人の世に流行り廃りがあるように、競馬の血統にも流行り廃りがある。というよりも、経済動物であるサラブレッドの場合、その栄枯盛衰は人の世よりもはるかに激しい。
かつて、英国競馬を範として成立した日本競馬では、短距離よりも中長距離レースの格式が高いとされていた。そうすると必然的に、馬産界では中長距離レースに耐えるスタミナと精神力を兼ね備えた、いわゆるステイヤー血統の種牡馬の人気が高く、逆に短距離レースに適したスピード血統の種牡馬は人気が低くなってくる。馬産界が種牡馬を導入する場合の選定基準は、その馬自身や近親の馬たちの中長距離の大レースでの実績であり、また長丁場に耐え得る馬体であった。
しかし、競馬を英国流の貴族の趣味から大衆の娯楽としてとらえ直し、一大エンターテイメント産業へと転換させたアメリカの影響が強まってくると、我が国でも次第に中長距離偏重レースの雰囲気は薄れ、短距離レースの比重が高まっていった。名誉を重んじる貴族の趣味から大衆の娯楽へと変貌した新しい競馬では、アメリカ的合理主義の影響で、年に幾度もない大レースだけのためにその馬が持てるすべてを燃やし尽くす中長距離レースの価値は衰えていった。それに代わって台頭してきたのは、スタートからゴールまで息つくひまもない激しいスピードで見る者を興奮させ、さらにひとレース終えた後の消耗からも短期間で立ち直ることができる短距離レースだった。
近年になっても、競馬のスピード化という流れはとどまるところを知らず、逆に「短距離偏重」ともいうべき状況ができあがりつつある。マイル戦やスプリント戦の条件戦が急増する反面で、クラシックディスタンス、あるいはそれよりも長いレースは、減少の一途をたどっている。その流れは次第に重賞戦線にも押し寄せ、昔ながらのスタミナ豊富なステイヤーが活躍できる舞台は少なくなるばかりである。
競馬のレース体系がこのように変わってくると、それにあわせて馬産界も変わらざるを得ない。種牡馬の世界でも繁殖牝馬の世界でも、スピード化の波に対応し得るアメリカ血統の人気が高まる一方で、かつてもてはやされていたステイヤー血統は見捨てられ、忘れ去られ、そして滅び去っていった。サンデーサイレンスを筆頭とする新時代の種牡馬がターフを席巻する中で、昔ながらのステイヤー種牡馬は居場所を失っていった。競馬の本場である英国でもこの傾向は顕著で、すでにクラシック三冠の最後の一つ、日本でいえば菊花賞に当たるセントレジャー(英Gl)は有力馬の参戦がなくなって形骸化し、アスコット金杯などの伝統の長距離レースですら、それを勝つことはむしろ「種牡馬としての未来を暗くする」として敬遠されるようになっている。競馬界の近年の状況を見ると、日本競馬もそんな本場の状況を後追いしているように思われる。
しかし、スピード競馬がこれまでの競馬にはない魅力を備えていたのと同様に、スタミナ競馬にもスピード競馬にはない独特の魅力があったはずである。スピード競馬が全盛を迎えている現在の、ほんの少し前の時代に、私たちにステイヤーの魅力を懸命に伝えようとした馬がいた。ステイヤー受難の時代の中で、滅びゆくステイヤーとして最後の輝きを放った馬がいた。過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、騎手と一体となって戦う従順さと、その内に秘めた闘志…。そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。時代に反逆するかのように戦い続ける彼の生き方は、彼の存在を抹殺しようとするかのような時代の中で、むしろ悪役として遇されることも多かった。そして、大衆が彼の魅力を本当に認めたその時、彼は時代の波に飲み込まれるように消えていったのである。
時代の流れに抗い続け、あまりにも速すぎた時代の流れの中に消えていったその馬の名前は、ライスシャワーという。彼は、
「疾走の馬、青嶺の魂となり」
そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、今も眠っている。
ライスシャワーが生まれたのは1989年3月5日、場所は登別にあるユートピア牧場である。
ユートピア牧場は、その前身の創業をたどると1941年(昭和16年)まで遡ることができる古い歴史を持つオーナーブリーダーで、古くは1952年(昭和27年)に皐月賞、ダービーの二冠を制したクリノハナを出したことで知られている。
ライスシャワーの母であるライラックポイントも、遡ればクリノハナと同じく、アイリッシュアイズを祖とする牝系に属していた。ただ、この牝系は概して子出しが悪いうえ、クリノハナ以降の産駒成績も 、決して芳しいものではなかった。この一族には、長い歴史の中でユートピア牧場から出された繁殖牝馬もいたものの、何代も経ないうちに消えていった。
しかし、ユートピア牧場の人々は、この一族を決して見捨てることなく牧場の基礎牝馬として残し続けてきた。二冠馬を出して牧場の誇りとなった牝系は、ユートピア牧場にとってあまりにも重い価値があったからである。
「いい種馬をつけていれば、いつかきっと一流馬を出してくれる」
そんな思いは、代々の繁殖牝馬に交配されたそれぞれの時代の名種牡馬たちの名前に凝縮されており、ライラックポイントも、長らく日本競馬を引っ張った名種牡馬マルゼンスキーの娘として誕生した。
ライラックポイントは、競走馬としてはなかなかの成績を残し、中央競馬で4勝をあげたものの、牧場へ帰ってきてからの繁殖成績では、ライスシャワーの前に3頭の子を出したものの、いずれも特筆するような成績は残せなかった。しかし、ユートピア牧場の人々は、ライラックポイントの潜在能力に期待をかけて、リアルシャダイを交配することにした。
リアルシャダイは、通算成績は8戦2勝、主な勝ち鞍はドーヴィル大賞典(仏Gll)と、その戦績は一見派手さには欠けている。しかし、リアルシャダイは英国ダービー馬Robertoの重厚な血を継ぎ、Northern Dancerの血を持たない異端の血統を買われて、現役時代の馬主だった社台ファームによって日本へ導入されていた。リアルシャダイに期待されていたのはポスト・ノーザンテースト時代の旗手としての役割であり、1988年当時には既に産駒が競馬場でデビューし始め、新時代の担い手という触れ込みが現実のものとなる予感を感じさせていた。ちなみにこれは後の話になるが、リアルシャダイはライスシャワーが5歳となった1993年にノーザンテーストを破って中央競馬のリーディングサイアーに輝き、1982年から11年間続いたノーザンテースト独裁時代に終止符を打っている。
こうして交配されたリアルシャダイとライラックポイントとの間に生まれた小さな黒鹿毛の牡馬こそが、後に「関東の黒い刺客」として関西ファンの背筋を震わせ、さらに後には「最後のステイヤー」としてステイヤー時代の最後の輝きを放つ宿命を背負った異能の名馬ライスシャワーだった。もともとスタミナ、スピードを兼ね備えたバランスの良さが特徴とされるマルゼンスキーの肌に、さらに欧州出身のステイヤーの血を注入した配合は、明らかに底力に富んだ長距離向きのものだった。
ただ、こうして生まれたライスシャワーは、生まれながらに大きな期待を背負っていたわけではなかった。生まれたばかりのライスシャワーは、馬体こそバランスがとれていたものの、体格があまりに小ぶりで、さらに体質、脚部が弱かったこともあって、決して大物感を漂わせた存在ではなかった。育成段階でも、最初のうちは同世代の馬たちにむしろ遅れがちで、期待感よりは「この程度でどこまでやれるのか」という不安の方が先に立つ馬だった。
ライスシャワーは、3歳春ごろになってようやく他の馬に遅れないようになり、逆に他の馬よりも前に出ることができるようになった。しかし、この程度で喜べるのだからやはり評価は知れたもので、「意外と走るかも」とは言われても、まだ「この馬ならGlを勝てる」というレベルにはほど遠かった。ライスシャワーを預かることになった飯塚好次調教師の評価も似たようなもので、当時のライスシャワーを見ての評価は「中堅クラスまで行ければ上々」という程度のものでしかなかった。当時の飯塚師は、ライスシャワーが重賞戦線、ましてやGlクラスまで出世するとは、まったく予想していなかったという。
しかし、入厩前からGlの手応えを感じさせてくれるような馬は、普通の厩舎には年に何頭もいるものでもない。当時の評価でも、中央競馬でデビューするには充分なもので、ライスシャワーは飯塚厩舎に入厩して競走馬としてデビューすることになった。
ちなみに、「ライスシャワー」という馬名は、欧米で結婚式の時に新郎新婦にまわりがシャワーのようにかける米に由来している。この風習の由来については、正確なところはもはや伝わっておらず、米の聖なる力で新郎新婦の将来を清めてやるためだ、というもっともらしい説もあれば、ただ新郎新婦が食うに困らないように、というひどく現実的な説もある。それはさておくにしても、後のある時期、稀代の悪役としてその名を知られるようになるライスシャワーにとって、その競走生活のスタートとなった名前は、何かしら皮肉な運命の巡り合わせだったのかもしれない。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬の歴史を振り返ると、その売上や人気を物語る指標の多くが、1980年代末から90年代にかけての時期に集中している。後に「バブル経済」と呼ばれる好景気はその中途にはじけ、日本経済は収縮の方向へ向かったものの、その後の経済の退潮はまだ好不況のサイクルのよくある一環にすぎないという幸福な誤解の中、中央競馬だけが若年層や女性を中心とする新規のファン層を獲得し続け、不況知らずの右肩上がりで成長を続けたこの時期は、JRAにとってまぎれもなき「黄金時代」だった。
しかし、夢はいつかさめるものである。永遠に続く黄金時代など、存在しない。20世紀終盤に訪れたJRAの黄金時代は、時を同じくして日本が迎えた不況がそれまでとは異質なものであり、後世から「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれるようになる構造不況の本質が明らかになったころ、終わりを告げた。新規ファンの開拓が頭打ちとなり、さらに従来のファンも馬券への投資を明らかに控えるようになったことで、馬券の売上が大きく減少するようになったのである。日本競馬の90年代といえば、外国産馬の大攻勢によって馬産地がひとあし早く危機を迎えた時代でもあったが、これとあわせてJRAの財政の根幹を支えた馬券売上の急減により、日本競馬は大きな変質を余儀なくされたのである。
しかし、日本を揺るがしたどころか、本質的にはいまだに克服されたわけではない不況の中で、中央競馬だけが20世紀末まで持ちこたえることができたというのは、むしろ驚異に値するというべきである。そして、そんな驚異的な成長を支えたのは、ちょうどこの時代に大衆を惹きつける魅力的なスターホースたちが続々と現れたからにほかならない。やはり「競馬」の魅力の根元は主人公である馬たちであり、いくら地位の高い人間が威張ってみたところで、馬あってのJRA、馬あっての中央競馬であるということは、誰にも否定しようがない事実である。
そして、そうした繁栄の基礎を作ったのがいわゆる「平成三強」、スターホースたちの時代の幕開けである昭和と平成の間に、特に歴史に残る「三強」として死闘を繰り広げたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの3頭である、ということは、誰もが認めるところである。当時はバブル経済の末期にして最盛期だったが、この時期に3頭の死闘によって競馬へといざなわれたファンは非常に多く、彼らが中央競馬の隆盛に対して果たした役割は非常に大きい。今回は、「平成三強」の一角として活躍し、天皇賞秋春連覇、菊花賞制覇などの実績を残したスーパークリークを取り上げる。
スーパークリークの生まれ故郷は、門別の柏台牧場である。柏台牧場は、現在こそ既に人手に渡っており、その名前を門別の地図から見出すことはもはやできないが、平将門に遡り、戦国期にも大名として君臨した陸奥相馬家に連なる名門だった。しかも、その特徴は家名だけではなく、20頭前後の繁殖牝馬を抱える規模、そして昼夜放牧を取り入れたり、自然の坂を牧場の地形に取り入れたりするなど、先進的な取り組みを恐れない先進的な牧場としても知られていた。スーパークリーク以外の生産馬も、スーパークリークが生まれた1985年当時には既に重賞戦線で活躍中で、1987年の宝塚記念(Gl)をはじめ重賞を8勝したスズパレードを輩出している。
スーパークリークの母であるナイスデイは、岩手競馬で18戦走って1勝しただけにすぎなかった。この成績では、いくら牝馬だからといって、繁殖入りは難しいはずである。しかし、幸いなことに、彼女の一族は、「繁殖入りすれば、くず馬を出さない」牝系として、柏台牧場やその周辺で重宝されており、ナイスデイも、その戦績にも関わらず、繁殖入りを果たした。
そんな経緯だから、繁殖牝馬としてのナイスデイの資質は、当初、まったく未知数だった。ただ、ナイスデイの父であるインターメゾは、代表産駒が天皇賞、有馬記念、菊花賞を勝ったグリーングラスであることから分かるように、明らかなステイヤー種牡馬である。柏台牧場の人々がナイスデイの配合を決めるにあたって考えたのは、この馬に眠っているはずの豊富なスタミナをどうやって引き出すか、ということだった。
しかし、「スタミナを生かす配合」と口で言うのは簡単だが、実践することは極めて難しい。一般に、スピードは父から子へ直接遺伝することが多いが、スタミナは当たり外れが大きいと言われる。スタミナを生かすためには気性や精神力、賢さといった別の要素も必要となり、これらには遺伝以外の要素も大きいためである。
そこで、柏台牧場のオーナーは、ビッグレッドファームの総帥であり、「馬を見る天才」として馬産地ではカリスマ的人気を誇る岡田繁幸氏に相談してみることにした。オーナーは、岡田氏と古い友人同士であり、繁殖牝馬の配合についても岡田氏によく相談に乗ってもらっていた。
「この馬の子供で菊花賞を取るための配合は、何をつけたらいいでしょうか」
気のおけない間柄でもあり、柏台牧場のオーナーは大きく出てみた。すると岡田氏は、
「ノーアテンションなんかはいいんじゃないか」
と、これまた大真面目に答えたという。
ノーアテンションは、仏独で33戦6勝、競走馬としては、主な勝ち鞍が準重賞のマルセイユヴィヴォー賞(芝2700m)、リュパン賞(芝2500m)ということからわかるように、競走成績では「二流のステイヤー」という域を出ない。しかも、前記戦績のうち平場の戦績は25戦4勝であり、残る8戦2勝とは障害戦でのものである。しかし、日本へ種牡馬として輸入された後は重賞級の産駒を多数送り出し、競走成績と比較すると、まあ成功といって良い水準の成果を収めた。
インターメゾの肌にノーアテンション。菊花賞を意識して考えたというだけあって、この配合はまさにスタミナ重視の正道をいくものだった。現代競馬からは忘れ去られつつある、古色蒼然たる純正ステイヤー配合である。
しかし、翌年生まれたナイスデイの子には、生まれながらに重大な欠陥があった。左前脚の膝下から球節にかけての部分が外向し、大きくゆがんでいたのである。
毎年柏台牧場には、自分の厩舎に入れる馬を探すために、多くの調教師たちが訪れていた。彼らはナイスデイの子も見ていってくれたが、馬の動きや馬体については評価してくれても、やはり最後には脚の欠陥を気にして、入厩の話はなかなかまとまらなかった。
庭先取引で買い手が決まらないナイスデイの子は、まず当歳夏のセリに出されることになったが、この時は買い手が現れず、いわゆる「主取り」となった。1年後、もう一度セリに出したものの、結果はまたしても同じである。
こうしてナイスデイの子は、競走馬になるためには、最後のチャンスとなる2歳秋のセリで、誰かに買ってもらうしかないところまで追いつめられてしまったのである。競走馬になれるかどうかの瀬戸際だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬の華ともいうべき牡馬クラシック三冠に関する有名な格言に、次のようなものがある。
「皐月賞は、最も速い馬が勝つ。ダービーは、最も幸運な馬が勝つ。菊花賞は、最も強い馬が勝つ」
この言葉は、牡馬クラシック三冠のそれぞれの特色を示すものである。この言葉によるならば、日本競馬において至高の存在とされる三冠馬とは、世代で最も速く、最も幸運で、最も強い馬ということになる。そんな馬はまさに「究極のサラブレッド」であり、日本競馬の黎明期から現在に至るまで、三冠馬が特別な存在として敬われていることは、むしろ当然ということができる。
そんな偉大な三冠馬にあと一歩届かなかった二冠馬たちの中で、1987年の皐月賞、菊花賞を制したサクラスターオーは、かなりの異彩を放つ存在である。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられたという特異な経歴を持つサクラスターオーは、まず皐月賞を圧倒的な強さで制して「最も速い馬」となった。しかし、その後脚部不安で長期休養を余儀なくされ、日本ダービーには出走することさえできないまま三冠の夢と可能性を断たれたサクラスターオーは、ダービーの後の調整も遅れに遅れ、ついには半年間の空白を経て、菊花賞本番で復帰するという前代未聞のローテーションを採らざるを得なかった。
「無謀だ」
「3000m持つはずがない」
そんな批判を浴びながら菊花賞に向かったサクラスターオーだったが、それからが彼の真骨頂で、クラシックの最後の戦場、そして半年ぶりの実戦となったここで、他の馬たちをなぎ倒して二冠目を奪取した彼は、「最も強い馬」となったのである。
サクラスターオーのことを、ファンは「奇跡の馬」「幻の三冠馬」と呼んだ。「最も速い馬」にして「最も強い馬」となったサクラスターオーが「三冠馬」と呼ばれるため足りなかった勲章はただひとつ、「最も幸運な馬」に与えられるべき日本ダービーだった。
しかし、そうした輝かしい栄光のすべてが儚くなるまでに、時間は必要なかった。サクラスターオーは、翌年の年頭、1987年の年度代表馬にも選出されたものの、年度代表馬選出が決まったその時も、彼の関係者たちの表情に喜びはなかった。前年の桜の季節に花咲き、さらに菊の季節にもう一度狂い咲いたサクラスターオーは、年末の祭典・有馬記念(Gl)で無残に倒れ、この時生死の境をさまよっていたのである。そして彼は、再び巡ってきた桜の季節の終わりとともに、華やかながらも哀しみに彩られた短い生涯を閉じた。
サクラスターオー自身、競馬場で戦った期間はわずか14ヶ月間にすぎない。そのうちの10ヶ月間は脚部不安による2度の長期休養にかかっており、ファンの前で姿を見せていた期間は、さらに短かい。彼が得意とした競馬の内容も中団からの差し切りであり、大逃げや追い込みのようにファンを魅了する強烈な戦法を得意としていたわけでもない。新馬戦で1番人気に支持された彼だが、その後は1番人気に支持されることさえなく、彼が次に1番人気に支持されたのは、最後のレースとなった有馬記念(Gl)のことだった。それでも私たちは、鮮烈な印象を残した彼の面影を忘れることはない。
昭和も末期を迎えた時代、「サクラスターオー」と呼ばれた1頭のサラブレッドがいた。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられた彼は、生まれながらの脚部不安を抱えながら、流れ星さながらにターフを駆け抜け、煌めいた。まるで、自分を育ててくれた人間の恩に報いようとするかのように。育ての親が彼の活躍を見ることなく逝ったことも知らず、ひたすらに走り、ひたすらに戦い続けた彼の姿は、流れ星のように美しく、そして儚く輝いた。そんな彼は、自らが背負った悲しい宿命に殉じるかのように、平成の世の到来を待たずして消えていったのである。
サクラスターオーが生まれたのは、静内の名門藤原牧場である。藤原牧場といえば、古くは皐月賞馬ハードバージや天皇賞馬サクラユタカオー、比較的最近ではダービー馬ウイニングチケットを生産した名門牧場として知られている。また、藤原牧場は「名牝スターロッチ系」の故郷としても有名であり、サクラスターオーもスターロッチ系の出身である。
サクラスターオーの母サクラスマイルは、スターロッチ系の中でも特に優れた繁殖成績を残した名牝アンジェリカの娘である。彼女の系統は、スターロッチ系の中でも本流というべき存在で、「日の丸特攻隊」として知られたサクラシンゲキはサクラスマイルの兄、天皇賞・秋(Gl)をレコードで制したサクラユタカオーはサクラスマイルの弟にあたる。また、サクラスマイル自身、重賞勝ちこそないものの、中央競馬で29戦4勝という数字を残し、エリザベス女王杯(Gl)3着をはじめとするなかなかの実績を残している。
そんなサクラスマイルだから、競走生活を切り上げて藤原牧場に帰ってくるにあたっても、かなりの期待をかけられていた。そんなサクラスマイルの初年度の交配相手は、日本ダービー馬サクラショウリに決まった。サクラショウリといえば、ダービー以外にも宝塚記念を勝ち、皐月賞3着などの実績を残したパーソロン産駒の名馬の1頭である。その冠名から分かるとおり、この2頭はいずれも「サクラ軍団」の全演植氏の持ち馬であり、その配合も馬主の縁で行われた。
自らの勝負服で走った両親から生まれた血統の馬を走らせることは、「馬主冥利に尽きる」とよくいわれる。サクラスターオーも、名牝系の末裔にして「サクラ軍団」の粋を集めた血統として、生まれながらに人々の期待を集めていた。
しかし、そんなサクラスターオーを待っていたのは、早すぎる悲運だった。ある夏の日、サクラスターオーと一緒に放牧されていたサクラスマイルは、腸ねん転を起こして突然倒れた。牧場の人々が駆け寄ったとき、幼きサクラスターオーは、懸命に倒れた母を起こそうとしていたというが、サクラスマイルが息を吹き返すことはなかった。サクラスマイルがサクラスターオーを産み落としたわずか約2ヵ月後の悲劇だった。
サラブレッドの場合、出産の際に母馬が命を落とすことは、そう珍しいことではない。このような場合に最もよく使われるのは、遺された子馬に母親代わりの乳母をつけ、乳母の手で育てさせる方法である。しかし、この方法は、母馬が出産後間もなく死んだときしか使えない。一度母馬に育てられた子馬には母馬の匂いがついてしまうため、後から乳母をつけようとしても、乳母が他の馬の匂いがついた子馬を育てようとはしないのである。約2ヶ月間にわたってサクラスマイルに育てられたサクラスターオーにも、乳母をつけることは困難だった。
藤原牧場の場長である藤原祥三氏は、サクラスターオーをどうやって育てたらいいのか散々悩み、ついには自らの手で育てることを決意した。子馬は数時間に一度の割合でミルクを飲むが、藤原氏は、夜も4時間ごとに起きるとミルクを作り、サクラスターオーにミルクを与え続けた。しまいには、サクラスターオーの方でも藤原氏の足音を聞き分けるようになり、藤原氏の足音が聞こえるだけで、甘えて鳴き声をあげるようになったという。藤原氏は、サクラスターオーにとって、まさに親代わりの存在だった。
ただ、子馬はミルクを与えるだけでは強い馬には育たない。十分な食事とともに十分な運動があってこそ、サラブレッドは持って生まれた資質を花開かせることができる。同期の子馬たちがまだ離乳せず、母馬と一緒にいる中で、母馬のいないサクラスターオーを1頭だけ放していても、仲間にも入れてもらえないし、十分な運動もできない。
そこで藤原氏は、サクラスターオーの曾々祖母(祖母の祖母)で、繁殖牝馬を引退し、功労馬生活を送っていたスターロッチをサクラスターオーと一緒に放牧することにした。高齢のスターロッチは、若い母馬のように子馬と一緒に走り回ることはできないが、サクラスターオーの母親代わりとして飛び回る彼を常に見守っていたという。
母なきがゆえに藤原氏、スターロッチらに「育てられた」サクラスターオーは、まるで自分に母のないことが分かっているかのように、大人びた馬に育っていった。5月2日生まれのサクラスターオーは、同期の馬の中でも生まれは遅い方だったが、自分より早生まれの馬たちがまだ乳離れもできないうちから、1頭で牧草を食べ、他の馬がいなくても自由に牧場を走り回るようになっていった。
]]>(本作では列伝馬が馬齢表記変更後も競走生活を続けていることから、新年齢(満年齢)を採用します)
牡馬クラシック戦線が競馬の花形になっている日本競馬において、皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞をすべて制した「三冠馬」は、そのクラシック戦線の頂点に立つ者として、単に強い馬という意味を超えた称賛を受ける。「三冠馬」は、三冠達成の困難さゆえに、すべての競馬ファンにとっての夢であり、憧れであり、また畏敬の対象ですらある。
クラシック中心主義の体系を創設当初から現在に至るまで貫く中央競馬の歴史は、多数の名馬たちと無数の無名馬たちによる、三冠への挑戦と挫折の歴史でもある。三冠達成の困難さを物語るように、中央競馬史上「三冠馬」は、全部で8頭しかいない(2021年末現在)。それ以外の多くの名馬たちが、三冠の夢に挑んでは敗れ、そして散っていった。そうした残酷な選別の過程を経るからこそ、勝ち残った三冠馬の栄光は、より強く、美しく輝く。三冠のロマンとは、わずか一握りの栄光と、それよりはるかに多くの挫折によって織り上げられた「物語」なのである。
そんな歴史の影の部分を象徴するのが、歴史上最も「三冠馬に近かった」二冠馬である。皐月賞、菊花賞という二冠を制しながら、三冠の中で最も価値が高いとされる日本ダービーで、勝ち馬に遅れることハナ差、わずか7cmの違いによって栄光をつかみ得なかった彼のことを、人は当初「準三冠馬」と呼んだ。その称号は、わずかの差で「三冠馬」と呼ばれる機会を永遠に失った彼への敬意を込めたものだった。
だが、そんな彼の栄光は、彼自身の凋落によってその価値を大きく傷つけられることになった。クラシック後の彼は、約2年間の競争生活の中で10戦しながら未勝利に終わった。しかも、彼と同世代でクラシック戦線を戦った馬たちも、古馬戦線で揃って大苦戦を強いられた。そのことによって、かつて「準三冠」という輝きに満ちた称号で呼ばれた彼の偉業に対する評価は地に堕ち、
「最弱世代に生まれたからこその快挙」
「生まれた時代に恵まれただけ」
と評されるようになり、ついには
「彼が三冠馬になっていたら、三冠馬の権威が崩れていた」
とまで侮られるようになっていった。クラシック戦線で「準三冠」を達成し、さらにはキングジョージ&Q.エリザベスS(国際Gl)にまで挑んだ輝きが色あせていくさまは、あまりに残酷なものだったと言わざるを得ない。そして彼は、そうした汚名を雪ぐいとまもないままに、まるでその栄光のすべてが、そして彼自身の馬生が夢だったかのように、短い馬生まで駆け抜けてしまったのである。
彼を生み出した戦場・・・それは、20世紀最後の、そして外国産馬開放前の最後の年となった2000年牡馬クラシックロードである。あの時代は、なんだったのだろうか。あの輝きは、なんだったのだろうか。20世紀最後のクラシック戦線の覇者は、やがてその栄光のすべてが夢であったかのように、「最も三冠に近づいた馬」から、「最弱世代の代表格」へと貶められていった。そんな彼・・・エアシャカールの存在は、中央競馬の歴史の中でも特異な存在である。今回は、2000年牡馬クラシック戦線の二冠馬でありながら、運命の流転の激しさに翻弄された悲劇の馬でもあるエアシャカールを取り上げてみたい。
エアシャカールの生まれ故郷は、千歳の社台ファームである。社台ファームといえば、言わずと知れた日本最大の生産牧場であり、特にサンデーサイレンス導入以降の大レースでの実績は、他の牧場を完全に圧倒している。現在の社台ファームは、この牧場を一代で日本最大の牧場に育て上げた吉田善哉氏の死後、その息子たちによって3つに分割され、一族によるグループ牧場となっているが、先代からの名前をそのまま受け継ぐ社台ファームは、長男の吉田照哉氏が継いだものである。
エアシャカールの牝系は、照哉氏と非常に深い因縁で結ばれていた。彼らの縁は、実に1972年まで遡る。社台ファームは、当時米国にフォンテンブローファームという牧場を所有していたが、その当時現地に赴いて場長を務めていたのが照哉氏だった。そして、エアシャカールの曾祖母にあたるタバコトレイルは、そのフォンテンブローファームの繁殖牝馬であり、祖母のヒドゥントレイルはフォンテンブローファームで生まれた生産馬だったのである。
もっとも、照哉氏自身が配合を決めたというヒドゥントレイルは、脚が大きく曲がった「失敗作」だった。そのため照哉氏は、ヒドゥントレイルを「1万ドルか2万ドル」という捨て値でさっさと売り払ってしまった。そのうち社台ファームは、77年にフォンテンブローファームを手放し、照哉氏も日本へ呼び戻された。後に照哉氏が聞いたのは、案の定ヒドゥントレイルがレースに出走することもないまま繁殖入りしたという知らせだったが、照哉氏も数いる生産馬の1頭、それも「失敗作」のことをいつまでも気にしているわけにもいかず、そのうちにこの血統のことを忘れていった。
ところが、照哉氏はその後、何度もヒドゥントレイルの名前を聞かされることになった。照哉氏が日本へ戻った後になって、ヒドゥントレイルの子供たちが次々と走り始めたのである。ヒドゥントレイル産駒が次々と重賞、準重賞を勝った反面、ヒドゥントレイル以外に繁殖入りしたタバコトレイル産駒は、そのほとんどが失敗に終わった。照哉氏は、「失敗作」の子供たちが結果を残したことに、馬づくりの難しさを痛感せずにはいられなかった。・・・そんな照哉氏が93年に出かけたアメリカの競り市に、ヒドゥントレイルの娘であるアイドリームドアドリームが上場されたのである。
カタログに「№506」と記されたアイドリームドアドリームは、自身の競走成績こそ22戦2勝とそう目立ったものではなかったものの、その兄弟からは多くの活躍馬が出ていた。ちなみに、「アイドリームドアドリーム」という馬名は、意訳すれば「夢破れて」というもので、歌劇「レ・ミゼラブル」内の歌曲に由来するといわれている。この歌は、夢破れ、仕事を失い、男にも逃げられた不幸な女性が、自らの境遇を悲しんで歌うその名のとおり、寂しい歌である。
照哉氏は、ヒドゥントレイル、タバコトレイルの血統への思いもあって、彼女を買うことにした。彼女に対する注目度はそう高くなく、価格も大きくつり上がることもないまま、6万3000ドルで落札することができた。こうしてヒドゥントレイルの血統は、約20年の時を経て、再び照哉氏のもとへと戻ってきた。
アイドリームドアドリームが社台ファームにやってきて最初に生んだ牝馬(父マジェスティックライト)は早世したものの、次に生まれたエアデジャヴー(父ノーザンテースト)は1998年の牝馬クラシック戦線を沸かせ、クイーンS(Glll)優勝、オークス(Gl)2着、桜花賞(Gl)、秋華賞 (Gl)3着といった戦績を残した。エアシャカールは、そのエアデジャヴーの2歳下の半弟にあたる。
出生当時、エアシャカールの血統に対する評価は、決して他の馬たちより優れていたわけではなかった。生まれて3週間ほど後に森秀行調教師が社台ファームを訪れた際、エアシャカールのことが気に入って自分の厩舎に入れるよう懇願したが、姉のエアデジャヴーは伊藤正徳厩舎に所属することが決まっていたにもかかわらず、エアシャカールの森厩舎入りはあっさりと決まった。当時の競馬界では、初子を管理した調教師がその弟、妹も管理することが多く、アイドリームドアドリームの子どもたちについても、エアシャカールの1歳下、2歳下の弟たちは伊藤正厩舎に入厩している。そこのことからすれば、もしエアデジャヴーのデビューがあと1年早く、エアシャカールのデビュー時に彼女が実績を残していたとすれば、エアシャカールが森厩舎に入ることはなかったかもしれない。この事実は、デビュー前の彼に対する伊藤正厩舎の評価がそれほどのものではなかったことを物語っている。
エアシャカールへの評価が高まり始めたのは、ある程度本格的に運動を始めた後のことだった。このころには、姉のエアデジャヴーもデビューして実績をあげたことから、「母アイドリームドアドリーム」の血統も注目されるようになっていた。社台ファームの生産馬における彼の同期にはアグネスフライト、フサイチゼノンらもいたが、運動の様子に対する牧場の評価では、エアシャカールが世代ナンバーワンだった。
やがて森厩舎へと入厩したエアシャカールは、いったん「エアスクデット」という馬名で登録されながら、その後エアシャカールに馬名変更されるという珍しい経験も経ながら、いよいよ競走馬としての生活を始めた。
入厩したばかりのころのエアシャカールは、確かに走らせてみると能力では桁外れのものを持っていた。めちゃくちゃなフォームで走っても、他の馬たちに平気でついていく。いったん加速がついた時のスピードも、並みのものではない。・・・だが、それよりもむしろ目立ったのは、あまりにも激しく、どうにも御しがたい気性の激しさだった。
森厩舎でも、事前にエアシャカールがかなり気性の激しい馬であるということは聞いていた。だが、実際の彼の気性は、厩舎のスタッフの想像をはるかに超えるものだった。馬場でも厩舎の中でも、場所にかまわず暴れ回る。機嫌を損ねると、人を乗せているのに尻っぱねをして振り落とそうとする。また、走っている時には手綱で止まらせようとしても、ひたすらに走り続けるため、乗り役が下りることができない。挙句の果てには、彼は4本脚のままでジャンプするという馬らしからぬ技まで持っていた。
そんなエアシャカールだから、実際に乗るとなると、危なくて仕方がなかった。森厩舎の調教助手たちは、エアシャカールの気性にほとほと手を焼き、毎朝くじ引きで誰が乗るかを決めるようにしたほどだった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本の馬産界には、「一腹一頭」という格言がある。それは、どんな期待の繁殖牝馬であったとしても、その生涯で本当に走る産駒は1頭送り出せれば十分成功といえるのだから、それ以上を求めてはいけない、ということを意味している。
牡馬であれば、人気種牡馬は1年で100頭以上、生涯では2000頭以上の産駒を残すことも不可能ではない。しかし、牝馬の場合は、どんなに頑張っても1年に1頭しか子を生むことができない以上、生涯で残すことができる産駒も、せいぜい十数頭に過ぎない。1頭の牝馬から名馬が生まれる確率が本来天文学的確率であることからすれば、「一腹一頭」という言葉の説くところは、至極もっともであるといえるだろう。
「一腹一頭」の正しさを裏付けるように、毎年何十頭もデビューする「Gl馬の弟や妹」たちの中から兄や姉を超える名馬が現れることは、滅多にない。それでも、ごくまれにGlのきょうだい制覇を果たす馬が現れることもないではないが、「名馬」の必須条件ともいえる「Gl2勝以上」を両方が記録しているきょうだいとなると、その数はさらに限定される。
日本競馬において、輝かしい戦績を挙げたきょうだいといえば、パシフィカスを母とするビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟、スカーレットブーケを母とするダイワメジャーとダイワスカーレットの兄妹、オリエンタルアートを母とするドリームジャーニーとオルフェーヴルの兄弟などの名前が挙がる。いずれも単独でも名馬と呼ばれる水準の産駒が同じ母から生まれるという奇跡は、もっと高い評価を受けてしかるべきであろう。
しかし、兄弟合わせてGl6勝を挙げ、その勝ち鞍もいわゆる「八大競走」か、それに準ずるレースばかりという、競馬史に特筆すべき実績を残していることは明らかなのに、その栄光が忘れられがちとなっている例もある。
その例とは、メジロオーロラを母とするメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟である。厳密には、弟に対する評価は、現役を退いてから約30年が経過しつつある現在においても「天皇賞親子三代制覇」という金看板を背負って誰からも「名馬」と認められている。しかし、弟と同じ2400mを超える長距離でその実力を最大限に発揮したステイヤーであり、自身も菊花賞と有馬記念という根幹Glを制したはずの兄が、現役時、そして引退後ともぱっとしない扱いを受け続けたことは、極めて残念であるというよりほかにない。
確かに祖父、父とも芦毛の天皇賞馬であり、自らの天皇賞制覇によって父子三代天皇賞制覇という奇跡を成し遂げた弟と違い、地味な輸入種牡馬を父としていた兄に、弟のような分かりやすい物語はなかった。また、2つのGl勝ちはいずれも人気薄の時でのもので、しかもレース中に有力馬のアクシデントがあったため、印象が薄くなりがちという不幸な面もあった。しかし、そうした要素はメジロデュレンにはあずかり知らぬことである。そもそも、実力がない馬ならば、Glを2つも勝てるはずがない。
生涯を通じて堅実な成績を収め、どんなレースでもそれなりに走った優等生の弟とは違い、兄は調子の悪い時にはまったく勝ち負けにもならず、大崩れすることが珍しくなかったため、「気分次第の一発屋」というイメージがつきまとったことは事実である。しかし、兄が勝ったレース・・・菊花賞、有馬記念優勝という実績は、弟の存在を切り離したとしても、十分「一流」の賞賛を受けるに値するものである。こと長距離で能力を最大限に発揮した時に限れば、メジロデュレンの強さは、決してメジロマックイーンに引けを取るものではなかったのではないか。さらに、メジロデュレンは、名門メジロ牧場に初めて牡馬クラシックをもたらした馬であるということも、忘れてはならない重要な事実である。私たちは、メジロデュレンという馬について、もっと正当に評価する必要があるのではないだろうか。
メジロデュレンは、その冠名が示すとおりに「メジロ軍団」の馬ではあるものの、生まれはメジロ牧場ではない。メジロデュレンが生まれた浦河の吉田堅牧場は、当時の繁殖牝馬10頭のすべてがメジロ牧場の仔分けであり、メジロデュレンもそんなメジロ牧場の仔分け馬メジロオーロラの子として生まれている。ちなみに、「仔分け」とは、馬主が繁殖牝馬を自らの所有馬として牧場に預け、産まれた子供の所有権は馬主が得ることをあらかじめ約束しておく方法である。
メジロデュレンの母メジロオーロラは、メジロ牧場の基礎牝系のひとつであるアサマユリ系に属している。アサマユリは、自らの現役時代こそ平地で21戦2勝、障害で4戦未勝利とパッとしない成績に終わったものの、繁殖に上がってからは2頭の重賞馬を出しただけでなく、さらに毎年のようにターフへと送り出した産駒のうちの娘たちを通じて、その血をさらに拡げたメジロ牧場の主流血統のひとつだった。
アサマユリの初子メジロアイリスは、平地、障害でそれぞれ3勝ずつを挙げている。そのメジロアイリスに、英国の重賞を4勝して輸入され、ダービー馬のオペックホースやオークス馬のアグネスレディーやテンモンなどを輩出した名種牡馬のリマンドが交配されて生まれたのがメジロオーロラである。
『情熱が人を動かす』
メジロオーロラが吉田牧場にやってくることになったのは、吉田堅(かたし)牧場の先代・吉田隆氏の情熱のたまものだった。
吉田牧場がメジロ牧場の仔分けを始めたのは、1968年ころのことである。彼の牧場の仔分け馬からは、天皇賞、有馬記念で続けてハナ差の2着に入ったり、天皇賞6回、有馬記念5年連続出走という怪記録を作ったりして「個性派」として人気があったメジロファントム、牝馬ながらにセントライト記念で菊を目指した牡馬たちを完封したメジロハイネ、そして中山大障害を勝ったメジロジュピターが次々と重賞を勝った。そして、彼らの母はすべてアサマユリ系のメジロハリマだった。
しかも、吉田牧場から重賞を勝った3兄弟が出たのと時を同じくして、やはりアサマユリ系の繁殖牝馬を預かっていた近所の牧場の生産馬からも、同じように活躍馬が何頭か現れた。不思議なことに、吉田牧場の近所では活力ある発展を見せていたアサマユリ系なのに、メジロ牧場を含めた他の地域からは、活躍馬がなかなか出てこない。吉田氏は、いつしか
「きっと、この周辺の土地が、アサマユリ系と相性が良いのだろう・・・」
と確信するようになっていった。
そう思っていた矢先に、アサマユリ系の出身で、しかも吉田氏がかねてからその血を導入したいと思っていた種牡馬リマンドを父とする牝馬が、「メジロオーロラ」としてデビューするという噂が飛び込んできた。当時の日高にはリマンドの娘が滅多におらず、その血を持つ繁殖牝馬もなかなか手に入らない。吉田氏はこの機をおかず、メジロオーロラを引退後には自分の牧場で預からせてもらえるよう、メジロ牧場に頼み込むことにした。
もっとも、メジロオーロラに競走馬としてあまり良い成績を挙げられると、「預からせてください」とはいいにくくなる。メジロ牧場自身も生産牧場を持っている以上、優秀な成績を挙げた繁殖牝馬は、なるべく自分の牧場に留めておきたいというのも人情である。・・・しかし、幸か不幸かメジロオーロラは、5歳いっぱいまで走ったものの、1勝を挙げたのみで引退することになった。
吉田氏は、メジロ牧場の総帥・北野豊吉氏に直接会った際、
「ぜひオーロラを仔分けの繁殖牝馬として預からせてもらいたい」
と頼み込んだ。すると、北野氏は、
「そんなに気に入った血統なら、どうぞ連れて行ってください」
と吉田氏の頼みを聞き入れ、繁殖に上がったばかりのメジロオーロラを吉田牧場へと送り届けたのである。
このような事情で、吉田堅牧場がメジロオーロラを預かった時点で、彼女から生まれる子馬が将来メジロの勝負服で走ることは、既に決まっていた。
仔分けの繁殖牝馬の配合については、馬主と牧場の個別の協議によって異なるようだが、メジロ牧場と吉田牧場の間では、最終的にはメジロ牧場が決めるものとされていた。繁殖に上がったばかりのメジロオーロラの初年度の交配相手として選ばれたのは、メジロ牧場がシンボリ牧場などと共同でフランスから購入したフィディオンだった。
フィディオンの競走成績は、通算8戦2勝に過ぎない。主な勝ち鞍がボワルセル賞・・・という彼は、英国ダービーに出走してはいるものの、グランディの8着に敗れており、競走馬としては二流のまま終わったと言わなければならない。
しかし、フィディオンの馬主は、メジロ牧場の北野豊吉氏がシンボリ牧場の和田共弘氏をはじめとする有力馬主とともに結成した日本ホースマンクラブであり、その代理人として欧州に渡った野平祐二騎手(後に調教師)が、2歳の時点で将来的な種牡馬としての資質と未知の魅力を見出して、競り落とした馬だった。当初から競走馬より種牡馬としての資質に着目されていたフィディオンは、引退後にはダンディルートらとともに日本へ連れてこられた。
こうして日本で種牡馬入りしたフィディオンだったが、北野氏や野平師にとって計算外だったのは、この馬がとんでもない気性難だということだった。輸入したての頃に、メジロ牧場の従業員に2人立て続けに大怪我を負わせたのである。あまりにも危険なために一時は種牡馬としての供用を中止することまで検討され、結局その案は思いとどまられたものの、メジロ牧場からは追われて別の牧場で供用されることになった。
しかし、種牡馬としてのフィディオンは、野平師の目にかなっただけのことはあり、その子供たちはなかなかの実績を残した。そう多くもない産駒の中から、京都記念と金杯を優勝し、天皇賞・春と宝塚記念で2着に入ったメジロトーマス、阪神大賞典優勝のメジロボアール、ステイヤーズS優勝のブライトシンボリ・・・といった活躍馬を次々と輩出したのである。これらの馬たちの実績をみれば分かるとおり、フィディオンは真性のステイヤー血統だった。これは、天皇賞制覇を最大の名誉とし、強いステイヤー作りを究極の理想に掲げたメジロ牧場にとって、うってつけの血統だった。
メジロオーロラの初めての種付けに当たっても、第一に意識されていたのは、「天皇賞を勝てる馬」を作ることだった。種牡馬として実績を残しつつあったフィディオンと交配されたメジロオーロラは、1983年5月1日、やや小柄な鹿毛の初仔を産んだ。この牡馬が、後に「メジロデュレン」と名づけられ、「メジロ軍団」に初めての牡馬クラシックをもたらすことになる。
『母の愛を知らず』
ところが、メジロオーロラは、初仔であるメジロデュレンに対して冷たい態度しか示さなかったという。メジロオーロラは、もともと気性に問題のある馬だったが、初子であるメジロデュレンに対しては、乳を飲ませることすら嫌がった。幼いメジロデュレンが乳を飲むために母のもとへとすり寄っていくと、メジロオーロラは座り込んで、メジロデュレンが乳を飲めないようにしてしまう。メジロデュレンは、生まれながらにして母に疎まれるという悲しい運命を負っていた。
それでも無事に成長したメジロデュレンは、当歳の10月にはメジロ牧場に移され、育成のための調教を積まれるようになった。狂気の血を持つ父、子をも拒む激しさがある母。そんな両親の血と気性を受け継いだメジロデュレンも、この頃から既に気性の激しさを見せていた。
しかし、それと同時に、彼は当歳離れした勝負根性・・・他の馬たちに決して負けまいとする強い意思を持っていた。子別れ以前から母に突き放されて育った幼いメジロデュレンは、他の同期よりもはるかに早く、ひとりで生きていくための覚悟を身につけていたのかもれない。
]]>★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
すべてを捨てて戦い、そして散っていくことによって大衆の魂に感動を残したお前は、勝利によってよりも敗北によって輝いた日本競馬史上最大の叙情詩だった・・
20世紀も終わりに近づく2000年12月15日、師走の競馬界に小さからぬ衝撃が走った。1983年に牡馬クラシック三冠すべてを制し、歴史に残る三冠馬の1頭に名を連ねた名馬ミスターシービーの訃報が伝えられたのである。
三冠馬といえば、英国競馬のレース体系を範として始まった我が国の競馬においては、競走馬に許されたひとつの頂点として位置づけられている。ほぼ半年という長い時間をおいて、2000mから3000mという幅広い距離で戦われるクラシック三冠のすべてを制することは、身体能力、精神力、距離適性の万能性、そして運を兼ね備えた馬のみに可能な偉業である。三冠達成の偉大さ、困難さを証明するかのように、三冠馬は我が国の競馬の長い歴史の中でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、そしてナリタブライアンという5頭しか出現していない(注・2001年以降、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルが三冠を達成している)。ミスターシービーは、2000年暮れの時点で生存する2頭の三冠馬のうちの1頭だった。
ミスターシービーといえば、20世紀の日本競馬に現れた5頭の三冠馬、そして日本競馬史に残る名馬たちの中でも、ひときわ強烈な個性の輝きを放った存在として知られている。ミスターシービーは、ただ「三冠馬になった」という事実ゆえに輝いたのではない。皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。ミスターシービーが行くところには常に波乱があり、感動があり、そして奇跡があった。時には出遅れての最後方からの追い込みがあり、時には失格すれすれの激しいライバルとのせめぎ合いがあり、そして時には掟破りの淀の上り坂からのまくりがあった。そんな常識破りの戦法を繰り返しながら、ひたすらに勝ち進むミスターシービーの姿に、大衆は歓喜し、熱狂し、そして最もドラマティックな勝ち方で自らの三冠を演出する名馬のドラマに酔いしれたのである。
しかし、そんなミスターシービーに、やがて大きな転機が訪れた。古馬戦線で自らの勝ち鞍にさらに古馬の頂点である天皇賞・秋を加えたミスターシービーだったが、彼がかつて戦ったクラシック戦線から絶対皇帝シンボリルドルフが現れ、前年にミスターシービーが制した84年のクラシック三冠をすべて勝つことで、ミスターシービーに続く三冠馬となったのである。ここに日本競馬界は、歴史上ただ一度しかない2頭の三冠馬の並立時代を迎えた。
ミスターシービーとシンボリルドルフ。それは、同じ三冠馬でありながら、あまりにも対照的な存在だった。後方一気の追い込みという不安定なことこの上ない作戦を得意とし、それゆえにファンの心に他のどの馬よりも強烈な残像を焼きつけ続けてきたのがミスターシービーならば、シンボリルドルフは先行抜け出しという最も堅実な作戦を得意とし、冷徹なまでの強さで後続を寄せ付けないまま無敗の三冠馬となった馬である。2頭の三冠馬は、果たしてどちらが強いのか。三冠馬を2年続けて目にした当時の競馬ファンは、誰もが「三冠馬の直接対決」という空前絶後の夢に酔った。
ところが、夢の決戦の結果は、一方にとってのみ、この上なく残酷なものだった。2頭による直接対決は、そのすべてでシンボリルドルフがミスターシービーに勝利したのである。2頭の三冠馬の力関係は、シンボリルドルフが絶対的にミスターシービーを上回るものとして、歴史に永遠に刻まれることとなった。
こうして三冠馬ミスターシービーは、自らも三冠馬であるがゆえに、不世出の名馬シンボリルドルフと同時代に生まれたという悲運によって、その名誉と誇りを大きく傷つけられることとなったのである。ミスターシービーは、三冠馬の誇りを泥にまみれさせられ、
「勝負づけは済んだ」
と決め付けられることになった。
しかし、ミスターシービーの特異さが際だつのは、その点ではない。シンボリルドルフに決定的ともいうべき敗北を喫したミスターシービーが選んだ道が、既に大切なものを失いながら、なお残る己のすべてを捨てて、あくまでシンボリルドルフに戦いを挑み続けることだったという点である。
「三冠馬の栄光を傷つけるな」
識者からはそう批判されたその選択だが、いつの世でも常に強者に優しく弱者に冷たいはずの大衆は、あくまでもミスターシービーを支持し、大きな声援を送り続けた。馬券上の人気はともかくとして、サラブレッドとしての人気では、シンボリルドルフはついにミスターシービーを上回ることはなかったのである。そうしてミスターシービーは、シンボリルドルフに戦いを挑み続けるその姿によって、競馬を支える大衆の魂に、勝ち続けていたころと同じように… 否、勝ち続けていたころよりもむしろ深く強く、自らの記憶を刻み続けた。
結局、ミスターシービーの挑戦が、彼の望んだ「勝利」という形で実を結ぶことはなかった。だが、勝ち続けることによって記憶に残る名馬は多くとも、敗れ続けることによって記憶を残した名馬は極めて稀有である。大衆は、ミスターシービーの戦いの軌跡の中で、初めて彼が単なる強い馬だったのではなく、ファンの魂を震わせる特別な存在だったことを思い知り、その心に刻み付けることとなった。
大衆の魂を動かす名馬には、必ず彼らが生きた時代の裏付けがある。果たして大衆は、一時サラブレッドの頂点を極めながらも、より強大な存在に挑戦し続け、そして最後には散っていったミスターシービーの姿の中に、自分たちが生きた時代の何を見出したのだろうか。
ミスターシービーは、群馬に本拠地を置くオーナーブリーダー・千明牧場の三代目・千明大作氏によって生産されたとされている。千明牧場といえばその歴史は古く、大作氏の祖父がサラブレッドの生産を始めたのは、1927年まで遡る。千明牧場の名が競馬の表舞台に現れるのも非常に早く、1936年にはマルヌマで帝室御賞典(現在の天皇賞)を勝ち、1938年にはスゲヌマで日本ダービーを制覇している。
千明家がサラブレッドに注ぐ情熱は、当時から並々ならぬものだった。大作氏の祖父・賢治氏は、スゲヌマによるダービー制覇の表彰式を終えて馬主席に戻ってきた時、ちょうど自宅から電話がかかってきて、長い間病に臥せっていた父(大作氏の曽祖父)の死を知らされたという。その時賢治氏は、思わず
「あれは、親父が勝たせてくれたのか・・・」
とつぶやいた。
そんな千明牧場でも、大日本帝国の戦局が悪化し、国家そのものが困難な時代を迎えると、物資難によって馬の飼料どころか人間の食料を確保することすら難しくなっていった。賢治氏は、それでもなんとか馬産を継続しようと執念を燃やしたものの、その努力もむなしく、1943年には馬産をいったんやめるという苦渋の決断を強いられた。この決断により、千明家が長年かけて集めた繁殖牝馬たちは他の牧場へと放出されることになり、広大な牧草地はいも畑と化した。
年老いた賢治氏に代わって牧場の後始末を行ったのは、息子である久氏だった。彼が牧場に残った繁殖牝馬の最後の1頭を新しい引き取り先の牧場に送り届け、そこで聞いたのは、賢治氏の死の知らせだった。馬産に情熱を燃やし、かつて帝室御賞典、ダービーをも獲った賢治氏は、牧場閉鎖の失意のあまり病気を悪化させ、亡くなってしまったのである。
二代の当主の死がいずれも馬産に関わった千明家にとって、もはやサラブレッドの生産は単なる趣味ではなく、命を賭けて臨むべき宿命だった。そんな深く、そして悲しい歴史を持つ千明牧場の後継者である久氏もまた、時代が再び安定期を迎えるとともに馬産の再開を望んだのは、もはや一族の血の必然であった。
戦後しばらくの時が経ち、事業や食糧難にもいちおうのめどが立ってくると、久氏は千明牧場を再興し、馬産を再開することに決めた。1954年、久氏は千明牧場の再興の最初の一歩として1頭の繁殖牝馬を手に入れた。その繁殖牝馬の名前は、チルウインドであった。
再興されてからしばらくの間、千明牧場は戦前に比べてかなり小規模なものにとどまっていた。戦前に長い時間をかけて集めた繁殖牝馬たちは既に各地へ散らばり、久氏は事実上牧場作りを一から始めなければならなかったからである。しかし、信頼できるスタッフを集めて彼らに牧場の運営を任せ、さらに自らも馬を必死で研究した千明家の人々の努力の成果は、やがて1963年にコレヒサで天皇賞を勝ち、そしてチルウインドの子であるメイズイで皐月賞、日本ダービーの二冠を制するという形で現れた。戦前、戦後の2度、そして父と子の二代に渡って天皇賞とダービーを制したというその事実は、千明牧場の伝統と実績の重みを何よりも克明に物語っている。そんな輝かしい歴史を持った千明牧場の歴史を受け継いだのが、ミスターシービーを作り出した千明大作氏である。