(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドや競馬を語る場合、よく「あの馬は血統がいいから走る」「あの馬は血統が悪いから勝てない」という言い方がされることがある。現存するサラブレッドの父系をたどるとすべて「三大始祖」のいずれかにたどりつく閉鎖的な血しか持たないサラブレッドの世界は、それゆえに血統をこの上なく重視し、その価値観を究極まで推し進めたところで発展してきた。
本来ならば、サラブレッド自体が限られた血統しか持たない以上、「血統がいい」「血統が悪い」といっても、その違いはそう大きなものではないはずである。「良血」といわれる馬と「雑草」といわれる馬の血統表を見比べてみると、2~3代も遡れば同じ馬に行き着く・・・ということは、珍しいことではない。そうであるにもかかわらず、実際には「良血」といわれる馬は高値がついて大切にされる反面、「雑草」といわれる馬は、捨て値で売られてばかにされ、やがてその血統自体が滅び去っていくことが多いのは、非常に悲しいことである。
だが、時にそうした運命に正面から戦いを挑む「雑草」が現れるのも競馬の面白さと魅力である。1991年、92年のマイルCS(Gl)を連覇した名マイラー・ダイタクヘリオスは、そんな競馬の面白さ、魅力を体現した1頭に数えることができる。
ダイタクヘリオスという馬を語る場合、「雑草」とか「マイルCS連覇」とか「名マイラー」といった一般的な言葉を並べただけでは、そのすべてを表すことはできない。ダイタクヘリオスの特色を並べてみると、他の馬たちではとても真似できないヘンなものばかりである。1番人気で重賞を勝ったことがない。それどころか彼が古馬になってから出走した重賞では、彼以外の馬も含めて、一度も1番人気の馬が勝ったことがない。レース直前の併せ馬では、Gl2勝馬でありながら、平気で未勝利馬に大差をつけられる。パドックで暴れれば暴れるほどレースでは強く、静かにしているときは全然ダメ。負ける時は、直線で笑いながら沈んでいく・・・。ひとつだけでも十分面白いのに、これだけ重なればもはや奇跡である。そんな面白い馬が、いざレースになると素晴らしい先行力を見せ、さらに第4コーナーから凄まじいダッシュをかけて後続を突き放すとそのまま粘り切ってしまうのだから、そんな競馬を見せられるファンがしびれないはずがない。嵐のような激しさでターフを荒らし回ったダイタクヘリオスは、伝説の時代ならいざ知らず、日本の現代競馬においては、ほぼ間違いなく有数の個性派ということができるだろう。
こうして圧倒的な個性をひっさげてマイル路線に乗り込む彼の前に立ちふさがったのが、華のような華麗さでマイル戦線に輝いた同年齢の名マイラー・ダイイルビーだった。ダイイチルビーは名牝マイリーの血を引く「華麗なる一族」の出身で、さらに母がハギノトップレディ、父がトウショウボーイという当時の日本ではこれ以上望みようがないという内国産の粋を集めた血統を持っていた。生まれながらに人々の注目という名の重圧を背負った彼女は、直線に入ってからの馬群を切り裂くような鋭い切れ味を持ち味としており、ダイタクヘリオスとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていったのである。
今回は、マイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にしたダイタクヘリオスの軌跡を語ってみたい。
ダイタクヘリオスは、1987年4月10日、平取の清水牧場で産声を上げた。父がスプリングS(Gll)、NHK杯(Gll)などを勝ったビゼンニシキ、母が未出走のネヴァーイチバンという血統は、決して目立つものではない。後にダイタクヘリオスの血統は、ライバルのダイイチルビーと対比してたびたび「雑草」といわれるようになったが、それもあながち理由のないことではない。
ただ、当時の日本競馬においては、ダイイチルビーの血統と比較すると、たいていの内国産血統が「雑草」になってしまうことも事実である。また、ダイタクヘリオスの牝系を見ると、華やかさにおいてはダイイチルビーの一族に遠く及ばないとはいえ、長い歴史と堅実な成績という意味では決して恥じるべきものでなかったことについては、注意しておく必要がある。
ダイタクヘリオスの牝系は、1952年に競走馬として輸入された外国産馬スタイルパッチに遡る。スタイルパッチは短距離ハンデをはじめ競走馬として41戦9勝の戦績を残し、繁殖牝馬としても期待されていた。
繁殖牝馬としてのスタイルパッチは明らかに「男腹」で、死産を除く11頭の産駒のうち、牝馬はわずかに3頭だけだった。ダイタクヘリオスは、この3姉妹の「長女」にあたるミスナンバイチバンの孫にあたる。ミスナンバイチバンは26戦4勝の戦績を残し、そこそこの期待とともに繁殖入りを果たした。ちなみにその2頭の妹を見ても、シギサンは4勝、リンエイは南関東競馬とはいえ10勝を挙げている。牡馬も8頭のうち6頭が勝ち星を挙げており、スタイルパッチの繁殖成績は、目立たぬながらもなかなかのものだったと言えよう。
だが、スタイルパッチの血の真価が発揮されたのは、子の代ではなく孫、ひ孫の代に入ってからだった。まず1975年、ミスナンバイチバンの長女カブラヤの子であるカブラヤオーが、歴史上類を見ない逃げで皐月賞、日本ダービーの二冠を奪取した。カブラヤオーの名前は、通算13戦11勝の二冠馬という記録以上に、ついていった馬が次々と故障したという悪魔的な逃げの記憶が語り継がれている。
カブラヤオーの鮮烈な登場によって再び脚光を浴びたスタイルパッチ系からは、その後79年にエリザベス女王杯を勝ったカブラヤオーの妹ミスカブラヤ、そして82年に7戦6勝でスプリングSに臨み、「82年クラシックの主役」と謳われながらもこのレースで故障し、そのままターフを去った悲運の大器サルノキング・・・と次々強豪が輩出した。ちなみに、このサルノキングが敗れたスプリングSは、それまで逃げで勝ってきたサルノキングがなぜか突然最後方待機策をとったこと、そしてそのスプリングSを勝ったのが「華麗なる一族」に属するやはり逃げ馬のハギノカムイオーだったこと、さらにハギノカムイオーの馬主がレース直前にサルノキングの権利を半分買い取っていたことから、一部では
「血統的に、勝てば高値で売れるハギノカムイオーを勝たせるための陰謀ではないか」
という説まで流れた。それはさておき、このレースの後皐月賞の本命としてクラシックへと進んだハギノカムイオーに対し、このレースを最後に故障によってターフを去ったサルノキングは、種牡馬入りこそしたものの、実績以前に最低限の人気すら集められず、最後は用途変更によって行方不明になるという運命をたどった。あまりにも対照的な明暗に分かれた2頭の物語は、ダイタクヘリオスの一族とダイイチルビーの一族の、最も古い因縁である。
閑話休題。こうして次々と活躍馬が出たことによって、スタイルパッチ系の牝馬への注目度は当然高まるはずだった。・・・だが、そうした一族の栄光への余光は、ダイタクヘリオスの母であるネヴァーイチバンのところまでは回ってこなかった。
スタイルパッチ系自体ミスナンバイチバンをはじめとして多産の系統だったが、これは希少価値の面からは見劣りするものだった。また、スタイルパッチ系の活躍馬であるサルノキングはいとこ、カブラヤオー、ミスカブラヤ兄妹は甥姪にあたり、同族とはいっても、ネヴァーイチバンからしてみれば、その血脈は、微妙にずれたところにあった。
それらに加えて、ネヴァーイチバン自身も、生まれつき両前脚が曲がっている奇形があった。彼女が未出走に終わったのもその欠陥ゆえだったし、彼女の初期の産駒は、母の脚の形まで受け継いでしまい、ろくに走ることができなかったのである。
ネヴァーイチバンの初期の産駒は、3番子までがすべて未出走か未勝利に終わり、4番子のエルギーイチバンが初めて勝ち星を挙げたと思ったら、それは北関東競馬での結果だった。繁殖牝馬としてこのような結果が出つつあった情勢の中では、いくら同族が活躍しても、彼女まで脚光が及ぶことはない。ネヴァーイチバンは、一族の活躍とはまったく無縁のままに、ある牧場でひっそりと繁殖生活を送っていた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
「日本の近代競馬の始まりはいつなのか―」
という問いに対する答えにはいくつかの説があるが、比較的有力なのは、1867年に横浜の在留外国人たちが、それぞれの持ち馬を競わせたこととするものである。その時を出発点とするならば、日本競馬は、現在に至るまでの約150年以上にわたって、長い歴史を積み重ねてきたことになる。
歴史を築いてきた主人公は、多くの名馬たちと、さらに多くの無名馬たちである。・・・だが、歴史が150年にわたって積み重なってくると、かつて「名馬」と呼ばれた馬たちであっても、その存在感に差が出てくることは避けられない。歴史の中で永遠の輝きを放ち続ける名馬もいれば、ひとつの時代が去るとともに存在感が薄れ、やがて忘れられてゆく名馬もいる。
1986年のマイルCS(Gl)を制したタカラスチールは、早い時期から語られる機会が激減してしまったGl馬の1頭である。デビュー前から血統的には高い評価が与えられていなかったタカラスチールは、その低い評価を自らの実力によってはね返し、牝馬三冠戦線の第一冠・桜花賞では1番人気に支持されるほどになったものの、桜花賞での大敗を機に血統的な距離の限界を痛感し、オークス、エリザベス女王杯という牝馬三冠の残る二冠には、出走さえあきらめなければならなかった。
だが、彼女はそれで終わることなく、当時は現在ほど重視されていなかった短距離戦線に彼女だけの活路を見出した。そして、ついにはニッポーテイオー、トウショウペガサス、ロングハヤブサといった当時の名だたる一流牡馬たちを相手にマイルCS(Gl)を制し、中央競馬のグレード制導入後初めて、牝馬ながらに牡馬との混合Gl を勝つという快挙を成し遂げたのである。6番人気という低評価をはねのけた頂点の奪取は、非常に意外かつ見事なものだった。
しかし、彼女が最も輝いたのは、ミスターシービー、シンボリルドルフという2頭の三冠馬たちの時代と、平成三強時代の中間にあたる時期だった。絶対的な人気馬が不在の時期に、しかも現在ほど重視されていなかった短距離戦線で全盛を迎えたという間の悪さもあって、彼女に対するファンの印象は薄かった。さらに、非情な運命ゆえにその血を後世に刻みつけることも許されなかった女怪盗は、その静かで悲しい最期を知られることもなく、やがて移り気なファンから忘れられていく運命にあった。
その死から既に30年近い時が流れ、タカラスチールは今や競馬の歴史、あるいは「想い出」の世界にのみ生きる存在となっている。
だが、競馬が単なるギャンブルを超えた現在の地位を築くことができたのは、馬を単なる記号としてではなく、物語としてとらえたことにこそ最大の要因がある。同じものが何個でも存在しうる記号ではなく、同じものはふたつと存在しない物語としてとらえる以上、それをかけがえのない物語として後世に語り継ぐことは、競馬が競馬であるために必要な使命である。タカラスチールが郷愁の中にのみ生きる存在ならば、せめてその郷愁の中で永遠に生き続けさせることこそが、競馬を愛する者の務めというべきだろう。今回のサラブレッド列伝は、忘れられた名牝・タカラスチールの物語である。
タカラスチールは、1982年4月16日、静内の鈴木実牧場で生まれた。父はミドルパークS(英Gl)などを勝った短距離馬スティールハート、母は鈴木牧場の基礎牝馬ルードーメンであり、時は競馬の季節が本格化するさなか、ちょうどリーゼングロスが桜花賞を勝った5日後のことだった。
当時の鈴木実牧場は、「繁殖牝馬は5頭前後」という典型的な日高の中小牧場だった。ただ、鈴木牧場にとってのルードーメンは、他に替えがたい牧場の誇りだった。ルードーメンは、競走馬としては4戦未勝利に終わり、まったくモノにならなかったものの、鈴木牧場で繁殖入りしてからの彼女は、「三冠馬を破った馬」ウメノシンオーを送り出したのである。
ウメノシンオーといえば、1983年のラジオたんぱ賞(重賞)を勝ったステークス・ウィナーである。だが、彼はそのことよりも、1982年暮れのひいらぎ賞(800万下)で、翌83年のクラシック戦線の有力候補とみられていたミスターシービー・・・後の三冠馬に土をつけたことの方が有名であろう。その後のミスターシービーが三冠街道を突っ走ったことで、否応なく引き合いに出されるようになったウメノシンオーは、鈴木牧場にとって、ひとつの到達点だった。
タカラスチールの父は、ウメノシンオーの父である中長距離血統のファバージから、短距離血統のスティールハートに変わっている。ウメノシンオーの時にはクラシックを意識してルードーメンをファバージと交配した鈴木氏だったが、その2歳下の弟妹をつくるにあたっては、最初から短距離を意識して配合を決めていた。鈴木氏がルードーメンの交配相手にスティールハートを選んだころ、彼の産駒はまだ日本ではデビューしていなかったものの、彼自身は1200mまでしか距離の実績がなく、馬産地でも生粋の短距離血統と噂されていた。
翌春生まれた子馬は、牝馬ではあったが、非常にバランスのとれた馬体をしていた。自分の予想以上にいい子馬が生まれ、近所の牧場の人々が見学に来るという状況に気を良くした鈴木氏は、
「この子なら、きっといい買い手がつくに違いない・・・」
とひそかな期待に胸を弾ませていた。
ところが、鈴木氏が期待した子馬の買い手は、実際にはなかなか見つからなかった。評判を聞いて子馬を見に来た調教師たちも、
「いい馬だ」
と褒め称えはするものの、いざ話を決めようとすると、途端に及び腰となった。
「中央ではムリだろう。地方の800mの競馬ならいいかもしれない・・・」
調教師たちを逡巡させたのは、子馬の血統・・・父・スティールハートに対する不信だった。鈴木氏が未知の可能性への夢を託したスティールハートだったが、調教師たちは
「スティールハート産駒は、早熟で奥行きがなさそうだ」
「一本調子のスピード馬で、3歳時は活躍してもクラシック戦線では用なしになるだろう」
と、その将来性を認めようとしなかった。中央競馬で短距離のレース体系が整備されたのは1984年のG制度導入と同時で、スティールハートの最高傑作となるニホンピロウイナーも、当時はまだ頭角を現していない。
「クラシックで期待を持てない馬は、一流馬たりえない」
という固定観念が根強かった時代に、あえて強い短距離馬をつくろうとした鈴木牧場の馬づくりは、時代をほんの少し先取りしすぎていたのである。
「地方競馬なら・・・」
と言われた鈴木氏だったが、彼は自分の自信作であるこの馬を、なんとしても中央で勝負させたかった。結局、彼らが期待をかけるウメノシンオーの半妹は、美浦の坂本栄三郎厩舎へと入厩し、「タカラスチール」と名づけられて走ることになった。騎手出身の調教師である坂本師は、騎手時代には菊花賞馬ラプソデーに騎乗して安田記念をレコード勝ちしたこともあるが、それよりは中山大障害2勝という障害騎手としての実績の方が有名である。調教師としては1970年にタマミで桜花賞、スプリンターズSを制しているが、当時はかつての栄光も既に色褪せ、1982年度、83年度とも、リーディングトレーナー50傑の中に坂本師の名前を見出すことはできない。
]]>