(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
かつて、ある名馬を管理した調教師が、こんな発言をしたことがある。
「競馬に絶対はない、でも、この馬には絶対がある」
実際には、彼が「絶対」と称えた名馬もまた、生涯のうちに予期せぬ敗北を幾度か喫している。競馬に「絶対」が存在しうるとすれば、その瞬間、競馬は存在意義を失う。だからこそ、ホースマンたちはその時代に「絶対」と思われる存在を見出した場合、「絶対」の存在を否定し、競馬の存在意義を証明するために死力を尽くす。そうした心ある人々の思いと戦いが、競馬の歴史と伝統を築いてきた。
1987年牝馬三冠戦線は、ありうべからざる「絶対」の名牝を中心に回っていた。マックスビューティ・・・「究極美」という意味の名前を持つ彼女は、桜花賞を8馬身差、オークスを2馬身半差で制しただけでなく、その他のレースも含めて8連勝を飾り、ついに牝馬三冠の最終関門・エリザベス女王杯(Gl)へと駒を進めた。前年にメジロラモーヌが史上初の牝馬三冠を達成したばかりだったが、最後の戦いを見守る当時のファンのほとんどは、マックスビューティが2年連続の快挙を達成することを望み、また確信していた。
ところが、そんな彼らの目の前で、「絶対」は崩れ去った。彼らが信じた未来を突き崩し、歴史を未知へと誘い込むその鋭い末脚は、スタンドを包む歓声を悲鳴に変えた。「絶対」と言われた究極美を牝馬三冠の最終章で打ち破り、その野望を阻止したのは、くしくも「才媛」の名を持つタレンティドガールだった。それは、多くの人々の思いを背負ったサラブレッドが、競馬に「絶対」がないことを証明し、自らの手で未来をつくりあげた瞬間だった。
タレンティドガールは、1984年4月27日、静内の名門牧場・千代田牧場で生まれた。千代田牧場は、タレンティドガールの誕生以前にも、1975年の天皇賞馬イチフジイサミ、82年のエリザベス女王杯馬ビクトリアクラウンらを輩出した実績によって競馬界にその名を知られた名門牧場で、21世紀になってからも多数のGl馬を送り出している。
タレンティドガールの父は、ダービー馬オペックホースや南関東三冠馬サンオーイを輩出した名種牡馬リマンド、母は1勝馬チヨダマサコという血統になる。チヨダマサコの牝系は、遡っていくと小岩井農場、そして日本競馬史の誇る名牝ビューチフルドリーマーに行き着く古い歴史を持っている。
そんな彼女の系統が千代田牧場へやって来たのは、タレンティドガールの曾祖母にあたるワールドハヤブサの代からだった。
しかし、千代田牧場の高い期待を集めたワールドハヤブサとその子孫たちからは、なかなか活躍馬が現れなかった。ワールドハヤブサの長女・ミスオーハヤブサは不出走のまま繁殖入りし、その弟妹たちからも、これといった馬は出なかった。
千代田牧場は、オーナーブリーダー兼マーケットブリーダーという経営形態をとっている。日本の馬産の大多数を占める専業マーケットブリーダーの場合、馬を馬主に売却した代金に収入を依存せざるを得ないことから、馬主に高く買ってもらえる牡馬が生まれると喜び、逆に値段が安くなる牝馬は嫌う傾向がある。しかし、マーケットブリーダーだけでなくオーナーブリーダーも兼ねている千代田牧場の場合、将来牧場に残したい牝馬については、売却するのではなく自己名義で所有する方針をとっている。牝馬は大きな賞金を稼いでくれる可能性は低いものの、競走馬としてもたらす賞金よりも、引退後に繁殖牝馬としてもたらしてくれる高価値の産駒による売上増を望むのが、千代田牧場の伝統的な経営方針とされてきた。
ただ、そうは言っても、自己名義の持ち馬にした牝馬があまり走らないと、その牝馬が将来生む子馬の価値が上がってこない。それに、自分たちの意気、従業員たちの士気も、高まらない。
当時の千代田牧場の当主・飯田正氏の妻である政子夫人は、持ち馬たちが走らないことを気にして、ミスオーハヤブサの初子が生まれた時、夫に
「この馬には、走りそうな名前をつけてくださいよ」
と頼んだ。
すると、飯田氏は何を考えたのか、その子馬に「チヨダマサコ」と名づけてしまった。由来は読んで字の如く、「千代田・政子」・・・。政子夫人は怒ったというが、その名前は変更されることなく、チヨダマサコはそのまま競馬場でデビューすることになった。ちなみに、後になぜそんな名前をつけたのか聞かれた正氏は、
「お尻が大きいところが似ていたから」
と答えているが、本気なのか冗談なのかは判然としない。
さて、チヨダマサコは、デビュー戦を勝ったものの、その後2勝目をあげることができないままターフを去っていった。飯田氏は、やはり夫人に責められたのであろうか。
しかし、チヨダマサコと入れ替わるようにデビューしたのが、彼女より1歳年下にあたるビクトリアクラウンだった。それまで期待に応える産駒を出せなかったワールドハヤブサの7番子、つまりチヨダマサコの叔母にあたるビクトリアクラウンは、デビュー戦こそ凡走したものの、その後怒涛の4連勝を飾り、「東の女傑」として春のクラシックの有力候補へとのし上がった。その後、脚部不安を発症してそれらのレースは棒に振った彼女だったが、8ヵ月後に復帰してクイーンS優勝、牝馬東京タイムズ杯2着を経て、エリザベス女王杯でついに同世代の牝馬の頂点に立ったのである。
ビクトリアクラウンがエリザベス女王杯を制したことで、忘れられかけていたワールドハヤブサの一族は、再びその価値を注目されるようになった。そうなってくると、チヨダマサコに対する期待もいやおうなしに高まってくる。
毎年サンプリンス、リィフォーといった種牡馬と交配されていたチヨダマサコが、3年目にリマンドと交配されて生まれたのがタレンティドガールである。彼女が生まれたのは、ビクトリアクラウンによるエリザベス女王杯制覇の1年半後のことだった。
彼女に与えられた「タレンティドガール」という馬名には、千代田牧場の人々の特別な思いがこめられている。飯田夫妻の間に生まれた子供たちのうち三女は、若くして亡くなっていた。娘の夭折を深く惜しみ、悲しんでいた夫妻は、妻と同じ名を持つチヨダマサコの初子の牝馬に「スリードーター」と名付け、さらに1頭の牡馬を挟んで生まれた牝馬にも、彼女にちなんだ名前をつけることにした。
タレンティドガールの馬名申請時は、最初、三女の愛称だった「ロコ」で申請したものの、なぜか申請が通らなかったという。そこで、才気煥発だった娘のために「タレンティドガール」で再申請したところ、今度は申請が通って馬名登録された。このように、千代田牧場の人々が彼女に寄せる思い入れは、ただごとではなかった。
千代田牧場の人々の期待を一身に受けて順調に成長したタレンティドガールは、やがて栗田博憲厩舎からデビューすることになった。
菅原泰夫騎手を鞍上に迎えて臨んだタレンティドガールの新馬戦は、デビュー戦、折り返し戦とも2着に敗れるというほろ苦いものになった。彼女の初勝利は、通算3戦目となる未勝利戦でのことである。
ちなみに、その時タレンティドガールの手綱を取ったのは、後にマックスビューティの主戦騎手となる田原成貴騎手だった。当時の田原騎手は、まだマックスビューティに騎乗しておらず、タレンティドガールの初勝利の翌週にマックスビューティ陣営から騎乗依頼を受け、バイオレットS(OP)・・・そして牝馬三冠戦線へと参戦していくことになる。
もっとも、当時既にオープン入りを果たし、「大器」との呼び声も高かったマックスビューティと違って、タレンティドガールはまだ初勝利を挙げたばかりの1勝馬の身だった。クラシックすら視界に入ってきていない彼女に、83年、84年の2度にわたって全国リーディングに輝いた騎手を鞍上へ留めおくことができるはずもない。タレンティドガールとともに戦う騎手は、通算4戦目となる次走の桃花賞(400万下)では、またもや変わっていた。
蛯沢誠治騎手・・・それが、この日タレンティドガールと初めてコンビを組んだ騎手の名前だった。彼こそが、その後タレンティドガールの主戦騎手として戦いをともにする男である。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
「牝馬は、牡馬よりも弱い」―これは、競馬界では近年まで一種の常識とされてきた。確かに、ごく最近だけをみれば、JRAのGl最多勝記録をついに更新したアーモンドアイだけでなく、グランアレグリア、クロノジェネシスらの歴史的名牝が中距離戦線を席捲しているが、日本競馬の歴史を振り返って牡牝混合Glの勝ち馬を並べてみると、牡馬の勝ち鞍がまだ圧倒的に多い。牝馬ながらに天皇賞・秋(Gl)を制し、ジャパンC(国際Gl)2着、有馬記念(Gl)3着の実績を残して1998年度代表馬に選出されたエアグルーヴは、近年の名牝たちと比較するとかなり控えめの戦績に見えてくるが、それでも彼女は「稀代の名牝」「女帝」などとして称えられた。これは、彼女がそれらの実績によって「牡馬よりも弱い牝馬」という大多数の原則から外れた例外として、十分な歴史的価値を認められたからにほかならない。
では、「牝馬は牡馬よりも弱い」とされていた時代の牡牝の実際の能力差は、果たしてどの程度あったのだろうか。牝馬クラシック戦線のGlを勝った馬たちであっても、レースのほとんどが牡牝混合戦になる古馬戦線では、クラシック戦線と同程度、あるいはそれ以上に活躍することは、極めて稀だった。そのことをもって「牝馬は牡馬よりも弱い」とされていたことの根拠として挙げることは、可能かもしれない。
しかし、このような考え方はできないだろうか。確かに、長らくの間、牝馬が牡馬に比べて、ある種の能力が劣っていたことは、事実として認めざるを得ないだろう。だが、競走能力のピーク時に激突した場合、牡馬の一線級と好勝負できた牝馬は、いつの時代にも少なからず存在したことも、また確かである。そうであるにもかかわらず、牝馬のGl馬たちの中に、古馬戦線で息長く活躍した者が少なかったのは、彼女たちが己の持つ能力のすべてを競走生活のごく限られた時期に燃やし尽くすからではなかっただろうか。もしそうであるとすれば、牝馬が牡馬よりも弱いということは、必ずしも当てはまらないことになる。
1988年の春に生を享け、1991年の牝馬三冠戦線を戦った牝馬たちも、それぞれの大舞台に己の持てる能力のすべてを燃やし尽くした牝馬たちである。非常に高いレベルと言われた世代の三冠戦線の中で、彼女たちはGlという栄冠を目指し、激しくしのぎを削った。そして、その完全燃焼の度合いをあらわすかのように、栄冠を得た牝馬たちは、それぞれのGl勝ちの後は二度と勝利を得ることなく、また同世代の牝馬たちを含めて、彼女たちの世代が古馬Glを勝つことはなかった。
今回のサラブレッド列伝は、1991年牝馬三冠戦線にスポットを当て、その勝ち馬である3頭、桜花賞を制したシスタートウショウ、オークスを制したイソノルーブル、そしてエリザベス女王杯を制したリンデンリリーについてとりあげてみたい。
1991年4月7日、第51回桜花賞の発走予定時刻を迎えた京都競馬場のスタンドは、異様な空気に包まれていた。
例年ならば阪神競馬場で開催されるのが通例となっている桜花賞だが、この年は阪神競馬場が改修工事中だったため、阪神でなく京都で開催される変則開催となっていた。例年と違う舞台なら、例年と違う雰囲気になるのは当然かもしれない。しかし、この時の空気の異様さは、場所の違いだけにはとどまらなかった。そのころスタート地点付近では、桜花賞戦線の中心になると思われていたある馬に、重大な異変が発生していたのである。
この年の桜の女王争覇戦で、台風の目となることが予想されていたのは、それまで5戦5勝、ステップレースの4歳牝馬特別(年齢表記は当時の数え年)を含めて重賞2つを勝ち、出走馬の中でも実績ナンバーワンを誇るイソノルーブルだった。
前年の牡牝混合の3歳重賞10レースでは牝馬が6勝をあげ、年が明けて4歳になってからも、シンザン記念、ペガサスS(現アーリントンC)を牝馬が制したというこれまでの重賞戦線の結果を受けて、この年の牝馬三冠戦線は、例年よりも相当高い水準での争いになるだろう、というのがもっぱらの評判となっていた。イソノルーブル以外にも、デイリー杯3歳S(年齢表記は当時の数え年)とペガサスSを勝ったノーザンドライバー、まだ重賞勝ちこそないもののチューリップ賞(当時はOP特別)を勝って戦績を3戦3勝とし、無敗のまま桜花賞へと進んだシスタートウショウ、クイーンCと札幌3歳S(年齢表記は当時の数え年)を勝ち、前走チューリップ賞でも2着に入ったスカーレットブーケといった面々が有力馬とされていた。
しかし、こうした有力馬たちも、無敗のまま牝馬クラシックロードの王道を驀進するイソノルーブルの前では一歩譲らざるを得なかった。他の3頭のオッズが400円から500円台に集中して人気が拮抗していた中で、イソノルーブルだけは単勝280円の支持を集めていた。
イソノルーブルは、血統的には、他の有力馬に比べて目立たないどころか、むしろ一枚も二枚も落ちる存在にすぎなかった。彼女は一般に安い馬の代名詞とされ、「走らない」と言われる抽選馬でもあった。そんな彼女が、並み居る良血馬たちを抑えて桜花賞戦線の中心にいる。春のGl戦線の始まりを告げる桜花賞を前にして、ファンの関心は
「イソノルーブルがシンデレラ・ストーリーを完成させることができるのか」
に注がれていた。
ところが、その桜花賞発走直前になって突然発生したアクシデントは、人々を大きな混乱へと引き込み、発走時刻を過ぎてもレースが発走できない事態を招いてしまった。しかも、そのアクシデントの主人公がレースの主人公となるはずだったイソノルーブルだったとなると、人々の戸惑いと混迷はますます深いものとならざるを得なかった。
大アクシデントは、むしろコミカルな光景から始まった。発走を目前に控えて各馬が輪乗りをしている途中、イソノルーブルに騎乗していた松永幹夫騎手は、どの馬のものかが分からない蹄鉄がスタート地点付近に落ちていることに気付いた。そこで彼が
「誰か、蹄鉄落ちてますよー」
と声をかけたところ、返ってきたのは
「お前のだよー」
という返事だった。あわてて確かめてみると、確かにイソノルーブルの右前脚の蹄鉄がなかった。
とはいえ、普通単なる落鉄だけで、ここまでの大混乱になることはない。レース前に出走馬が落鉄した場合、発走時刻を数分遅らせて蹄鉄を打ち直し、その後に発走となるのが普通である。JRAは、この時もいつもと同じように、イソノルーブルの蹄鉄を打ち直す時間をとるために発走を遅らせることにし、場内にもその旨がアナウンスされた。しかし、本当のトラブルが起こったのはその後だった。
イソノルーブルは、Gl開幕を待ちかねたスタンドの大歓声に興奮してしまい、蹄鉄を打ち直すためにやってきた蹄鉄師を暴れて寄せ付けず、蹄鉄の打ち直しができない状態に陥ったのである。打ち直しができないまま、ただ時間だけが無為に過ぎていった。場内の歓声はざわめき、そして困惑へと変わっていった。
イソノルーブルの「抵抗」の前に、主催者はついに蹄鉄の打ち替えを断念し、桜花賞のスタートを決断した。イソノルーブルを含めた18頭がゲートへと誘導されてゲートが開いた時、時刻は発走予定より11分も遅れ、そして何より、1番人気イソノルーブルの右前脚には、蹄鉄がないままだった。
波乱の幕開けとなった桜花賞だが、レース直前のアクシデントは、レース展開にも影響を与えずにはおかなかった。それまでのレースでは、いつもスムーズに先頭を奪って単騎逃げに持ち込んできたイソノルーブルだったが、この日はハナを奪うことができず、レースの主導権を握ることができなかったのである。
例年、桜花賞では「魔の桜花賞ペース」と呼ばれるハイペースが形成される。ただ、このペースには阪神芝1600mコースの構造も影響しているといわれているところ、この年は京都競馬場での開催だった。また、イソノルーブルという絶対的な逃げ馬がいることもあり、事前の予想では「魔の桜花賞ペース」とは縁がないだろうとされていた。
ところがふたを開けてみると、すんなりとハナを切るはずだったイソノルーブルがトーワディズニー、テイエムリズムといった他の逃げ馬を引き離すことができなかった結果、先頭集団は何頭かが団子状で競り合う展開となってしまった。テイエムリズムが脱落したと思ったら、今度は第3コーナーでノーザンドライバーが先行集団から進出してきて先頭争いに加わる始末である。その結果は、1000m通過が57秒6という例年以上の激しいハイペースとなった。
こんなハイペースでは、逃げ馬が残ることは難しい。それどころか、好位置にいる馬でさえ残ることは容易ではないはずである。この日も先行馬が総崩れになっても不思議はない展開だった。
このようなレースでは、先行馬の騎手がハイペースに気づいた場合、極力手綱を抑えて馬の行き脚を抑え、仕掛けどころを少しでも遅らせるのが常道である。そうでなければ、最後の直線でばてて末脚をなくしてしまう。
しかし、この日の戦場には、そんな常識を無視した男がいた。角田晃一騎手である。スタートから騎乗馬を好位につけさせた角田騎手は、道中ずっとその位置どりを維持しただけでなく、第4コーナーから積極的に仕掛けていった。外を突いて上がっていった彼は、一気にイソノルーブルら先頭集団へと襲いかかったのである。
5連勝中のイソノルーブルだったが、さすがにこのハイペースの中では逃げ粘れなかった。さらに、右前脚の蹄鉄がなかったことも影響した。蹄鉄がないまま走るということは、人間でいうなら裸足で走るようなものである。二流血統から桜の女王へと成り上がるはずだった「シンデレラ」が、まさか靴を忘れて裸足で走るところまで「シンデレラ」になるとは、誰も予想していなかった。イソノルーブルの逃げ脚にいつものようなしぶとさはなく、また彼女に続いたノーザンドライバーらも、やはりハイペースに巻き込まれて脚をなくしていった。
しかし、先行馬たちが潰れていく中で、角田騎手の騎乗馬だけは騎手のゴーサインに合わせて上がっていった。先行するイソノルーブルらをとらえて先頭に立つと、そのまま食い下がる後続を引き離していく。馬群から完全に抜け出したその馬は、たちまち独走態勢を築き、中団待機策から追い込んできた人気薄ヤマノカサブランカの追い込みもまったく問題としないままにゴールを駆け抜けた。
ゴール板の前を駆け抜けると同時に桜の女王へと突き抜けたその馬は、イソノルーブルと並ぶ無敗馬ではあったが、この日は4番人気にとどまっていたシスタートウショウだった。
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