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プリティーダービー実装 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Wed, 18 Jun 2025 23:16:44 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 アイネスフウジン列伝~府中を駆けた疾風~ https://retsuden.com/horse_information/2024/25/171/ https://retsuden.com/horse_information/2024/25/171/#respond Fri, 24 May 2024 17:40:55 +0000 https://retsuden.com/?p=171  1987年4月10日生。2004年4月5日死亡。牡。黒鹿毛。中村幸蔵(浦河)産。
 父シーホーク、母テスコパール(母父テスコボーイ)。加藤修甫厩舎(美浦)
 通算成績は、8戦4勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、共同通信杯4歳S(Glll)

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『疾風のダービー馬』

「日本ダービーとは何か」

 ―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。

 しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには

「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」

とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、

「ダービーだけは特別だから・・・」

と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。

 このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。

 ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。

 しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。

 1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。

 戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。

『アサカオーの牧場』

 アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。

 大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。

 しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに

「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」

と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。

『幸運』

 アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。

 アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。

 しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。

 テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。

 テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。

 その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。

 そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、

「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」

と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち

「うちに入れてくれないか」

という申し出があったという。

『運命』

 だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、

「手の施しようがありません」

と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、

「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」

と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。

 すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。

 結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。

 そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も

「いい子が生まれた」

と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。

 次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。

 中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。

 この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに

「こいつは走る・・・!」

という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。

『加藤師の考えごと』

 大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。

 アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。

 加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。

 ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。

『忘れられた男』

 中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。

 ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。

「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」

と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は

「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」

と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。

 しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。

 もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。

『騎手失格』

 実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。

 調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって

「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」

では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。

「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」

 こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。

 しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。

 しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。

 馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。

 中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。

『ダービーをとってみたいだろ?』

 加藤師は中野騎手に声をかけた。

「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」

 中野騎手は、こう返したという。

「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」

 中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。

「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」

 次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。

「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」

 中野騎手は、震えた。

 中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から

「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」

と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。

 中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に

「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」

と思ったという。

 しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。

(こいつは走る!)

 柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。

「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」

 中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。

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ライスシャワー列伝~疾走の馬、青嶺の魂となり~ https://retsuden.com/horse_information/2024/27/571/ https://retsuden.com/horse_information/2024/27/571/#respond Sat, 27 Apr 2024 14:12:32 +0000 https://retsuden.com/?p=571 1989年3月5日生。1995年6月4日死亡。牡。黒鹿毛。ユートピア牧場(登別)産。
父リアルシャダイ、母ライラックポイント(母父マルゼンスキー)。飯塚好次厩舎(美浦)。
通算成績は、25戦6勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)2回、菊花賞(Gl)、
日経賞(Gll)、芙蓉S(OP)。

『時代』

 人の世に流行り廃りがあるように、競馬の血統にも流行り廃りがある。というよりも、経済動物であるサラブレッドの場合、その栄枯盛衰は人の世よりもはるかに激しい。
 
 かつて、英国競馬を範として成立した日本競馬では、短距離よりも中長距離レースの格式が高いとされていた。そうすると必然的に、馬産界では中長距離レースに耐えるスタミナと精神力を兼ね備えた、いわゆるステイヤー血統の種牡馬の人気が高く、逆に短距離レースに適したスピード血統の種牡馬は人気が低くなってくる。馬産界が種牡馬を導入する場合の選定基準は、その馬自身や近親の馬たちの中長距離の大レースでの実績であり、また長丁場に耐え得る馬体であった。
 
 しかし、競馬を英国流の貴族の趣味から大衆の娯楽としてとらえ直し、一大エンターテイメント産業へと転換させたアメリカの影響が強まってくると、我が国でも次第に中長距離偏重レースの雰囲気は薄れ、短距離レースの比重が高まっていった。名誉を重んじる貴族の趣味から大衆の娯楽へと変貌した新しい競馬では、アメリカ的合理主義の影響で、年に幾度もない大レースだけのためにその馬が持てるすべてを燃やし尽くす中長距離レースの価値は衰えていった。それに代わって台頭してきたのは、スタートからゴールまで息つくひまもない激しいスピードで見る者を興奮させ、さらにひとレース終えた後の消耗からも短期間で立ち直ることができる短距離レースだった。
 
 近年になっても、競馬のスピード化という流れはとどまるところを知らず、逆に「短距離偏重」ともいうべき状況ができあがりつつある。マイル戦やスプリント戦の条件戦が急増する反面で、クラシックディスタンス、あるいはそれよりも長いレースは、減少の一途をたどっている。その流れは次第に重賞戦線にも押し寄せ、昔ながらのスタミナ豊富なステイヤーが活躍できる舞台は少なくなるばかりである。
 
 競馬のレース体系がこのように変わってくると、それにあわせて馬産界も変わらざるを得ない。種牡馬の世界でも繁殖牝馬の世界でも、スピード化の波に対応し得るアメリカ血統の人気が高まる一方で、かつてもてはやされていたステイヤー血統は見捨てられ、忘れ去られ、そして滅び去っていった。サンデーサイレンスを筆頭とする新時代の種牡馬がターフを席巻する中で、昔ながらのステイヤー種牡馬は居場所を失っていった。競馬の本場である英国でもこの傾向は顕著で、すでにクラシック三冠の最後の一つ、日本でいえば菊花賞に当たるセントレジャー(英Gl)は有力馬の参戦がなくなって形骸化し、アスコット金杯などの伝統の長距離レースですら、それを勝つことはむしろ「種牡馬としての未来を暗くする」として敬遠されるようになっている。競馬界の近年の状況を見ると、日本競馬もそんな本場の状況を後追いしているように思われる。
 
 しかし、スピード競馬がこれまでの競馬にはない魅力を備えていたのと同様に、スタミナ競馬にもスピード競馬にはない独特の魅力があったはずである。スピード競馬が全盛を迎えている現在の、ほんの少し前の時代に、私たちにステイヤーの魅力を懸命に伝えようとした馬がいた。ステイヤー受難の時代の中で、滅びゆくステイヤーとして最後の輝きを放った馬がいた。過酷な長丁場に耐えるスタミナ、不屈の精神力、騎手と一体となって戦う従順さと、その内に秘めた闘志…。そんな、ステイヤーとしての美徳をすべてそなえた1頭の名馬。時代に反逆するかのように戦い続ける彼の生き方は、彼の存在を抹殺しようとするかのような時代の中で、むしろ悪役として遇されることも多かった。そして、大衆が彼の魅力を本当に認めたその時、彼は時代の波に飲み込まれるように消えていったのである。
 
 時代の流れに抗い続け、あまりにも速すぎた時代の流れの中に消えていったその馬の名前は、ライスシャワーという。彼は、
 
「疾走の馬、青嶺の魂となり」
 
そう刻まれた墓碑とともに、自らの思い出の場所である京都競馬場の一角に、今も眠っている。

『ユートピアから』

 ライスシャワーが生まれたのは1989年3月5日、場所は登別にあるユートピア牧場である。
 
 ユートピア牧場は、その前身の創業をたどると1941年(昭和16年)まで遡ることができる古い歴史を持つオーナーブリーダーで、古くは1952年(昭和27年)に皐月賞、ダービーの二冠を制したクリノハナを出したことで知られている。
 
 ライスシャワーの母であるライラックポイントも、遡ればクリノハナと同じく、アイリッシュアイズを祖とする牝系に属していた。ただ、この牝系は概して子出しが悪いうえ、クリノハナ以降の産駒成績も 、決して芳しいものではなかった。この一族には、長い歴史の中でユートピア牧場から出された繁殖牝馬もいたものの、何代も経ないうちに消えていった。
 
 しかし、ユートピア牧場の人々は、この一族を決して見捨てることなく牧場の基礎牝馬として残し続けてきた。二冠馬を出して牧場の誇りとなった牝系は、ユートピア牧場にとってあまりにも重い価値があったからである。
 
「いい種馬をつけていれば、いつかきっと一流馬を出してくれる」
 
 そんな思いは、代々の繁殖牝馬に交配されたそれぞれの時代の名種牡馬たちの名前に凝縮されており、ライラックポイントも、長らく日本競馬を引っ張った名種牡馬マルゼンスキーの娘として誕生した。

『隠れた良血』

 ライラックポイントは、競走馬としてはなかなかの成績を残し、中央競馬で4勝をあげたものの、牧場へ帰ってきてからの繁殖成績では、ライスシャワーの前に3頭の子を出したものの、いずれも特筆するような成績は残せなかった。しかし、ユートピア牧場の人々は、ライラックポイントの潜在能力に期待をかけて、リアルシャダイを交配することにした。
 
 リアルシャダイは、通算成績は8戦2勝、主な勝ち鞍はドーヴィル大賞典(仏Gll)と、その戦績は一見派手さには欠けている。しかし、リアルシャダイは英国ダービー馬Robertoの重厚な血を継ぎ、Northern Dancerの血を持たない異端の血統を買われて、現役時代の馬主だった社台ファームによって日本へ導入されていた。リアルシャダイに期待されていたのはポスト・ノーザンテースト時代の旗手としての役割であり、1988年当時には既に産駒が競馬場でデビューし始め、新時代の担い手という触れ込みが現実のものとなる予感を感じさせていた。ちなみにこれは後の話になるが、リアルシャダイはライスシャワーが5歳となった1993年にノーザンテーストを破って中央競馬のリーディングサイアーに輝き、1982年から11年間続いたノーザンテースト独裁時代に終止符を打っている。
 
 こうして交配されたリアルシャダイとライラックポイントとの間に生まれた小さな黒鹿毛の牡馬こそが、後に「関東の黒い刺客」として関西ファンの背筋を震わせ、さらに後には「最後のステイヤー」としてステイヤー時代の最後の輝きを放つ宿命を背負った異能の名馬ライスシャワーだった。もともとスタミナ、スピードを兼ね備えたバランスの良さが特徴とされるマルゼンスキーの肌に、さらに欧州出身のステイヤーの血を注入した配合は、明らかに底力に富んだ長距離向きのものだった。

『その名のもとに』

 ただ、こうして生まれたライスシャワーは、生まれながらに大きな期待を背負っていたわけではなかった。生まれたばかりのライスシャワーは、馬体こそバランスがとれていたものの、体格があまりに小ぶりで、さらに体質、脚部が弱かったこともあって、決して大物感を漂わせた存在ではなかった。育成段階でも、最初のうちは同世代の馬たちにむしろ遅れがちで、期待感よりは「この程度でどこまでやれるのか」という不安の方が先に立つ馬だった。
 
 ライスシャワーは、3歳春ごろになってようやく他の馬に遅れないようになり、逆に他の馬よりも前に出ることができるようになった。しかし、この程度で喜べるのだからやはり評価は知れたもので、「意外と走るかも」とは言われても、まだ「この馬ならGlを勝てる」というレベルにはほど遠かった。ライスシャワーを預かることになった飯塚好次調教師の評価も似たようなもので、当時のライスシャワーを見ての評価は「中堅クラスまで行ければ上々」という程度のものでしかなかった。当時の飯塚師は、ライスシャワーが重賞戦線、ましてやGlクラスまで出世するとは、まったく予想していなかったという。
 
 しかし、入厩前からGlの手応えを感じさせてくれるような馬は、普通の厩舎には年に何頭もいるものでもない。当時の評価でも、中央競馬でデビューするには充分なもので、ライスシャワーは飯塚厩舎に入厩して競走馬としてデビューすることになった。
 
 ちなみに、「ライスシャワー」という馬名は、欧米で結婚式の時に新郎新婦にまわりがシャワーのようにかける米に由来している。この風習の由来については、正確なところはもはや伝わっておらず、米の聖なる力で新郎新婦の将来を清めてやるためだ、というもっともらしい説もあれば、ただ新郎新婦が食うに困らないように、というひどく現実的な説もある。それはさておくにしても、後のある時期、稀代の悪役としてその名を知られるようになるライスシャワーにとって、その競走生活のスタートとなった名前は、何かしら皮肉な運命の巡り合わせだったのかもしれない。

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シリウスシンボリ列伝 ~漂泊の天狼星~ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/#respond Sat, 15 Apr 2023 14:03:23 +0000 https://retsuden.com/?p=306 『悲しき天狼星』

 冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。

 かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。

 シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。

 さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。

 ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。

 確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。

『不世出のホースマン』

 シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。

 シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。

 和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。

 しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。

 当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、

「和田に会いたい」

とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。

 和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。

 シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。

『シンボリの血』

 シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。

 モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。

 和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。

 もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。

 このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。

 しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。

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https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/feed/ 0
サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~ https://retsuden.com/horse_information/2022/21/290/ https://retsuden.com/horse_information/2022/21/290/#respond Fri, 21 Jan 2022 14:49:36 +0000 https://retsuden.com/?p=290 1985年2月19日生。2012年1月7日死亡。牡。鹿毛。谷岡牧場(静内)産。
父マルゼンスキー、母サクラセダン(母父セダン)。境勝太郎厩舎(美浦)。
通算成績は、10戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、弥生賞(Gll)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『昭和最後のダービー馬』

 1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。

 日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。

 だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。

 日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、

「オグリキャップがいたら・・・」

という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。

 時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。

 そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。

 サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。

『トウメイの里』

 サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。

 サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。

 もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は

「若い奴にはチャンスを与えないといかん」

ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。

 すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。

『名馬伝説』

 谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。

 現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。

 だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。

 マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。

『ダービーに出してくれ』

 朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、

「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」

そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。

 こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。

 現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。

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サイレンススズカ列伝~永遠の幻~ https://retsuden.com/horse_information/2021/26/270/ https://retsuden.com/horse_information/2021/26/270/#respond Mon, 25 Oct 2021 16:42:48 +0000 https://retsuden.com/?p=270 1994年5月1日生。1998年11月1日死亡。牡。栗毛。稲原牧場(平取)産。
父サンデーサイレンス、母ワキア(母父Miswaki)。橋田満厩舎(栗東)。
通算成績は16戦9勝(4-5歳時)。1998年度JRA賞(特別賞)受賞馬。
主な勝ち鞍は、1998年宝塚記念(Gl)、1998年毎日王冠(Gll)、1998年金鯱賞(Gll)、1998年中山記念(Gll)、1998年小倉大賞典(Glll)、1998年バレンタインS(OP)、1997年プリンシパルS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『記憶に残る馬』

 日本競馬の歴史の中で、我々に最も鮮烈な印象を残した馬として、サイレンススズカの名前を落とすわけにはいかないだろう。古馬になって本格化した後のサイレンススズカは、おそらく歴史上他に例を見ないほどの圧倒的なスピードで、スタートからゴールまで決して先頭を譲ることのないままに、常に馬群の先頭を走り続けた。果たしてこの馬が「差される」ということがあり得るのか。そう思わせるほどに、その走りはスピードに溢れ、金色の馬体以上に輝きを放っていた。

 しかし、サイレンススズカの実績を見ると、かつて「名馬」と呼ばれてきた強豪たちと比べて、決して突出したものとはいえないことも、また事実である。確かに16戦9勝という戦績は立派だが、特に5歳春までに勝ったレースでは、相手関係が弱いところを選んで走ってきており、サイレンススズカが勝ったレースの中で、本当の意味で一線級の馬が走ったレースといえるのは、1998年宝塚記念(Gl)と、同年の毎日王冠(Gll)ぐらいしかない。

 サイレンススズカのレースにそのような偏りがある理由としては、4歳時の彼が、期待の割には戦績が振るわなかったことから、陣営が慎重にレースを選んだことが大きい。しかし、最大の要因は、それよりもむしろ、サイレンススズカの距離適性に限界があったことにあるというべきだろう。サイレンススズカの勝ち鞍は明らかに中距離に偏っており、マイルやクラシックディスタンスのレースには、使われることすらあまりなかった。

 5歳時のサイレンススズカであれば、出走しさえすれば、マイルやクラシックディスタンスのレースでも勝つことができたかもしれない。しかし、勝負の世界に「たら」「れば」が許されない以上、それは意味のない仮定に過ぎない。実際に意味を持つのは、中距離以外ではほとんど戦績がないという現実の記録である。ゆえに、サイレンススズカに対して

「その最期ゆえに過度に神格化されている」

という否定的評価がつきまとうことも、まったく理由のないことではない。

 しかし、そうであったとしても、やはり多くのファンにとって、サイレンススズカが強烈な輝きを放った名馬であることは、間違いのない事実である。今回は、名馬たちの個性が薄れたといわれる現代競馬に現れた希代の逃げ馬サイレンススズカの馬生を振り返ってみることにしたい。

『生まれ故郷』

 サイレンススズカが生まれた平取の稲原牧場は、スズカコバン列伝(皇帝のいない夏)で取り上げたとおりの実力派牧場であり、テルテンリュウ、スズカコバンによる宝塚記念制覇をはじめとして、その生産馬たちは素晴らしい実績を残してきた。

 稲原牧場をほぼ一代で有力生産牧場に育て上げたとされる場主の稲原一美氏は、血統に対して強いこだわりを持った馬産家としても知られている。というより、そのこだわりこそが、彼に馬産家としての成功をもたらした原動力になったという方が正確かもしれない。

「強い馬を作るためには、良血の牝馬に良血の種牡馬を配合しなければならない。」

 稲原氏は一貫してその信念に基づく馬産に取り組んできた。稲原牧場の規模は繁殖牝馬が20頭弱というところで、牧場の実績を考えるともっと大きくなっていてもいいし、またその気になりさえすれば不可能ではないはずである。しかし、それをしてしまうと、1頭の馬にかけられる手間も、そして費用も落ちてしまうことを、稲原氏はよく知っていた。

 稲原氏は、牧場の生産成績が上がってくると、牧場の規模をさらに大きくしようとするのではなく、1頭あたりにかけられる手間と費用を増強することに心を砕いた。具体的には、牝馬に交配する種牡馬の質を上げ、繁殖牝馬も厳選したもののみを牧場に残し、さらに外部の牝系の導入によって積極的に血の入れ替えも図って、優れた血のみが牧場に残るように日々努力を重ねたのである。

『挑戦なくして成功なし』

 そんな稲原牧場にとって、アメリカから輸入したワキアは、牧場の期待を集める繁殖牝馬だった。ワキアは稲原牧場と親交が深い橋田満調教師と稲原氏の長男が渡米した際に、橋田師が見付けてきた牝馬である。橋田師が目を付けた当時、ワキアはまだ現役の競走馬だった。しかし、ワキア自身が当時既にかなりの競走成績を挙げていただけでなく、その血統もまたミスタープロスペクター系のエース格種牡馬ミスワキで、牝系も多くの重賞勝ち馬を出しているという裏付けがあった。

 ワキアの競走成績、力強くスピード感に満ちた走り、そして日本競馬と相性がよく、活力に溢れた血脈が集約された血統に心惹かれた橋田師から

「いい牝馬がいるので買ってみませんか」

と誘われた稲原氏は、その話を聞いてすぐに決断し、ワキアを買うことにした。当時はまだその決断の結果が分かるはずもないが、橋田師の相馬眼、そして稲原氏の決断の正しさは、やがて確固たる実績によって証明されることになる。

『偶然から生まれた名馬』

 稲原氏が権利を購入したワキアは、5歳一杯アメリカで競走生活を続け、19戦7勝という成績を残して引退すると、その後日本へと輸入された。

 日本へやってきたワキアは初年度ダンスオブライフの牝馬を産んだ。その牝馬がワキアの残す唯一の牝馬になるなどとは夢にも思わぬ稲原氏は、2年目

「今度こそ牡馬を」

という願いを託し、勝負を賭ける意味で、シンジケートに加入していたトニービンを交配することにした。

 トニービンは当時、前年に初年度産駒がデビューしたばかりだったが、その中からいきなりダービー馬ウイニングチケット、桜花賞、オークスの牝馬二冠を制したベガなどを輩出し、その評価を高めていた。このまま順調に行けば、ポスト・ノーザンテースト時代の日本のリーディングサイヤーになることは確実といわれていたトニービンが相手なら、ワキアはどれほど良い仔を産んでくれるだろうか。稲原氏はそんな期待に胸を弾ませ、発情期を見計らってワキアをトニービンが繋養されている社台スタリオンステーションに連れて行った。

 ところが、稲原氏が来てみると、その日は既にトニービンの種付け予定が埋まった後だった。株を持っているので次の機会に種付けをすることもできないわけではないが、それではせっかくの発情期をみすみす棒に振ることになる。また、次を待ったとしても無事受胎してくれるとは限らない。稲原氏は己の不運を呪い、頭を抱えてしまった。

 すると、そんな稲原氏を気の毒に思ったのか、社台SSの方から予想もしない助け舟が出てきた。

「サンデーサイレンスなら今日は空いているので、付けていきませんか」

というのである。

 サンデーサイレンスは現役時代に米国クラシック三冠のうち二冠、そして米国競馬の最高峰であるブリーダーズカップクラシックを制し、2年前に鳴り物入りで日本へ輸入され、供用が始まったばかりの種牡馬だった。サンデーサイレンスは、その後に初年度産駒が大活躍したことで、空前絶後の大種牡馬として日本種牡馬界に君臨する帝王となるのだが、このときは初年度産駒がデビューする直前で人気が落ちていたため、その日の予定が空いていたのである。今では信じられないことだが、そう言われた稲原氏も

「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか…」

ということで承諾し、この日、ワキアの相手は急きょサンデーサイレンスに切り替わった。

 約1年が経った平成6年5月1日、ワキアは稲原牧場で一頭の栗毛の牡馬を産み落とした。父に米国80年代最強馬の呼び声高きサンデーサイレンス、母に米国で7勝を上げた実績馬のワキアを持って生まれたその子こそが、後にサイレンススズカという名を与えられ、希代の逃げ馬として名を残すことになる運命を背負いし馬だった。

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https://retsuden.com/horse_information/2021/26/270/feed/ 0
阪神3歳S勝ち馬列伝~栄光なきGI馬たち~ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/ https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/#respond Tue, 12 Oct 2021 17:50:18 +0000 https://retsuden.com/?p=547  1982年5月12日生。死亡日不詳。牡。鹿毛。土井昭徳牧場(新冠)産。
 父スポーツキー、母シルバーフアニー(母父ドン)。吉田三郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、7戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、京都3歳S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『消えたGl』

 日本競馬にグレード制が導入されたのは、1984年のことである。現在の番組につながるレース体系の原型は、この時の改変によって形成されたといってよい。・・・とは言いながらも、その後に幾度か大幅、小幅な改良が加えられたことも事実であり、現在の番組表は、グレード制発足当時とはかなり異なるものとなっている。

 もっとも、日本競馬の基幹レースとされるGlレースについては、そんな幾度かの番組体系の改革の中で新設されたり、昇格したりしたことは少なくない一方で、廃止されたり、レースそのものの性格が変わってしまった例は少ない。

 その少数の例外として、1996年に秋の4歳女王決定戦から、古馬も含めた最強牝馬決定戦に変わったエリザベス女王杯があげられる。しかし、これも旧エリザベス女王杯と同じ性格を持った秋華賞を、従来のエリザベス女王杯と同じ時期に創設した上での変更である。旧エリ女=秋華賞、新エリ女新設と考えれば、実質的にはGlレースの性質そのものが大きく変わったというより、「秋華賞」というレース名になって、施行距離が変わったに過ぎないというべきだろう。

 だが、エリザベス女王杯とは異なり、単なるレース名や距離の変化では片付けられない、レースの意義そのものを含む根本的な改革がなされたGlも存在する。それが、1991年以降「阪神3歳牝馬S」へと改められた旧「阪神3歳S」である。

 阪神3歳Sといえば、古くは「関西の3歳王者決定戦」として、ファンに広く認知されていた。その歴史を物語るかのように、歴代勝ち馬の中にはマーチス、タニノムーティエ、テンポイント、キタノカチドキといった多くの名馬がその名を連ねている。しかし、皮肉なことに、このレースがGlとして格付けされた1984年以降の勝ち馬を見ると、テンポイント、キタノカチドキ級どころか、4歳以降に他のGlを勝った馬ですらサッカーボーイ(1987年勝ち馬)ただ1頭という状態になり、その凋落は著しかった。さらに、この時期に東西交流が進んで関東馬の関西遠征、関西馬の関東遠征が当然のように行われるようになると、東西で別々に3歳王者を決定する意義自体に疑問が投げかけられるようになった。こうしてついに、1990年を最後に、阪神3歳Sは「阪神3歳牝馬S」へと改編されることになったのである。

 「阪神3歳牝馬S」(阪神ジュヴェナイルフィリーズの前身)は、その名のとおり牝馬限定戦であり、東西統一の3歳牝馬の女王決定戦である。牡馬の王者決定戦は、同じ時期に行われていた中山競馬場の朝日杯3歳Sに一本化されることになり、かつて阪神3歳Sが果たしていた「西の3歳王者決定戦」たるGlは消滅することになった。こうしてGl・阪神3歳Sは、形式としてはともかく、実質的には7頭の勝ち馬を歴史の中に残してその役割を終え、消えていった。

 もう増えることのなくなった阪神3歳SのGl格付け以降の勝ち馬7頭が残した戦績を見ると、うち1987年の王者サッカーボーイは、その後史上初めて4歳にしてマイルCS(Gl)を制して、マイル界の頂点に立っている。彼は種牡馬として大成功したこともあって、歴代勝ち馬の中でも際立った存在となっている。しかし、年代的に中間にあたるサッカーボーイによって3頭ずつに分断される形になる残り6頭の王者たちは、早い時期にその栄光が風化し、過去の馬となってしまった。そればかりか、阪神3歳Sが事実上消滅して以降は、「あのGl馬はいま」的な企画に取りあげられることすらめったになく、消息をつかむことすら困難になっている馬もいる。サラブレッド列伝においては、サッカーボーイはその業績に特に敬意を表して「サッカーボーイ列伝」にその機を譲り、今回は「阪神3歳S勝ち馬列伝」と称し、残る6頭にスポットライトを当ててみたい。

=ダイゴトツゲキの章=

『忘れられた初代王者』

 1984年の阪神3歳S勝ち馬ダイゴトツゲキは、関西の3歳王者決定戦としてGlに格付けされて初めての記念すべき阪神3歳S勝ち馬であるにもかかわらず、歴代Gl馬の中でもおそらく屈指の「印象に残らないGl馬」である。彼の存在は、現代どころか、90年代にはおそらく大多数の競馬ファンから忘れ去られた存在になっていたといってよいだろう。

 ダイゴトツゲキの印象が薄いことには、それなりの理由がある。ダイゴトツゲキが輝いた期間はあまりに短かったし、その輝いた時代でさえ、他の輝きがあまりに強すぎたがゆえに、彼の程度の輝きは、より大きな輝きの前にかき消されてしまう運命にあった。ダイゴトツゲキが阪神3歳Sを制した1984年秋といえば、中長距離戦線ではシンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースらが死闘を繰り広げ、短距離戦線では絶対的な王者のニホンピロウイナーが君臨する、歴史的名馬たちの時代だった。そんな中でGl馬に輝いたダイゴトツゲキは、3歳時の輝きすらすぐに忘れ去られ、彼は多くのGlを勝った牡馬に用意される種牡馬としての道すら、歩むことを許されなかったのである。

『足跡をたどって』

 ダイゴトツゲキの生まれ故郷は、新冠の土井昭徳牧場という牧場である。土井牧場は、家族経営の典型的な小牧場であり、当時牧場にいた繁殖牝馬の数は、サラブレッドが5頭、アラブが2頭にすぎなかった。

 土井牧場の馬産は、規模が小さいだけでなく、競走馬の生産をはじめてから約30年の歴史の中で、中央競馬の勝ち馬さえ出したことがなかった。

 ダイゴトツゲキは、1982年5月12日、そんな小さな土井牧場が子分けとして預かっていた牝馬シルバーファニーの第3子として生を享けた。当時の彼にダイゴトツゲキという名はまだなく、「ファニースポーツ」という血統名で呼ばれていた。

 ダイゴトツゲキの母シルバーファニーの現役時代の戦績は、2戦1勝となっている。彼女はせっかく勝ち星をあげた矢先に故障を発生し、早々に引退して馬産地へと帰ることを余儀なくされたのである。

 もっとも、いくら底を見せないまま引退したといっても、しょせんは1勝馬にすぎない。近親にもこれといった大物の名は見当たらない彼女の血統的価値は、さほどのものでもなかった。彼女自身の産駒成績もさっぱりで、「ファニースポーツ」の姉たちを見ても、第1子のカゼミナトは地方競馬で未勝利に終わり、第2子のサンスポーツレディも中央入りしたはいいが5戦未勝利で引退している。

 一方、ダイゴトツゲキの父スポーツキイは、「最後の英国三冠馬」として知られるニジンスキーの初年度種付けによって生まれた産駒の1頭である。スポーツキイを語る場合に、それ以上の形容を見つけることは難しい。英国で通算18戦5勝、これといった大レースでの実績があるわけでもなかったスポーツキイは、本来ならば種牡馬になることも困難な二流馬にすぎず、そんな彼が種牡馬入りを果たしたのは、偉大な父の血統への期待以外の何者でもない。彼が種牡馬として迎えられたのも、西欧、米国といった競馬の本場から見れば一等落ちる評価しかされていなかったオーストラリアでのことだった。

 オーストラリアで1977年から3年間種牡馬として供用されたスポーツキイは、1980年に日本へ輸入されることになった。当時の日本の競馬界では、マルゼンスキーの活躍と種牡馬入りで、ニジンスキーの直子への評価が劇的に上昇していた。かつての日本の種牡馬輸入では、直近に活躍した馬の兄弟、近親を連れてくることが多かったが、スポーツキイの輸入も、そうした「二匹目のどじょう狙い」であったことは、はっきりしている。

 日本に輸入されたスポーツキイの初年度の交配から生を受けたのは、26頭だった。多頭数交配が進む現在の感覚からは少なく感じるが、人気種牡馬でも1年間の産駒数は60頭前後だった当時としては、決して少ない数字ではない。だが、その中からは、中央競馬の勝ち馬がただの1頭すら現れなかった。そのこと自体は結果論にしても、初年度産駒の評判がよくないことは、既に馬産地で噂になっており、スポーツキイに対する失望の声もあがり始めていた。

『ささやかな願い』

 スポーツキイの日本における供用2年目の産駒である「ファニースポーツ」の血統も、こうした状況のもとでは、魅力的なものとはいいがたいものだった。「ファニースポーツ」自身は気性がよく手のかからない素直な子で、近所の人からは

「こいつは走るんじゃないか」

と言ってくれた人もいたものの、土井氏らの願いはささやかなもので、

「せめて1勝でもしてくれよ」

というものだった。・・・もっとも、当時の土井牧場では中央での勝ち馬を出したことがない以上、これは実は

「牧場史上最高の大物になってくれよ」

と念じているのと同じことだが、だからといって土井氏を欲張りと言う人は、誰もいないに違いない。

『意外性の馬』

 「ファニースポーツ」は、やがて母が在籍していた縁もあり、栗東の吉田三郎厩舎へと入厩することになった。競走名も、ダイゴトツゲキに決まった。

 もっとも、ダイゴトツゲキのデビュー前は、全姉のサンスポーツレディが未勝利のまま底を見せていた時期で、彼にかかる期待も、むしろしぼみつつあった。不肖の全姉は、5回レースに出走したものの、1勝をあげるどころか入着すら果たせず、しかも3回はタイムオーバーというひどい成績だったのである。こうしてあっさりと見切りをつけられてしまった馬の全弟では、競走馬としての将来を懐疑的な目で見られるのもやむをえないことだった。

 ところが、ダイゴトツゲキはこうした周囲の予想を、完全に裏切った。デビューが近づくにつれてみるみる動きがよくなっていったダイゴトツゲキは、いつの間にか期待馬として、栗東でその名を知られるようになっていたのである。

 新馬戦ながら18頭だてと頭数がそろったデビュー戦で2番人気に支持されたダイゴトツゲキは、最初中団につけたものの道中次第に進出していく強い競馬を見せ、2着に半馬身差ながら、堂々のデビュー勝ちを飾った。

 ダイゴトツゲキが新馬戦を勝ったとき、生産者の土井氏は、ラジオも聞かずに寝わらを干しながら、考えごとをしていたという。土井氏が30年目の初勝利を知ったのは、近所の人からの電話だった。土井氏は、「ファニースポーツ」が新馬勝ちするなど、夢にも思っていなかった。

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https://retsuden.com/horse_information/2021/13/547/feed/ 0
ウイニングチケット列伝~府中が泣いたマサトコール~ https://retsuden.com/horse_information/2021/02/105/ https://retsuden.com/horse_information/2021/02/105/#respond Wed, 01 Sep 2021 15:41:29 +0000 https://retsuden.com/?p=105  1990年3月21日生。牡。黒鹿毛。藤原牧場(静内)産。
 父トニービン、母パワフルレディ(母父マルゼンスキー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
 通算成績は、14戦6勝(3-5歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、弥生賞(Gll)、
 京都新聞杯(Gll)、ホープフルS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『政人にダービーを勝たせるために』

 わが国の中央競馬における最高のレースは何か・・・そう聞かれた時に、最も多くのホースマンがその名を挙げるのが日本ダービーであろうことは、想像するまでもなく明らかであろう。1932年に初めて開催された「東京優駿大競走」に端を発する日本ダービーの歴史は、英国のクラシックを範にとって発展してきたわが国の中央競馬の発展の歴史そのものだった。戦争による中断はあったものの、同じ年に生まれたサラブレッドたちが、同世代で1頭にしか与えられることのない「日本ダービー優勝馬」の称号と名誉を得るために繰り広げてきた数々の死闘は、多くの物語と伝説を生み出してきた。

 ダービーの歴史が区切りの第60回を迎えた1993年日本ダービーも、日本ダービー、そして日本競馬の歴史に残る名勝負のひとつに数えられている。ハイレベルといわれた有力馬、そしてそれぞれの騎手たちの激しい駆け引きと死力を尽くした激戦は、今なお多くのファンの語り草となっている。そんな歴史に残る死闘を制し、第60代日本ダービー馬の栄冠に輝いた名馬が、ウイニングチケットである。

 ウイニングチケットが語られる際には、必ず

「柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

という評価とともに語られるという特徴がある。日本競馬の歴史を紐解いても、彼のような扱いを受けるサラブレッドは、決して多くない。ウイニングチケットというサラブレッドは、日本競馬界の中でも特異な存在なのである。

 柴田騎手もまた、日本競馬の歴史の中で、独特の地位を占める存在である。騎手として通算1767勝を挙げたその実力と技術が一流だったことは、疑いの余地がない。だが、柴田騎手の最大の特徴は、数字によって表される実績より、彼自身の「侠気」ともいうべきその誠実な人柄とされる。

 柴田騎手がトップジョッキーとして君臨した時代は、騎手がある程度勝てるようになると、所属厩舎を離れてフリーとなり、なるべく多くの厩舎から勝てる馬の騎乗依頼をひとつでも多く受けようとするのが当たり前というドライな思想が、競馬界の主流となりつつある時期だった。しかし、同世代や自分より若いトップジョッキーがそうしたやり方で勝利数を伸ばしていく中で、柴田騎手は、デビュー時から所属した高松厩舎の所属騎手であり続けた。また、有力馬が大レースに臨む際、大レースの直前に、それまで騎乗していた実績のない騎手から実績のある騎手に乗り替わることは、現在はもちろんのこと、古い時代でも珍しいことではなかった。しかし、柴田騎手は自分が依頼を奪われる側ではなく新たな依頼を受ける側に立った時であっても、それまで馬を育ててきた騎手の心を思い、大レース直前で乗ったことがない馬に乗り替わるという依頼を避け、自らが大レースで騎乗するのは、あくまでもそれまで自らと戦いをともにしてきた馬・・・という理想に忠実であろうとしたことでも知られている。

 そのような騎乗スタイルは、勝利数や重賞、Gl勝ちといった数字によって表される実績を積み上げるためには、マイナス材料としかなり得ない。現に、柴田騎手が騎手として晩年を迎えるころには、彼のようなスタイルはもはや旧時代の遺物として、ほぼ淘汰されつつあった。だが、柴田騎手は、そのことを誰よりも理解していながら、あくまでも自らの思い・・・信念に忠実であり続けた。そして、ファンもまた、そんな無骨で不器用な生き方しかできなかった彼を愛したのである。

 そんな古風な男が最後までこだわったレースが、日本ダービーである。時代の変化とともに、ドライになっていく一方の日本競馬の中で、最後まで自分の生き方を貫きながら超一流の実績を残してきた彼が、どうしても手にすることのできなかった勲章・・・皮肉なことに、それが日本競馬の伝統を象徴し、最高のレースとして位置づけられてきた日本ダービーだった。年齢を重ね、自身に残された騎手生活はわずかであることを悟って

「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい・・・」

と言い続けた柴田騎手の熱情にもかかわらず、ダービーの女神は彼を袖にし続けてきた。

 そんな柴田騎手に、「ダービー・ジョッキー」の栄光をもたらしたのが、ウイニングチケットだった。それまで幾度もの挫折と危機を経てようやく最高の栄誉を手にした彼ら・・・柴田騎手とウイニングチケットは、間違いなく日本競馬史上最高の名場面の主役として輝いていた。ゆえに人はウイニングチケットのことを

「政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

と呼んだのである。

 今回のサラブレッド列伝では、日本ダービーの歴史の1ページを飾ったサラブレッドであるウイニングチケットの、柴田騎手とともに歩んだ戦いの軌跡に焦点を当ててみたい。

『眠れる名血』

 ウイニングチケットは、過去にサクラユタカオー、サクラスターオーなど多くの名馬を生産した歴史を持つ静内の名門牧場・藤原牧場で生まれた。その血統は、父が凱旋門賞馬トニービン、母が未出走馬パワフルレディというものである。

 ウイニングチケットが出現するまでの間、繁殖牝馬としてのパワフルレディの成績は、決して芳しいものではなかった。マルゼンスキーの娘であり、名牝スターロッチ系の末裔・・・という血統背景自体は魅力的なものだったが、問題は肝心の産駒成績である。ウイニングチケットの兄姉たちにはろくな成績を残した馬がおらず、中には「尻尾がない馬」までいたという。

 しかし、藤原牧場の人々は、毎年期待を裏切り続けるパワフルレディとその子供たちを見ながら、

「こんな筈はないのに・・・」

と思い続けていた。パワフルレディの血統、そして彼女自身に眠っている底力を引き出せないのはなぜなのか、どうすればそれらを引き出すことができるのかを、懸命に分析してみた。

 そして藤原牧場の人々がたどり着いた結論は、それまで体の柔らかそうな種牡馬ばかりと交配していたことがいけなかったのではないか、というものだった。パワフルレディ自身はたいへん柔らかい体を持っており、藤原牧場では、その長所をさらに伸ばそうとして、それまでは、やはり体の柔らかい種牡馬ばかりを交配していた。だが、実際に生まれてくるのは体が柔らかいというよりは、競走馬としての丈夫さ、頑丈さに欠ける子供たちばかりだった。そこで一念発起した藤原牧場の人々は、それまでの配合とは反対に、体が堅いタイプの種牡馬を付けてみることにした。

 パワフルレディの新しい配合相手として選ばれたのは、社台ファームがポスト・ノーザンテーストの担い手として輸入したばかりの新種牡馬トニービンだった。トニービンは、欧州競馬の最高峰である凱旋門賞(国際Gl)を勝った名馬である。トニービンは、引退直前の1988年ジャパンC(国際Gl)に出走してペイザバトラーの5着に敗れているが、藤原牧場の当主である藤原悟郎さんは、その際にパドックでトニービンの馬体の素晴らしさに目を引かれ、シンジケートに加入していたのである。

『名伯楽の条件』

 最初、トニービンとパワフルレディとの間に生まれたウイニングチケットは、「鹿のような」線の細い馬格しかなかったため、牧場の人々をがっかりさせた。しかし、そんな華奢な子馬の資質を誰よりも早く見抜いた男がいた。それは、馬の出産シーズンを迎え、少しでも多くの生まれたばかりの当歳馬を見てその資質を見極めるため、北海道を飛び回っていた伊藤雄二調教師だった。

 伊藤師によれば、馬の資質を図る上で重要なのは、生まれた直後の立ち姿であるとのことである。生まれた直後の姿こそがその馬の持って生まれた素質を最も素直に反映している、というのが伊藤師の考え方であり、ゆえに伊藤師は、少しでもいい馬を確保するため、このシーズンは神出鬼没で馬産地を歩き回り、様々な牧場に顔を出していた。そんな伊藤師が藤原牧場へとやってきたのは、ウイニングチケットが生まれた3日後のことだった。

 伊藤師は、生まれたばかりのウイニングチケットの様子をかなり長い間つぶさに見ていたかと思うと、やがて何も言わずに栗東の伊藤厩舎へと帰ってしまった。しばらくして伊藤師が再び藤原牧場にやって来た時には、もうウイニングチケットを厩舎に迎え入れるための手配が何もかも終わっていたという。

 当時、トニービンの産駒は海のものとも山のものとも知れないため、初年度産駒を厩舎に入れる気はなかったという伊藤師だが、ウイニングチケットを見た瞬間

「この馬は走る!」

という直感が走ったという。伊藤師とウイニングチケットがここで出会ったことにより、ウイニングチケットの競走馬としての運命は、大きく動き始めた。

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