた。プレクラスニーは、ホワイトストーンに続く単勝870円の3番人気で、いちおう期待馬の端くれという評価といえようが、それ以上のものでもない。圧倒的支持を受けるメジロマックイーンの前で、プレクラスニーを含めた他の馬たちの影はかすみがちとなった。

 しかし、この時のファンには、「マックイーン神話」が浸透しすぎていた。また、この日の東京競馬場には雨が降り続いており、馬場状態が悪化の一途をたどっていたことも、湿って力のいる馬場を得意とするメジロマックイーンに有利な材料と思われた。一方、脚質こそメジロマックイーンと同じ先行タイプではあるものの、ダートでのデビュー戦を除くとそもそも重馬場以上で走ったことすらないプレクラスニーにとって、この気候と馬場状態は、明らかにマイナス材料だった。

『雨の日曜日』

 小雨降りしきる東京競馬場で、馬場状態は不良というコンディションの中、第104回天皇賞(Gl)のファンファーレが憂いを秘めて鳴り響き、ゲートが、そして戦いの幕が開けられた。

 すると、スタートとともに敢然と飛び出したのは、メジロマックイーンと武騎手だった。外枠が絶対不利とされる東京2000mコースで13番枠を引いたハンデを跳ね返そうとばかりに、先頭を行きながら、するすると内へ切り込んでいく。そんな現役最強馬に対し、挑戦者であるプレクラスニーも負けじと挑み、先頭をめぐって激しく対峙する。・・・そして第2コーナー過ぎで馬群を抜け出して先頭を奪ったのは、プレクラスニーの方だった。

 プレクラスニーがレースを引っ張り、メジロマックイーン、ホワイトストーンが続く展開・・・それは、かつて「走らない」という迷信があった芦毛の3頭が上位人気3頭を独占し、さらに前半はすべて好位で競い合うものだった。後続の馬たちは彼らについていくことができず、展開は変わらないまま第4コーナーを回り、いよいよ直線の攻防が始まる…かと思われた。

 ・・・だが、直線で始まったのは、「攻防」などと呼べる代物ではなかった。渋った馬場を味方につけ、泥をはね、馬場を切り裂き、翔ぶが如く1頭の芦毛が、残る2頭の芦毛の横をすり抜けてあっという間に置き去りにし、雨の中へと消えていった。遠ざかるメジロマックイーンの背中を懸命に追うプレクラスニーだったが、彼らの間の差は、たちまち絶望的なものへと変わっていった。

『ウイニング・ラン』

 メジロマックイーンは、後続に圧倒的な着差をつけて、ただ1頭ゴール板に飛び込んだ。その差、実に6馬身の圧勝だった。若き天才武豊は「ウイニング・ラン」を終えると、12万大観衆の歓声にガッツポーズで応え、ゴーグルをスタンドに投げ入れるほどの興奮ぶりである。その瞬間、誰もが天皇賞春秋連覇の偉業の達成を信じた。

 一方のプレクラスニーは、初めて経験する不良馬場に脚を取られ、最後はすっかり脚が上がっていた。しかし、彼はそれでも、追ってきたカリブソング以下を3/4馬身抑えて2着で入線した。

 メジロマックイーンと武騎手が大観衆の祝福と賞賛を一身に集めるその最中、歓声も雨の音に消される向こう正面で、江田照男騎手は、静かにプレクラスニーから下馬していた。彼の愛馬は、苦手な不良馬場の激闘ですべての力を出し尽くし、跛行を生じていたのである。「勝者」と「敗者」のコントラストがかくも鮮明に浮き彫りになった光景も、そう滅多にあるものではない。だが、一緒に前でメジロマックイーンと戦おうとしたホワイトストーンが掲示板にすら残れなかったことを考えると、プレクラスニーの不屈の精神は称えられるに値するものだった。ただ惜しむらくは、勝った馬が強すぎた・・・。江田騎手の胸に去来するのも、敗れた無念さではなく、力を出し切ったことに対する満足感だった。

 ・・・だが、この時の約12万人の観衆のほとんど、そして当事者である騎手たち自身さえ、着順掲示板に灯る「審」のランプの意味に気付いてはいなかった。それは、15分後に起こる天皇賞史上最大の逆転劇の予兆だったにも関わらず。その大逆転劇は、この時既に始まっていた。

『プレクラスニー逃切』

 ウイニング・ランを終えて検量室へと戻っていった武騎手を迎えたのは、他の騎手たちによる凄まじい抗議と叱責・・・否、罵声と怒号だった。メジロマックイーンと武騎手がスタート直後の第2コーナーで大きく外から内へと切れ込んだ際に、他の馬たちの進路を妨害したというのである。パトロールフィルムを目にした武騎手の表情からも、たちまち血の気が引いていった。この時既に、審議はきわめて深刻な段階に入っていた。

 天皇賞史上最大の大逆転劇は、ゴールから約15分後に完結した。メジロマックイーンは、第2コーナーでプレジデントシチーらの進路を妨害したとして、18着への降着処分を受けたのである。・・・勝者に与えられる盾と名誉はメジロマックイーンの手から奪われ、2着で入線したプレクラスニーへと与えられることになった。こうしてプレクラスニーは、突如勝者の地位へと転がり上がったのである。

 パトロールフィルムを確認すると、第2コーナーのメジロマックイーンが内へ切れ込んだところで、馬群が異常なまでに混乱しており、中でもプレジデントシチーは、落馬寸前になっているのが一見して分かる。メジロマックーンの18着降着はやむを得ないと思われる。降着制度は当時始まったばかりで、この古馬最高のレースが適用第1号となった。だが、過去の例を見ても、88年の天皇賞・春で2着入線のニシノライデンが失格となった例はあるものの、天皇賞の長い歴史の中で1着入線の馬が失格となった例はなく、繰り上がり優勝は初めてだった。

 この日の天皇賞・秋の記録に記されたのは、「プレクラスニー逃切」というものだった。メジロマックイーンという「勝者」の存在が抹消された以上、プレクラスニーの競馬は「逃げ切った」と評するよりほかにない。秋の天皇賞が2000mに短縮されて以来、逃げ切り勝ちを納めたのはわずかに2頭で、プレクラスニーの他にはニッポーテイオーがいるのみである。

『勝者の屈辱』

 しかし、この裁定は、第104回天皇賞に関わった人々の多く・・・特にメジロマックイーン陣営の人々と、プレクラスニー陣営の人々の運命を大きく変えるものだった。

 18着降着の裁定が、敗者とされた若き天才と王者に深い屈辱を与えたことは、想像に難くない。レース直後には、

「不当な降着だ!」

「提訴する!」

といったメジロマックイーン陣営の激しい反応も大きく報じられている。しかし、この裁定がメジロマックイーンの犯した進路妨害という罪の結果である以上、それは彼らにとって受け入れなければならない罰である。この裁定がもたらした真の悲劇とは、敗者とされた側ではなく、勝者とされた側にこそあった。

 「天皇賞馬」となったプレクラスニーを迎えるスタンドの雰囲気は、例年のそれとは明らかに異なるものだった。そこに古馬の頂点に立った者への賞賛と尊敬はなく、あるのは目の前で起こった現実に対する当惑と、当事者たちへの同情だった。

 当時19歳だった江田照男騎手は、この日、最年少天皇賞制覇の栄誉を手に入れたが、若くして大きな名誉を手に入れたはずの勝者の顔に、晴れやかさはまったくなかった。彼の表情から読み取れるものも、いかんともしがたいばつの悪さと戸惑いのみである。プレクラスニーがメジロマックイーンに完全に力負けしていたことは、彼が一番よく知っていた。ここに立つのは、本来自分であるはずがない。それなのに・・・。直後にJRA史上最年少天皇賞制覇の感想を聞かれたときも、

「本当にね、勝ったわけじゃないですからね。だから、そんなにうれしいということはないですね」

と、とても勝利騎手とは思えないコメントを述べている。

 つらい思いをしたのは、江田騎手だけではない。プレクラスニーの生産者である嶋田克昭氏も、レース後こんな感想を漏らしている。

「正直言って、表彰台に立っているのが辛かった・・・」

 嶋田氏は、周囲の人々から「ルールに則って勝ったのだから」と慰められ、祝勝会を開くことを勧められたが、嶋田氏本人は、そんな誘いに決して首を縦に振ることはなかったという。

『名誉を取り戻すことなく』

 天皇賞・秋のレース後、報道陣に囲まれた江田騎手は

「この次にマックイーンと闘うときは、先頭でゴールを駆け抜けてみせます」

というコメントを残した。繰り上がり優勝・・・この空虚な栄光は、確かな敗北を知る彼の心に、深い影を落としていた。

 プレクラスニー陣営は、次の目標を「憧れていた」と矢野調教師が語る有馬記念(Gl)一本に絞り、メジロマックイーンとの再戦に備えることになった。有馬記念の舞台は中山2500mであり、距離が伸びれば伸びるほど強さを発揮するマックイーンに比べ、中距離を得意とするプレクラスニーには明らかに分が悪い。しかし、あまりにも後味の悪い天皇賞・秋のイメージを払拭するために、プレクラスニーは勝たなければならなかった。

 有馬記念でのプレクラスニーは、今度も3番人気の単勝900円となった。1番人気がメジロマックイーンであることは当然として、2番人気は4歳馬ナイスネイチャだった。京都新聞杯(Gll)、そして有馬記念の直前に鳴尾記念(Gll)を勝っているとはいえ、菊花賞で4着だった4歳馬よりも低評価というのが、天皇賞馬の現実だった。

 年末のグランプリは、今は亡き狂気の逃げ馬ツインターボが玉砕的な逃げを打つ形で始まった。プレクラスニーは2番手に抑えたものの、2周目の第3コーナーでツインターボが急激に失速したのを見るや、敢然と先頭に立った。この失速は鼻出血の発症の影響だったことがレース後に明らかになったが、レース中の江田騎手にはそこまで知る由もない。それでも、ここを勝負どころと見定めて進出していくその様子は、まるで天皇賞・秋の悪夢を払おうとするかのようだった。

 しかし、ツインターボによるハイペースを見越して中団で脚をためていたメジロマックイーンらも、大歓声に合わせるように上がって来た。脚色が違う。

 プレクラスニーは、毎日王冠に続いて直線での叩き合いとなったダイタクヘリオスの急襲をしのぎ、直線の半ば過ぎまで必死の抵抗を見せた。それまで2000mまでのレースしか走ったことのない中距離馬が、残り100mを切る2400m地点でも先頭を維持し、懸命に粘っている。・・・だが、それが彼の限界であった。

 力尽きたプレクラスニーの横を、何頭かのサラブレッドが突き抜けていく、そして、その中にはメジロマックイーンの姿もあった。・・・この時、プレクラスニーの戦いは終わった。

 レース自体は、一世一代の豪脚を見せたブービー人気のダイユウサクが、大本命メジロマックイーンを差し切るという大波乱で幕を閉じた。しかし、そのような狂騒劇はプレクラスニーには関係なかった。プレクラスニーにとって、メジロマックイーンに敗れたことがすべてだったのである。

 そして、この日の有馬記念は、結果としてプレクラスニーの最後のレースとなった。プレクラスニーは6歳になってすぐに脚部不安を発症したのである。こうして江田騎手のマックイーン打倒の誓いは、ついに果たされぬまま終わった。復帰への努力は1年に渡ったものの、その努力は空しく彼が再びターフに戻ってくる日はこなかった。

『果たされぬ使命』

 現役を引退し、7歳春から種牡馬入りしたプレクラスニーには、天皇賞馬としてその血を後世に伝えるという第二の使命が与えられていた・・・はずだった。古馬の最高峰・第104回天皇賞を制したのは、まぎれもなくプレクラスニーだったのだから。

 しかし、世間はそうは見てくれなかった。プレクラスニーにとって最大の栄光であるはずの天皇賞は、常に「メジロマックイーン降着」という形容詞のみによって語られ、決して「プレクラスニーが勝った」という形容詞で語られることはなかった。降着、繰り上がり優勝という強烈な残像は、プレクラスニーの粘り強い逃げは勿論のこと、前走までのレコードと僅差での連勝すら、吹き飛ばすには充分すぎるものだった。

 プレクラスニーの生涯戦績を見ると、芝の1800m戦は7戦6勝2着1回であり、東京の芝コースでも5戦5勝と無類の強さを示した。彼が芝で連を外したのは、有馬記念を含めてもたったの2回だけである。だが、彼の実力を証明してくれるはずのこれらの数字は、プレクラスニーに対する評価の材料としては、何の役にも立たなかった。常に最強馬を追い求める時代の流れの中で、「最強ならざる勝者」であるプレクラスニーの存在は、黙殺されることになったのである。

 1994年に生まれたプレクラスニーの初年度産駒は、わずか10頭だった。内国産の天皇賞馬としては、あまりに悲惨過ぎる数字である。しかし、その翌年には、その数字ですら彼にとって幸せなものだったことが明らかになる。翌95年生の産駒数はさらに落ち込んでわずかに4頭となり、98年生の1頭を最後に、ついにプレクラスニーの産駒自体が1頭もいなくなった。

 初年度産駒の中で中央デビューを果たした数少ない1頭であるストレラー(牡)は、江田騎手とのコンビで3戦目に勝ち上がり、府中3歳S(Glll)ではゴッドスピードの4着と健闘した。この馬はその後アクシデントに見舞われるなどの不運にもめげることなくその後2勝目を挙げている。・・・だが、そんな彼も、平地17戦2勝、障害3戦未勝利の戦績を残したまま、レース中の事故で世を去った。96年生まれでストレラーの全妹になるタンドレスも、17戦1勝の戦績を残したものの、繁殖入りすることなく乗馬となった。プレクラスニー産駒が中央競馬で挙げた勝ち鞍は、この2頭によるものがすべてである。

 一方、第104回天皇賞で敗者とされたメジロマックイーンは、勝者とされた者とはまったく違う経路を辿った。ターフからプレクラスニーの姿が消えた後も、メジロマックイーンは最強馬として競馬界に君臨し続けた。トウカイテイオーやライスシャワーといった数々の名馬たちと死闘を繰り広げ、回転の速いサラブレッドの世界で約3年に渡り王者の地位に君臨した彼は、天皇賞・春連覇をはじめとするGl4勝、天皇賞父子3代制覇を成し遂げた偉業を称えられ、顕彰馬にもなった。メジロマックイーンを語る場合、第104回天皇賞は常に伝説として語られる。2着に6馬身差をつける圧倒的なレースをしながら、不運にも優勝の栄誉をはく奪された悲劇―勝者の悲哀と対照的な、敗者の栄光として。

『滅ぶもの、生きるもの』

 種付け希望がなくなり、種牡馬生活を続けることができなくなったプレクラスニーは、1998年初冬、JRAに引き取られて余生を過ごすことになった。JRAによる余生の保障は、当時は旧八大競走勝ち馬のみに認められた特権であり、彼には着順も成績も問われない第三の馬生が待っているはずだった。しかし・・・新しい環境に移って1ヶ月も経たないうちに、彼は着順も成績もまったく問われない世界へと旅立ってしまった。環境の急激な変化に耐えられなかったのだろうか、それとも競争の機会すら与えられることなく競争世界から追い出されたことへの抗議だったのだろうか。

 プレクラスニーの父クリスタルパレスも、プレクラスニーの他には中央競馬の重賞勝ち馬を出すことができないまま、1995年に死亡した。クリスタルパレスは、自らは仏ダービーを勝ち、凱旋門賞でも3着に入ったほどの馬であり、種牡馬としても、日本に輸入される前にはフランスで多くの活躍馬を出し、1985年の仏リーディングサイアーに輝く能力を秘めていた。だが、日本での産駒成績を見ると、プレクラスニーは前記のとおりで、期待されていたプレクラスニーの全弟プレストールも1戦しただけで引退するなど、他の活躍馬は特に出すことができなかった。クリスタルパレスをブルードメアサイヤーとする馬からは、後に2002年の日本ダービー馬タニノギムレットが現れたものの、後継種牡馬はプレクラスニーしかいなかったため、そのプレクラスニーが死亡したことによって、父系は完全に断絶した。

 21世紀に入って、日本競馬界の情勢は急激に変わった。日本の有力馬は当たり前のように海外に遠征し、有望な子馬は海外のバイヤーによって買われていき、種牡馬の交流も、かつてのような一方的な入超ではなくなりつつある。しかし、日本が「名馬の墓場」という汚名を返上できたとしても、それ以前に消滅した血統が再び蘇ることはない。失われたクリスタルパレスの直系がそうであるように。

 確かに、競馬の世界では血統の栄枯盛衰はつきものであり、栄える血統もあれば、滅びゆく血統が出てくることもやむを得ないのかもしれない。だが、それを当然のことと冷たく突き放すだけでは、あまりにも悲しく、あまりにもむなしい。名馬の血が残らないのならば、せめて記憶に留めておくことが、私たちの責務ではないだろうか。フランスからやってきた名馬の仔に、天皇賞を勝った馬がいたこと。そして、その馬は運命に翻弄されるうちに、ひっそりと短い生涯を閉じたこと・・・。

 幸い、プレクラスニーの弟妹、産駒たちの多くは、彼に魅せられながらも彼の運命を止めることができなかったことを悲しんだあるファンに引き取られ、平和に暮らしたという。かつて府中を愛し、そして府中で不敗のまま逝った芦毛の天皇賞馬の血統は、競走馬、サラブレッドとしてはとうに絶えてしまったが、せめて単なる馬として、日本のどこかで生き長らえてはいないのだろうか―

記:1998年7月29日 補:1999年2月10日 2訂:2000年6月22日 3訂:2003年2月09日 4訂:2006年2月26日

復刻:2021年7月●日

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