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阪神ジュヴェナイルフィリーズ(阪神3歳牝馬S、阪神3歳S) – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Mon, 17 Jan 2022 15:55:57 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(下)~ https://retsuden.com/horse_information/2022/17/747/ https://retsuden.com/horse_information/2022/17/747/#respond Mon, 17 Jan 2022 14:23:10 +0000 https://retsuden.com/?p=747 ~アインブライド~
1995年4月14日生2002年3月28日死亡。牝。鹿。宮徹(栗東)。
父コマンダーインチーフ、母セブンレットウ(母父パーソロン)北星村田牧場(新冠)。
3~5歳時14戦3勝。阪神3歳牝馬S(Gl)、野路菊S(OP)優勝。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『ルーキーとともに』

 1997年の阪神3歳牝馬S(Gl)勝ち馬であるアインブライドは、多くの競馬ファンにとって、Gl馬のみならず阪神3歳牝馬Sの歴代勝ち馬の中でも、その印象が薄い1頭であると思われる。

 アインブライドが現役時代に残した戦績は14戦3勝で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sのひとつだけである。自らの通算成績は振るわなくても、9番人気で12番人気の2着馬を連れてきたがゆえに馬連12万馬券の当事者として歴史に名を刻んだ92年のスエヒロジョウオーのような例もあるが、アインブライドには、そのような分かりやすい特徴もない。

 そんなアインブライドだが、騎手としては大成できず、調教師転身後も開業直後で四苦八苦していた新人調教師と、デビュー後わずか2年にも満たない20歳の若手騎手とのコンビでGlに臨み、そして勝っている。全13戦のすべてを宮徹厩舎の所属馬として走り、そのうち11戦を古川吉洋騎手とともに戦った。調教師、騎手として決して恵まれたスタートを切ったわけではなかった彼らにとって、アインブライドとの日々は、忘れ難いものであるに違いない。馬と人の出会いによって始まる物語、それがアインブライドの物語である。

『一族の源流』

 後の阪神3歳牝馬S勝ち馬アインブライドは、1995年4月14日、新冠の北星村田牧場で生まれた。95年春のGl戦線が開幕し、ワンダーパヒュームが桜花賞を勝った5日後の出来事である。

 アインブライドの父は、80年代の欧州最強馬という呼び声高いダンシングブレーヴの代表産駒であり、自らも通算6戦5勝、英愛ダービーを連勝した実績を引っさげて94年に日本へと輸入されたコマンダーインチーフである。そんな偉大な父親に比べると、通算成績が4戦1勝にすぎない母親のセブンレットウという組み合わせは、いささかバランスを欠いているように見えなくもない。

 しかし、セブンレットウの祖母フェアリーテイルは、北星村田牧場が先代の個人経営だった1968年に、近隣の牧場と一緒に英国へ渡って買い付けてきた数頭の牝馬の中の1頭だった。66年の仏リーディングサイヤーSicambreの直子だったフェアリーテイルは、一緒に英国に渡った仲間内の抽選の結果、北星村田牧場にやってくることになった。当時牧場の跡取り息子だった村田春未氏は、この馬を見て

「これが世界の血統なんだ…」

と深く感動した思い出があって、彼女に特別な気持ちを寄せていた。

 そんなフェアリーテイルは、繁殖牝馬として、期待にたがわぬ優れた実績を残した。特に、第3子のミサトクインが南関東で8勝、それも関東オークス優勝、東京大賞典2着、東京ダービー3着などの輝かしい戦績を挙げたことで、母の名前も大きく高まった。ミサトクインの5歳下の妹にあたるホクセーミドリが生まれたころには、

「フェアリーテイルに仔馬が生まれた」

という噂が流れると、中央の調教師たちが次々と仔馬を見に来るようになっていた。

『祖母の無念』

 名種牡馬ヴェンチアを父とするホクセーミドリは、当時の馬産地の最先端の血統であり、北星村田牧場にとっては生まれながらの期待馬だった。村田氏は、デビュー前のホクセーミドリが放牧地にいた時の様子をはっきり思い出せるという。

「(放牧地で止まった状態から)何かを思い立つと、4本脚のまま何十cmか飛び上がるんですよ。このバネはすごいと思いました。素人目にも、ミドリの凄さはわかりました」

 そんなずば抜けたバネの良さを見ていた村田氏は、ホクセーミドリを手元に残して、将来の牧場の中心となる繁殖牝馬にしようと考えていた。ホクセーミドリには購入の申し入れも多く、中には2000万円の値をつけるものもあったが、その申し込みに対して

「引退後に牧場に戻ってくる保証がない」

と強く反対したのが、跡取り息子の村田氏だった。

 結局、村田氏の意向通りにホクセーミドリの売却の話は流れ、北星村田牧場の所有馬のままデビューすることになった。これで結果を残せなかったら村田氏の立場としてもよくはなかっただろうが、幸い、ホクセーミドリは、現役時代にオークス3着、ラジオたんぱ賞優勝など通算8戦4勝の戦績を残して、村田氏らの期待に応えた。

 ただ、村田氏がホクセーミドリの競走生活の中で最も強く覚えているのは、牡馬たちを破ってのたんぱ賞優勝でもなければ、名牝アグネスレディーにあと一歩及ばなかったオークス3着でもなく、出走することさえできなかった桜花賞だという。この時のホクセーミドリは、休み明けの阪神牝馬特別で2着に入った後、急速に調子を上げていたため、高木嘉夫調教師から

「家族で旗揚げに来てください!」

と誘われていた。しかし、それほどに状態が良かったはずのホクセーミドリは、レース直前に熱発し、本番を目前にして無念の回避となった。彼女がいない桜花賞の栄光は、阪神牝馬特別で7着だったホースメンテスコの手に帰したのである。

 そんな無念の思い出もあっただけに、ホクセーミドリが牧場に帰ってきた時の村田氏には、

「Glを勝てる馬だったのに、本当に運のない馬だった・・・」

という心残りと、

「いつか、ミドリの子で桜花賞の無念を晴らす」

という野心があった。

『船出は不安とともに』

 しかし、ホクセーミドリの仔馬たちは、なかなか実績を残せなかった。プレイヴェストローマンやパーソロンといった一流種牡馬と交配されても、不受胎や事故死が重なり、結果につながらなかった。

 セブンレットウは、そんなホクセーミドリの第3子である。自身の競走成績は振るわなくても、北星村田牧場が祖母のフェアリーテイルから約30年にわたって育ててきた血統だった。プレイヴェストローマンとの間に生まれた5歳上のメイショウヤシマは中央で4勝を挙げており、繁殖牝馬としての実績もある。

 コマンダーインチーフとセブンレットウとの間に生まれた「セブンレットウの95」、後のアインブライドは、北星村田牧場がフェアリーテイルとその系統に賭ける情熱の帰結であった。

 ところが、そんな歴史を背負った「セブンレットウの95」は、牧場の同期の中でも馬体が小さく、目立った存在ではなかったという。目立つ点があるとすれば、人間に対しては従順なのに、他の馬が近づいてくると急に耳を絞って威嚇したり、牧場の従業員がカイバを持っていくと他の馬を蹴飛ばしても独り占めにしようとしたりする馬に対しての気の強さぐらいだった。

 「セブンレットウの95」の兄姉のうち、デビューを果たした4頭はすべて高橋成忠厩舎に所属し、大馬主である松本好雄氏の所有馬として「メイショウ」の冠名で走っている。しかし、「セブンレットウの95」は「庭先取引では買い手がつかなかった」としてセリに出されたという事実からも、彼女に対する評価は推して知るべしであろう。

 兄姉の中で初めてセリに出されただけに

「買い手がつくかどうか」

と心配していた村田氏だったが、ここで彼女の買い手として名乗りを上げたのは、JRAだった。

 JRAには、生産牧場や調教師とのパイプを持たないために「馬をどう買えばいいのかわからない」ような小規模馬主でも馬を持てるよう、JRA自身が幼駒の調教を積んだ上で、希望する馬主に対して一律の価格で売却する「抽せん馬」(2003年以降は「JRA育成馬」)という制度がある。この制度に基づく馬は、価格を透明かつ公正に決めるため、馬の仕入れはセリを通じて行うこととされていた。  「セブンレットウの95」の落札価格は、515万円だった。庭先取引で行き先が決まる良血馬と比較すればもちろんのこと、セリで落とされる馬だけで見ても、中央で走る前提の馬としては、決して高額とは言えない。何はともあれ、JRAによってセリ落とされた瞬間、「セブンレットウの95」は、「抽せん馬」として走る運命と未来が定まったのである。

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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~ https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/ https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/#respond Wed, 17 Nov 2021 15:03:53 +0000 https://retsuden.com/?p=125  ~スエヒロジョウオー~
 1990年4月16日生。2020年4月30日死亡。牝。鹿毛。小泉賢吾(新冠)産。
 父トウショウペガサス、母イセスズカ(母父マルゼンスキー)。吉永猛厩舎(栗東)
 通算成績は、11戦3勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳牝馬S(Gl)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『仁川早春物語』

 1990年秋、JRAは翌91年のレース番組編成にあたり、それまで「西の3歳王者決定戦」として親しまれてきた阪神3歳Sを牝馬限定戦の「阪神3歳牝馬S」に改め、東西統一の3歳女王決定戦としてGlに格付けすることを発表した。

 実質的に91年から始まった阪神3歳牝馬Sは、20世紀最後の年である2000年まで続き、馬齢表記が数え年から満年齢に改められた2001年以降、「阪神ジュヴェナイルフィリーズ」とその名を改めている。20世紀の終焉とともに姿を消した「阪神3歳牝馬S」の勝ち馬は、全部で10頭ということになる。

 ところで、日本のホースマンたちの意識の中では、3歳戦(現表記では2歳戦)を勝つために最も重要な仕上がりの早さは、単体での「名馬の条件」とされてこなかった。それゆえに3歳Glは、サラブレッドたちの最終目標としては位置づけられず、ホースマンたちの目標は、あくまでも翌年のクラシック戦線やその後の古馬戦線に向けられていた。彼らの中では、3歳戦はクラシック戦線の「予選」にすぎない、という意識が強く、その固定観念は、3歳牝馬にとって唯一のGlである阪神3歳牝馬Sについても例外ではなかった。

 前記のとおり、「阪神3歳牝馬S」として行われたレースは1991年から2000年までの10回で、その歴史には10頭のサラブレッドが勝ち馬として刻まれている。その阪神3歳牝馬Sの歴史を振り返ると、確かにこのレースが翌年以降のGlの「予選」としての役割を果たした年も珍しくない。91年ニシノフラワー、93年ヒシアマゾン、96年メジロドーベル、そして2000年テイエムオーシャン・・・。彼女たちは、いずれも阪神3歳牝馬Sの勝ち馬となっただけでなく、そこからさらに大きく羽ばたいて別のGlをも手にしている。彼女たちの名前だけを見れば、阪神3歳牝馬Sが翌年以降のGlの「予選」として機能していた、という見方は誤りではないように思われよう。

 だが、強さと仕上がりの早さを両方備えた名馬として3歳Glを制したのは、10頭の勝ち馬のうち4頭だけである。阪神3歳牝馬Sというレースの性質を考える上では、残る6頭のこともあわせて考えなければならないのは、むしろ当然のことであろう。この6頭の名前と戦績をみると、このレースの勝者たちを単純に色分けすることの難しさに気づく。もし阪神3歳牝馬Sが、翌年以降のGl戦線、例えば牝馬三冠路線の単なる「予選」であれば、彼女たちのその後の「馬生」も、「重要な予選を勝ちながら、本戦に勝つことができなかった、あるいは出走できなかった」といったある意味で画一的な物語の中に組み込むことが可能だろう。しかし、阪神3歳牝馬Sは、まぎれもないGlでもあった。彼女たちの馬生には、その時点でGl勝ちというキャリアが刻まれる。Glというすべての馬たちが目指す目標をすでに制しながら、それだけでは十分な評価につながらないという中途半端さは、彼女たちの物語を「同じ阪神3歳牝馬Sを勝った」という共通点だけでとりまとめることを難しくする。

 スエヒロジョウオー、ヤマニンパラダイス、ビワハイジ、アインブライド、スティンガー、ヤマカツスズラン。阪神3歳牝馬Sが唯一のGl勝ちとなった6頭も、同じ阪神3歳牝馬SというGlを勝ってはいても、その馬生における阪神3歳牝馬Sの位置づけはさまざまである。勝利がただちに栄光と幸福を約束するわけでもないまま、ただGl勝ちという色をつけられてしまった彼女たちの物語は、一様ではない。競走馬たちの早すぎる春・・・それが20世紀の3歳Glであった。歴代阪神3歳牝馬Sのうち、他のGlを勝っていない6頭の勝ち馬たちが、仁川を舞台に綴った早春物語は、果たしてどのようなストーリーだったのだろうか。今回のサラブレッド列伝では、そんな彼女たちにスポットライトを当ててみたい。

『フロックの女王』

 1992年の阪神3歳牝馬S勝ち馬スエヒロジョウオーのイメージを当時のファンに聞いてみた場合、たいてい返ってくるのは次のような答えだろう。

「ああ、あの12万馬券のスエヒロジョウオーか・・・」

 1991年の阪神3歳牝馬Sを9番人気で制し、さらに2着に13番人気の馬を連れてきたために、馬連120740円の配当を演出したこと。スエヒロジョウオーについてのファンの記憶は、その一点に集約されている。彼女の別の姿を思い出すというファンは、競馬ファン全体の中でも極めて少ないであろう。

 それもそのはずで、スエヒロジョウオーの通算成績は11戦3勝、阪神3歳牝馬S以外の勝利は未勝利戦、きんせんか賞(500万下特別)で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sひとつだけである。さらに、彼女が敗れた8戦を見ても、函館3歳S(Glll)で5着に入ったのを除くと、あとは掲示板にすら載っていない。人気でも生涯1番人気に支持されたことがなかったのはもちろんのこと、5番人気以内に入ったことすら、チューリップ賞(OP)での3番人気、一度きりというのだから念が入っている。

 そんなスエヒロジョウオーの勝利には、「フロック」という評価がつきまとう。・・・「フロック」という言葉は、本来Gl馬に対して使うのは非常に失礼な形容であるが、ことスエヒロジョウオーに関していうならば、それ以外の形容は見つからない。

 ただ、スエヒロジョウオーの場合、「フロック」を貶し言葉としてとらえることは間違いと言っていい。なぜなら、スエヒロジョウオーの名前は、その「フロック」のイメージの強烈さゆえに、並の阪神3歳牝馬S勝ち馬よりもはるかに深く競馬史、そしてファンの記憶に焼きついているからである。

『小さな雑草のように』

 スエヒロジョウオーの生まれ故郷は、小泉賢吾氏が個人で経営する小泉牧場だった。

 スエヒロジョウオーの血統は、母がイセスズカ、父がトウショウペガサスというものである。イセスズカは、スズカコバンやサイレンススズカの生産牧場として知られる稲原牧場の生まれで、マルゼンスキーの娘という血統的な魅力もあったが、なにぶん通算成績が13戦1勝では注目されるはずもなく、引退後も稲原牧場ではなく小泉牧場に引き取られていた。

 そんなイセスズカと交配されたトウショウペガサスも、重賞2勝でGl勝ちはなく、「トウショウボーイの半弟」という血統的背景がなければとうてい種牡馬入りできないクラスの種牡馬にすぎなかった。後に彼がスエヒロジョウオー、そしてフェブラリーS(Gl)勝ち馬グルメフロンティアを出して2頭のGl馬の父となることなど、当時の人々には想像もつかなかったことだろう。

 要するに、スエヒロジョウオーは、血統的な部分からは、どこをどう見ても注目されるはずがない馬だった。

 そんなスエヒロジョウオーだったが、小泉氏の自慢の土で育った牧草を食みながら、順調に育っていた。この土は、小泉氏が牧場を継ぐことになった時、腰が弱い馬しか育たないことに危機感を覚えた小泉氏が、

「土の悪さを何とかしなくては、とあせったね。でも、土を改良するにはカネがかかる」

ということで、自分の肉体で土に鍬を入れて掘り返し、生き返らせたものだった。やがて、手を入れた土地からミミズが大量に湧いて出るようになったことで

「これならいける!」

と自信をつけた小泉氏は、相変わらずの自分なりの方法で「土との戦い」を続け、他の牧場が自分の家や生活にお金をかけていた時期も、草と馬のためにお金をかけたという。そうした成果もあって、小泉氏の牧場で育った馬たちの体質は、最初に比べて目に見えてよくなり、スエヒロジョウオーもその成果の1頭だった。

 ただ、スエヒロジョウオーには、同期の馬たちと比べても馬格が小さいという問題点があった。小泉氏の自慢の牧草を食べても、不思議と馬体が大きくならない。もともと牝馬の馬格は牡馬より小さいものだが、スエヒロジョウオーの場合、同じ牝馬と並べても、明らかにひとまわり小さい。

 サラブレッドの馬格は、ただ大きければいいというものではない。しかし、競馬場に出れば、馬格が小さい馬も、大きい馬と対等に戦わなければならない。レース中に他の馬と激しく接触することもある。小さな馬体を跳ね飛ばされたり、馬群を割れずに閉じ込められることもある。それでも、負けは負けでしかない。馬格が大きな馬なら自力で切り抜けられることがあるが、馬格が小さい馬だとそれっきりである。そのため、スエヒロジョウオーが

「こんな小さな馬体で、レースになるのかな」

という懸念を持たれるのもやむをえないことで、幼いころのスエヒロジョウオーとは、その程度の存在だった。

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https://retsuden.com/age/1990s/2021/18/125/feed/ 0
阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/#respond Tue, 12 Oct 2021 17:50:18 +0000 https://retsuden.com/?p=547  1982年5月12日生。死亡日不詳。牡。鹿毛。土井昭徳牧場(新冠)産。
 父スポーツキー、母シルバーフアニー(母父ドン)。吉田三郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、7戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、京都3歳S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『消えたGl』

 日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。

 もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。

 その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。

 だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。

 阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。

 「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。

 もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。

=ダイゴトツゲキの章=

『忘れられた初代王者』

 1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。

 ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。

『足跡をたどって』

 ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。

 土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。

 ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。

 ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。

 もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。

 一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。

 オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。

 日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。

『ささやかな願い』

 スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは

「こいつは走るんじゃないか」

と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、

「せめて1勝でもしてくれよ」

というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は

「牧場史上最高の大物になってくれよ」

と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。

『意外性の馬』

 「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。

 もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。

 ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。

 新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。

 ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。

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