★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…
西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。
時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。
だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。
日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。
名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。
タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。
名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。
もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。
「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」
シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。
もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。
しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。
現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。
「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」
錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。
錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。
もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。
初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、
「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」
「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」
そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。
しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。
グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、
「この馬の子供は走る!」
と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。
1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。
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すべてを捨てて戦い、そして散っていくことによって大衆の魂に感動を残したお前は、勝利によってよりも敗北によって輝いた日本競馬史上最大の叙情詩だった・・
20世紀も終わりに近づく2000年12月15日、師走の競馬界に小さからぬ衝撃が走った。1983年に牡馬クラシック三冠すべてを制し、歴史に残る三冠馬の1頭に名を連ねた名馬ミスターシービーの訃報が伝えられたのである。
三冠馬といえば、英国競馬のレース体系を範として始まった我が国の競馬においては、競走馬に許されたひとつの頂点として位置づけられている。ほぼ半年という長い時間をおいて、2000mから3000mという幅広い距離で戦われるクラシック三冠のすべてを制することは、身体能力、精神力、距離適性の万能性、そして運を兼ね備えた馬のみに可能な偉業である。三冠達成の偉大さ、困難さを証明するかのように、三冠馬は我が国の競馬の長い歴史の中でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、そしてナリタブライアンという5頭しか出現していない(注・2001年以降、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルが三冠を達成している)。ミスターシービーは、2000年暮れの時点で生存する2頭の三冠馬のうちの1頭だった。
ミスターシービーといえば、20世紀の日本競馬に現れた5頭の三冠馬、そして日本競馬史に残る名馬たちの中でも、ひときわ強烈な個性の輝きを放った存在として知られている。ミスターシービーは、ただ「三冠馬になった」という事実ゆえに輝いたのではない。皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。ミスターシービーが行くところには常に波乱があり、感動があり、そして奇跡があった。時には出遅れての最後方からの追い込みがあり、時には失格すれすれの激しいライバルとのせめぎ合いがあり、そして時には掟破りの淀の上り坂からのまくりがあった。そんな常識破りの戦法を繰り返しながら、ひたすらに勝ち進むミスターシービーの姿に、大衆は歓喜し、熱狂し、そして最もドラマティックな勝ち方で自らの三冠を演出する名馬のドラマに酔いしれたのである。
しかし、そんなミスターシービーに、やがて大きな転機が訪れた。古馬戦線で自らの勝ち鞍にさらに古馬の頂点である天皇賞・秋を加えたミスターシービーだったが、彼がかつて戦ったクラシック戦線から絶対皇帝シンボリルドルフが現れ、前年にミスターシービーが制した84年のクラシック三冠をすべて勝つことで、ミスターシービーに続く三冠馬となったのである。ここに日本競馬界は、歴史上ただ一度しかない2頭の三冠馬の並立時代を迎えた。
ミスターシービーとシンボリルドルフ。それは、同じ三冠馬でありながら、あまりにも対照的な存在だった。後方一気の追い込みという不安定なことこの上ない作戦を得意とし、それゆえにファンの心に他のどの馬よりも強烈な残像を焼きつけ続けてきたのがミスターシービーならば、シンボリルドルフは先行抜け出しという最も堅実な作戦を得意とし、冷徹なまでの強さで後続を寄せ付けないまま無敗の三冠馬となった馬である。2頭の三冠馬は、果たしてどちらが強いのか。三冠馬を2年続けて目にした当時の競馬ファンは、誰もが「三冠馬の直接対決」という空前絶後の夢に酔った。
ところが、夢の決戦の結果は、一方にとってのみ、この上なく残酷なものだった。2頭による直接対決は、そのすべてでシンボリルドルフがミスターシービーに勝利したのである。2頭の三冠馬の力関係は、シンボリルドルフが絶対的にミスターシービーを上回るものとして、歴史に永遠に刻まれることとなった。
こうして三冠馬ミスターシービーは、自らも三冠馬であるがゆえに、不世出の名馬シンボリルドルフと同時代に生まれたという悲運によって、その名誉と誇りを大きく傷つけられることとなったのである。ミスターシービーは、三冠馬の誇りを泥にまみれさせられ、
「勝負づけは済んだ」
と決め付けられることになった。
しかし、ミスターシービーの特異さが際だつのは、その点ではない。シンボリルドルフに決定的ともいうべき敗北を喫したミスターシービーが選んだ道が、既に大切なものを失いながら、なお残る己のすべてを捨てて、あくまでシンボリルドルフに戦いを挑み続けることだったという点である。
「三冠馬の栄光を傷つけるな」
識者からはそう批判されたその選択だが、いつの世でも常に強者に優しく弱者に冷たいはずの大衆は、あくまでもミスターシービーを支持し、大きな声援を送り続けた。馬券上の人気はともかくとして、サラブレッドとしての人気では、シンボリルドルフはついにミスターシービーを上回ることはなかったのである。そうしてミスターシービーは、シンボリルドルフに戦いを挑み続けるその姿によって、競馬を支える大衆の魂に、勝ち続けていたころと同じように… 否、勝ち続けていたころよりもむしろ深く強く、自らの記憶を刻み続けた。
結局、ミスターシービーの挑戦が、彼の望んだ「勝利」という形で実を結ぶことはなかった。だが、勝ち続けることによって記憶に残る名馬は多くとも、敗れ続けることによって記憶を残した名馬は極めて稀有である。大衆は、ミスターシービーの戦いの軌跡の中で、初めて彼が単なる強い馬だったのではなく、ファンの魂を震わせる特別な存在だったことを思い知り、その心に刻み付けることとなった。
大衆の魂を動かす名馬には、必ず彼らが生きた時代の裏付けがある。果たして大衆は、一時サラブレッドの頂点を極めながらも、より強大な存在に挑戦し続け、そして最後には散っていったミスターシービーの姿の中に、自分たちが生きた時代の何を見出したのだろうか。
ミスターシービーは、群馬に本拠地を置くオーナーブリーダー・千明牧場の三代目・千明大作氏によって生産されたとされている。千明牧場といえばその歴史は古く、大作氏の祖父がサラブレッドの生産を始めたのは、1927年まで遡る。千明牧場の名が競馬の表舞台に現れるのも非常に早く、1936年にはマルヌマで帝室御賞典(現在の天皇賞)を勝ち、1938年にはスゲヌマで日本ダービーを制覇している。
千明家がサラブレッドに注ぐ情熱は、当時から並々ならぬものだった。大作氏の祖父・賢治氏は、スゲヌマによるダービー制覇の表彰式を終えて馬主席に戻ってきた時、ちょうど自宅から電話がかかってきて、長い間病に臥せっていた父(大作氏の曽祖父)の死を知らされたという。その時賢治氏は、思わず
「あれは、親父が勝たせてくれたのか・・・」
とつぶやいた。
そんな千明牧場でも、大日本帝国の戦局が悪化し、国家そのものが困難な時代を迎えると、物資難によって馬の飼料どころか人間の食料を確保することすら難しくなっていった。賢治氏は、それでもなんとか馬産を継続しようと執念を燃やしたものの、その努力もむなしく、1943年には馬産をいったんやめるという苦渋の決断を強いられた。この決断により、千明家が長年かけて集めた繁殖牝馬たちは他の牧場へと放出されることになり、広大な牧草地はいも畑と化した。
年老いた賢治氏に代わって牧場の後始末を行ったのは、息子である久氏だった。彼が牧場に残った繁殖牝馬の最後の1頭を新しい引き取り先の牧場に送り届け、そこで聞いたのは、賢治氏の死の知らせだった。馬産に情熱を燃やし、かつて帝室御賞典、ダービーをも獲った賢治氏は、牧場閉鎖の失意のあまり病気を悪化させ、亡くなってしまったのである。
二代の当主の死がいずれも馬産に関わった千明家にとって、もはやサラブレッドの生産は単なる趣味ではなく、命を賭けて臨むべき宿命だった。そんな深く、そして悲しい歴史を持つ千明牧場の後継者である久氏もまた、時代が再び安定期を迎えるとともに馬産の再開を望んだのは、もはや一族の血の必然であった。
戦後しばらくの時が経ち、事業や食糧難にもいちおうのめどが立ってくると、久氏は千明牧場を再興し、馬産を再開することに決めた。1954年、久氏は千明牧場の再興の最初の一歩として1頭の繁殖牝馬を手に入れた。その繁殖牝馬の名前は、チルウインドであった。
再興されてからしばらくの間、千明牧場は戦前に比べてかなり小規模なものにとどまっていた。戦前に長い時間をかけて集めた繁殖牝馬たちは既に各地へ散らばり、久氏は事実上牧場作りを一から始めなければならなかったからである。しかし、信頼できるスタッフを集めて彼らに牧場の運営を任せ、さらに自らも馬を必死で研究した千明家の人々の努力の成果は、やがて1963年にコレヒサで天皇賞を勝ち、そしてチルウインドの子であるメイズイで皐月賞、日本ダービーの二冠を制するという形で現れた。戦前、戦後の2度、そして父と子の二代に渡って天皇賞とダービーを制したというその事実は、千明牧場の伝統と実績の重みを何よりも克明に物語っている。そんな輝かしい歴史を持った千明牧場の歴史を受け継いだのが、ミスターシービーを作り出した千明大作氏である。