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列伝 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Mon, 12 May 2025 11:20:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 メジロベイリー列伝・王朝最後の光芒 https://retsuden.com/horse_information/2025/12/1261/ https://retsuden.com/horse_information/2025/12/1261/#respond Mon, 12 May 2025 00:50:11 +0000 https://retsuden.com/?p=1261 1998年5月30日生。2022年6月28日死亡。牡。黒鹿毛。メジロ牧場(伊達)産。
父サンデーサイレンス、母レールデュタン(母父マルゼンスキー)。武邦彦厩舎(栗東)。
通算成績は、7戦2勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、朝日杯3歳S(Gl)。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『ある軍団の終焉』

 2011年5月15日、新潟競馬場第4レースの3歳未勝利戦は、競馬ファンから特別な感傷に満ちた注目を集める一戦となった。それは、かつて日本競馬を代表するオーナーブリーダーとして知られた「メジロ軍団」の所属馬が走る最後のレースだった。

 日本競馬のオールドファンにとって、「メジロ」という響きは特別な意味を持つ。

「ダービーよりも天皇賞を勝ちたい」

という言葉があまりにも有名な北野豊吉氏によって率いられ、ごく初期の例外を除いて「メジロ」の名を馬名に冠したこの軍団は、約50年間の歴史の中で、天皇賞7勝をはじめとする輝かしい栄光をいくつも手にしたが、そんな歴史ある軍団も、豊吉氏やその妻であるミヤ氏の死による代替わりと時代の流れによって、その勢いはいつしか衰え、21世紀に入ってからは、Glはおろか、重賞を勝つ機会も少なくなっていた。そして、「メジロ軍団」の中核法人である「メジロ牧場」、そして軍団そのものの解散が発表され、その所有馬が走る最後のレースがこの日だった。

 「メジロ軍団」最後のレースに出走したメジロコウミョウは、単勝980円の5番人気と、前評判こそ決して高くはなかったものの、レースではその評価を覆して優勝し、名門の有終の美を飾った。いつもの未勝利戦とは違う歓声と興奮に包まれたこのレースをもって、「メジロ軍団」の輝かしい歴史の幕は、静かに下ろされた。

 「メジロ軍団」の最後の勝利は、前記の通り2011年5月15日の3歳未勝利戦だったが、最後のGl勝利は、2000年の朝日杯3歳S(Gl)でのメジロベイリーである。メジロ軍団最後の天皇賞馬メジロブライトの弟として生を享けたメジロベイリーは、兄の「晩成のステイヤー」というイメージに反して旧3歳Glを制したことで、翌年のクラシック戦線、そしてそれ以降の活躍が期待されていた。その期待は、結果としてはかなわなかったものの、メジロベイリーこそが栄光ある「メジロ軍団」のGlにおける最後の光芒となったのである。

『羊蹄山の麓にて』

 1998年5月30日、北海道・羊蹄山のふもとにあるメジロ牧場で、1頭の黒鹿毛の牡馬が産声をあげた。やがて20世紀最後の朝日杯3歳Sの覇者、そして「メジロ軍団」最後のGl馬へと駆け上る、後のメジロベイリーである。

 メジロベイリーの母であるレールデュタンが競走馬として残した22戦4勝という戦績は、平凡とは言えない。・・・ただ、重賞は京都牝馬特別(Glll)に1度出走しただけで着順も5着というと、特筆するべきとまででもないかもしれない。現役時代はメジロ軍団と特に関係がなく、それゆえに馬名にも「メジロ」の冠名を持たない彼女は、マルゼンスキーを父に持つ血統を買われてメジロ牧場へ迎えられ、繁殖牝馬となった。

 しかし、繁殖牝馬となったレールデュタンは、まず第3仔のメジロモネ(父モガミ)がオープン級へ出世したことで注目を集め、さらに第6仔のメジロブライト(父メジロライアン)が97年クラシック戦線の主役へと躍り出たことで、その存在感を一気に高めた。個性派世代として名高い97年クラシック世代で常に中心的地位を張り続けたメジロブライトは、三冠レースでそれぞれ1番人気、1番人気、2番人気に推されながら、4着、3着、3着にとどまって無冠に終わったが、菊花賞が終わった後は中長距離Gllを3連勝し、その勢いで挑んだ天皇賞・春(Gl)では、「メジロ軍団」にとっては7回目の天皇賞制覇、そして自身にとっては悲願のGl制覇を果たした。いつも人気を背負っては不器用な追い込みで栄光に迫りながら、最後は惜しくも敗れることを繰り返してきたメジロブライトが日本競馬の頂点に立ったこのレースは、

「羊蹄山のふもとに春!」

という実況が生まれたことでも知られている。

 レールデュタンの第9仔となるメジロベイリーが羊蹄山のふもとのメジロ牧場で生まれたのは、4歳上の半兄メジロブライトの戴冠から約1ヶ月後のことだった。

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フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速 https://retsuden.com/horse_information/2024/15/1194/ https://retsuden.com/horse_information/2024/15/1194/#respond Tue, 15 Oct 2024 02:17:38 +0000 https://retsuden.com/?p=1194 1993年2月11日生 2014年9月8日死亡 牡 鹿毛 社台ファーム(早来) 小林稔厩舎(栗東)
父Caerleon、母バレークイーン(母父Sadler’s Wells)
4歳時5戦3勝。東京優駿(Gl)、すみれS(OP)優勝。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『奇跡のダービー馬』

 日本競馬の頂点といわれる日本ダービーを最短のキャリアで制覇した馬といえば、1996年の日本ダービー馬フサイチコンコルドの名前が挙がる。

 フサイチコンコルドは、英オークス馬サンプリンセスの孫、世界的種牡馬Caerleonの子という血統的な背景から期待を集めていたものの、同時に体質の弱さや特異さに悩まされ続け、レースに向けた仕上げは困難を極めた。新馬戦とすみれS(OP)を勝っただけの2戦2勝、それもすみれSから中84日で日本ダービーに挑むという異例のローテーションに対するファンのレース前の評価は、単勝2760円の7番人気というものだった。このオッズは、フサイチコンコルドの血統とデビュー前の評判を考えれば、驚くほど大きなものだったが、レース前の雰囲気は、

「そんなに買ってる奴がいるのか…」
「まさか来ることはないだろう…」

という方が、よほど強かった。

 そんなフサイチコンコルドが、2分26秒1のレースの後に、世代の頂点を極めた。ファンのある者は、人気の盲点から見事にはばたいたフサイチコンコルドとその関係者を称え、ある者はフサイチコンコルドを馬券の対象から外した自らの不明を恥じ、またある者は見せつけられた光景を人知の及ばぬ「奇跡」と定義し、己が脳を焼いた。

 だが、競馬ファンの少なからぬ者から「奇跡」とも呼ばれたフサイチコンコルドの快挙は、決して人知の及ばぬ神の配剤の結果などではなく、生産者、調教師、馬主、騎手、その他多くの関係者たちが人知を極めた努力の結果として生まれたものにほかならない。

 第63代日本ダービー馬フサイチコンコルドは、果たしてどのような星の下に生まれ、人々との絆を結び、ライバルとの戦いによって自らを磨きあげ、そして「奇跡」と呼ばれる快挙を成し遂げたのだろうか。

『衝撃の邂逅』

 競馬の本場とされ、クラシック・レースのあり方を始め、日本競馬が多くの部分で模範としている英国では、時に日本では考えられない椿事が起こることが少なくない。

 1983年6月4日、通算205回目を迎えた英国オークスで、4番人気馬サンプリンセスが、2着に12馬身差という英国オークス、そして当時の英国のクラシックレース史上最大となる着差をつけて圧勝した(2021年オークスでSnowfallが16馬身差で勝って更新)。驚くべきことに、サンプリンセスの通算成績は、この時点で2戦未勝利であり、英オークスが初勝利だった。

 実は、英国では未勝利馬がクラシックレースで有力馬に推されることも、まれにある。競馬が歴史というより伝説だった時代まで遡れば、「馬名未登録馬が勝利」「未勝利馬が英ダービーで優勝」「1戦1勝の英国ダービー馬」といった、現代の感覚では信じがたいエピソードも多数出てくるが、ごく最近でも、2018年の英オークスを未勝利馬Forever Togetherが4馬身半差で圧勝したり、2021年の英ダービーで未勝利馬Mojo Starが2着に入り、134年ぶりとなる「初勝利がダービー」という快挙をあと一歩で逸したり(その後、Mojo Starは未勝利戦を勝っている)といった椿事が現代でも実際に起こっている。

 もっとも、サンプリンセスは、単に英オークスで初勝利を挙げた「だけの」幸運な馬では終わらなかった。英オークスの次走となるキングジョージⅣ世&QEDSでは3着に食い込み、ヨークシャーオークス、そしてセントレジャーでGl勝ちを2つ積み上げ、さらに凱旋門賞では、All Alongから1馬身差の2着に迫った。サンプリンセスの競走成績は10戦3勝だったが、その3勝はすべてGlである。

 そんな栄光に満ちた実績とともに繁殖生活に入ったサンプリンセスと欧州最大の種牡馬Sadler’s Wellsの間に生まれた娘であるバレークイーンは、やがて英国タタソールのセリに上場されることになった。サンプリンセスの栄光から、娘のバレークイーンの上場までの約10年間にも、彼女たちの一族は、近親から多くのGl馬や重賞馬を輩出しており、名門という触れ込みは決して誇大広告ではなかった。

 日本最大の生産牧場である社台ファームの創業者吉田善哉氏の次男である吉田勝己氏は、繁殖牝馬を仕入れるためにセリに訪れた際、バレークイーンに出会った。その時の彼女の印象について、勝己氏は、

「血統はもちろんですが、とにかく馬体が素晴らしい牝馬で、しばらくその場から動けなかったほどです」

と語っている。

『母と子』

 勝己氏に10万ポンドで競り落とされたバレークイーンは、93年1月に日本の社台ファームへやって来て、日本での繁殖生活を開始した。この価格は、彼女の血統からすると破格に安いものだったため、予算が余った勝己氏が同時に17万ポンドで買い付けたのが、「薔薇一族」の祖となるローザネイとのことである。

 閑話休題。日本へやって来たバレークイーンが2月11日に産み落とした鹿毛の牡馬が、後のフサイチコンコルドであった。

 フサイチコンコルドの父親は、「最後の英国三冠馬」Nijinskyllの直子であり、自らもフランスダービーを制し、そして種牡馬としても既に英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを輩出したCaerleonである。「Caerleon×バレークイーン」という血統は、母の父であるSadler’s Wellsとあわせて、当時の日本競馬の水準を大きく超えた世界的な水準だった。

 ただ、血統への期待とは裏腹に、彼の誕生がすべてから祝福されていたわけではなかった。彼を拒んでいたのは、ほかならぬバレークイーンであり、出産直後に興奮状態となり、牧場のスタッフが場を離れた際、自らが生んだ子馬に襲いかかり、かみ殺そうとしたのである。

 その場は異変に気付いたスタッフが母子を引き離して大事には至らず、時間の経過とともに、母子関係は徐々に落ち着いていったため、牧場関係者は安堵した。しかし、フサイチコンコルドの首筋には、成長した後も、母につけられた傷跡が残ったという。

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ナリタホマレ列伝~時代の狭間を駆け抜けて~ https://retsuden.com/horse_information/2024/08/1167/ https://retsuden.com/horse_information/2024/08/1167/#respond Sat, 08 Jun 2024 14:50:00 +0000 https://retsuden.com/?p=1167 1995年4月13日生 2018年ころ死亡?牡 黒鹿 谷潔厩舎(栗東)→若松平厩舎(北海道)→幣旗吉昭(荒尾)
父オースミシャダイ、母ヒカリホマレ(母の父ラディガ) ヒカル牧場(新冠)
旧3~新7歳時 69戦6勝。ダービーグランプリ(統一GⅠ)、オグリキャップ記念(統一GⅡ)優勝。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『小さな砂のステイヤー』

 日本のダート競馬では、芝よりも馬のパワーが問われる局面が多いとされ、芝と比べて「馬体重が重い馬が有利である」と言われることが多い。また、短距離ではパワー主体の大型馬、長距離ではスタミナ型の小型馬が有利とも言われる傾向があるが、少なくとも日本のダート競馬では、2400mを超える長距離の大レースは、ほぼ絶滅状態となっている。それらの帰結として、日本のダート競馬で小型馬が存在感を示すことは、芝にもまして難しいと言えるように思われる。

 しかし、日本のダート界において、長距離レースがほぼ絶滅したのは、決してそう遠い昔のことではない。「南関東三冠」の東京王冠賞は、1995年まで2600mで開催されていたし、97年に統一グレード制が導入された当時には、オグリキャップ記念(統一Gll)、東海菊花賞(統一Gll)が2500m、東京大賞典(統一Gl)は2800mで実施されていた。

 これらのレースが時代の流れの中で廃止や距離短縮の対象となり、ダート界が大きく変容しつつあった時代に、パワフルなダート馬のイメージとは対照的な小柄な馬体を駆って活躍した馬がいた。それは、99年のダービーグランプリを制したナリタホマレである。

 地方競馬の名族とマイナー種牡馬の間に生まれ、当初はさほど期待される存在ではなかった彼が、ダービーグランプリ(統一Gl)を制した時の馬体重である419kgは、グレード制導入後にGl級レースを勝った旧4歳以上の牡馬としては、87年にジャパンC(Gl)を勝ったフランス馬ルグロリューの410kgに次いで軽い。つまり、彼はグレード制導入以降のGl勝ち馬の中で、最も軽い旧4歳以上の日本調教牡馬であると言っても過言ではない。

 そんなに小さなナリタホマレは、時には長距離、時にはダートグレード競走、そして時には自身の勝てそうなレースを求めて各地を転戦し、97年から06年までの現役生活の中、実に18ヶ所の競馬場を回って69戦を走り、2億円以上の賞金を稼ぎ出した。

 そんなナリタホマレは、日本の統一グレード競走の黎明期、そして多くの地方競馬の歴史の狭間を駆け抜けたサラブレッドである。今回のサラブレッド列伝は、そんなナリタホマレの物語である。

『砂の一族』

 1991年11月24日という日付は、笠松競馬場にとっての悲劇の日として記憶されている。各地の地方競馬から強豪が集結した第4回全日本サラブレッドCで、断然の人気を集めた地元の名牝マックスフリートが突然レースを中止したのである。

 マックスフリートは、この日まで通算22戦15勝の戦績を残し、第3回全日本サラブレッドC、東海菊花賞など笠松の大レースを勝ちまくって「笠松の女傑」「東海の魔女」などの異名をほしいままにした強豪牝馬である。しかし、全日本サラブレッドC連覇を目指した彼女は、通算23戦目となるこの日のレース中に故障を発症し、観客たちの悲鳴が競馬場にこだました。マックスフリートは、この日を最後に競走生活にピリオドを打つことになった。

 もっとも、幸いにしてマックスフリートは一命を取り留め、繁殖牝馬として生まれ故郷のヒカル牧場に帰還することになった。

 ヒカル牧場には、マックスフリートの母馬ヒカリホマレが現役繁殖牝馬として健在だった。ヒカリホマレは、自らの戦績こそ7戦1勝と平凡だったものの、繁殖牝馬としては非常に仔出しが良く、85年に生まれた初仔以来7年連続で受胎し(マックスフリートは87年生まれ)、91年春に父ナスルエルアラブの子を出産した後、初めての不受胎となっていた。しかし、マックスフリートが勝利を重ね、さらに彼女の1歳下の半弟にあたるマックスブレインまで東海ダービーを勝ったことにより、ヒカリホマレとマックスフリートの血統的価値は、相当なものとなっていた。ヒカル牧場の人々は、マックスフリートの帰還に安堵したことだろう。

 もともとヒカルホマレやマックスフリートの牝系を曾祖母までたどると、1967年に史上初めて南関東三冠を達成し、翌68年には地方競馬出身ながら天皇賞・春を制したヒカルタカイの妹にあたるホマレタカイまで遡る。この牝系に愛着を持つヒカル牧場の人々は、

「ヒカリホマレにも、1年休んでまた活躍馬を出してほしい」

という思いを持っていた。

『ありえなかった配合』

 ところが、93年春に初子を無事に出産し、その後も毎年順調に産駒を送り出したマックスフリートとは対照的に、それまで非常に仔出しが良かったはずのヒカリホマレは、92年に初めて空胎となった後、ピタリと受胎しなくなってしまい、93年、94年とも産駒を送り出すことができなかった。そのため、ヒカリホマレについては、繁殖生活を続けるべきか否かという問題が浮上した。年齢的には、まだ産駒を送り出せる可能性があるはずではないか。いや、繁殖牝馬としては、もう終わってしまったのではないか。価値が残っているうちに、他の牧場へ売却するという道もあるのではないか…。

 迷ったヒカル牧場の人々は、ヒカリホマレをすぐに見切るのではなく、とりあえず種付け料が安い種牡馬と交配してみることにした。種付け料が高い人気種牡馬と交配して不受胎となれば、種付け料がそのまま損害となってしまうといういささか現実的な勘定の結果、種付け相手として選ばれたお相手は、オースミシャダイだった。

 オースミシャダイ・・・馬名を聞いて主な勝ち鞍がすぐに頭に浮かぶファンは、果たしてどれほどいるだろうか。ライスシャワーなどを輩出したリアルシャダイを父に持ち、「オースミ」「ナリタ」の馬主として知られ、94年にはナリタブライアンがクラシック三冠と有馬記念を制する山路秀則氏の所有馬として、武邦彦厩舎に所属したオースミシャダイは、通算成績32戦5勝、重賞も阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)を勝っているものの、Gl勝ちはない。

 オースミシャダイは、同期馬が世代混合Glを1勝しかできなかったことで「最弱世代」と揶揄されることも多い1989年クラシック世代に属する。同年の三冠レースを皆勤したものの、皐月賞4着、日本ダービー12着、菊花賞11着にとどまっている。ちなみに同年の三冠を皆勤したのはウィナーズサークル、サクラホクトオー、スピークリーズンとオースミシャダイの4頭しかいない。

 オースミシャダイが本格化したのは古馬になってからのことで、翌90年には阪神大賞典と日経賞を連勝して天皇賞・春(Gl)の有力馬に浮上した。しかし、本番ではスーパークリークの相手にならず、さらに阪神大賞典で下したイナリワンにも雪辱を許し、6着に敗れている。年末の有馬記念(Gl)には武豊騎手とのコンビで参戦する予定だったが、武騎手がオグリキャップ陣営から依頼を受けたことから、武邦師の判断もあって武騎手を譲って松永昌博騎手とのコンビで大一番に臨み、オグリキャップの「奇跡の復活」から0秒4遅れた5着と掲示板に残っている。翌91年は、天皇賞・春でメジロマックイーンの3着という自身のGlでの最高着順に入ったものの、その後は振るわず、ブービー人気のダイユウサクがメジロマックイーンを破ってレコード勝ちしたことで知られる有馬記念では、しんがり人気でしんがりの15着という結果に終わり、そのまま競走生活を終えている。

 そんな競走生活からも分かる通り、オースミシャダイは長距離レースを得意としたものの、大きなところでは勝ち切れないB級ステイヤーの域を出なかった。実績だけを見れば、種牡馬入りできなかったとしても不思議ではない。しかし、ナリタホマレの阪神大賞典制覇は、馬主の山路秀則氏にとって初めての重賞制覇だった。そこで、

「最初に親孝行してくれた馬」

という思いで、種牡馬入りをさせてくれたのである。

 もっとも、そんな種牡馬入りの経緯からも分かる通り、オースミシャダイへの種牡馬としての期待は、高いものではなかった。少なくとも、地方の名牝を出したヒカリホマレと交配されるレベルの種牡馬ではない。ヒカリホマレに3年連続の空胎という事情がなければ、ありえない配合だった。

 種牡馬としてまたとない好機を得たオースミシャダイの血を受けて、95年4月13日に生まれた黒鹿毛の牡馬が、後のナリタホマレである。母のヒカリホマレにとっては、4年ぶりの産駒であった。

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アイネスフウジン列伝~府中を駆けた疾風~ https://retsuden.com/horse_information/2024/25/171/ https://retsuden.com/horse_information/2024/25/171/#respond Fri, 24 May 2024 17:40:55 +0000 https://retsuden.com/?p=171  1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
 父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
 通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『疾風のダービー馬』

「日本ダービーとは何か」

 ―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。

 しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには

「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」

とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、

「ダービーだけは特別だから・・・」

と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。

 このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。

 ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。

 しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。

 1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。

 戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。

『アサカオーの牧場』

 アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。

 大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。

 しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに

「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」

と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。

『幸運』

 アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。

 アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。

 しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。

 テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。

 テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。

 その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。

 そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、

「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」

と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち

「うちに入れてくれないか」

という申し出があったという。

『運命』

 だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、

「手の施しようがありません」

と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、

「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」

と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。

 すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。

 結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。

 そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も

「いい子が生まれた」

と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。

 次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。

 中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。

 この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに

「こいつは走る・・・!」

という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。

『加藤師の考えごと』

 大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。

 アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。

 加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。

 ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。

『忘れられた男』

 中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。

 ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。

「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」

と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は

「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」

と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。

 しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。

 もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。

『騎手失格』

 実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。

 調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって

「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」

では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。

「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」

 こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。

 しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。

 しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。

 馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。

 中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。

『ダービーをとってみたいだろ?』

 加藤師は中野騎手に声をかけた。

「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」

 中野騎手は、こう返したという。

「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」

 中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。

「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」

 次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。

「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」

 中野騎手は、震えた。

 中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から

「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」

と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。

 中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に

「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」

と思ったという。

 しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。

(こいつは走る!)

 柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。

「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」

 中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。

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https://retsuden.com/horse_information/2024/25/171/feed/ 0
ライスシャワー列伝~疾走の馬、青嶺の魂となり~ https://retsuden.com/horse_information/2024/27/571/ https://retsuden.com/horse_information/2024/27/571/#respond Sat, 27 Apr 2024 14:12:32 +0000 https://retsuden.com/?p=571 1989年3月5日生。1995年6月4日死亡。牡。黒鹿毛。ユートピア牧場(登別)産。
父リアルシャダイ、母ライラックポイント(母父マルゼンスキー)。飯塚好次厩舎(美浦)。
通算成績は、25戦6勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)2回、菊花賞(Gl)、
日経賞(Gll)、芙蓉S(OP)。

『時代』

 人の世に流行り廃りがあるように、競馬の血統にも流行り廃りがある。というよりも、経済動物であるサラブレッドの場合、その栄枯盛衰は人の世よりもはるかに激しい。
 
 かつて、英国競馬を範として成立した日本競馬では、短距離よりも中長距離レースの格式が高いとされていた。そうすると必然的に、馬産界では中長距離レースに耐えるスタミナと精神力を兼ね備えた、いわゆるステイヤー血統の種牡馬の人気が高く、逆に短距離レースに適したスピード血統の種牡馬は人気が低くなってくる。馬産界が種牡馬を導入する場合の選定基準は、その馬自身や近親の馬たちの中長距離の大レースでの実績であり、また長丁場に耐え得る馬体であった。
 
 しかし、競馬を英国流の貴族の趣味から大衆の娯楽としてとらえ直し、一大エンターテイメント産業へと転換させたアメリカの影響が強まってくると、我が国でも次第に中長距離偏重レースの雰囲気は薄れ、短距離レースの比重が高まっていった。名誉を重んじる貴族の趣味から大衆の娯楽へと変貌した新しい競馬では、アメリカ的合理主義の影響で、年に幾度もない大レースだけのためにその馬が持てるすべてを燃やし尽くす中長距離レースの価値は衰えていった。それに代わって台頭してきたのは、スタートからゴールまで息つくひまもない激しいスピードで見る者を興奮させ、さらにひとレース終えた後の消耗からも短期間で立ち直ることができる短距離レースだった。
 
 近年になっても、競馬のスピード化という流れはとどまるところを知らず、逆に「短距離偏重」ともいうべき状況ができあがりつつある。マイル戦やスプリント戦の条件戦が急増する反面で、クラシックディスタンス、あるいはそれよりも長いレースは、減少の一途をたどっている。その流れは次第に重賞戦線にも押し寄せ、昔ながらのスタミナ豊富なステイヤーが活躍できる舞台は少なくなるばかりである。
 
 競馬のレース体系がこのように変わってくると、それにあわせて馬産界も変わらざるを得ない。種牡馬の世界でも繁殖牝馬の世界でも、スピード化の波に対応し得るアメリカ血統の人気が高まる一方で、かつてもてはやされていたステイヤー血統は見捨てられ、忘れ去られ、そして滅び去っていった。サンデーサイレンスを筆頭とする新時代の種牡馬がターフを席巻する中で、昔ながらのステイヤー種牡馬は居場所を失っていった。競馬の本場である英国でもこの傾向は顕著で、すでにクラシック三冠の最後の一つ、日本でいえば菊花賞に当たるセントレジャー(英Gl)は有力馬の参戦がなくなって形骸化し、アスコット金杯などの伝統の長距離レースですら、それを勝つことはむしろ「種牡馬としての未来を暗くする」として敬遠されるようになっている。競馬界の近年の状況を見ると、日本競馬もそんな本場の状況を後追いしているように思われる。
 
 しかし、スピード競馬がこれまでの競馬にはない魅力を備えていたのと同様に、スタミナ競馬にもスピード競馬にはない独特の魅力があったはずである。スピード競馬が全盛を迎えている現在の、ほんの少し前の時代に、私たちにステイヤーの魅力を懸命に伝えようとした馬がいた。ステイヤー受難の時代の中で、滅びゆくステイヤーとして最後の輝きを放った馬がいた。過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、騎手と一体となって戦う従順さと、その内に秘めた闘志…。そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。時代に反逆するかのように戦い続ける彼の生き方は、彼の存在を抹殺しようとするかのような時代の中で、むしろ悪役として遇されることも多かった。そして、大衆が彼の魅力を本当に認めたその時、彼は時代の波に飲み込まれるように消えていったのである。
 
 時代の流れに抗い続け、あまりにも速すぎた時代の流れの中に消えていったその馬の名前は、ライスシャワーという。彼は、
 
「疾走の馬、青嶺の魂となり」
 
そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、今も眠っている。

『ユートピアから』

 ライスシャワーが生まれたのは1989年3月5日、場所は登別にあるユートピア牧場である。
 
 ユートピア牧場は、その前身の創業をたどると1941年(昭和16年)まで遡ることができる古い歴史を持つオーナーブリーダーで、古くは1952年(昭和27年)に皐月賞、ダービーの二冠を制したクリノハナを出したことで知られている。
 
 ライスシャワーの母であるライラックポイントも、遡ればクリノハナと同じく、アイリッシュアイズを祖とする牝系に属していた。ただ、この牝系は概して子出しが悪いうえ、クリノハナ以降の産駒成績も 、決して芳しいものではなかった。この一族には、長い歴史の中でユートピア牧場から出された繁殖牝馬もいたものの、何代も経ないうちに消えていった。
 
 しかし、ユートピア牧場の人々は、この一族を決して見捨てることなく牧場の基礎牝馬として残し続けてきた。二冠馬を出して牧場の誇りとなった牝系は、ユートピア牧場にとってあまりにも重い価値があったからである。
 
「いい種馬をつけていれば、いつかきっと一流馬を出してくれる」
 
 そんな思いは、代々の繁殖牝馬に交配されたそれぞれの時代の名種牡馬たちの名前に凝縮されており、ライラックポイントも、長らく日本競馬を引っ張った名種牡馬マルゼンスキーの娘として誕生した。

『隠れた良血』

 ライラックポイントは、競走馬としてはなかなかの成績を残し、中央競馬で4勝をあげたものの、牧場へ帰ってきてからの繁殖成績では、ライスシャワーの前に3頭の子を出したものの、いずれも特筆するような成績は残せなかった。しかし、ユートピア牧場の人々は、ライラックポイントの潜在能力に期待をかけて、リアルシャダイを交配することにした。
 
 リアルシャダイは、通算成績は8戦2勝、主な勝ち鞍はドーヴィル大賞典(仏Gll)と、その戦績は一見派手さには欠けている。しかし、リアルシャダイは英国ダービー馬Robertoの重厚な血を継ぎ、Northern Dancerの血を持たない異端の血統を買われて、現役時代の馬主だった社台ファームによって日本へ導入されていた。リアルシャダイに期待されていたのはポスト・ノーザンテースト時代の旗手としての役割であり、1988年当時には既に産駒が競馬場でデビューし始め、新時代の担い手という触れ込みが現実のものとなる予感を感じさせていた。ちなみにこれは後の話になるが、リアルシャダイはライスシャワーが5歳となった1993年にノーザンテーストを破って中央競馬のリーディングサイアーに輝き、1982年から11年間続いたノーザンテースト独裁時代に終止符を打っている。
 
 こうして交配されたリアルシャダイとライラックポイントとの間に生まれた小さな黒鹿毛の牡馬こそが、後に「関東の黒い刺客」として関西ファンの背筋を震わせ、さらに後には「最後のステイヤー」としてステイヤー時代の最後の輝きを放つ宿命を背負った異能の名馬ライスシャワーだった。もともとスタミナ、スピードを兼ね備えたバランスの良さが特徴とされるマルゼンスキーの肌に、さらに欧州出身のステイヤーの血を注入した配合は、明らかに底力に富んだ長距離向きのものだった。

『その名のもとに』

 ただ、こうして生まれたライスシャワーは、生まれながらに大きな期待を背負っていたわけではなかった。生まれたばかりのライスシャワーは、馬体こそバランスがとれていたものの、体格があまりに小ぶりで、さらに体質、脚部が弱かったこともあって、決して大物感を漂わせた存在ではなかった。育成段階でも、最初のうちは同世代の馬たちにむしろ遅れがちで、期待感よりは「この程度でどこまでやれるのか」という不安の方が先に立つ馬だった。
 
 ライスシャワーは、3歳春ごろになってようやく他の馬に遅れないようになり、逆に他の馬よりも前に出ることができるようになった。しかし、この程度で喜べるのだからやはり評価は知れたもので、「意外と走るかも」とは言われても、まだ「この馬ならGlを勝てる」というレベルにはほど遠かった。ライスシャワーを預かることになった飯塚好次調教師の評価も似たようなもので、当時のライスシャワーを見ての評価は「中堅クラスまで行ければ上々」という程度のものでしかなかった。当時の飯塚師は、ライスシャワーが重賞戦線、ましてやGlクラスまで出世するとは、まったく予想していなかったという。
 
 しかし、入厩前からGlの手応えを感じさせてくれるような馬は、普通の厩舎には年に何頭もいるものでもない。当時の評価でも、中央競馬でデビューするには充分なもので、ライスシャワーは飯塚厩舎に入厩して競走馬としてデビューすることになった。
 
 ちなみに、「ライスシャワー」という馬名は、欧米で結婚式の時に新郎新婦にまわりがシャワーのようにかける米に由来している。この風習の由来については、正確なところはもはや伝わっておらず、米の聖なる力で新郎新婦の将来を清めてやるためだ、というもっともらしい説もあれば、ただ新郎新婦が食うに困らないように、というひどく現実的な説もある。それはさておくにしても、後のある時期、稀代の悪役としてその名を知られるようになるライスシャワーにとって、その競走生活のスタートとなった名前は、何かしら皮肉な運命の巡り合わせだったのかもしれない。

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ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~ https://retsuden.com/horse_information/2024/23/419/ https://retsuden.com/horse_information/2024/23/419/#respond Fri, 23 Feb 2024 04:22:53 +0000 https://retsuden.com/?p=419  1998年4月19日生。2005年8月28日死亡。牡。鹿毛。信岡牧場(浦河)産。
 父ブライアンズタイム、母インターピレネー(母父サンキリコ)。山内研二厩舎(栗東)、
 宇都宮徳一(荒尾)、岡田一男(浦和)
 通算成績は、26戦6勝(新2-7歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、アーリントンC(Glll)、新潟大賞典(Glll)、ききょうS(OP)、野路菊(OP)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『宿命の終着駅』

 現存するサラブレッドの父系をたどると、いわゆる「三大始祖」・・・ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリータークの3頭に遡ることができることは、競馬ファンにとって長らく常識の範疇に属する基礎知識とされてきた。「サラブレッド」という種がこの世に存在しなかった古き時代から、「競馬」は存在していたようである。しかし、やがて天の与えたままの馬の姿だけでは満ち足りなくなった古人は、より速く走るために、より純粋に競走馬としての戦いに生きるために馬たちの品種改良を重ね、ついには「三大始祖」たちの血によって「サラブレッド」という究極の種を生み出した。

 サラブレッドとは、彼らの祖先とは異なり、競馬という目的のため、人の手でつくりだされた種である。そうであるがゆえに、彼らは自らの存在、そして生命そのものを、競馬という戦いに捧げる宿命にある。彼らに求められるものは、いつの時代も変わらない。レースに勝って、ウィナーズサークルに立つこと。その一点こそが、サラブレッドの存在する理由である。

 だが、彼らが自らの存在の理由を極めた時・・・競馬界の頂点に立った時、果たして彼ら自身は、何を思うのか。スタンドを埋めたファンの喝采を浴びながら、彼らは何に思いを馳せるのか。・・・おそらく、何も思いはしない。それらは、人ならぬ彼ら自身にとって、おそらく何の意味もないものである。彼らはなぜ戦うのか。それは、彼らがサラブレッドとして生まれたから。彼らは、ただ人のために走り、戦い、そして死んでゆく。それが彼らの現実であり、宿命である。

 2005年8月28日、1頭のサラブレッドが7年あまりの短い生涯を閉じた。ダンツフレーム・・・2002年の宝塚記念(Gl)を制し、同年の中央競馬における夏のグランプリホースとなった彼は、それ以外にも重賞を2勝し、また2001年の皐月賞(Gl)、東京優駿(Gl)、そして2002年の安田記念(Gl)で2着に入った強豪であった。彼の競走馬としての戦績は、人のために走り、戦うべきサラブレッドとして、なんら申し分のない戦績であった。

 そんな彼に罪があったとすれば、それは彼自身の血脈だった。彼を生み出した牝系・・・それは、急速に近代化する日本競馬の中では、もはや時代遅れとなりつつある異形の血脈だったのである。ダンツフレームは、誰もがうらやむ良血馬たち・・・アグネスタキオン、ジャングルポケットといった強豪たちと互角に戦い、やがて6度目の挑戦にして初めて悲願のGlを制した。だが、そんな彼を待っていたのは、生まれる時・・・否、それ以前から定まっていた血統ゆえの低い評価であり、過酷な運命だった。今回のサラブレッド列伝は、悲しい運命に翻弄され、やがて早すぎる終着駅を迎えてしまった1頭のサラブレッドに捧げる物語である。

『異形の血脈』

 ダンツフレームの生まれ故郷は、日本有数の馬産地である北海道・日高地方の中でも特に古くから馬産の中心となってきた浦河にある、信岡牧場である。この牧場の生産馬からは、かつて1981年の朝日杯3歳S勝ち馬ホクトフラッグ、95年の桜花賞馬ワンダーパヒュームなどが出ている。

 ダンツフレームの母インターピレネーが競走馬として残した戦績は、21戦3勝にすぎない。しかし、実際の彼女は数字の羅列から想像されるような一介の条件馬とは一線を画した存在であり、名牝ベガが輝いた93年の牝馬クラシック戦線に参戦し、4歳牝馬特別(Gll)で3着に入って桜花賞(Gl)にも出走している(9着)。

 インターピレネーの血統をみると、93年の中央競馬の血統水準の中ですら、一流とは言いがたいものだったことを否定できない。彼女の父であるサンキリコは、競走馬としても2歳時に英国のGll、Glllを合計3勝したという程度の実績しかなく、また種牡馬としても、関東オークスをはじめ南関東の牝馬限定重賞を中心に活躍したケーエフネプチューン、新潟3歳S(Glll)3着のワンダーピアリス、ガーネットS(OP)2着のユーフォリアなどを出した程度の存在に過ぎない。インターピレネーは、父の種牡馬成績を紹介する時には、重賞での入着という「実績」を持つという一点をもって、「代表産駒」に名を連ねられる資格を持っていた。

 それでも、引退後は信岡牧場で繁殖入りして1996年に初子を産んだインターピレネーは、その後も繁殖牝馬としての使命を順調にこなしていた。

 インターピレネーが97年春にマイニング産駒のマイニンハットを出産すると、信岡牧場の人々は、彼女をブライアンズタイムと交配することに決めた。種牡馬ブライアンズタイムといえば、既にナリタブライアン、マヤノトップガンという超大物を輩出し、同年のクラシック戦線にもサニーブライアン、ヒダカブライアン、エリモダンディー、シルクライトニングといった有力馬たちを大量に送り込み、種牡馬界にサンデーサイレンスの対抗勢力としての地位を確立しようとしていた。

 インターピレネーとの関係でいうならば、ブライアンズタイムとの交配は「不釣合い」にも見える。だが、信岡牧場はブライアンズタイムのシンジケート株を持っており、また自分の牧場の基礎牝系に属するインターピレネーに大きな期待をかけていた。彼女自身、繁殖入り直後に既に一度ブライアンズタイムと交配され、初子ゼンノペッパーを産んでいた。競走馬としては大成できなかったゼンノペッパーだが、馬っぷりは生まれながらにすばらしい馬だった。同じ父、同じ母を持つ全兄弟として、ぜひ兄を超える存在になってほしい。それが、信岡牧場の人々の切実な願いだった。

『インターピレネーの10』

 「インターピレネーの10」・・・後のダンツフレームが生まれたのは、翌98年4月19日のことである。「ブライアンズタイム最高の当たり年」と評された97年クラシック戦線の季節に、その活躍によって集まった牝馬たちから生まれたブライアンズタイム産駒たちの1頭・・・それが「インターピレネーの10」である。

 ところが、実際に生まれた「インターピレネーの10」は、信岡牧場の人々がひいき目に見ても、おせじにも走りそうな馬には見えなかった。

「決して見てくれのいい馬ではなかった。見た感じは、むしろボテッとした感じで・・・」

 「インターピレネーの10」の牧場での担当者は、当時の思い出をそう語っている。体型は美しくないし、日ごろの行いを見ても、

「いつもおとなしいというか、放牧地でみんなが走り回っていても、黙々と草ばかり食っているような子供だった」

というもので、とても競走馬としての未来を感じさせるような存在ではなく、むしろ

「食ってばかりでぶくぶく太っていた」
「牛みたいな馬だった」

などという評すら伝えられていた。「インターピレネーの10」、幼い日のダンツフレームは、一部の生まれながらの良血馬がそうであるような輝き・・・スター性とは、あまりにかけ離れた存在だった。

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ノーリーズン列伝~Rebel Without a Cause~ https://retsuden.com/age/2000s/2024/23/469/ https://retsuden.com/age/2000s/2024/23/469/#respond Fri, 23 Feb 2024 02:54:42 +0000 https://retsuden.com/?p=469  1999年6月4日生。牡。鹿毛。ノースヒルズマネジメント(新冠)産。
 父ブライアンズタイム、母アンブロジン(母Mr.Prospector)。池江泰郎厩舎(栗東)所属。
 通算成績は12戦3勝(新3-5歳時)。主な勝ち鞍は、皐月賞(Gl)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、新年齢(満年齢)を採用します)

『謎多き戦譜』

 2002年の皐月賞のことを聞かれて多くのファンが思い浮かべるのは、おそらく下馬評を徹底的に破壊し尽くした波乱の結末であろう。重賞3連勝中でクラシックの大本命と言われたタニノギムレットらを退けて三冠の一冠目を制したのは、抽選で出走権を手にした2勝馬ノーリーズンだった。だが、重賞初挑戦の身で、しかも前走の若葉S(OP)では惨敗して人気を大きく落としていたノーリーズンは、ほとんどのファンから忘れられた存在で、前評判の低さを物語るように、この日の配当は単勝15番人気の11590円、馬連に至っては53090円だった。こんな人気薄の馬が、しかも94年にナリタブライアンが記録して以来更新されていなかった皐月賞レコードを8年ぶりに更新する圧倒的なレース内容で勝利を手にするなど、レース前の段階で誰が予想できようか。

 こうして初めての檜舞台でファンにとてつもない衝撃をもたらしたノーリーズンだが、彼はその後も戸惑うファンを翻弄し続けた。皐月賞のレース内容に加えてもともとは良血馬と言われる存在だったことから、それ以降は同世代の有力馬の1頭として扱われるようになり、日本ダービーでは2番人気、菊花賞では1番人気と皐月賞馬にふさわしい人気を集めるようになったノーリーズンだったが、その後の彼は人気に見合う走りを見せることなく、それどころか菊花賞では「走る」ことすらないまま舞台から退場してしまった。

「ノーリーズンとは、どんなサラブレッドだったのか?」

 この答えに、当意即妙に答えうるファンは、おそらく少数であろう。皐月賞で溢れるほどの才能の煌きを見せながら、荒ぶる才能を制御することができないまま、そのすべてを見せることなく競走生活を終えたノーリーズンというサラブレッドに、ファンは一方では魅せられ、また他方では反発せざるを得なかった。そんな相反するふたつの評価の間で、彼はついにワンフレーズでは表現し得ない混沌とした存在として、人々の記憶に刻まれることになったのである。今回のサラブレッド列伝では、そんなノーリーズンの波乱に満ちた競走馬としての戦いの系譜を追ってみたい。

『悲運の姉、か弱き弟』

 ノーリーズンは、1999年6月4日、新冠のノースヒルズマネジメントで生まれた。時は折しも第66回日本ダービーの2日前、アドマイヤベガ、ナリタトップロード、テイエムオペラオーが激突した「三強決戦」の直前のことだった。

 ノーリーズンの血統は、父が日本を代表する種牡馬であるブライアンズタイム、母が米国の1勝馬アンブロジンというものである。もっとも、繁殖牝馬としてのアンブロジンへの期待は、彼女の競走馬としての戦績とはあまり関係がないところから生じていた。

 96年に日本へ輸入された段階から名種牡馬Green Desertや後に日本へ輸入されたウィザーズS(米Gll)勝ち馬トワイニング、阪神3歳牝馬S勝ち馬ヤマニンパラダイスといった名馬たちに連なる牝系、また彼女自身も世界的種牡馬Mr.Prospectorの直子であること、そしてノースヒルズマネジメントに輸入される前にはゴドルフィンを率いるシェイク・モハメド殿下の所有馬だったという事実等が重なって期待を集めていたアンブロジンだったが、彼女がノースヒルズマネジメントで出産したノーリーズンの2歳年上の半姉・ロスマリヌス(父サンデーサイレンス)は、期待を大きく上回る美しい仔馬だった。

「牧場の評価でいうならば、(3年後に生まれた後の牝馬三冠馬)スティルインラブ以上でした」

と評され、ノースヒルズマネジメントの歴史の中でも最上級の期待を寄せられていたロスマリヌスは、順調にデビューして勝利を重ね、特に白菊賞(500万下特別)では、後の重賞5勝馬ダイタクリーヴァに完勝して阪神3歳牝馬Sの有力候補に躍り出た。しかし、その後に故障を発症したロスマリヌスは、ついに復帰を果たすことができず、無敗のまま短い競走生活を終えている。

 そんな「未完の大器」の半弟として生まれたノーリーズンは、牧場にいるころは否応なく「アンブロジンの子」「ロスマリヌスの半弟」という形で期待を集めていた。・・・もっとも、その評価は読んで字のごとく、母や姉に依存したものにすぎない。彼自身の評判はというと、遅生まれのうえに骨瘤に悩まされていたこともあって体が弱く、調教を休むことも多かったという。

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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~ https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1069/ https://retsuden.com/horse_information/2023/07/1069/#respond Mon, 07 Aug 2023 13:35:15 +0000 https://retsuden.com/?p=1069 1997年3月14日。牡。鹿毛。稲葉隆一(美浦)厩舎。高松牧場(浦河)。
父コマンダーインチーフ 母プリンセススマイル(母父ノーザンテースト)
29戦4勝(旧3-新5歳時)。ジャパンダートダービー(統一Gl)制覇。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『消えゆくダービー』

 2022年6月に発表されたダート路線の改革案は、日本競馬のダート界に1998年の統一グレード導入以降最大級の衝撃をもたらした。その改革案によれば、2024年以降、地方競馬の盟主・南関東競馬のクラシックレースである羽田盃、東京ダービーをJRAや他地域に開放したうえでダートグレード競走のJpnlに位置づけるとともに、現在は夏に行われているジャパンダートダービーの名称を「ジャパンダートクラシック」と変更したうえで実施時期を秋に移行し、この3つのレースをもって「3歳ダート三冠競走」として位置づけるというのである。

 日本の競馬界における「ダービー」という名称は、世代王者決定戦であるクラシック・レースの中において最高の格式あるレースというイメージが定着している。そのイメージを前提とすると、「3歳ダート三冠」の中に「ダービー」が2つあるのは、不都合とも言えるかもしれない。

 ただ、統一グレード導入前後、まだ競走馬の年齢表記が数え年表記だったころに存在した「4歳ダート三冠」では、三冠レースのうち2つは「ダービー」の名を冠していたが、特に不都合はなかった。しかし、今回は東京ダービーだけに「ダービー」の名を残し、ジャパンダートダービーから「ダービー」の名を消すという選択が、これらのレースの格式にどのような影響をもたらすのか、興味は尽きない。

 今回の改革によって大きな影響を受けるジャパンダートダービーは、1999年の創設以降、多くの名馬たちが名勝負を繰り広げてきたレースである。創設当初は2つ、そして06年以降は唯一の旧4歳(現3歳)世代限定の統一GlないしJpnlとして、25年間にわたって世代別ダート王決定戦の役割を果たしてきたこのレースが、「3歳ダート三冠」のためにジャパンダートクラシックへ改編され、その歴史をいったん閉じることについては、感慨深いものを感じるファンも少なくないだろう。

 2000年の第2回ジャパンダートダービーを制したマイネルコンバットは、JRA所属馬として初めてこのレースを制した馬である。「4歳ダート三冠」が幕を開け、まだ短い歴史を閉じていなかった20世紀最後の年、ダート戦線の黎明期に足跡を残した彼の歩みを振り返ってみたい。

『誕生』

 1997年3月14日、マイネルコンバットは、浦河の高松牧場で産声をあげた。父はデビューからわずか2ヶ月の間に英愛ダービーを制したコマンダーインチーフ、母はJRAで8戦1勝の戦績を残したプリンセススマイルである。

 マイネルコンバットは、プリンセススマイルの第4子にあたる。プリンセススマイルはもともと社台ファームで生産されたが、繁殖牝馬セールに出された際に、高松牧場によって購入された。そして、高松牧場で彼女が産んだ3頭の兄のうち、アガペーとサンキューホーラーは、最終的にはJRAの準オープン級まで出世する。当時はまだ兄たちがどこまでの戦績を残すのかを知るべくもないが、それでも長兄のアガペーは、もう条件戦をちょくちょく勝っていた。

 マイネルコンバットの血統は、アガペーと同じくNorthern Dancer系の同系配合で、それもNorthern Dancerの4×3といういわゆる「奇跡の血量」を持つ(厳密には、兄は4×4×3)。アガペーが勝つたびに、マイネルコンバットに対する牧場の人々の期待も高まっていくことは、むしろ自然な流れだった。

 マイネルコンバットが生まれたころ、高松牧場の経営者夫婦はある理由で夫婦喧嘩になっており、夫人が

「別れる!」

と言っていた。しかし、生まれたマイネルコンバットは、馬体の柔らかさが目立つ子馬で、

「あの子が競馬場で走るところを見てみたい」

と思って離婚を思いとどまることにしたという。マイネルコンバットは、競馬場で走る前から高松牧場の家族を守っていた。

 そんな期待の子馬への買い付けの申し込みは、高松牧場の人々を歓喜させた。その申し込みの主は、「マイネル」「マイネ」の冠名で知られる一口馬主クラブ「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の代表である岡田繁幸氏だった。

『相馬の天才~「総帥」の原点~』

 岡田氏は、1973年の朝日杯3歳Sを制したミホランザンなどを輩出した岡田蔚男牧場の長男として生まれた。大学中退後、本場の馬産を学ぶという名目で、実際には今後の人生の道標を探すために渡米し、米国の牧場に滞在していた際、世話を頼まれた牝馬を見出したところ、それが後に無敗の10連勝でニューヨーク牝馬三冠を制しながら悲劇的な最期を遂げるラフィアンだったことで知られており、後に彼が設立した牧場やクラブの名前も、彼女にあやかっている。

その後、日本へ帰国した岡田氏は、馬産に本格的に携わっていくことは決意したものの、「父の牧場を引き継いだのでは、本当の意味での自分の馬産ができないから」という理由で、父の牧場の継承権は弟に譲り、自分は自前で一から牧場を立ち上げることにした。

また、彼は自前の牧場の生産馬からだけではなく、「ラフィアンを最初に見出した男」という肩書で馬産地を直接訪ね、自ら見て回った子馬の中から眼鏡にかなった子馬を買い付けて馬をそろえるという手法をとった。・・・というよりも、主力はどちらかというと後者だった。

とはいっても、当時の馬産地では、目立った実績や血統を持つ馬になればなるほど、母馬やなじみの調教師との人間関係で、「生まれた時には馬主が決まっている」というパターンが多かった。そこで、岡田氏が馬を求めて回るのは、大馬主や調教師とのパイプを持たない中小牧場が多かった。

岡田氏の名前が一般のファンの間でも知られるようになったのは、1986年の日本ダービーである。彼が自らの所有馬として送り込んだグランパズドリームは、父が内国産馬カブラヤオー、母に至ってはサラ系のサラキネンという、当時の血統水準からしても目立たない…というよりは、逆の意味で目立つと言っても過言ではない血統のサラ系だった。しかし、それまでどんな馬を買っても認めてくれなかった父親の蔚男氏に

「本当にいい馬を見つけた。これだけは見に来てほしい」

と伝えたところ、蔚男氏も見に来て、

「本当にいい馬だな…」

と、初めてほめてくれたのだという。

『相馬の天才~おじいちゃんの夢~』

 蔚男氏は、その馬のデビューを見ることなく、亡くなってしまった。岡田氏は、自身の長男を可愛がってくれた父が最後に認めてくれた馬に「グランパズドリーム」と名付けて自身の名義で走らせ、青葉賞(OP)2着で日本ダービー(Gl)に出走を果たした。

 日本ダービーではテン乗りの田原成貴騎手が騎乗したが、皐月賞で2着だったフレッシュボイスが故障で回避してがっかりしていたところに騎乗依頼を受けたという田原騎手は、

「馬主も調教師もあまりに威勢がいいから(依頼を)受けた」

という。

 とはいっても、9戦2勝で勝ったのは条件戦のみ、重賞実績もないに等しいグランパズドリームは、23頭立てで単勝4370円の14番人気と、まったく人気がなかった。しかし、レースになると、大混戦の中でグランパズドリームは経済コースを通って先に抜け出し、一時は2,3馬身差をつけた。

 そこからダイナガリバーが飛んできて、激しい一騎打ちとなったが、最後は差し切られて、半馬身屈した。

 この日、馬主席に応援に来ていた岡田氏は、ダイナガリバーの生産者である社台ファームの吉田善哉氏が、65歳で初めてのダービー制覇を果たし、人目もはばからずに泣く姿を見ながら、

「初めてダービーの重みを知った」

と言い、善哉氏自身から

「君はまだ早い」

と言われたとも語っている。この時、「ダービーは近いうちに必ず獲れる」と思っていたという岡田氏にとって、この時の半馬身が生涯にわたって決定的なものになることなど、知る由もない。

もっとも、グランパズドリームでいきなり日本ダービー2着という結果を残し、さらにサラブレッドクラブ・ラフィアンでも「マイネル」「マイネ」の冠を持つ馬が早い時期から実績を残したことで、岡田氏に関する噂は、

「ラフィアンの馬は、安い割によく走る」

「岡田氏が選んだ馬は、血統が悪くてもよく稼ぐ」

と変わっていった。「相馬の天才」と呼ばれる岡田氏の名前は馬産地に広く知れ渡り、中小牧場の牧場主の中には「岡田さんに買ってもらえるような馬を作る」ことを目標として掲げる者も少なくなかった。

 マイネルコンバットを認めた岡田氏とは、そんなホースマンだったのである。

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シリウスシンボリ列伝 ~漂泊の天狼星~ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/#respond Sat, 15 Apr 2023 14:03:23 +0000 https://retsuden.com/?p=306 『悲しき天狼星』

 冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。

 かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。

 シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。

 さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。

 ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。

 確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。

『不世出のホースマン』

 シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。

 シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。

 和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。

 しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。

 当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、

「和田に会いたい」

とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。

 和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。

 シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。

『シンボリの血』

 シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。

 モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。

 和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。

 もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。

 このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。

 しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。

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サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/ https://retsuden.com/age/1980s/2023/03/293/#respond Sun, 02 Apr 2023 17:52:46 +0000 https://retsuden.com/?p=293  1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
 父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
 通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『雨に泣いたサラブレッド』

 全国高校野球選手権大会・・・日本の夏の風物詩であり、「夏の甲子園」として親しまれる高校野球の最高峰は、過去の歴史の中で多くの伝説を残してきた。

 そんな「夏の甲子園」の歴史の中で、特に異彩を放つ名勝負がある。それは、1973年夏、第55回全国高校野球選手権大会2回戦の銚子商業対作新学院である。

 栃木代表・作新学院には、絶対的なエースがいた。江川卓、18歳。23連勝という破竹の勢いのまま臨んだ同年春の選抜高校野球選手権大会では、高校生という域をはるかに超えた剛球を武器に三振の山を築き、わずか33回で60奪三振という大会記録を作りながらも、準決勝で対戦した名門・広島商業のダブルスチールという奇策で焦った味方の悪送球により、決勝点を奪われて敗れ去った悲運のエースを、人々は「怪物」と呼んだ。

 その「怪物」は、5ヶ月後に再び甲子園へと還ってきた。県予選5試合を被安打2、失点0、奪三振75、無安打無得点試合3回という驚異的な戦績で勝ち抜き、1回戦の柳川商業戦も延長15回を投げ抜いて23三振を奪い、1対0で勝ち上がった1人の少年に、日本国民は熱狂した。第55回全国高校野球選手権大会は、さながら「江川のための甲子園」と噂されていた。

 だが、やはり好投手を擁する銚子商業との戦いは、激しい投手戦となった。スコアボードに延々と繰り返される「0」。投手がいくら好投しても、点を取れなければ勝利はない。そして0対0のまま迎えた延長12回裏、江川は一死満塁の危機を迎える。打者のカウントは、ツーストライク・スリーボール。この日の甲子園球場は、試合途中から降り始めた雨にけぶっていた。雨に濡れて思いのままにならない足場とボールに悩み、

「フォアボールを出してしまうかもしれない」

と弱音を吐いた江川投手に対し、マウンドに集まった内野手たちは

「お前の好きな球を投げろ」

と励ました。そして・・・江川が投じた最後のボール、渾身のストレートは無情にも高めに外れ、怪物の甲子園、そして高校最後の試合は、終わった。

 試合後、敗戦の悔しさをかみしめる間もなく報道陣からマイクを向けられた江川は、

「力の差です。雨で球が滑ったのではありません。コントロールがないのです」

と答えた。だが、それが事実ではないことは、誰よりもファンが知っていた。「ちいさい秋みつけた」など多くの童謡の作詞者であるとともに、雨を愛する詩人として、雨を題材とする多くの詩を詠ってきたサトウハチローは、この試合の翌日、スポーツ紙で

「わたしは雨を愛した詩人だ
 だがわたしは江川投手を愛する故に
 この日から雨がきらいになった
 わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた」

と詠い、事実、その死まで二度と雨の詩を作らなかったという。

 野球に限らず、雨とスポーツには常に密接な関係がある。雨は、種類を問わず屋外で行われるあまたのスポーツに「雨中の決戦」というドラマをもたらし、時には名勝負、時には大波乱をもたらしてきた。ターフに敷き詰められた芝の上を戦場とし、その戦場を速く駆け抜けることを競う競馬も例外ではなく、雨によって生み出された歴史は既に競馬の歴史の一部となっている。だが、その歴史とは、江川投手の故事が示すとおり、必ずしも明るいものばかりではない。

 サクラホクトオー・・・1988年の朝日杯3歳S(Gl)を制し、最優秀3歳牡馬に輝いた強豪は、同時に雨によって運命を翻弄されたサラブレッドの1頭でもあった。日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳Sを勝った名馬サクラチヨノオーの1歳下の半弟としてデビューしたサクラホクトオーは、兄に続いて朝日杯3歳Sを、それも兄を超える無敗のまま勝ったことで、翌年のクラシック戦線で兄に続くダービー制覇、そして兄を超える三冠制覇の夢をも託されるに至った。しかし、順風満帆に見えた彼の競走生活は、ターフを濡らした雨によって、大きく変えられていったのである。

『星のふる里』

 サクラホクトオーが生まれたのは、古くは天皇賞馬トウメイを出したことで知られる静内の名門・谷岡牧場である。サクラホクトオーの血統は、父が「天馬」トウショウボーイ、母が中山牝馬Sなど中央競馬で6勝を挙げたサクラセダンというもので、まさに日本競馬を代表する内国産血統だった。

 サクラセダンは谷岡牧場のみならず、日本競馬に長年貢献してきた名繁殖牝馬でもある。彼女は現役時代の成績だけでなく繁殖成績も特筆に価するもので、函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)、七夕賞と重賞を2勝したサクラトウコウ、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)などを勝ったサクラチヨノオー、そしてサクラホクトオーを輩出している。

 サクラホクトオーの配合が検討されていたのは、脚部不安によって長期間戦列を離れていたサクラトウコウの復帰が迫り、さらにその全弟である7番子が、その馬体の素晴らしさから「サクラトウコウを超える逸材」として噂になり、近所の牧場関係者が

「どんな馬だろう」

と次々見学に来ていたころだった。サクラトウコウの活躍と、子馬・・・後のサクラチヨノオーの出来に気をよくした谷岡牧場は、

「セダンはマルゼンスキーとの相性がいいんだ」

と言って、もう1度マルゼンスキーをつけてみようと話し合っていた。

 そんな予定を大きく変えたのは、その年谷岡牧場に、トウショウボーイの種付け権が当選したという知らせだった。現役時代の輝かしい栄光もさることながら、産駒も牡牝を問わず高く売れるトウショウボーイは、種牡馬としても極めて高い人気を誇っていた。ただ、トウショウボーイは軽種馬農協の所有馬だったため、種付け権は組合員の抽選を経なければならず、その倍率は年を追うごとに跳ね上がっていた。このチャンスを逃せば、次にトウショウボーイと交配できるのはいつになるか分からない。いや、トウショウボーイが生きているうちは無理かもしれない。

 谷岡牧場の人々は、トウショウボーイの種付け権を生かすために、牧場の最高の繁殖牝馬であるサクラセダンを用意した。サクラセダンは、無事トウショウボーイの子を受胎し、翌年には鹿毛の牡馬を出産した。それが、後のサクラホクトオーであった。

『桜の星の下で』

 谷岡牧場の期待を背負って生まれたサクラホクトオーは、病気もない健康な子馬だった。しかし、人間の眼は、どうしても1歳違いの兄と比べてしまう。

 兄は、生まれながらにサラブレッドの理想形ともいうべき美しい馬体をしていた。生まれたばかりの弟は、兄に比べるとかなりの見劣りがしていたため、牧場の人々は、

「やっぱり2年続けていい子はなかなか出ないなあ」

などと話し合っていたという。

 ところが、牧場の人々とは違う評価をしたのが、

「サクラセダンの子が生まれた」

と聞いて静内まで馬を検分に来た境勝太郎調教師だった。

 サクラセダンは、その冠名から分かるとおり、現役時代は「サクラ軍団」の一員として走った。「サクラ軍団」とは、「サクラ」を冠名とする全演植氏の所有馬(名義上の馬主は全氏が経営する㈱さくらコマース)たちの総称であり、境師はその主戦調教師だった。

 谷岡牧場を訪れた境師は、サクラセダンの8番子を見て、大いに感嘆した。

「この馬はきっと走る!」

 彼にすっかりほれ込んだ境師は、半信半疑の谷岡牧場の人々をよそに、全氏に対してもこの馬の素質を説き、自分の厩舎に入れるよう頼み込んだ。

 全氏というオーナーは、もともと血統へのこだわりが強い人だった。自分の所有馬として走らせた馬の子は、やはり自分の所有馬として走らたい。そんなこだわりを持つ全氏は、それまでのサクラセダンの子も、ほとんどを自分の所有馬として走らせていた。そんな全氏だから、境師からも強く勧められると、次に起こす行動は決まりきっていた。

 とはいえ、軽種馬農協の所有種牡馬であるトウショウボーイの産駒は、セリに上場するよう義務づけられている。つまり、サクラセダンの8番子は、兄姉と違って、庭先取引ですんなりと全氏の所有馬に、というわけにはいかない。

 だが、全氏はセリに赴き、あっさりと決着をつけた。

「3000万円!」

 ・・・いきなり相場を上回る価格で手を挙げた全氏は、周囲の予想どおりこの子馬を競り落としたのである。

 こうしてサクラセダンの8番子は、兄・サクラチヨノオーと同じく、サクラの勝負服で走ることになった。競走名は、第61代横綱北勝海にあやかって「サクラホクトオー」に決まった。兄のサクラチヨノオーは横綱千代の富士にあやかっての命名で、千代の富士と北勝海は、九重親方の兄弟弟子にあたる。なお、横綱北勝海は、引退後も八角親方として角界に残り、2015年から第13代日本相撲協会理事長を務めている。

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