★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…
西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。
時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。
だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。
日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。
名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。
タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。
名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。
もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。
「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」
シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。
もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。
しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。
現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。
「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」
錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。
錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。
もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。
初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、
「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」
「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」
そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。
しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。
グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、
「この馬の子供は走る!」
と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。
1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。
]]> 人の世に流行り廃りがあるように、競馬の血統にも流行り廃りがある。というよりも、経済動物であるサラブレッドの場合、その栄枯盛衰は人の世よりもはるかに激しい。
かつて、英国競馬を範として成立した日本競馬では、短距離よりも中長距離レースの格式が高いとされていた。そうすると必然的に、馬産界では中長距離レースに耐えるスタミナと精神力を兼ね備えた、いわゆるステイヤー血統の種牡馬の人気が高く、逆に短距離レースに適したスピード血統の種牡馬は人気が低くなってくる。馬産界が種牡馬を導入する場合の選定基準は、その馬自身や近親の馬たちの中長距離の大レースでの実績であり、また長丁場に耐え得る馬体であった。
しかし、競馬を英国流の貴族の趣味から大衆の娯楽としてとらえ直し、一大エンターテイメント産業へと転換させたアメリカの影響が強まってくると、我が国でも次第に中長距離偏重レースの雰囲気は薄れ、短距離レースの比重が高まっていった。名誉を重んじる貴族の趣味から大衆の娯楽へと変貌した新しい競馬では、アメリカ的合理主義の影響で、年に幾度もない大レースだけのためにその馬が持てるすべてを燃やし尽くす中長距離レースの価値は衰えていった。それに代わって台頭してきたのは、スタートからゴールまで息つくひまもない激しいスピードで見る者を興奮させ、さらにひとレース終えた後の消耗からも短期間で立ち直ることができる短距離レースだった。
近年になっても、競馬のスピード化という流れはとどまるところを知らず、逆に「短距離偏重」ともいうべき状況ができあがりつつある。マイル戦やスプリント戦の条件戦が急増する反面で、クラシックディスタンス、あるいはそれよりも長いレースは、減少の一途をたどっている。その流れは次第に重賞戦線にも押し寄せ、昔ながらのスタミナ豊富なステイヤーが活躍できる舞台は少なくなるばかりである。
競馬のレース体系がこのように変わってくると、それにあわせて馬産界も変わらざるを得ない。種牡馬の世界でも繁殖牝馬の世界でも、スピード化の波に対応し得るアメリカ血統の人気が高まる一方で、かつてもてはやされていたステイヤー血統は見捨てられ、忘れ去られ、そして滅び去っていった。サンデーサイレンスを筆頭とする新時代の種牡馬がターフを席巻する中で、昔ながらのステイヤー種牡馬は居場所を失っていった。競馬の本場である英国でもこの傾向は顕著で、すでにクラシック三冠の最後の一つ、日本でいえば菊花賞に当たるセントレジャー(英Gl)は有力馬の参戦がなくなって形骸化し、アスコット金杯などの伝統の長距離レースですら、それを勝つことはむしろ「種牡馬としての未来を暗くする」として敬遠されるようになっている。競馬界の近年の状況を見ると、日本競馬もそんな本場の状況を後追いしているように思われる。
しかし、スピード競馬がこれまでの競馬にはない魅力を備えていたのと同様に、スタミナ競馬にもスピード競馬にはない独特の魅力があったはずである。スピード競馬が全盛を迎えている現在の、ほんの少し前の時代に、私たちにステイヤーの魅力を懸命に伝えようとした馬がいた。ステイヤー受難の時代の中で、滅びゆくステイヤーとして最後の輝きを放った馬がいた。過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、騎手と一体となって戦う従順さと、その内に秘めた闘志…。そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。時代に反逆するかのように戦い続ける彼の生き方は、彼の存在を抹殺しようとするかのような時代の中で、むしろ悪役として遇されることも多かった。そして、大衆が彼の魅力を本当に認めたその時、彼は時代の波に飲み込まれるように消えていったのである。
時代の流れに抗い続け、あまりにも速すぎた時代の流れの中に消えていったその馬の名前は、ライスシャワーという。彼は、
「疾走の馬、青嶺の魂となり」
そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、今も眠っている。
ライスシャワーが生まれたのは1989年3月5日、場所は登別にあるユートピア牧場である。
ユートピア牧場は、その前身の創業をたどると1941年(昭和16年)まで遡ることができる古い歴史を持つオーナーブリーダーで、古くは1952年(昭和27年)に皐月賞、ダービーの二冠を制したクリノハナを出したことで知られている。
ライスシャワーの母であるライラックポイントも、遡ればクリノハナと同じく、アイリッシュアイズを祖とする牝系に属していた。ただ、この牝系は概して子出しが悪いうえ、クリノハナ以降の産駒成績も 、決して芳しいものではなかった。この一族には、長い歴史の中でユートピア牧場から出された繁殖牝馬もいたものの、何代も経ないうちに消えていった。
しかし、ユートピア牧場の人々は、この一族を決して見捨てることなく牧場の基礎牝馬として残し続けてきた。二冠馬を出して牧場の誇りとなった牝系は、ユートピア牧場にとってあまりにも重い価値があったからである。
「いい種馬をつけていれば、いつかきっと一流馬を出してくれる」
そんな思いは、代々の繁殖牝馬に交配されたそれぞれの時代の名種牡馬たちの名前に凝縮されており、ライラックポイントも、長らく日本競馬を引っ張った名種牡馬マルゼンスキーの娘として誕生した。
ライラックポイントは、競走馬としてはなかなかの成績を残し、中央競馬で4勝をあげたものの、牧場へ帰ってきてからの繁殖成績では、ライスシャワーの前に3頭の子を出したものの、いずれも特筆するような成績は残せなかった。しかし、ユートピア牧場の人々は、ライラックポイントの潜在能力に期待をかけて、リアルシャダイを交配することにした。
リアルシャダイは、通算成績は8戦2勝、主な勝ち鞍はドーヴィル大賞典(仏Gll)と、その戦績は一見派手さには欠けている。しかし、リアルシャダイは英国ダービー馬Robertoの重厚な血を継ぎ、Northern Dancerの血を持たない異端の血統を買われて、現役時代の馬主だった社台ファームによって日本へ導入されていた。リアルシャダイに期待されていたのはポスト・ノーザンテースト時代の旗手としての役割であり、1988年当時には既に産駒が競馬場でデビューし始め、新時代の担い手という触れ込みが現実のものとなる予感を感じさせていた。ちなみにこれは後の話になるが、リアルシャダイはライスシャワーが5歳となった1993年にノーザンテーストを破って中央競馬のリーディングサイアーに輝き、1982年から11年間続いたノーザンテースト独裁時代に終止符を打っている。
こうして交配されたリアルシャダイとライラックポイントとの間に生まれた小さな黒鹿毛の牡馬こそが、後に「関東の黒い刺客」として関西ファンの背筋を震わせ、さらに後には「最後のステイヤー」としてステイヤー時代の最後の輝きを放つ宿命を背負った異能の名馬ライスシャワーだった。もともとスタミナ、スピードを兼ね備えたバランスの良さが特徴とされるマルゼンスキーの肌に、さらに欧州出身のステイヤーの血を注入した配合は、明らかに底力に富んだ長距離向きのものだった。
ただ、こうして生まれたライスシャワーは、生まれながらに大きな期待を背負っていたわけではなかった。生まれたばかりのライスシャワーは、馬体こそバランスがとれていたものの、体格があまりに小ぶりで、さらに体質、脚部が弱かったこともあって、決して大物感を漂わせた存在ではなかった。育成段階でも、最初のうちは同世代の馬たちにむしろ遅れがちで、期待感よりは「この程度でどこまでやれるのか」という不安の方が先に立つ馬だった。
ライスシャワーは、3歳春ごろになってようやく他の馬に遅れないようになり、逆に他の馬よりも前に出ることができるようになった。しかし、この程度で喜べるのだからやはり評価は知れたもので、「意外と走るかも」とは言われても、まだ「この馬ならGlを勝てる」というレベルにはほど遠かった。ライスシャワーを預かることになった飯塚好次調教師の評価も似たようなもので、当時のライスシャワーを見ての評価は「中堅クラスまで行ければ上々」という程度のものでしかなかった。当時の飯塚師は、ライスシャワーが重賞戦線、ましてやGlクラスまで出世するとは、まったく予想していなかったという。
しかし、入厩前からGlの手応えを感じさせてくれるような馬は、普通の厩舎には年に何頭もいるものでもない。当時の評価でも、中央競馬でデビューするには充分なもので、ライスシャワーは飯塚厩舎に入厩して競走馬としてデビューすることになった。
ちなみに、「ライスシャワー」という馬名は、欧米で結婚式の時に新郎新婦にまわりがシャワーのようにかける米に由来している。この風習の由来については、正確なところはもはや伝わっておらず、米の聖なる力で新郎新婦の将来を清めてやるためだ、というもっともらしい説もあれば、ただ新郎新婦が食うに困らないように、というひどく現実的な説もある。それはさておくにしても、後のある時期、稀代の悪役としてその名を知られるようになるライスシャワーにとって、その競走生活のスタートとなった名前は、何かしら皮肉な運命の巡り合わせだったのかもしれない。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬の歴史を振り返ると、その売上や人気を物語る指標の多くが、1980年代末から90年代にかけての時期に集中している。後に「バブル経済」と呼ばれる好景気はその中途にはじけ、日本経済は収縮の方向へ向かったものの、その後の経済の退潮はまだ好不況のサイクルのよくある一環にすぎないという幸福な誤解の中、中央競馬だけが若年層や女性を中心とする新規のファン層を獲得し続け、不況知らずの右肩上がりで成長を続けたこの時期は、JRAにとってまぎれもなき「黄金時代」だった。
しかし、夢はいつかさめるものである。永遠に続く黄金時代など、存在しない。20世紀終盤に訪れたJRAの黄金時代は、時を同じくして日本が迎えた不況がそれまでとは異質なものであり、後世から「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれるようになる構造不況の本質が明らかになったころ、終わりを告げた。新規ファンの開拓が頭打ちとなり、さらに従来のファンも馬券への投資を明らかに控えるようになったことで、馬券の売上が大きく減少するようになったのである。日本競馬の90年代といえば、外国産馬の大攻勢によって馬産地がひとあし早く危機を迎えた時代でもあったが、これとあわせてJRAの財政の根幹を支えた馬券売上の急減により、日本競馬は大きな変質を余儀なくされたのである。
しかし、日本を揺るがしたどころか、本質的にはいまだに克服されたわけではない不況の中で、中央競馬だけが20世紀末まで持ちこたえることができたというのは、むしろ驚異に値するというべきである。そして、そんな驚異的な成長を支えたのは、ちょうどこの時代に大衆を惹きつける魅力的なスターホースたちが続々と現れたからにほかならない。やはり「競馬」の魅力の根元は主人公である馬たちであり、いくら地位の高い人間が威張ってみたところで、馬あってのJRA、馬あっての中央競馬であるということは、誰にも否定しようがない事実である。
そして、そうした繁栄の基礎を作ったのがいわゆる「平成三強」、スターホースたちの時代の幕開けである昭和と平成の間に、特に歴史に残る「三強」として死闘を繰り広げたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭である、ということは、誰もが認めるところである。当時はバブル経済の末期にして最盛期だったが、この時期に3頭の死闘によって競馬へといざなわれたファンは非常に多く、彼らが中央競馬の隆盛に対して果たした役割は非常に大きい。今回は、「平成三強」の一角として活躍し、天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇などの実績を残したスーパークリークを取り上げる。
スーパークリークの生まれ故郷は、門別の柏台牧場である。柏台牧場は、現在こそ既に人手に渡っており、その名前を門別の地図から見出すことはもはやできないが、平将門に遡り、戦国期にも大名として君臨した陸奥相馬家に連なる名門だった。しかも、その特徴は家名だけではなく、20頭前後の繁殖牝馬を抱える規模、そして昼夜放牧を取り入れたり、自然の坂を牧場の地形に取り入れたりするなど、先進的な取り組みを恐れない先進的な牧場としても知られていた。スーパークリーク以外の生産馬も、スーパークリークが生まれた1985年当時には既に重賞戦線で活躍中で、1987年の宝塚記念(Gl)をはじめ重賞を8勝したスズパレードを輩出している。
スーパークリークの母であるナイスデイは、岩手競馬で18戦走って1勝しただけにすぎなかった。この成績では、いくら牝馬だからといって、繁殖入りは難しいはずである。しかし、幸いなことに、彼女の一族は、「繁殖入りすれば、くず馬を出さない」牝系として、柏台牧場やその周辺で重宝されており、ナイスデイも、その戦績にも関わらず、繁殖入りを果たした。
そんな経緯だから、繁殖牝馬としてのナイスデイの資質は、当初、まったく未知数だった。ただ、ナイスデイの父であるインターメゾは、代表産駒が天皇賞、有馬記念、菊花賞を勝ったグリーングラスであることから分かるように、明らかなステイヤー種牡馬である。柏台牧場の人々がナイスデイの配合を決めるにあたって考えたのは、この馬に眠っているはずの豊富なスタミナをどうやって引き出すか、ということだった。
しかし、「スタミナを生かす配合」と口で言うのは簡単だが、実践することは極めて難しい。一般に、スピードは父から子へ直接遺伝することが多いが、スタミナは当たり外れが大きいと言われる。スタミナを生かすためには気性や精神力、賢さといった別の要素も必要となり、これらには遺伝以外の要素も大きいためである。
そこで、柏台牧場のオーナーは、ビッグレッドファームの総帥であり、「馬を見る天才」として馬産地ではカリスマ的人気を誇る岡田繁幸氏に相談してみることにした。オーナーは、岡田氏と古い友人同士であり、繁殖牝馬の配合についても岡田氏によく相談に乗ってもらっていた。
「この馬の子供で菊花賞を取るための配合は、何をつけたらいいでしょうか」
気のおけない間柄でもあり、柏台牧場のオーナーは大きく出てみた。すると岡田氏は、
「ノーアテンションなんかはいいんじゃないか」
と、これまた大真面目に答えたという。
ノーアテンションは、仏独で33戦6勝、競走馬としては、主な勝ち鞍が準重賞のマルセイユヴィヴォー賞(芝2700m)、リュパン賞(芝2500m)ということからわかるように、競走成績では「二流のステイヤー」という域を出ない。しかも、前記戦績のうち平場の戦績は25戦4勝であり、残る8戦2勝とは障害戦でのものである。しかし、日本へ種牡馬として輸入された後は重賞級の産駒を多数送り出し、競走成績と比較すると、まあ成功といって良い水準の成果を収めた。
インターメゾの肌にノーアテンション。菊花賞を意識して考えたというだけあって、この配合はまさにスタミナ重視の正道をいくものだった。現代競馬からは忘れ去られつつある、古色蒼然たる純正ステイヤー配合である。
しかし、翌年生まれたナイスデイの子には、生まれながらに重大な欠陥があった。左前脚の膝下から球節にかけての部分が外向し、大きくゆがんでいたのである。
毎年柏台牧場には、自分の厩舎に入れる馬を探すために、多くの調教師たちが訪れていた。彼らはナイスデイの子も見ていってくれたが、馬の動きや馬体については評価してくれても、やはり最後には脚の欠陥を気にして、入厩の話はなかなかまとまらなかった。
庭先取引で買い手が決まらないナイスデイの子は、まず当歳夏のセリに出されることになったが、この時は買い手が現れず、いわゆる「主取り」となった。1年後、もう一度セリに出したものの、結果はまたしても同じである。
こうしてナイスデイの子は、競走馬になるためには、最後のチャンスとなる2歳秋のセリで、誰かに買ってもらうしかないところまで追いつめられてしまったのである。競走馬になれるかどうかの瀬戸際だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
名馬の条件とは、どのようなものだろうか。100人の競馬ファンがいれば、100の名馬像があるだろうから、その条件を即断することは難しい。ある時代に君臨し、どんな舞台でも、どんな挑戦者が相手でも、常に己の卓越した実力のみをもって叩き伏せた強豪は、おそらく誰からも名馬と呼ばれるだろう。しかし、実力においてその域に達していなくとも、別の魅力によって「名馬」と呼ばれる馬たちが多数存在することも、競馬界の厳然たる事実である。
競馬の歴史とは、必ずしも圧倒的な強さを持つ馬のみによって築かれるわけではない。圧倒的な強さ以外の何かでファンに感動を呼び起こす馬たちが築きあげるものも、もうひとつの競馬の歴史なのである。
1997年牡馬クラシック世代とは、歴史が持つ様々な側面を私たちに示してくれた世代である。この世代に生まれて日本で走った馬たちの中で、最も圧倒的な強さを見せたのがタイキシャトルであるということについて、おそらく争いはないだろう。タイキシャトルは外国産馬だったため、日本競馬の花形であるクラシックへの出走権はなかったが、それゆえに早い時期から短距離戦線に照準を絞り、古馬たちに混じって走った大レースを勝ちまくった。やがてタイキシャトルは、国内のGlを4勝しただけでなく、欧州のベストマイラー決定戦であるジャック・ル・マロワ賞(国際Gl)まで制し、日本競馬の短距離界に、ひとつの歴史を築いたのである。
そんな輝かしい栄光の主であるタイキシャトルに比べた場合、同じ世代に生まれた中長距離路線の主役たちの実績は、見劣りするものといわなければならない。春の二冠馬サニーブライアン、菊の上がり馬マチカネフクキタル、4歳(旧表記)で有馬記念を制したシルクジャスティス、希代の逃げ馬サイレンススズカ、黄金旅程ステイゴールド・・・。彼らはいずれも特徴的な馬たちではあったが、全盛期が短かったり、距離適性が限られていたり、とにかくジリ脚だったり、といった注文がつく馬ばかりだった。彼らの本質は、強さよりも個性が目立つ「個性派」ではあり、競馬ファンの誰もが「名馬」と認めるような存在ではなかった。そんな彼らは、やがて台頭してきた下の世代の馬たち、絶対的な名馬と呼ばれる存在を擁した新時代の担い手たちとの、時代の覇権を賭した戦いに敗れることによって、過去の馬となっていく宿命を背負っていた。
だが、そんな彼らが残した戦いの記憶は、短距離戦線でタイキシャトルが築いた歴史にも劣ることなく、それどころかより強く、私たちに強く深く刻まれている。それは、彼らもまた、彼ら自身が残した記憶ゆえに「名馬」と呼ばれることがある存在だからである。おそらく彼らは、100人の競馬ファンのうち100人から「名馬」と呼ばれることはないだろう。しかし、彼らを名馬と呼ぶ100人のうち一部のファン1人1人の思い入れは、誰からも「名馬」と認められる馬と比較しても、決して見劣りするものではない。
そんな彼らの世代の中長距離馬たちを代表する印象深いサラブレッドの1頭が、メジロブライトである。日本を代表する名門オーナーブリーダー・メジロ牧場に生まれたメジロブライトは、同じ世代の馬たちを代表する1頭として、クラシック戦線から古馬中長距離戦線へと続く日本競馬の王道を走り続けた。そして、ついには天皇賞・春(Gl)で日本のサラブレッドの頂点に立ち、生まれ故郷を見下ろす羊蹄山に、そして日本の競馬界に新たな春の到来を告げたのである。
だが、メジロブライトをメジロブライトたらしめたのは、そうした輝かしい春の栄光ではない。それよりもむしろ、彼がその前と後に過ごした、長い苦しみと屈辱の季節だった。
3歳戦、クラシック戦線で常に世代の先頭付近を走り続けながら、Glにはどうしても手が届かなかった若き日のメジロブライト。天皇賞・春を勝ったことで現役最強馬への道を期待され、若い世代との抗争に明け暮れる中で一線級の実力を保ち続けながらも、二度と古馬中長距離戦線の頂点に立つことはできなかった古馬メジロブライト・・・。そして彼は、現役生活を終えてみると、当時の競馬界を代表する強豪の1頭であったことは誰もが認めるものの、時代を代表するただ1頭の最強馬と認められることはなかった。
しかし、メジロブライトは、そんな馬でありながら、常にファンから愛された。というよりも、そんな馬だったからこそ愛された。誰もが認める実力を持ちながら、その不器用さゆえに、実力にふさわしい名誉と栄光を手に入れることはできなかったメジロブライトだが、ファンはそんな彼の姿にこそ、競馬の原点と魅力を見出したのである。
メジロブライトは、他の馬には代えがたい馬として、その競走生活を通して異彩を放ち、今なお輝き続けている。競走馬のピークが短くなった現代競馬において、約4年の長きにわたって現役生活を貫いた彼は、まさにその間の競馬界の季節を見つめ続けた生き証人であり、競馬そのものだった。今回のサラブレッド列伝では、現代競馬史に残る個性派として私たちに深い印象を残し、今なお根強い人気を誇るメジロブライトについてとりあげてみたい。
1997年クラシック世代を代表する強豪の1頭であるメジロブライトの生まれ故郷は、羊蹄山を見上げる日本有数の名門牧場・メジロ牧場である。
メジロ牧場は、古くからの有力馬主だった北野豊吉氏が
「自分の生産馬でダービーや天皇賞を勝ちたい」
と志し、1967年に開設した生産牧場である。メジロ牧場は、生産だけを行って生産馬を馬主に売ることで生計を立てている通常の牧場とは異なり、その生産馬を他の馬主に売ることはしない。メジロ牧場は生産馬を売る代わりに、自らの名義で走らせることで賞金を稼ぎ、その賞金で経営を成り立たるオーナーブリーダーだった。
また、メジロ牧場は、オーナーブリーダーとしての形態だけでなく、その血統についても強いこだわりを持ち、自家生産の種牡馬と繁殖牝馬を重視したことでも知られている。メジロ牧場の生産馬の血統表を見ると、父も母も「メジロ」の名を冠した馬名が並び、母系については3代母、4代母に至るまで「メジロ」ということが珍しくない。流行の血統に流されがちで、長い時間をかけて系統ごとを育てる馬産が忘れられがちな日本にあって、メジロ牧場の馬産は、多くのホースマンたちの敬意を集め、競馬ファンからメジロ牧場が広く親しまれるゆえんとなっていた。
だが、同系統の種牡馬、繁殖牝馬ばかりで馬産を続けていると、生産馬の血統構成が単調になってしまい、近親配合の弊害も出やすくなる。古今東西、この危険性を軽視したために強い馬が作れなくなり、やがて牧場自体が衰運に向かったオーナーブリーダーは多い。メジロ牧場も、オーナーブリーダーとしての伝統を維持しようとすればするほど、定期的に外部から新しい血を導入していく必要があった。
メジロブライトの母レールデュタンは、元来メジロ牧場以外の生産馬だった。マルゼンスキーの直子であり、現役時代に22戦4勝の戦績を残していたレールデュタンには、繁殖牝馬としての引き合いがさまざまな牧場から来ていた。しかし、メジロ牧場は、レールデュタンが引退するかなり前の段階から目をつけて動いており、そのかいあって、レールデュタンは、引退後すぐにメジロ牧場へやってくることになった。
現役を引退した後、すぐにメジロ牧場で繁殖生活を開始したレールデュタンの繁殖成績は、ある意味で非常に極端なものだった。メジロブライトの兄姉にあたる5頭のうち、3番子のメジロモネは5勝をあげてオープン馬に出世したものの、それ以外の4頭は勝ち星を挙げるどころかレースへの出走さえ果たせなかったのである。レールデュタンには特に期待をかけ、
「何かがかみ合えば、きっといい子を出してくれるに違いない」
と信じていたメジロ牧場の人々ではあったが、現実にはなかなか「何かがかみ合う」ことはなかった。
そんなレールデュタンからメジロブライトが誕生するきっかけは、1993年春、メジロライアンが種牡馬として帰還したことだった。
メジロライアンは、通算19戦7勝、宝塚記念(Gl)をはじめ、重賞を4勝した強豪である。また、メジロライアンは、メジロ牧場の歴史の中でも最も輝かしい成績を残した1990年クラシック世代の中心を担った1頭でもあった。
そして、メジロ牧場にとってのメジロライアンは、単なるGl馬としての位置づけを超えた特別な存在だった。メジロ牧場の、それもメジロ牧場の主流血統から誕生したメジロライアンは、その現役生活を牧場の夢に捧げ、そして殉じた馬だった。
メジロライアンを語る場合、勝利よりは敗北の歴史の方が分かりやすい。メジロ牧場の悲願である春のクラシック、そして日本ダービー(Gl)への夢を背負い、生まれながらに牧場の期待を集めて走ったこの馬は、期待どおりに早々と出世して春のクラシックに乗ったものの、その結果は皐月賞(Gl)3着、日本ダービー2着と惜敗に終わった。その後も菊花賞(Gl)3着、有馬記念(Gl)2着、天皇賞・春(Gl)4着・・・と惜敗の歴史を積み上げ続けたメジロライアンは、5歳時に宝塚記念(Gl)を制して悲願のGl制覇を果たしたものの、「八大競走」と呼ばれる日本で最も格式が高いとされるレースには、ついに手が届かなかった。
そんなメジロライアンに対するメジロ牧場の人々の思い入れは深かった。競走馬としては超一流になれなかったメジロライアンを、せめて種牡馬としては成功させてやりたいと願った。
「ライアンの子でダービーを!」
それは、人ならざる馬の身に、夢という名のエゴを背負わせたことへの、人間たちのせめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。だが、その気持ちは間違いなくメジロ牧場全体の意思であり、望みでもあった。
しかし、種牡馬入りした当初、種牡馬メジロライアンの人気は、決して芳しいものではなかった。
メジロライアンの父は有馬記念、天皇賞・春を勝ったアンバーシャダイであり、さらに祖父は11年連続リーディングサイヤーに君臨したノーザンテーストに行き着く。だが、こうした父系の血統的背景は、当時の日本では必ずしもプラスにはならなかった。内国産種牡馬軽視の風潮が根強かった当時の日本の馬産界では、内国産種牡馬ということは、その一点をもって人気を落とす材料とされていた。まして、それが2代続けばなおのことである。
もともと成績的に一流馬ではあっても超一流馬とはいえなかったメジロライアンゆえに、種牡馬としての可能性は疑問視する向きが多かった。種牡馬としてのシンジケートも、総額2億4000万円と比較的安価だったにもかかわらず、公募期間が過ぎた後も50口の募集が満口にならなかったため、残口をメジロ牧場が埋める形で出資することで、ようやく発足にこぎつけたほどだった。このような状況のもとで、生まれ故郷のメジロ牧場が何もしなかった場合、メジロライアンが種牡馬として失敗に終わることは目に見えていた。
メジロライアンを種牡馬として成功させるためには、メジロ牧場が率先して良質な牝馬を交配し、子供たちの活躍でメジロライアンへの評価を引き上げるしかなかった。メジロ牧場はシンジケートの穴埋めをしたことで種付け権を多く持っていた関係もあって、初年度から5頭の牝馬をメジロライアンと交配した。年間の馬産が20頭程度のメジロ牧場にとって、これは大きな、それもリスクの高い賭けだった。
ただ、メジロ牧場の繁殖牝馬をメジロライアンと交配するためにあたっては、ひとつの問題があった。メジロライアンはメジロ牧場の主力牝系であるシェリル系の出身だったため、多くがシェリルの血を持つメジロ牧場の繁殖牝馬たちでは、交配できる馬が限られていた。そこで浮上した1頭が、もともと外部の血統でシェリルの血を持たないレールデュタンだった。
メジロライアンと交配されたレールデュタンは、翌年の春、自身の6番子、そしてメジロライアンの初年度産駒として、メジロブライトを出産した。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の華ともいうべき中長距離戦線における最も典型的な「名馬像」とは、次のようなものだろう。
3歳(現表記2歳)時にデビューし、1戦目か、遅くとも2戦目までに勝ち上がる。4歳(現表記3歳)時には、皐月賞トライアルから皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞と続くクラシック戦線の主役を張ってファンに実力を認知させ、その後はジャパンC(国際Gl)か有馬記念(Gl)で、上の世代の強豪たちと対決する。5歳(現表記4歳)になってからは、天皇賞・春(Gl)に始まり有馬記念に終わる古馬中長距離Gl戦線を戦い抜き、上の世代、下の世代も含めた競馬界の中での決着をつけた上で、それまでの実績を手みやげに引退し、種牡馬入りする・・・。
今や中長距離戦線とは全く異なるレース体系を構築するに至った短距離戦線、ダート戦線はさておき、中長距離戦線の場合、一部の馬が大レースへの出走を制限されていた時代の馬でもない限り、「名馬」といわれる馬のほとんどがこうした道を歩んできた。ファンは、競馬界に確立されたそんな道のことを「王道」と呼ぶ。こうした道を外れれば外れるほど、その馬は「名馬」とは呼ばれにくくなっていく。
しかし、「王道」という価値観がまったく揺るがぬものと思われていた平成の世に、そうした常識に真っ向から挑戦状をたたきつけた1頭の名馬が現れた。それが、1996年のJRA年度代表馬・サクラローレルである。
サクラローレルの場合、多くの名馬たちの登竜門となるクラシック三冠では、その名を出馬表に連ねることすらなかった。また、いくら晩成といっても、いくらなんでも5歳(現表記4歳)になればGl戦線に台頭してくるものだが、サクラローレルは、その大切な1年のほとんどを故障で棒に振っている。彼がGl戦線に姿を見せるようになったのは、一般的な名馬は引退していても不思議ではない6歳(現表記5歳)になってからのことだった。
サクラローレルが6歳(現表記5歳)を迎えた1996年の年頭時点では、競馬界における彼の地位は「Glllを1勝した馬」にすぎなかった。だが、サクラローレルが華やかな光を浴びる檜舞台で輝きを放ち始めたのは、それから後のことである。慢性的な脚部不安ゆえに、出走するレースをかなり限定せざるを得なかった彼だが、レースを選びながらナリタブライアン、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった青史に名を残す選ばれし強敵たちと戦い、そして勝ち抜くことで、彼は自らの威名と評判を高めていった。そして彼は、ついに1996年のJRA年度代表馬に選出されたのである。
さらに、競馬界の頂点に立つと功成り名遂げて引退するケースが多いが、サクラローレルは違っていた。日本の頂点に立った彼が最後に目指したのは、中長距離戦線の名馬たちが夢見ながらも、現実には挑戦することさえ久しく絶えていた世界の頂点だった。今回は、平成の名馬としては異端ともいうべき戦いの軌跡をたどったサクラローレルをとりあげてみたい。
サクラローレルの血統はもともと欧州の系統で、サクラローレルの母であるローラローラは、仏3歳王者Saint Cyrien産駒として、フランスで生まれた。フランスでのローラローラの戦績は6戦1勝であり、数字だけを見れば目立たない戦績だが、その中にはフランスオークスへの出走歴が含まれている。血統と将来性を現地でも高く評価されていたローラローラが早めに引退したのは、
「あまり走らせすぎて消耗させると、繁殖牝馬としての将来に悪影響があるから」
という理由だった。ちなみに、短期免許で何度も来日して日本でもおなじみとなっているフランスのトップジョッキーであるオリビエ・ペリエ騎手は、まだ騎手見習いだったころにローラローラにまたがらせてもらい、
「なんていい馬なんだ・・・」
と感動したことがあるという。
そんなローラローラは、まずフランスで繁殖入りし、現地に1頭の産駒を残した後に日本へと輸入された。その時ローラローラは、ヨーロッパを代表する名種牡馬の1頭として知られるレインボウクウェストとの間の子を宿していた。レインボウクウェストは、凱旋門賞(仏Gl)、コロネーションC(英Gl)優勝、愛ダービー2着等、欧州の格式あるクラシックディスタンスの大レースで活躍した強豪であり、種牡馬入りした後も、父として英国ダービー馬クウェストフォーフェイム、凱旋門賞父子二代制覇を成し遂げたソーマレズを輩出し、名種牡馬としての地位を確固たるものとしている。
やがて日本へ到着し、静内の名門牧場である谷岡牧場へと預けられたローラローラは、1991年5月8日、レインボウクウェストとの間の栃栗毛の牡馬を無事に産み落とした。その子馬が、後の年度代表馬サクラローレルである。
谷岡牧場は、これまで牝馬ながらに天皇賞と有馬記念を制したトウメイ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)を勝ったサクラチヨノオー、その弟で朝日杯3歳Sを勝ったサクラホクトオーといった多くの強豪を生産してきた。その谷岡牧場の人々も、ローラローラが日本で初めて出産する子馬には、熱い期待を寄せていた。
「この血統から、果たしてどんな子馬が生まれてくるんだろう・・・」
父、母の双方から欧州の名血を受け継ぐその血統は、日本での馴染みこそ薄いものの、世界的にも一流で通用するものだった。あとは、血統に恥じない子供が現実に生まれてくれるかどうか、の問題である。
固唾を呑んで出産の時を迎えた谷岡牧場の人々だが、彼らは、自分たちが見守る中で立ち上がったその子馬の姿に、思わず言葉を失った。欧州の名族の血を引くその子馬の立ち姿は、彼らが寄せていた過剰ともいうべき期待をまったく裏切らない・・・それどころか、それをも超えるものだった。
「こんなにきれいな馬は見たことがない」
「これは3年後が楽しみだ・・・」
それまでに何頭もの名馬の誕生に立ち会ってきた谷岡牧場の人々だったが、サクラローレルの素晴らしさに、思わずうならずにはいられなかった。
さらに、サクラローレルが生まれた日、美浦の調教師である境勝太郎調教師が谷岡牧場を訪れていたが、その境師も、サクラローレルを一目見るや、たちまちその虜となってしまった。境師は、その日のうちに、サクラローレルを自分の厩舎に入れるよう、話を決めてしまった。ローラローラは「サクラ軍団」の総帥・全演植氏の所有馬として輸入されており、その子馬も将来は「サクラ」の勝負服で走ることになっていたため、「サクラ軍団」の主戦調教師である境師が望めば、そのこと自体は簡単なことだった。
サクラローレルが生まれた1991年は、後から振り返れば、谷岡牧場産の「サクラ軍団」の馬の当たり年だった。この年の谷岡牧場では、サクラローレルだけでなく、皐月賞(Gl)で2着に入ったサクラスーパーオーや、弥生賞(Gll)を勝ったサクラエイコウオーが産声をあげている。しかし、当時のサクラローレルに対する期待感はこの2頭をはるかに凌駕しており、将来の「サクラ軍団」を背負って立つべき若駒として、周囲のすべてから将来を嘱望されていた。
]]>競馬におけるグレード制度の特徴として、グレードが単なるレースの格付けにとどまらず、Glを頂点とする競馬界のレース体系を決する重要な要素となっている点が挙げられる。
Glに格付けされたレースとは、競馬界の数あるレースの中である体系の頂点に位置づけられるものである。強い馬がGlで勝ち負けし、Glで勝ち負けする馬が強い馬として評価されることこそが、グレード制のもとでの競馬のあるべき姿である。無論ひとつのGlだけでは「体系」たり得ず、それ以前のGlやGll以下のステップレースを通じて「強い馬」がある程度見えてきたり、そうした馬がGlでころりと負けて意外な馬が勝ってしまうこともある。だが、そうした事態があまり続いてしまうと、それは「レース体系」としては欠陥があるといわなければならず、ハンデGlllあたりならいざ知らず、Glとしてのそのレースは、存在意義を疑われてしまう。
その点、数あるGlの中でもフロックが少なく、実力どおりに決まるレースとされてきたのが、天皇賞・春(Gl)である。中央競馬のGlの中でも最も長い距離で行われる天皇賞・春の歴代勝ち馬を並べてみると、特に20世紀の勝ち馬たちは、そのほとんどが一時代を築いた名馬か、それに準ずる存在というに足りる存在である。京都3200mを舞台に行われるこのレースは、歴史と伝統を象徴する勝ち馬たちの名前が物語るとおり、フロックでは決して勝てない真の最強馬決定戦というにふさわしいレースとされてきた。
グレード制度導入以降の20世紀における天皇賞・春の勝ち馬の中で、それ以外のGlを勝てなかったのは、わずか3頭にすぎない。84年のモンテファスト、86年のクシロキング、98年のメジロブライトだけである。そのうちモンテファストは、彼自身こそ天皇賞・春以外にGlを勝てなかったとはいえ、兄に続く天皇賞兄弟制覇を成し遂げたという血の物語を持っている。メジロブライトも、祖父アンバーシャダイ、父メジロライアンと継承された内国産馬の血脈は、十分な物語性を持っている。・・・ところが、「クシロキング」はそうではない。名馬たちの谷間の中でひっそりと勝ち馬に名を連ねる彼の存在は、歴代天皇賞・春勝ち馬の中でもあまりに希薄であり、彼の名前は、競馬ファンから完全に忘れ去られつつある。果たして歴史的名馬たちの狭間に埋もれて忘れ去られた天皇賞馬クシロキングとは、どのような馬だったのだろうか。
クシロキングは、北海道・浦河にある上山牧場で生まれた。上山牧場というと、かつてスプリングS、阪神大賞典など重賞を5勝したロングホークや、京都記念、日経新春杯を勝ったマサヒコボーイを出したことで知られている。当時の上山牧場にいた繁殖牝馬は14頭だったというから、個人牧場としては、普通よりやや大きめといった規模である。
クシロキングの母・テスコカザンは、非常に骨格がしっかりした牝馬だったが、その身体があまりにも大きかったために仕上げがうまくいかず、ついに未出走のまま繁殖に上がることになってしまった。
上山牧場では、そんなテスコカザンの配合をどうするか迷っていたところ、かねてから親交があった大塚牧場から
「ダイアトムを付けてみないか」
と誘われた。
ダイアトムは、現役時代には、ワシントンDCインターナショナルやガネー賞を勝っており、種牡馬としてもアイルランドダービー馬を出し、英愛サイヤーランキング6位になったこともあった。しかし、14歳で日本へ輸入されてからのダイアトムは、大塚牧場で供用されてはいたものの、今ひとつ成績が上がらない状態だった。大塚牧場の人々は、欧州でも実績を残しており、実力があることは分かっているのに不遇な状態にいたダイアトムをなんとか種牡馬として成功させたいと、親しい牧場に種付けを勧誘していたのである。
こうして決まったのが、ダイアトムとテスコカザン・・・天皇賞馬クシロキングを生み出す配合だった。テスコカザンは、翌春、ダイアトムとの間に第2仔となる黒鹿毛の牡馬、後のクシロキングを出産した。
しかし、この仔は残念ながら、それほど見映えのする馬とはいえず、牧場の人々をがっかりさせていた。後世の結果を知っていれば
「後の天皇賞馬だから、どこかにタダモノではないと思わせるところがあったのではないか」
と期待しがちだが、クシロキングの場合は本当のタダモノだったようである。生まれた時点で目立ったものがなく、血統的にも人気といえなかった彼は、牧場にとってもあまり期待が持てない存在だった。運命がこの当歳馬のために劇的な出会いを用意していることなど、誰にも知るよしがない。
その年の上山牧場では、クシロキングを含めて13頭の当歳が誕生していたが、彼はその中ですら期待馬とは思われていなかった。
ところが、そんなクシロキングの行き先は、同期の子馬たちの中でも一番先に決まった。幼いクシロキングは、彼の競走馬時代の馬主となる阿部昭氏と、運命的な出会いを果たしたのである。
それは、クシロキングがまだ当歳の秋のことだった。阿部氏はこの年生まれた当歳馬を見に、上山牧場を訪れた。一緒に訪れた調教師が少しの間席を外したため、阿部氏は牧柵の所で子馬たちを何気なく見ていた。
すると、1頭の子馬が突然母馬の所を離れて阿部氏のもとへ擦り寄って来た。子馬は、阿部氏の上着の匂いを嗅いだり袖口を軽く噛んでじゃれ付いてきたりして、一向に阿部氏のそばから離れようとしない。阿部氏の短からぬ馬主生活の中でも、こんな馬は初めてだった。
阿部氏は、それまでにも多くの競走馬を所有していたものの、どの馬も条件戦止まりで、重賞はおろかオープンクラスの馬さえ持ったことがなかった。阿部氏は、
「この馬こそが自分の夢を叶えてくれる馬かも知れない」
という運命を感じとり、大喜びで上山牧場に対し、この馬をぜひ買いたいと申し出たのである。
この申し出に驚いたのは、大塚牧場の方だった。普通庭先取引では、期待された馬、値段の高い馬から売れていく。クシロキングがそんなに早く売れるとは夢にも思っていなかった大塚牧場では、この子馬はまだ値段すら決めていなかった。
しかし、阿部氏は牧場側があわてて決めた言い値の1500万円を即座に飲み、その場で手付け金として1000万円を支払ってまで運命の子馬を手に入れた。これが、天皇賞馬クシロキングの競走馬生活の始まりだった。
阿部氏は、自分自身が買ってきたこの子馬に、自らの出身地である釧路に因んでクシロキングという名前を与え、そのクシロキングは、美浦の中野隆良厩舎へ入厩した。中野師といえば、あのTTGの一角グリーングラスを管理したことで知られている。恵まれた環境の下で調教を積まれたクシロキングは、3歳の秋には早々にデビューした。
もっとも、この頃のクシロキングはあまり一般の期待を集める存在ではなかった。彼が初勝利を挙げたのは4戦目の未勝利戦であり、2勝馬の身で幸運にも何とか出走を果たした皐月賞も、勝ったミホシンザンからはるかに離された13着に終わっている。
皐月賞の後のクシロキングは、調教中に骨折したために、ダービーを断念することになった。秋に復帰は果たしたものの、実績がないだけに菊戦線に名乗りを上げることもできず、クラシック戦線は諦めて、条件戦を地道に戦うことになった。
しかし、故障明けのクシロキングは、春とは別の馬のように成長していた。クシロキングのことを心配して電話をかけてきた上山牧場の場長に対し、中野師はこう答えたという。
「脚もとはきれいに治っているし、馬も張り切っているよ」
その言葉を裏付けるように、クシロキングは、復帰戦を2着したあと自己条件を連勝し、阿部氏の所有馬の中で初めてのオープン馬となった。条件戦とはいっても勝ち方も抜群だったため、クシロキングはようやく、競馬界の将来を担う大器として注目を集めるようになり始めた。
オープン馬となったクシロキングは、次走を中山金杯(Glll)に定めた。前走の準オープンで2着に4馬身差をつけて圧勝したことが評価され、堂々の1番人気に支持されての出走となった。
ところが、この日クシロキングの鞍上に、主戦安田富男騎手の姿はなかった。彼は、もう1頭のお手馬だったアサカサイレントに乗るために、クシロキングを捨てたのである。1番人気でありながら鞍上に振られてしまい、レースの2日前に急遽鞍上に招かれたのは、岡部幸雄騎手だった。・・・この出会いは、クシロキングのその後の運命を大きく変えることになった。
岡部騎手は既に前年の有馬記念でシンボリルドルフとともに連覇、そして七冠を達成するなど、この時期の大レースを一人で総なめにする、当代一の騎手だった。
そして、名手の手綱は、クシロキングの実力を十二分に発揮させた。先行して直線で他馬を測ったように差し切るその勝ちっぷりは、クシロキングと岡部との呼吸がぴったりと合ってこそ可能となるものだった。クシロキングが見せた充実したレース内容に、そのクシロキングに直線であっという間に置いていかれたアサカサイレントの安田騎手は、唖然とするばかりだったという。こうして前年をシンボリルドルフの有馬記念で締めくくった岡部騎手は、この年のスタートもクシロキングで飾った。この勝利は、時代が単なるシンボリルドルフの時代ではなく、岡部幸雄の時代の到来であることを誰もに実感させるものだった。この勝利は、岡部騎手にとって通算999勝目にもあたっていた。
シンボリルドルフと出会うまでの岡部騎手の評価は「一流ではあっても超一流ではない」という程度だったが、「ルドルフに競馬の深遠を教わった」と語る岡部騎手は、シンボリルドルフの引退後、ついに騎手界の第一人者としての地位を不動のものとした。シンボリルドルフなくとも、岡部は岡部。中山金杯は、そんな彼の王道の始まりだったのかもしれない。
中山金杯を勝ったクシロキングの春の目標は、天皇賞・春(Gl)におかれることになった。日本のGlにおける最長距離のレースとなる天皇賞・春を目指す以上、長距離に対応できるかどうかが大きなポイントとなってくる。そこで中野師は、それまで2000mまでしか走ったことがないクシロキングの長距離適性を確かめるため、2500mの目黒記念に出走させることにした。
このレースでのクシロキングは、ハイペースの先行集団についていったため、最後にはスタミナがなくなり、ゴール前で差されてしまった。しかし、先行勢の中ではよく頑張った3着に残っている。レース自体もレコードでの決着だったことを考えると、上々の出来といえた。
だが、この当時は、クシロキングが乗り越えた不利はあまり意識されず、むしろ2500mで敗れたという事実のみが重視された。この敗北は、その後のクシロキングに対する距離不安説の根拠とされることとなった。
「クシロキング中距離馬説」は、次走の中山記念で決定的なものとなった。目黒記念で3着となった後、クシロキングは中山記念へと出走することになった。このレースは、かつてミスターシービーの主戦騎手として知られた吉永正人騎手の現役最後の日でもあった。
そんな吉永騎手の最後のレースを演出したのは、やはりクシロキングと岡部騎手だった。吉永騎手が騎乗したモンテジャパンは、「逃げか追い込みか」といわれた吉永騎手の騎乗スタイルを象徴するように逃げにかかったが、クシロキングはモンテジャパンの様子を窺うように先行集団につけ、第4コーナーあたりでは並びかけていった。「岡部乗り」ともいわれた好位からの抜け出しは、シンボリルドルフをもってミスターシービーを完膚なきまでに叩き潰した彼の得意技であり、持てる技術のすべてをもって、去りゆく吉永騎手に戦いを挑んだのである。
最後は岡部騎手と同期の柴田政人騎手が手綱を取ったトウショウペガサスも加わり、3頭での激しい直線のデッドヒートとなったが、最後に抜け出したのはクシロキングだった。岡部騎手は、新時代の雄として、見事に旧時代の象徴たる吉永騎手に、引導を渡してみせたことになる。
そんなドラマを演出したクシロキングにとっては、この日の勝利は中距離重賞2勝目となった。もはや、この馬が中距離ならば一線級であることを否定する者は、誰もいなくなった。こうしてクシロキングは、名馬への階段を着実に上がっていった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
かつて、日本競馬には、長距離レースを勝つことこそが無上の勲章となる時代があった。もともと英国競馬に倣ったレース体系をとり、2400mを「クラシックディスタンス」とする芝レースを中心に据えてきたわが国の中央競馬では、長距離レースこそが競馬の醍醐味とされ、ファンの注目を集めてきたのである。
そんな日本競馬界の中でも、ホースマンたちから日本ダービーと並ぶ特別な尊敬を払われているレースが、天皇賞である。
1937年に始まり、戦時中を除いて毎年春と秋の2度行なわれてきた天皇賞は、第3回(1938年天皇賞・秋)以降ずっと3200mで開催されてきた。最初は帝室御賞典と呼ばれ、春は阪神、秋は東京で行なわれてきたこのレースだが、呼称が平和賞、そして天皇賞へと改められた1947年以降は、春が京都、秋が東京の開催に定着していった。そして、1984年のグレード制導入とともに天皇賞・秋が東京2000mに短縮された後は、天皇賞・春は古馬最高の権威を持つ日本最長距離のGl、天皇賞・秋はスピードとスタミナを兼ね備えた中距離王決定戦として、競馬界に双璧としての輝きを放ち続けてきた。近年競馬界の価値観は多様化し、従来の権威があてはまらなくなる例も少なくないが、天皇賞を象徴する「盾」という言葉の響きは、今なおホースマンたちの野心に甘美にささやきかける魅力を持っている。
そんな長い伝統と高い権威を誇る天皇賞を兄弟で制覇した例となると、天皇賞の長い歴史の中でも極めて稀である。天皇賞をきょうだいで制覇した例は、長い歴史の中で、わずかに2組しか存在しない。それは、クリペロ(60年秋)・クリヒデ(62年秋)、コレヒサ(63年春)・コレヒデ(66年秋)、フジノパーシア(76年秋)・スリージャイアンツ(79年秋)、そしてモンテプリンス(82年春)・モンテファスト(84年春)である。
日本の馬産地では、現在は毎年約7000頭のサラブレッドが生まれているが、ピーク時には毎年10000頭弱が生まれたこともある。天皇賞は、その時代に現役生活を続ける数世代の混合戦であり、このレースを制覇するということは、数万頭の現役競走馬の頂点に立つということにほかならない。サラブレッドのきょうだいは多くても十数頭しかいないことを考えると、きょうだい揃ってその頂点に立つのがいかに困難かということと、その価値も分かるだろう。
それほどに困難な偉業である天皇賞兄弟制覇を達成した1頭・モンテファストは、1984年グレード制度が導入されてGlに格付けされたばかりの天皇賞・春を初めて勝った馬でもある。これだけ聞けば、
「モンテファストはエリートの中のエリートなんだ」
と思う人も多いだろう。
しかし、この馬の競走生活は、後世に残される経歴から想像されるように、常に順風満帆な馬生だったわけではない。彼の兄は「太陽の帝王」と称されたモンテプリンスだが、4歳時から常に大器と謳われていた兄と違い、弟はむしろ「愚弟の代表格」として、大多数のファンから馬鹿にされ続ける存在だった。
そんなモンテファストが7歳にして天皇賞・春を制し、日本に4例しかない天皇賞兄弟制覇の偉業を完成させることができたのは、彼を取り巻く人々が大衆の冷たい評価に屈することなく、馬の才能を信じて努力と鍛錬にいそしみ、最後まで諦めなかったからである。そして、彼もまたそんな信頼に応え、兄が悲願を果たした淀を舞台に豪脚を爆発させ、見事に「モンテプリンス、モンテファストの黄金兄弟あり」という真実を世間に知らしめたのである。それはまさに、愚弟と呼ばれたサラブレッドの意地と誇りが花開いた瞬間だった。
モンテファストの父シーホークは、種牡馬として素晴らしい実績を残したステイヤー種牡馬であり、母モンテオーカンもまた、中央競馬で走って9勝を挙げた名牝である。
ただ、後世においてモンテオーカンに「名牝」という呼称を用いる場合、それは彼女の競走成績よりも、むしろ繁殖成績を称えてのことが多い。彼女の産駒は、モンテプリンス、モンテファストをはじめ非常に優れた成績を残したからである。
モンテオーカンの繋養牧場であり、モンテファストの生産牧場でもあるのは、浦河の杵臼斉藤牧場である。ただ、もとをただせば、モンテオーカンを生産したのは、杵臼斉藤牧場ではなかった。中央で9勝も挙げたほどの牝馬ならば、引退後は生まれ故郷の牧場で繁殖入りするのが普通である。しかし、モンテオーカンの運命は、たまたま彼女が勝ち上がった条件戦を、当時は杵臼斉藤牧場の跡継ぎ息子だった斉藤繁喜氏がテレビで観戦していたことから、大きく動き始めた。
当時23歳だった斉藤氏は、偶然目の当たりにしたモンテオーカンの馬体、勝ち方にすっかり惚れ込んでしまった。調べてみると、ヒンドスタンを父とする血統も魅力的だった。斉藤氏が父親にモンテオーカンを預けてもらう方法はないだろうか、と相談したところ、父親には
「何の面識もない牧場にあんないい馬を預けてくれる馬主や調教師がどこにいる」
とあきれられてしまった。しかし、モンテオーカンのことが諦めきれない斉藤氏は、父親の反対を押し切って上京の途についた。モンテオーカンが引退したら、自分の牧場へ預託馬として預けてもらいたい。その熱い思いを伝えるため、彼はモンテオーカンがいる松山吉三郎厩舎へと乗り込んだのである。
しかし、突然現れた面識もない23歳の若者にいきなり
「馬を預けて下さい」
といわれて
「はい、そうですか」
と答える調教師などいない。いわんや松山厩舎は美浦の名門であり、松山吉三郎師も大御所として知られた存在である。松山師は、斉藤氏の懇願に対しても、
「競馬を使っているうちから引退後のことなんか考えてないよ」
とつれなく、そのまま追い返してしまった。
斉藤氏は、それでも諦めなかった。自分で機を見つけては上京して松山厩舎に顔を出し、松山師にモンテオーカンのことを頼み続けた。だが、松山師は首を縦に振ってくれない。そうこうしているうちに3年の月日が流れ、モンテオーカンがついに現役生活を退く日がやってきた。斉藤氏のもとに、モンテオーカンについての連絡はまだなかった。
しかし、斉藤氏の熱意は、松山師の心を動かしていた。松山師は、モンテオーカンの馬主に
「3年間モンテに恋いこがれている男がいます」
とモンテオーカンに惚れ抜いた若者のことを話し、繁殖入りさせるのなら杵臼斉藤牧場へ預けるよう進言していたのである。馬主の了承も受け、モンテオーカンは杵臼斉藤牧場へとやってきた。モンテオーカンがいる風景・・・それは、斉藤氏が夢にまで見たものだった。
こうしてモンテオーカンは、杵臼斉藤牧場で繁殖生活をスタートさせた。当然のことながら、斉藤氏が彼女に寄せる期待は並々ならぬものがあった。
だが、せっかく生まれたモンテオーカンの初仔・・・パーソロンを父に持つ期待馬は、当歳時に事故で死んでしまった。また翌年に産まれたリボッコ産駒の第2仔モンテリボーも、幼駒時代はあまりにも体質が弱かったため、
「競走馬としては使いものにならない」
と宣告されるほどだった。後に、この宣告を裏切って競走馬となったモンテリボーは、9歳まで走って8勝を挙げ、重賞勝ちこそないものの京王杯SCやダービー卿CTで2着に入るなどの立派な戦績を残したが、その当時にそんな未来があることなど、分かるはずもない。松山師の厚意に応えられない斉藤氏の胸は、不安と焦りでいっぱいになった。
だが、繁殖牝馬としては不完全燃焼に見えたモンテオーカンが一気に繁殖牝馬としての資質を開花させたのは、シーホークを父とする第4子で、モンテファストにとっては全兄にあたるモンテプリンスだった。生まれてすぐにその大物感から浦河の評判になったこの馬は、早くから「大器」と騒がれ、競馬場でデビューすると、たちまちダービー候補として人気になった。
その後のモンテプリンスのクラシック戦線は、5番人気の皐月賞は4着、1番人気に推された日本ダービーは2着、また1番人気に支持された菊花賞も2着・・・と、重馬場にたたられたり、人気薄の大駆けに泣いたりの繰り返しだった。ダービートライアルのNHK杯、菊花賞トライアルのセントライト記念は勝ってトライアルこそ「二冠」を達成しながら、本番ではどうしても勝ち運に恵まれない彼のことを、ファンはいつしか「無冠の帝王」と呼ぶようになった。また、道悪が下手なのに出るレースではことごとく重馬場や不良馬場になるものだから、彼の運命を皮肉って「太陽の帝王」という異名もあった。だが、そんな異名が冠せられること自体、この馬の強さと人気の証明だった。
クラシック無冠に終わった後の5歳時も天皇賞・秋2着、有馬記念3着と惜敗を重ねたモンテプリンスは、6歳になってついに天皇賞・春と宝塚記念を制した。彼が果たした悲願は、彼の素質と実力からすれば遅すぎるものだったにしても、そうであるがゆえにより大きなファンの感動と祝福に包まれた。慢性的な脚部不安、道悪下手といった欠陥はあったものの、ホウヨウボーイ、アンバーシャダイといった時代の名馬たちと死闘を繰り広げたこの馬の実力は並の一流馬とは一線を画するものであり、ミホノブルボンを育てたことで有名な戸山為夫師は、
「私が見てきた中で真に名馬と呼ぶに値するのはシンザンとモンテプリンスとメジロマックイーンだけである」
と評している。
生まれたばかりのモンテプリンスが、あまりにあか抜けた馬体を持っていたため、斉藤氏は次の年もモンテオーカンには同じくシーホークを交配することにした。こうしてモンテプリンスの1年後に生まれた全弟が、モンテファストである。
モンテファストが生まれたのは、実質的には長兄といっていいモンテリボーが4歳になり、なんとか競走馬としてものになりそうだという目星がつき、1歳上の全兄モンテプリンスの評判も、成長とともにますます上向きになっていた時期のことだった。モンテファストの馬体は、兄に比べてかなり大柄だったものの、馬体の大きさはパワーにも通じる。一般的な評価はモンテプリンスの方が上だったが、斉藤氏は
「兄よりも器が大きいかも知れない」
とモンテファストにひそかな期待をかけていた。
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