(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、新年齢(満年齢)を採用します)
2002年の皐月賞のことを聞かれて多くのファンが思い浮かべるのは、おそらく下馬評を徹底的に破壊し尽くした波乱の結末であろう。重賞3連勝中でクラシックの大本命と言われたタニノギムレットらを退けて三冠の一冠目を制したのは、抽選で出走権を手にした2勝馬ノーリーズンだった。だが、重賞初挑戦の身で、しかも前走の若葉S(OP)では惨敗して人気を大きく落としていたノーリーズンは、ほとんどのファンから忘れられた存在で、前評判の低さを物語るように、この日の配当は単勝15番人気の11590円、馬連に至っては53090円だった。こんな人気薄の馬が、しかも94年にナリタブライアンが記録して以来更新されていなかった皐月賞レコードを8年ぶりに更新する圧倒的なレース内容で勝利を手にするなど、レース前の段階で誰が予想できようか。
こうして初めての檜舞台でファンにとてつもない衝撃をもたらしたノーリーズンだが、彼はその後も戸惑うファンを翻弄し続けた。皐月賞のレース内容に加えてもともとは良血馬と言われる存在だったことから、それ以降は同世代の有力馬の1頭として扱われるようになり、日本ダービーでは2番人気、菊花賞では1番人気と皐月賞馬にふさわしい人気を集めるようになったノーリーズンだったが、その後の彼は人気に見合う走りを見せることなく、それどころか菊花賞では「走る」ことすらないまま舞台から退場してしまった。
「ノーリーズンとは、どんなサラブレッドだったのか?」
この答えに、当意即妙に答えうるファンは、おそらく少数であろう。皐月賞で溢れるほどの才能の煌きを見せながら、荒ぶる才能を制御することができないまま、そのすべてを見せることなく競走生活を終えたノーリーズンというサラブレッドに、ファンは一方では魅せられ、また他方では反発せざるを得なかった。そんな相反するふたつの評価の間で、彼はついにワンフレーズでは表現し得ない混沌とした存在として、人々の記憶に刻まれることになったのである。今回のサラブレッド列伝では、そんなノーリーズンの波乱に満ちた競走馬としての戦いの系譜を追ってみたい。
ノーリーズンは、1999年6月4日、新冠のノースヒルズマネジメントで生まれた。時は折しも第66回日本ダービーの2日前、アドマイヤベガ、ナリタトップロード、テイエムオペラオーが激突した「三強決戦」の直前のことだった。
ノーリーズンの血統は、父が日本を代表する種牡馬であるブライアンズタイム、母が米国の1勝馬アンブロジンというものである。もっとも、繁殖牝馬としてのアンブロジンへの期待は、彼女の競走馬としての戦績とはあまり関係がないところから生じていた。
96年に日本へ輸入された段階から名種牡馬Green Desertや後に日本へ輸入されたウィザーズS(米Gll)勝ち馬トワイニング、阪神3歳牝馬S勝ち馬ヤマニンパラダイスといった名馬たちに連なる牝系、また彼女自身も世界的種牡馬Mr.Prospectorの直子であること、そしてノースヒルズマネジメントに輸入される前にはゴドルフィンを率いるシェイク・モハメド殿下の所有馬だったという事実等が重なって期待を集めていたアンブロジンだったが、彼女がノースヒルズマネジメントで出産したノーリーズンの2歳年上の半姉・ロスマリヌス(父サンデーサイレンス)は、期待を大きく上回る美しい仔馬だった。
「牧場の評価でいうならば、(3年後に生まれた後の牝馬三冠馬)スティルインラブ以上でした」
と評され、ノースヒルズマネジメントの歴史の中でも最上級の期待を寄せられていたロスマリヌスは、順調にデビューして勝利を重ね、特に白菊賞(500万下特別)では、後の重賞5勝馬ダイタクリーヴァに完勝して阪神3歳牝馬Sの有力候補に躍り出た。しかし、その後に故障を発症したロスマリヌスは、ついに復帰を果たすことができず、無敗のまま短い競走生活を終えている。
そんな「未完の大器」の半弟として生まれたノーリーズンは、牧場にいるころは否応なく「アンブロジンの子」「ロスマリヌスの半弟」という形で期待を集めていた。・・・もっとも、その評価は読んで字のごとく、母や姉に依存したものにすぎない。彼自身の評判はというと、遅生まれのうえに骨瘤に悩まされていたこともあって体が弱く、調教を休むことも多かったという。
]]>皐月賞、日本ダービー、菊花賞。3歳馬たちが約半年にわたって世代の頂点を賭けて争う「クラシック三冠」の戦いを、人は「王道(クラシック・ロード)」と呼ぶ。これまで無数のサラブレッドたちが繰り広げてきた三冠をめぐる戦いは、日本競馬の華・・・というよりも、日本競馬の歴史そのものである。過酷な戦いの中から現れた三冠馬であるセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルの存在は伝説としてファンに語り継がれ、三冠馬になれなかった名馬たちの物語も、ファンの魂に刻みつけられてきた。
時空を超えて輝く王道の美しさは、2000年春、「大世紀末」とも呼ばれた20世紀最後の年に生まれた約8000頭のサラブレッドたちにとっても、なんら異なるところはない。彼らもまた先人たちが歩み、築いてきた王道を受け継いで新たな物語を刻み、そして歴史の一部となっていった。
彼らが刻んだ物語・・・2003年クラシックロードの最大の特徴は、21世紀に入って初めて「三冠馬」への挑戦がクローズアップされたことにある。21世紀に入った後、2001年と2002年のクラシックロードは、いずれも春の二冠の時点で勝ち馬が異なっており、ダービーが終わった時点で「三冠馬」誕生の可能性は断たれていた。だが、2003年は皐月賞、日本ダービーをいずれも同じ馬が制したことによって、競馬界は騒然となった。
「ナリタブライアン以来の三冠馬が出現するのか」
同年の牝馬三冠戦線では、やはりスティルインラブが桜花賞、オークスを制して86年のメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠に王手をかけた。20世紀最後の年に生まれた彼らの世代の王道は、「三冠」の重みを我々に何よりもはっきりと思い知らせるものだった。
大きな期待を背負って三冠に挑んだその馬の挑戦は、残念ながら実らなかった。だが、新世紀を迎えた競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させた彼の功績は大きい。そして、三冠の歴史が勝者のみの歴史ではなく、夢届かず敗れた者たちの歴史でもある以上、彼の物語もまた日本競馬の青史に深く刻まれ、王道の物語は今日も脈々と流れ続けている。今回のサラブレッド列伝は、2003年クラシックロードで三冠という夢に挑み、そして破れた二冠馬ネオユニヴァースの物語である。
2003年のクラシック二冠馬・ネオユニヴァースは、2000年5月21日、千歳の社台ファームで生まれた。彼が生まれた日は、日本競馬の聖地・東京競馬場で20世紀最後のオークスが開催された日である。
すべてのサラブレッドが背負う背景が血統ならば、ネオユニヴァースが背負う背景は、「父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス」というものだった。サンデーサイレンスは1989年の米国年度代表馬であり、種牡馬としては日本競馬の勢力図を一代で塗り替えた名馬の中の名馬だが、ポインテッドパスは、競走馬としてフランスでデビューしたものの2戦未勝利に終わった無名の存在にすぎない。また、彼女の繁殖牝馬としての成績を見ても、フランスにいた92年に産み落としたFairy Pathがカルヴァドス賞(仏Glll)を勝ったのが目立つ程度で、とても「名牝」として注目を集めるような実績ではない。
そんなポインテッドパスが日本にやって来ることになったのは、彼女が上場された94年のキーンランドのセリ市で、社台ファームが彼女を競り落としたためである。とはいっても、彼女に対する評価を反映して、その時の社台ファームによる落札価格も30万ドルにすぎなかった。
しかし、社台ファームにやってきてからのポインテッドパスは、95年春に持込馬となるスターパス(父Personal hope)を生んだ後、6年連続でサンデーサイレンスと交配され、不受胎の1年を除いて5頭の子を生んでいる。日本競馬界の歴史を塗り替え続けたリーディングサイヤーとこれだけ連続して交配された繁殖牝馬は、いくらサンデーサイレンスを繋養していた社台スタリオンステーションと同一グループに属する社台ファームの繁殖牝馬であるといっても、その数は極めて限られている。
ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配にこだわった理由について、社台ファームの関係者は、
「チョウカイリョウガの物凄い馬体が忘れられなかった・・・」
と振り返っている。チョウカイリョウガは、ポインテッドパスがサンデーサイレンスと最初に交配されて、96年春に産み落とした産駒である。生まれた直後のチョウカイリョウガの馬体の美しさは群を抜いており、社台ファームの人々は、
「今年の一番馬は、この馬だ」
と噂しあった。
だが、競走馬としてのチョウカイリョウガは、通算36戦4勝、主な実績は京成杯(Glll)2着、プリンシパルS(OP)2着という期待はずれの結果に終わっている。テイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガらと同世代にあたる彼は、日本競馬の歴史の片隅に、あるかないか分からない程度に小さくその名をとどめたにすぎない。
「こんなはずではなかった・・・」
生まれた直後のチョウカイリョウガの中にサラブレッドの理想像を見ていた社台ファームの人々は、無念だった。一度手にしたかに思えた「理想像」の結果は、理想とはほど遠いものに終わった。どこかで生じてしまったほんのわずかな狂いが、「理想像」に近いサラブレッドの歯車を大きく狂わせてしまったのである。
しかし、実らなかった結果は、彼らがチョウカイリョウガの中に見たものまで間違っていたことをも意味するわけではない。彼の大成を阻んだものは、生まれた後の彼に生じたわずかな狂い。ならば、今度こそはその「わずかな狂い」のない馬を作りたい。
「チョウカイリョウガより美しく、そしてチョウカイリョウガより強いサラブレッドを作る!」
それは、彼らにとって「理想のサラブレッド」をつくるという誓い以外の何者でもなかった。そして、チョウカイリョウガと同じ出発点に立つために最も可能性が高い方法が、ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配だったのである。
こうしてポインテッドパスとサンデーサイレンスとの交配という試行錯誤は続けられたが、結果はついてこなかった。99年春に生まれた時に
「チョウカイリョウガ以上かもしれない・・・」
と期待されたのはアグネスプラネットだったが、彼も通算成績27戦3勝と、やはり大成は果たせなかった。
最初から高い評価を受けていたチョウカイリョウガやアグネスプラネットと異なり、生まれた直後におけるネオユニヴァースの評価は平凡なものだった。見るからに筋肉が発達し、力強さを簡単に読み取ることができた兄たちと比べて、ネオユニヴァースの馬体は普通の域を出ず、腰も甘かった。
「兄たち以上の成績をあげられるか、というと疑問だった」
それが、ネオユニヴァースに対する社台ファームの人々の偽らざる評価である。当時から毎年二百数十頭の産駒が産声をあげていた社台ファームの生産馬たちの中で、彼は特別の期待馬として認識されていたわけでもない。社台ファームの「期待馬」として真っ先に名前を挙げられるのは、同じサンデーサイレンス産駒ではあってもダンスパートナーやダンスインザダークを兄姉に持つダンシングオンであり、「ダンシングオンに負けない力強さを持つ」ブラックカフェらであって、ネオユニヴァースではなかった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界には、直線での迫力ある末脚のことを指す「鬼脚」(おにあし)という言葉がある。言葉の由来は読んで字のごとき「鬼のような脚」ということになろうが、この言葉は、逃げ馬や先行馬が直線でさらに脚を伸ばす場合に使用されることはほとんどなく、中団よりさらに後方からの差し、追い込みが決まった時に使用されることが多い。
一般的に、後方からの競馬は、自分でペースを作れない上、勝負どころで前が壁になって閉じ込められる可能性があるため、好位からの競馬に比べて不利であるとされている。個々のレースに限れば、強豪たちが単発の作戦、あるいは展開のアヤによって後方からの競馬をすることはあるし、彼らがそうしたレースで「鬼脚」を見せて勝つこともある。しかし、そんな勝ちっぷりが彼ら自身のイメージとなるまでには、そうしたレースをいくつも積み重ねて実績を残さなければならない。最も不利な作戦で、誰もが認める成績を残す・・・そんな馬は滅多にいないというのが現実である。「追い込みの名馬」の代表格としてまず名前が挙がるのは1983年の三冠馬ミスターシービーだが、その彼ですら、第4コーナーで10番手以下の位置にいて勝ったのは、皐月賞と天皇賞・秋の2度しかない。スタート直後は最後方にいても、第3コーナーかその手前から進出を開始するミスターシービーの競馬は、純然たる直線勝負の追い込みというよりは、いわゆる「まくり」に近いものである。
だが、1993年牡馬クラシック戦線において、それほどに厳しい直線での追い込みを武器としてライバルたちに挑み、ついには「平成新三強」と呼ばれるまでに成長した稀有な強豪が現れた。その馬・・・ナリタタイシンは、いつも馬群の後方につけながら直線での追い込みに賭け、「鬼脚」のなんたるかを常に証明し続けた。直線で、掛け値無しに最後方から飛んでくる追い込みこそが彼の唯一無二の武器であり、420kg前後の細身の身体から繰り出される瞬発力は、まさに「鬼脚」という形容がよく似合うものだった。
ナリタタイシン・・・閃光のような末脚でファンを魅了した第53代皐月賞馬は、果たしてどのようなサラブレッドだったのだろうか。
ナリタタイシンは、1990年6月10日、新冠の川上悦夫牧場で生まれた。彼の血統は、父が米国のGlを3勝したリヴリア、母が日本で走って25戦1勝の戦績を残したタイシンリリィというものだった。
リヴリアは、仏米で通算41戦9勝の戦績を残し、ハリウッド招待ハンデ(米Gl)、サンルイレイS(米Gl)、カールトン・F・ハンデ(米Gl)を勝っている。もっとも、リヴリアの最大の特徴は、これら彼自身の実績ではなく、その血統にあった。リヴリアの母は、キングジョージⅥ世&Q.エリザベスll世S連覇をはじめGl通算11勝という輝かしい戦績を残した歴史的名牝Dahliaだったのである。
リヴリアは、
「Dahliaの子が欲しかった」
という早田牧場新冠支場の早田光一郎氏によって、引退後すぐに日本へと輸入されることになった。・・・もっとも、早田氏がこの時狙っていたのは、Dahlia産駒はDahlia産駒でも、リヴリアの半兄にあたるダハールだったという。ダハールの輸入交渉は値段の折り合いがつかずに決裂したが、そんな時にちょうど競走生活の末期を迎え、凡走を続けていたのがリヴリアだった。早田氏は、リヴリアについて
「僕が行った時に大差のどん尻負けなんかしちゃって、それで予想より安く買えた」
と語っている。
だが、そんなリヴリアに対して独自の視点から注目を寄せていたのが、早田氏と親しく、また独自の血統論を持つ生産者として馬産地で定評がある川上悦夫氏だった。
「Ribotの癇性とRivermanのスピードがはまれば面白いかも・・・」
彼が目をつけたのは、自分の好きなRibot系の繁殖牝馬と、リヴリアが持つRivermanの血だった。
川上氏は、母系としてのRibotの血をもともと高く評価していた。彼は、親交があった千葉の東牧場から繁殖牝馬を譲ってもらえることになった際に、Ribotの直系の孫にあたるラディガの肌馬を、3頭も譲り受けたほどだった。ナリタタイシンの母であるタイシンリリィも、その時に川上氏が東牧場から譲り受けた繁殖牝馬の1頭であり、1980年のオークス馬ケイキロクとは従姉妹同士にあたる良血馬だった。
タイシンリリィは、競走成績こそ25戦1勝というものだったが、川上氏は、多くの活躍馬を輩出する牝系の活力、そして自らが信奉するRibotの血が持つ底力に、ひそかに期待をかけていた。やがて、タイシンリリィが東牧場に残してきた娘のユーセイフェアリーがデビューし、阪神牝馬特別(Glll)優勝をはじめ32戦5勝の成績を残すと、彼女にかかる期待はより大きなものとなっていった。
タイシンリリィは、川上悦夫牧場にやって来てからも走る産駒を出し続け、川上氏の相馬眼が間違っていなかったことを証明した。タイシンリリィの2番子ドーバーシチー、3番子リリースマイルとも、中央競馬で3勝を挙げている。日本でデビューするサラブレッドのうち、中央競馬でデビューするのは4割程度で、1勝を挙げることができるのは、その中でも半分程度という現実の中では、タイシンリリィが残した繁殖成績は目を見張るものだった。
川上氏は、自分の牧場の中でも屈指の繁殖牝馬となりつつあったタイシンリリィを、供用初年度のリヴリアと交配することにした。最初はなかなか受胎せず、種付けに何度も通うはめになったタイシンリリィだったが、最終的には無事にリヴリアとの子を受胎した。それが、後の皐月賞馬ナリタタイシンである。
ちなみに、リヴリアのシンジケートの株を持っていた川上氏は、この春にタイシンリリィのほかにもう1頭の繁殖牝馬をリヴリアと交配した。そして翌年、同じ1993年に川上悦夫牧場で生まれた2頭のリヴリア産駒は、ナリタタイシンが皐月賞馬となっただけでなく、もう1頭のマイヨジョンヌも新潟大賞典(Glll)連覇をはじめとして重賞を3勝することになる。だが、神ならぬ川上氏は、リヴリアが種牡馬として収める成功、そしてその後に待っている運命を、まだ知る由もない。
翌春、タイシンリリィは出産予定日を過ぎたにも関わらず、いっこうに出産の気配はないままだった。3月から5月にかけて出産シーズンを迎える生産牧場では、この時期はぴりぴりした緊張感に包まれる。しかし、6月に入っても生まれる気配すらないというなら、話は変わってくる。緊張があまり長く続くとどうしても気が抜けてしまうし、そもそも出産の気配すらないのだから、何か手を打つこともできない。
タイシンリリィには、1993年6月10日の朝も、何の異常も見られなかった。そこで彼女は、この日もいつもどおりに牧場の牧草地に放牧されていた。そして、昼過ぎのこと・・・
「できちゃってるよー!」
牧場の従業員が思わずあげた大声に、川上氏たちは放牧地へと集まってきた。・・・朝は1頭だったはずのタイシンリリィのそばに、1頭の見慣れない子馬がいた。タイシンリリィは、人間の手を借りないままに、放牧地で子馬を生んでしまったのである。・・・それが、ナリタタイシンの誕生だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬界が盛り上がるための条件として絶対に不可欠なものとして、実力が高いレベルで伯仲する複数の強豪が存在することが挙げられる。過去に中央競馬が迎えた幾度かの黄金時代は、いずれもそうした名馬たちの存在に恵まれていた。
強豪が1頭しかいない場合、その1頭がどんなに強くても、競馬界全体はそう盛り上がらない。また、たとえレースのたびに勝ち馬が替わる激戦模様であっても、その主人公たちが名馬としての風格を欠いていたのでは、やはり競馬人気の上昇に貢献することはない。
その意味で、これまでの競馬ブームの中でも競馬の大衆化が最も進んだといわれる1988年から90年にかけての時代・・・オグリキャップとそのライバルたちを中心とする「平成三強」の時代は、理想的な条件が揃っていたということができる。この時代における競馬ブームの火付け役となったのはオグリキャップだったが、この時代を語る際に、その好敵手だったスーパークリーク、イナリワンの存在を欠かすことはできない。「平成三強」の競馬を一言で言い表すと、「3頭が出走すればそのどれかで決まる」。しかし、「3頭のうちどれが勝つのかは、走ってみないと分からない」という時代だった。そんな彼らの活躍と死闘に魅せられた新しいファン層は、90年代前半に中央競馬が迎えた空前絶後の繁栄期を支え、競馬人気の拡大に大きく貢献したのである。「平成三強」なくして88年から90年代前半にかけての競馬ブームは存在しなかったというべく、オグリキャップをはじめとする「平成三強」が競馬界にもたらした功績は、非常に大きいといわなければならない。
もっとも、競馬界に大きな貢献をもたらした平成三強だが、彼らと同じ時代に走った馬たちからしてみれば、迷惑なことこの上ない存在だったに違いない。大レースのほとんどを次元の違う三強によって独占されてしまうのだから、他の馬からしてみればたまらない。次元の違う馬が1頭しかいないのであれば、その馬が出てこないレースを狙ったり、あるいはその馬の不調や展開のアヤにつけこんで足元をすくうことも可能かもしれない。だが、そんな怪物が3頭もいたのでは、怪物ならざる馬たちには、もはや手の打ちようがないではないか・・・。
しかし、そんな不遇の時代に生まれながら、なおターフの中で、自分の役割を見つけて輝いた馬たちもいる。1988年皐月賞(Gl)と90年天皇賞・秋(Gl)を勝ったヤエノムテキは、そんな個性あるサラブレッドの1頭である。
ヤエノムテキ自身の戦績は、上記のGl、それもいわゆる「八大競走」と呼ばれる大レースを2勝しており、時代を代表する実力馬と評価されても不思議ではない。だが、彼の場合は生まれた時代が悪すぎた。同じ時代に生きた「平成三強」という強豪たちがあまりに華やかで、あまりに目立ちすぎていた。そのため、「Glで2勝を挙げた」といっても、そのひとつは「平成三強」とは無関係のレースであり、もうひとつは唯一出走したオグリキャップが絶不調だったため、その素晴らしい戦績にもかかわらず、ヤエノムテキが時代の主役として認められることはなかった。
そんな彼だったが、自分に対するそんな扱いを不服とすることもなく、あくまでも脇役としてターフを沸かせ続けた。やがて、2度にわたって府中2000mを舞台とするGlを制した彼は、脇役の1頭としてではあるが、やはり時代を支えた個性派として、ファンから多くの支持を受ける人気馬になっていったのである。
ヤエノムテキは、浦河・宮村牧場という小さな牧場で生まれた。当時の宮村牧場は、家族3人で経営する家族牧場で、繁殖牝馬も6頭しかいなかった。宮村牧場の歴史をひもといても、古くは1963年、64年に東京障害特別・秋を連覇したキンタイムという馬を出したほかに、有名な生産馬を輩出したことはなかった。
そんな宮村牧場の場長だった宮村岩雄氏は、頑ななまでに創業以来の自家血統を守り続ける、昔気質の生産者だった。宮村氏が独立する際、ただ1頭連れて来た繁殖牝馬が、ヤエノムテキの4代母となるフジサカエである。その後、小さいながらも堅実な経営を続けた宮村牧場は、フジサカエの血を引く繁殖牝馬の血を細々とつないだ。特にフジサカエの孫にあたるフジコウは、子出しのよさで長年にわたって宮村牧場に貢献する功労馬であり、ヤエノムテキの母であるツルミスターは、フジコウから生まれ、そして宮村牧場に帰ってきた繁殖牝馬の1頭だった。
ただ、フジサカエの末裔は、ある程度までは確実に走るものの、重賞を勝つような馬は、なかなか出せなかった。一族の活躍馬を並べてみても、中央競馬よりも地方競馬での活躍が目立っている。そのため宮村氏は、周囲から
「その血統はもう古い」
「まだそんな血統にこだわっているのか」
とからかわれることも多かった。しかし、宮村牧場ではあくまでもフジサカエの一族にこだわり続け、この一族に優秀な種牡馬を交配し続けてきた。それは、馬産に一生を捧げてきた明治生まれの宮村氏の、男として、馬産家としての意地だったのかもしれない。
このように、フジサカエの一族は宮村牧場の宝ともいうべき存在だったが、その中におけるツルミスターは、決して目立った存在ではなかった。彼女は中央競馬への入厩こそ果たしたものの、その戦績は3戦未勝利というものにすぎなかった。
そんなツルミスターが宮村牧場に帰ってくることになったのは、彼女を管理していた荻野光男調教師の発案である。何気なくツルミスターの血統表を見ていた荻野師は、彼女の牝系に代々つけられてきた種牡馬が皆種牡馬としてダービー馬を出しているという妙な共通点に気付き、
「なにかいいことがあるかもしれん」
ということで、彼女を繁殖牝馬として牧場に戻すことを勧めてきたのである。調教師の中には、血統にこだわるタイプもいれば、ほとんどこだわらないタイプもいる。もし荻野師が後者であったなら、後のGl2勝馬は誕生しなかったことになる。これもまた、運命の悪戯といえよう。
荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。
ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。父Nijinskyと母の父Backpasserの組み合わせといえば、やはりNijinsky産駒で8戦8勝の戦績を残し、日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーはマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、当然のことながら、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。
やがてマルゼンスキーがデビューして残した圧倒的な戦績ゆえに、そんな怪物と同配合ということで注目を集めたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかったのである。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るものといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった笠松の安藤勝己騎手を乗せて優勝し、後の「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。競走馬としてのヤマニンスキーは、明らかに「二流以下」の領域に属していた。
しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らない。競走馬としてはさっぱりだった馬が、種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。
ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。・・・そうした馬産家たちが目を付けたのが、ヤマニンスキーの血だった。
種牡馬ヤマニンスキーは、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬を集めた。マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇した「本家」の価値は、「代用品」の価値をも引き上げたのである。
そして、「代用品」ヤマニンスキーの産駒も、周囲の予想以上に走った。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークス馬ライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年3月30日、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年での大往生を遂げた。ヤマニンスキーが種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。
ヤマニンスキーを父、ツルミスターを母として生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキだった。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出した形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、
「忘れた」
と答えている。なんとも人を喰った話である。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
競馬の華ともいうべき牡馬クラシック三冠に関する有名な格言に、次のようなものがある。
「皐月賞は、最も速い馬が勝つ。ダービーは、最も幸運な馬が勝つ。菊花賞は、最も強い馬が勝つ」
この言葉は、牡馬クラシック三冠のそれぞれの特色を示すものである。この言葉によるならば、日本競馬において至高の存在とされる三冠馬とは、世代で最も速く、最も幸運で、最も強い馬ということになる。そんな馬はまさに「究極のサラブレッド」であり、日本競馬の黎明期から現在に至るまで、三冠馬が特別な存在として敬われていることは、むしろ当然ということができる。
そんな偉大な三冠馬にあと一歩届かなかった二冠馬たちの中で、1987年の皐月賞、菊花賞を制したサクラスターオーは、かなりの異彩を放つ存在である。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられたという特異な経歴を持つサクラスターオーは、まず皐月賞を圧倒的な強さで制して「最も速い馬」となった。しかし、その後脚部不安で長期休養を余儀なくされ、日本ダービーには出走することさえできないまま三冠の夢と可能性を断たれたサクラスターオーは、ダービーの後の調整も遅れに遅れ、ついには半年間の空白を経て、菊花賞本番で復帰するという前代未聞のローテーションを採らざるを得なかった。
「無謀だ」
「3000m持つはずがない」
そんな批判を浴びながら菊花賞に向かったサクラスターオーだったが、それからが彼の真骨頂で、クラシックの最後の戦場、そして半年ぶりの実戦となったここで、他の馬たちをなぎ倒して二冠目を奪取した彼は、「最も強い馬」となったのである。
サクラスターオーのことを、ファンは「奇跡の馬」「幻の三冠馬」と呼んだ。「最も速い馬」にして「最も強い馬」となったサクラスターオーが「三冠馬」と呼ばれるため足りなかった勲章はただひとつ、「最も幸運な馬」に与えられるべき日本ダービーだった。
しかし、そうした輝かしい栄光のすべてが儚くなるまでに、時間は必要なかった。サクラスターオーは、翌年の年頭、1987年の年度代表馬にも選出されたものの、年度代表馬選出が決まったその時も、彼の関係者たちの表情に喜びはなかった。前年の桜の季節に花咲き、さらに菊の季節にもう一度狂い咲いたサクラスターオーは、年末の祭典・有馬記念(Gl)で無残に倒れ、この時生死の境をさまよっていたのである。そして彼は、再び巡ってきた桜の季節の終わりとともに、華やかながらも哀しみに彩られた短い生涯を閉じた。
サクラスターオー自身、競馬場で戦った期間はわずか14ヶ月間にすぎない。そのうちの10ヶ月間は脚部不安による2度の長期休養にかかっており、ファンの前で姿を見せていた期間は、さらに短かい。彼が得意とした競馬の内容も中団からの差し切りであり、大逃げや追い込みのようにファンを魅了する強烈な戦法を得意としていたわけでもない。新馬戦で1番人気に支持された彼だが、その後は1番人気に支持されることさえなく、彼が次に1番人気に支持されたのは、最後のレースとなった有馬記念(Gl)のことだった。それでも私たちは、鮮烈な印象を残した彼の面影を忘れることはない。
昭和も末期を迎えた時代、「サクラスターオー」と呼ばれた1頭のサラブレッドがいた。生まれて間もなく母を亡くし、人間の手で育てられた彼は、生まれながらの脚部不安を抱えながら、流れ星さながらにターフを駆け抜け、煌めいた。まるで、自分を育ててくれた人間の恩に報いようとするかのように。育ての親が彼の活躍を見ることなく逝ったことも知らず、ひたすらに走り、ひたすらに戦い続けた彼の姿は、流れ星のように美しく、そして儚く輝いた。そんな彼は、自らが背負った悲しい宿命に殉じるかのように、平成の世の到来を待たずして消えていったのである。
サクラスターオーが生まれたのは、静内の名門藤原牧場である。藤原牧場といえば、古くは皐月賞馬ハードバージや天皇賞馬サクラユタカオー、比較的最近ではダービー馬ウイニングチケットを生産した名門牧場として知られている。また、藤原牧場は「名牝スターロッチ系」の故郷としても有名であり、サクラスターオーもスターロッチ系の出身である。
サクラスターオーの母サクラスマイルは、スターロッチ系の中でも特に優れた繁殖成績を残した名牝アンジェリカの娘である。彼女の系統は、スターロッチ系の中でも本流というべき存在で、「日の丸特攻隊」として知られたサクラシンゲキはサクラスマイルの兄、天皇賞・秋(Gl)をレコードで制したサクラユタカオーはサクラスマイルの弟にあたる。また、サクラスマイル自身、重賞勝ちこそないものの、中央競馬で29戦4勝という数字を残し、エリザベス女王杯(Gl)3着をはじめとするなかなかの実績を残している。
そんなサクラスマイルだから、競走生活を切り上げて藤原牧場に帰ってくるにあたっても、かなりの期待をかけられていた。そんなサクラスマイルの初年度の交配相手は、日本ダービー馬サクラショウリに決まった。サクラショウリといえば、ダービー以外にも宝塚記念を勝ち、皐月賞3着などの実績を残したパーソロン産駒の名馬の1頭である。その冠名から分かるとおり、この2頭はいずれも「サクラ軍団」の全演植氏の持ち馬であり、その配合も馬主の縁で行われた。
自らの勝負服で走った両親から生まれた血統の馬を走らせることは、「馬主冥利に尽きる」とよくいわれる。サクラスターオーも、名牝系の末裔にして「サクラ軍団」の粋を集めた血統として、生まれながらに人々の期待を集めていた。
しかし、そんなサクラスターオーを待っていたのは、早すぎる悲運だった。ある夏の日、サクラスターオーと一緒に放牧されていたサクラスマイルは、腸ねん転を起こして突然倒れた。牧場の人々が駆け寄ったとき、幼きサクラスターオーは、懸命に倒れた母を起こそうとしていたというが、サクラスマイルが息を吹き返すことはなかった。サクラスマイルがサクラスターオーを産み落としたわずか約2ヵ月後の悲劇だった。
サラブレッドの場合、出産の際に母馬が命を落とすことは、そう珍しいことではない。このような場合に最もよく使われるのは、遺された子馬に母親代わりの乳母をつけ、乳母の手で育てさせる方法である。しかし、この方法は、母馬が出産後間もなく死んだときしか使えない。一度母馬に育てられた子馬には母馬の匂いがついてしまうため、後から乳母をつけようとしても、乳母が他の馬の匂いがついた子馬を育てようとはしないのである。約2ヶ月間にわたってサクラスマイルに育てられたサクラスターオーにも、乳母をつけることは困難だった。
藤原牧場の場長である藤原祥三氏は、サクラスターオーをどうやって育てたらいいのか散々悩み、ついには自らの手で育てることを決意した。子馬は数時間に一度の割合でミルクを飲むが、藤原氏は、夜も4時間ごとに起きるとミルクを作り、サクラスターオーにミルクを与え続けた。しまいには、サクラスターオーの方でも藤原氏の足音を聞き分けるようになり、藤原氏の足音が聞こえるだけで、甘えて鳴き声をあげるようになったという。藤原氏は、サクラスターオーにとって、まさに親代わりの存在だった。
ただ、子馬はミルクを与えるだけでは強い馬には育たない。十分な食事とともに十分な運動があってこそ、サラブレッドは持って生まれた資質を花開かせることができる。同期の子馬たちがまだ離乳せず、母馬と一緒にいる中で、母馬のいないサクラスターオーを1頭だけ放していても、仲間にも入れてもらえないし、十分な運動もできない。
そこで藤原氏は、サクラスターオーの曾々祖母(祖母の祖母)で、繁殖牝馬を引退し、功労馬生活を送っていたスターロッチをサクラスターオーと一緒に放牧することにした。高齢のスターロッチは、若い母馬のように子馬と一緒に走り回ることはできないが、サクラスターオーの母親代わりとして飛び回る彼を常に見守っていたという。
母なきがゆえに藤原氏、スターロッチらに「育てられた」サクラスターオーは、まるで自分に母のないことが分かっているかのように、大人びた馬に育っていった。5月2日生まれのサクラスターオーは、同期の馬の中でも生まれは遅い方だったが、自分より早生まれの馬たちがまだ乳離れもできないうちから、1頭で牧草を食べ、他の馬がいなくても自由に牧場を走り回るようになっていった。
]]>(本作では列伝馬が馬齢表記変更後も競走生活を続けていることから、新年齢(満年齢)を採用します)
牡馬クラシック戦線が競馬の花形になっている日本競馬において、皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞をすべて制した「三冠馬」は、そのクラシック戦線の頂点に立つ者として、単に強い馬という意味を超えた称賛を受ける。「三冠馬」は、三冠達成の困難さゆえに、すべての競馬ファンにとっての夢であり、憧れであり、また畏敬の対象ですらある。
クラシック中心主義の体系を創設当初から現在に至るまで貫く中央競馬の歴史は、多数の名馬たちと無数の無名馬たちによる、三冠への挑戦と挫折の歴史でもある。三冠達成の困難さを物語るように、中央競馬史上「三冠馬」は、全部で8頭しかいない(2021年末現在)。それ以外の多くの名馬たちが、三冠の夢に挑んでは敗れ、そして散っていった。そうした残酷な選別の過程を経るからこそ、勝ち残った三冠馬の栄光は、より強く、美しく輝く。三冠のロマンとは、わずか一握りの栄光と、それよりはるかに多くの挫折によって織り上げられた「物語」なのである。
そんな歴史の影の部分を象徴するのが、歴史上最も「三冠馬に近かった」二冠馬である。皐月賞、菊花賞という二冠を制しながら、三冠の中で最も価値が高いとされる日本ダービーで、勝ち馬に遅れることハナ差、わずか7cmの違いによって栄光をつかみ得なかった彼のことを、人は当初「準三冠馬」と呼んだ。その称号は、わずかの差で「三冠馬」と呼ばれる機会を永遠に失った彼への敬意を込めたものだった。
だが、そんな彼の栄光は、彼自身の凋落によってその価値を大きく傷つけられることになった。クラシック後の彼は、約2年間の競争生活の中で10戦しながら未勝利に終わった。しかも、彼と同世代でクラシック戦線を戦った馬たちも、古馬戦線で揃って大苦戦を強いられた。そのことによって、かつて「準三冠」という輝きに満ちた称号で呼ばれた彼の偉業に対する評価は地に堕ち、
「最弱世代に生まれたからこその快挙」
「生まれた時代に恵まれただけ」
と評されるようになり、ついには
「彼が三冠馬になっていたら、三冠馬の権威が崩れていた」
とまで侮られるようになっていった。クラシック戦線で「準三冠」を達成し、さらにはキングジョージ&Q.エリザベスS(国際Gl)にまで挑んだ輝きが色あせていくさまは、あまりに残酷なものだったと言わざるを得ない。そして彼は、そうした汚名を雪ぐいとまもないままに、まるでその栄光のすべてが、そして彼自身の馬生が夢だったかのように、短い馬生まで駆け抜けてしまったのである。
彼を生み出した戦場・・・それは、20世紀最後の、そして外国産馬開放前の最後の年となった2000年牡馬クラシックロードである。あの時代は、なんだったのだろうか。あの輝きは、なんだったのだろうか。20世紀最後のクラシック戦線の覇者は、やがてその栄光のすべてが夢であったかのように、「最も三冠に近づいた馬」から、「最弱世代の代表格」へと貶められていった。そんな彼・・・エアシャカールの存在は、中央競馬の歴史の中でも特異な存在である。今回は、2000年牡馬クラシック戦線の二冠馬でありながら、運命の流転の激しさに翻弄された悲劇の馬でもあるエアシャカールを取り上げてみたい。
エアシャカールの生まれ故郷は、千歳の社台ファームである。社台ファームといえば、言わずと知れた日本最大の生産牧場であり、特にサンデーサイレンス導入以降の大レースでの実績は、他の牧場を完全に圧倒している。現在の社台ファームは、この牧場を一代で日本最大の牧場に育て上げた吉田善哉氏の死後、その息子たちによって3つに分割され、一族によるグループ牧場となっているが、先代からの名前をそのまま受け継ぐ社台ファームは、長男の吉田照哉氏が継いだものである。
エアシャカールの牝系は、照哉氏と非常に深い因縁で結ばれていた。彼らの縁は、実に1972年まで遡る。社台ファームは、当時米国にフォンテンブローファームという牧場を所有していたが、その当時現地に赴いて場長を務めていたのが照哉氏だった。そして、エアシャカールの曾祖母にあたるタバコトレイルは、そのフォンテンブローファームの繁殖牝馬であり、祖母のヒドゥントレイルはフォンテンブローファームで生まれた生産馬だったのである。
もっとも、照哉氏自身が配合を決めたというヒドゥントレイルは、脚が大きく曲がった「失敗作」だった。そのため照哉氏は、ヒドゥントレイルを「1万ドルか2万ドル」という捨て値でさっさと売り払ってしまった。そのうち社台ファームは、77年にフォンテンブローファームを手放し、照哉氏も日本へ呼び戻された。後に照哉氏が聞いたのは、案の定ヒドゥントレイルがレースに出走することもないまま繁殖入りしたという知らせだったが、照哉氏も数いる生産馬の1頭、それも「失敗作」のことをいつまでも気にしているわけにもいかず、そのうちにこの血統のことを忘れていった。
ところが、照哉氏はその後、何度もヒドゥントレイルの名前を聞かされることになった。照哉氏が日本へ戻った後になって、ヒドゥントレイルの子供たちが次々と走り始めたのである。ヒドゥントレイル産駒が次々と重賞、準重賞を勝った反面、ヒドゥントレイル以外に繁殖入りしたタバコトレイル産駒は、そのほとんどが失敗に終わった。照哉氏は、「失敗作」の子供たちが結果を残したことに、馬づくりの難しさを痛感せずにはいられなかった。・・・そんな照哉氏が93年に出かけたアメリカの競り市に、ヒドゥントレイルの娘であるアイドリームドアドリームが上場されたのである。
カタログに「№506」と記されたアイドリームドアドリームは、自身の競走成績こそ22戦2勝とそう目立ったものではなかったものの、その兄弟からは多くの活躍馬が出ていた。ちなみに、「アイドリームドアドリーム」という馬名は、意訳すれば「夢破れて」というもので、歌劇「レ・ミゼラブル」内の歌曲に由来するといわれている。この歌は、夢破れ、仕事を失い、男にも逃げられた不幸な女性が、自らの境遇を悲しんで歌うその名のとおり、寂しい歌である。
照哉氏は、ヒドゥントレイル、タバコトレイルの血統への思いもあって、彼女を買うことにした。彼女に対する注目度はそう高くなく、価格も大きくつり上がることもないまま、6万3000ドルで落札することができた。こうしてヒドゥントレイルの血統は、約20年の時を経て、再び照哉氏のもとへと戻ってきた。
アイドリームドアドリームが社台ファームにやってきて最初に生んだ牝馬(父マジェスティックライト)は早世したものの、次に生まれたエアデジャヴー(父ノーザンテースト)は1998年の牝馬クラシック戦線を沸かせ、クイーンS(Glll)優勝、オークス(Gl)2着、桜花賞(Gl)、秋華賞 (Gl)3着といった戦績を残した。エアシャカールは、そのエアデジャヴーの2歳下の半弟にあたる。
出生当時、エアシャカールの血統に対する評価は、決して他の馬たちより優れていたわけではなかった。生まれて3週間ほど後に森秀行調教師が社台ファームを訪れた際、エアシャカールのことが気に入って自分の厩舎に入れるよう懇願したが、姉のエアデジャヴーは伊藤正徳厩舎に所属することが決まっていたにもかかわらず、エアシャカールの森厩舎入りはあっさりと決まった。当時の競馬界では、初子を管理した調教師がその弟、妹も管理することが多く、アイドリームドアドリームの子どもたちについても、エアシャカールの1歳下、2歳下の弟たちは伊藤正厩舎に入厩している。そこのことからすれば、もしエアデジャヴーのデビューがあと1年早く、エアシャカールのデビュー時に彼女が実績を残していたとすれば、エアシャカールが森厩舎に入ることはなかったかもしれない。この事実は、デビュー前の彼に対する伊藤正厩舎の評価がそれほどのものではなかったことを物語っている。
エアシャカールへの評価が高まり始めたのは、ある程度本格的に運動を始めた後のことだった。このころには、姉のエアデジャヴーもデビューして実績をあげたことから、「母アイドリームドアドリーム」の血統も注目されるようになっていた。社台ファームの生産馬における彼の同期にはアグネスフライト、フサイチゼノンらもいたが、運動の様子に対する牧場の評価では、エアシャカールが世代ナンバーワンだった。
やがて森厩舎へと入厩したエアシャカールは、いったん「エアスクデット」という馬名で登録されながら、その後エアシャカールに馬名変更されるという珍しい経験も経ながら、いよいよ競走馬としての生活を始めた。
入厩したばかりのころのエアシャカールは、確かに走らせてみると能力では桁外れのものを持っていた。めちゃくちゃなフォームで走っても、他の馬たちに平気でついていく。いったん加速がついた時のスピードも、並みのものではない。・・・だが、それよりもむしろ目立ったのは、あまりにも激しく、どうにも御しがたい気性の激しさだった。
森厩舎でも、事前にエアシャカールがかなり気性の激しい馬であるということは聞いていた。だが、実際の彼の気性は、厩舎のスタッフの想像をはるかに超えるものだった。馬場でも厩舎の中でも、場所にかまわず暴れ回る。機嫌を損ねると、人を乗せているのに尻っぱねをして振り落とそうとする。また、走っている時には手綱で止まらせようとしても、ひたすらに走り続けるため、乗り役が下りることができない。挙句の果てには、彼は4本脚のままでジャンプするという馬らしからぬ技まで持っていた。
そんなエアシャカールだから、実際に乗るとなると、危なくて仕方がなかった。森厩舎の調教助手たちは、エアシャカールの気性にほとほと手を焼き、毎朝くじ引きで誰が乗るかを決めるようにしたほどだった。
]]>★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
すべてを捨てて戦い、そして散っていくことによって大衆の魂に感動を残したお前は、勝利によってよりも敗北によって輝いた日本競馬史上最大の叙情詩だった・・
20世紀も終わりに近づく2000年12月15日、師走の競馬界に小さからぬ衝撃が走った。1983年に牡馬クラシック三冠すべてを制し、歴史に残る三冠馬の1頭に名を連ねた名馬ミスターシービーの訃報が伝えられたのである。
三冠馬といえば、英国競馬のレース体系を範として始まった我が国の競馬においては、競走馬に許されたひとつの頂点として位置づけられている。ほぼ半年という長い時間をおいて、2000mから3000mという幅広い距離で戦われるクラシック三冠のすべてを制することは、身体能力、精神力、距離適性の万能性、そして運を兼ね備えた馬のみに可能な偉業である。三冠達成の偉大さ、困難さを証明するかのように、三冠馬は我が国の競馬の長い歴史の中でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、そしてナリタブライアンという5頭しか出現していない(注・2001年以降、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルが三冠を達成している)。ミスターシービーは、2000年暮れの時点で生存する2頭の三冠馬のうちの1頭だった。
ミスターシービーといえば、20世紀の日本競馬に現れた5頭の三冠馬、そして日本競馬史に残る名馬たちの中でも、ひときわ強烈な個性の輝きを放った存在として知られている。ミスターシービーは、ただ「三冠馬になった」という事実ゆえに輝いたのではない。皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。ミスターシービーが行くところには常に波乱があり、感動があり、そして奇跡があった。時には出遅れての最後方からの追い込みがあり、時には失格すれすれの激しいライバルとのせめぎ合いがあり、そして時には掟破りの淀の上り坂からのまくりがあった。そんな常識破りの戦法を繰り返しながら、ひたすらに勝ち進むミスターシービーの姿に、大衆は歓喜し、熱狂し、そして最もドラマティックな勝ち方で自らの三冠を演出する名馬のドラマに酔いしれたのである。
しかし、そんなミスターシービーに、やがて大きな転機が訪れた。古馬戦線で自らの勝ち鞍にさらに古馬の頂点である天皇賞・秋を加えたミスターシービーだったが、彼がかつて戦ったクラシック戦線から絶対皇帝シンボリルドルフが現れ、前年にミスターシービーが制した84年のクラシック三冠をすべて勝つことで、ミスターシービーに続く三冠馬となったのである。ここに日本競馬界は、歴史上ただ一度しかない2頭の三冠馬の並立時代を迎えた。
ミスターシービーとシンボリルドルフ。それは、同じ三冠馬でありながら、あまりにも対照的な存在だった。後方一気の追い込みという不安定なことこの上ない作戦を得意とし、それゆえにファンの心に他のどの馬よりも強烈な残像を焼きつけ続けてきたのがミスターシービーならば、シンボリルドルフは先行抜け出しという最も堅実な作戦を得意とし、冷徹なまでの強さで後続を寄せ付けないまま無敗の三冠馬となった馬である。2頭の三冠馬は、果たしてどちらが強いのか。三冠馬を2年続けて目にした当時の競馬ファンは、誰もが「三冠馬の直接対決」という空前絶後の夢に酔った。
ところが、夢の決戦の結果は、一方にとってのみ、この上なく残酷なものだった。2頭による直接対決は、そのすべてでシンボリルドルフがミスターシービーに勝利したのである。2頭の三冠馬の力関係は、シンボリルドルフが絶対的にミスターシービーを上回るものとして、歴史に永遠に刻まれることとなった。
こうして三冠馬ミスターシービーは、自らも三冠馬であるがゆえに、不世出の名馬シンボリルドルフと同時代に生まれたという悲運によって、その名誉と誇りを大きく傷つけられることとなったのである。ミスターシービーは、三冠馬の誇りを泥にまみれさせられ、
「勝負づけは済んだ」
と決め付けられることになった。
しかし、ミスターシービーの特異さが際だつのは、その点ではない。シンボリルドルフに決定的ともいうべき敗北を喫したミスターシービーが選んだ道が、既に大切なものを失いながら、なお残る己のすべてを捨てて、あくまでシンボリルドルフに戦いを挑み続けることだったという点である。
「三冠馬の栄光を傷つけるな」
識者からはそう批判されたその選択だが、いつの世でも常に強者に優しく弱者に冷たいはずの大衆は、あくまでもミスターシービーを支持し、大きな声援を送り続けた。馬券上の人気はともかくとして、サラブレッドとしての人気では、シンボリルドルフはついにミスターシービーを上回ることはなかったのである。そうしてミスターシービーは、シンボリルドルフに戦いを挑み続けるその姿によって、競馬を支える大衆の魂に、勝ち続けていたころと同じように… 否、勝ち続けていたころよりもむしろ深く強く、自らの記憶を刻み続けた。
結局、ミスターシービーの挑戦が、彼の望んだ「勝利」という形で実を結ぶことはなかった。だが、勝ち続けることによって記憶に残る名馬は多くとも、敗れ続けることによって記憶を残した名馬は極めて稀有である。大衆は、ミスターシービーの戦いの軌跡の中で、初めて彼が単なる強い馬だったのではなく、ファンの魂を震わせる特別な存在だったことを思い知り、その心に刻み付けることとなった。
大衆の魂を動かす名馬には、必ず彼らが生きた時代の裏付けがある。果たして大衆は、一時サラブレッドの頂点を極めながらも、より強大な存在に挑戦し続け、そして最後には散っていったミスターシービーの姿の中に、自分たちが生きた時代の何を見出したのだろうか。
ミスターシービーは、群馬に本拠地を置くオーナーブリーダー・千明牧場の三代目・千明大作氏によって生産されたとされている。千明牧場といえばその歴史は古く、大作氏の祖父がサラブレッドの生産を始めたのは、1927年まで遡る。千明牧場の名が競馬の表舞台に現れるのも非常に早く、1936年にはマルヌマで帝室御賞典(現在の天皇賞)を勝ち、1938年にはスゲヌマで日本ダービーを制覇している。
千明家がサラブレッドに注ぐ情熱は、当時から並々ならぬものだった。大作氏の祖父・賢治氏は、スゲヌマによるダービー制覇の表彰式を終えて馬主席に戻ってきた時、ちょうど自宅から電話がかかってきて、長い間病に臥せっていた父(大作氏の曽祖父)の死を知らされたという。その時賢治氏は、思わず
「あれは、親父が勝たせてくれたのか・・・」
とつぶやいた。
そんな千明牧場でも、大日本帝国の戦局が悪化し、国家そのものが困難な時代を迎えると、物資難によって馬の飼料どころか人間の食料を確保することすら難しくなっていった。賢治氏は、それでもなんとか馬産を継続しようと執念を燃やしたものの、その努力もむなしく、1943年には馬産をいったんやめるという苦渋の決断を強いられた。この決断により、千明家が長年かけて集めた繁殖牝馬たちは他の牧場へと放出されることになり、広大な牧草地はいも畑と化した。
年老いた賢治氏に代わって牧場の後始末を行ったのは、息子である久氏だった。彼が牧場に残った繁殖牝馬の最後の1頭を新しい引き取り先の牧場に送り届け、そこで聞いたのは、賢治氏の死の知らせだった。馬産に情熱を燃やし、かつて帝室御賞典、ダービーをも獲った賢治氏は、牧場閉鎖の失意のあまり病気を悪化させ、亡くなってしまったのである。
二代の当主の死がいずれも馬産に関わった千明家にとって、もはやサラブレッドの生産は単なる趣味ではなく、命を賭けて臨むべき宿命だった。そんな深く、そして悲しい歴史を持つ千明牧場の後継者である久氏もまた、時代が再び安定期を迎えるとともに馬産の再開を望んだのは、もはや一族の血の必然であった。
戦後しばらくの時が経ち、事業や食糧難にもいちおうのめどが立ってくると、久氏は千明牧場を再興し、馬産を再開することに決めた。1954年、久氏は千明牧場の再興の最初の一歩として1頭の繁殖牝馬を手に入れた。その繁殖牝馬の名前は、チルウインドであった。
再興されてからしばらくの間、千明牧場は戦前に比べてかなり小規模なものにとどまっていた。戦前に長い時間をかけて集めた繁殖牝馬たちは既に各地へ散らばり、久氏は事実上牧場作りを一から始めなければならなかったからである。しかし、信頼できるスタッフを集めて彼らに牧場の運営を任せ、さらに自らも馬を必死で研究した千明家の人々の努力の成果は、やがて1963年にコレヒサで天皇賞を勝ち、そしてチルウインドの子であるメイズイで皐月賞、日本ダービーの二冠を制するという形で現れた。戦前、戦後の2度、そして父と子の二代に渡って天皇賞とダービーを制したというその事実は、千明牧場の伝統と実績の重みを何よりも克明に物語っている。そんな輝かしい歴史を持った千明牧場の歴史を受け継いだのが、ミスターシービーを作り出した千明大作氏である。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『二冠馬の系譜』
クモノハナ、トキノミノル、クリノハナ、ボストニアン、コダマ、メイズイ、タニノムーティエ、ヒカルイマイ、カブラヤオー、カツトップエース、トウカイテイオー、ミホノブルボン、サニーブライアン、ネオユニヴァース、メイショウサムソン、ドゥラメンテ。ここであげた16頭の馬たちには、ひとつの共通項がある。かなり昔の馬ばかりである前半段階でそれが何か分かる人は、かなりのベテラン競馬ファンか、競馬通ということができよう。もっとも、前半だけでは分からない人でも、後半に入っていけば、ピンとくるファンも多いだろう。ここで挙げた馬たちは、皐月賞と日本ダービーを制したにも関わらず、最後の関門となる菊花賞で挫折し、三冠馬の称号を勝ち得ることができなかった二冠馬たちである。
皐月賞、ダービーに菊花賞を加えた三つのクラシックレースをすべて制した「三冠馬」は、日本競馬の歴史に残る存在として誰からも認められる特権を有している。もっとも、その特権は達成の困難さの証であり、中央競馬の歴史の中でも、三冠馬は1941年のセントライトから2020年のコントレイルまでの間にわずか8頭しか誕生していない。前記の16頭は、いずれも三冠まであと一冠というところまで迫りながら、最後の関門で夢破れたのである。
彼らの菊花賞を振り返ると、すべての馬が菊花賞に敗れて三冠の夢を絶たれたわけではない。彼らのうち、菊花賞に出走して敗れたのは、ちょうど半数の8頭に過ぎない。残る8頭は、菊花賞を故障によって回避したり、引退したりして、駒を進めることすらできなかった。出走できなかった馬たちがもし無事に菊花賞に出走できていたならば、三冠の歴史は変わっていたかもしれないが、それはあくまでも夢の中でのお話に過ぎない。三冠レースの過酷さは、それを達成すること以前に、すべてに出走することにも及ぶ。だからこそ、日本競馬においては、三冠のすべてに出走し、全てを制覇することが最強馬の証とされてきた。
菊花賞に出走できなかった二冠馬たちの中でも、トキノミノル、カツトップエース、そしてサニーブライアンの3頭は、日本ダービーが現役最後のレースとなっている。ダービー制覇を最後に現役生活を終えるということは、ある意味で「競走生活の頂点で現役を終えた」ということも可能である。しかし、既に歴史の評価が定まったトキノミノルとカツトップエースを見る限り、彼らの引退は決して幸せなものではなかった。
10戦10勝、うち7回がレコードタイムという完璧な成績を残したトキノミノルは、ダービーのわずか17日後に破傷風が原因でこの世を去り、「幻の馬」と呼ばれた。その後の彼は、競馬界の「悲劇の代名詞」として今なお語り続けられている。また、皐月賞を16番人気で逃げ切り、続くダービーも3番人気で二冠を達成したカツトップエースは、無事に種牡馬となったまではよかったものの、種牡馬としての成績を上げることはできず、やがて韓国に寄贈されてそのまま異邦の土となった。
1997年の皐月賞、日本ダービーを制して二冠を達成したサニーブライアンも、ダービーが終わった瞬間にファンに三冠馬の夢を見させたまま現役を終えた最後の馬だが、その実力については疑問符をつけられることが少なくなかった。二冠馬サニーブライアンとはいったい何者だったのか…そんな謎に触れ、そして解き明かすことは、競馬ファンの特権であり、責務でもある。私たちは、歴史の証人として、サニーブライアンに対する正当な評価を与えなければならない。筆者は、改めて次の疑問を提示したい。
「二冠馬サニーブライアンとは、果たしてどんな馬だったのだろうか? 」
『二冠馬の故郷』
サニーブライアンの故郷は、北海道の浦河町にある村下ファームである。村下ファームは、1960年の開業以来サラブレッド生産を続け、サニーブライアンが生まれた前後にようやく繁殖牝馬の数が念願の10頭に達したという程度の規模の、典型的な非高の中小牧場である。サニーブライアン以前に中央競馬の重賞を勝った村下ファームの生産馬は、マイスーパーマン(セントウルS、関屋記念)、リネンジョオー(京都牝馬特別、小倉記念)といったあたりで、大きくもなければ、特に並外れた実績を残してきたわけでもないごく普通のサラブレッド生産農家。それが、村下ファームの等身大の姿だった。
しかし、そんな村下ファームにも、決して忘れることのできない大きな思い出があった。それは、1987年の日本ダービーに生産馬のサニースワローが抽選をくぐり抜けて出走し、24頭だての22番人気という圧倒的な低評価を覆して2着に突っ込んだことである。
サニースワローは、優勝したメリーナイスからは6馬身離されたものの、その走りは
「ダービーに出走馬を送り込むことが夢だった」
という村下ファームの人々の胸に、計り知れないほどの深い喜びと感動を残した。ダービー出走だけでも夢のような話だったのに、ダービーを勝つなんて、夢のまた夢…そう思っていた村下ファームの人々にとって、優勝には届かなかったとはいえ、彼らの牧場で生まれたサニースワローが見せた一世一代の走りは衝撃であり、それと同時に誇りでもあった。
「うちのような小さな牧場の馬でも、日本一のレースでいい走りができるんだ」
村下ファームの人々は、サニースワローが教えてくれたこのことを胸に刻み、彼を送り出したことを励みとしながら、サニースワローに続く馬を送り出そうと馬産に取り組んでいた。
そんな村下ファームで、サニーブライアンは生まれた。母のサニースイフトはサニースワローの全妹、つまりサニーブライアンはサニースワローの甥にあたる。
『計算された配合』
サニーブライアンの牝系を遡ると、4代前に桜花賞馬ツキカワの名を見出すことができる。この牝系が村下ファームにやってきたのは、ツキカワの孫サニーロマンの代のことで、その後、この牝系は村下ファームの基礎牝馬となっていった。サニースイフト自身も、競走馬として26戦4勝の戦績を残して準オープンまで出世している。
ただ、サニースイフトがオークス(Gl)に出走した時は、あえなくブービーに敗れている。サニースイフトの勝ち鞍は、すべて1400mまでの短距離に偏っており、距離適性からいうならば、彼女は完全な短距離馬だった。
村下氏は、サニースイフトの繁殖牝馬としての可能性に、大きな期待を抱いていた。村下氏にとって、サニースイフトこそがそれまで思い描いてきた「繁殖牝馬の理想の体型」だったからである。村下氏は、サニースイフトの馬主となった宮崎守保氏に対して、
「走ろうが走るまいが、この馬は絶対牧場に戻してください」
と頼んだうえで彼女を競馬場へと送り出したという。やがて競走生活を終えたサニースイフトは、デビュー前の約束どおりに村下ファームへと帰ってきた。
サニースイフトが牧場に帰ってくるのを心待ちにしていた村下氏は、帰って来た彼女の初めての種付け相手を一生懸命考えた。村下氏は、親交があった戸山為夫調教師が
「繁殖牝馬は、初子を出すときに一番その能力を伝える」
と言っていたことを思い出し、まだ見ぬサニースイフトの初子のために奮発し、期待の種牡馬とされていたブライアンズタイムをつけることにした。
少しでも血統に興味のある競馬ファンならば、ブライアンズタイムの名前を聞いたことがないという人はいないだろう。ブライアンズタイムは、米国でGlを2勝した実績を買われて日本に輸入され、その産駒がデビューするや初年度産駒の中から三冠馬ナリタブライアン、オークス馬チョウカイキャロルを送り出し、その後もマヤノトップガン、シルクジャスティスなど多くの強豪を次々と送り出すことで、今や日本を代表する大種牡馬となっている。
ブライアンズタイムがサニースイフトに種付けをしたのは、ちょうどブライアンズタイムの初年度産駒がデビューする直前の春だった。当然のことながら、ブライアンズタイムの種牡馬としての能力は、まだ明らかになっていない。供用開始後4年目の種牡馬の人気は、仮に直後にデビューする初年度産駒の成績が振るわなければ生まれてくる産駒の値段が急落するというリスクがあるため、大幅に落ちるのが普通である。ブライアンズタイムもまたその例に漏れず、この時期は馬産地での人気を大きく落としていた。
しかし、ブライアンズタイムの小柄で均整のとれた馬体に目をつけた村下氏は、サニースイフトと配合すればどんなにいい馬が生まれるだろう、と思った。競走成績から短距離馬といわれていたサニースイフトだったが、村下氏は、サニースイフトが短距離戦でしか勝てなかったのは気性的な問題であり、血統、馬体的に中長距離でも大丈夫なはずだとにらんでいた。中長距離の大レースで活躍し、気性も穏やかだったというブライアンズタイムと配合すれば、生まれてくる子供は、きっと中長距離で活躍できる。そう信じて、ブライアンズタイムを選んだ。
こうして誕生した仔馬は、体つきがしっかりしたとても良い馬だった。この仔馬が一番優れていたのは、柔らかな体と首をうまく使った走り方だったという。村下氏は、ひそかにこの仔馬にこれまでにない感触を得ていた。
「こいつは大仕事をしてくれるかもしれない」
それは、村下氏がサニーブライアンから感じた「予感」だった。
『出会い』
村下氏の期待を集めた鹿毛の牡馬は、母、そして叔父のサニースワローと同じように、宮崎守保氏の所有馬となり、これまた叔父が現役時代に所属していた美浦の中尾銑治厩舎へと入厩することになった。サニーブライアンの「サニー(冠名)+父の名の一部」という命名方法も、サニースイフト、サニースワローとまったく同じである。
入厩してきたばかりのサニーブライアンを見た中尾師は、その瞬間に、
「サニースワローより遥かに上の素材だ!」
と感じたという。サニーブライアン…それは、中尾師が久しく出会っていない水準の逸材だった。サニーブライアンは、身体的な能力もさることながら、人間に対して服従する素直な気性が目立っていた。人間に逆らって暴れたり、さぼったりする馬も多い中で、素直なサニーブライアンの調教に苦労することは、ほとんどなかった。
そんなサニーブライアンの調教のパートナーとして選ばれたのは、後に彼の主戦騎手も務めることになる大西直宏騎手だった。
『忘れ去られし騎手』
大西直宏騎手は、当時35歳で、もはや騎手としては中堅というよりもベテランといっていい年齢になりつつあった。彼もまた、かつてサニースワローの主戦騎手を務めた男である。…だが、当時の彼は、年齢の割にファンにはあまり名前を知られていない、マイナー騎手の1人に過ぎなかった。
当時の大西騎手は、20年近い騎手生活で、ようやくその年に通算200勝を達成したばかりだった。200勝といえば、現在のトップジョッキーならば1年であげてしまう数字である。
大西騎手が騎手としてデビューしたのは、1980年のことだった。中尾厩舎の所属騎手として騎手生活をスタートさせた大西騎手は、騎手養成過程の時から高い技術を注目されており、デビューした年の彼は68戦しか騎乗しなかったものの、そんな少ない騎乗の中で、関東の同期の新人としては最高となる9勝をあげて、関東の最優秀新人騎手に贈られる民放競馬記者クラブ賞を受賞した。その翌年には、中尾師が管理するゴールドスペンサーに騎乗し、天皇賞で3着、そして第1回ジャパンCでは、ホウヨウボーイやモンテプリンスといった当時の最強馬たちがことごとく沈む中で日本馬最先着の5着に健闘し、さらに有馬記念でも5着に入っていた。81年の1年間で24勝をあげ、その後も毎年20前後の勝ち星をあげていた大西騎手の騎手生活は、順風満帆であるかのように見えた。
しかし、騎手の世界は、騎乗技術だけで成功できる世界ではない。大西騎手のように、競馬サークル内に人脈を持たないまま飛び込んだ者にとっては、なおさら厳しい。もともと口下手だった大西騎手は、いわゆる「営業」…他の厩舎に積極的に自分を売り込んで、騎乗依頼をもらうことが苦手だった。競馬関係者から
「大西は口が足りなさすぎる」
と言われた、おとなしく寡黙な性格も災いし、成績の割には、所属する中尾厩舎以外からの騎乗依頼がなかなか伸びず、初期の活躍の印象が薄れてくると、今度は勝ち鞍の方が減少し始めた。
不振と言われた大西騎手だったが、87年にはサニースワローでダービーに進み、2着に入る大殊勲をあげている。しかし、有力厩舎とはいえない中尾厩舎の馬だけでは、どうしても勝ち星に限界がある。落馬事故で大けがをするという不運もあって、彼の低迷は長く続いた。思い切ってフリーになり、裏開催で地道に稼ぐことにしてからは、彼の勝ち鞍は再び年間ふた桁に乗るようになったものの、それと引き替えに、大舞台での出番もほとんどなくなっていた。大西騎手の重賞制覇は、デビュー3年目の1982年、ハイロータリーに騎乗して、その年限りで廃止された伝統のアラブ重賞のアラブ大賞典・秋で最後の勝利騎手となった、その一度きりだった。大西騎手自身、そろそろ自分の騎手としての将来に見切りをつけ、調教師試験の受験を家族に相談していた。
しかし、師匠は、騎乗技術ではなく乗り鞍に恵まれないことが原因で埋もれてゆこうとする不運な弟子を、なんとか日の当たる場所に立たせたいと願っていた。中尾師は、久々に自分の厩舎にやってきた「逸材」サニーブライアンの鞍上として、フリーになっていた大西騎手を配することに決めたのである。
そんな師の思いやりによってサニーブライアンに騎乗することになった大西騎手だったが、初めてサニーブライアンに跨った時の感触については、
「しっかりしたところをあまり感じさせない馬でした。ちょうど同じブライアンズタイム産駒がもう1頭いたんですよね。もしどちらかを選べと言われてたら、そっちの方を選んじゃったと思いますよ」
と語っている。彼らの出会いは、決して運命的なものではなかったようである。もっとも、そんなことを言いながらも、大西騎手はいつもサニーブライアンに自分で調教をつけ、少しずつ競馬を教えていった。
『戦場に立つ』
サニーブライアンのデビューは、3歳10月の東京競馬となった。鞍上は、当然ながら大西騎手である。彼らの初めての戦場は、東京芝1800mの新馬戦だった。
ブライアンズタイム産駒、ダービー2着馬サニースワローの甥…そんな血統背景を持つサニーブライアンだったが、ブライアンズタイム産駒は毎年100頭近くおり、母系も基本的には優秀な馬ばかりである。そんな中に混じればサニーブライアンの血統だけがそれほど目立つはずもなく、彼の初戦は13頭だての3番人気にとどまった。同じレースでデビューした馬の中に、「ダービー馬の妹」として注目されていた馬がいたりして、後の二冠馬としてはあまり目立たない船出だった。
しかし、サニーブライアンと大西騎手は、スタートしてすぐに先頭に立つと、そのまま逃げて逃げて、府中の長い直線をものともせずに、後続に影を踏ませぬ逃げ切り勝ちを収めた。今にして思えば、このレースは、サニーブライアンの逃げ馬としての資質を暗示していたのかもしれない。大西騎手も、この勝利の後は
「この根性はたいしたもんだ、もしかするとそこそこいけるかもしれないぞ」
と喜び、もしかするとクラシックに行けるかもしれない、と「夢想」したという。
『暗中模索』
…だが、新馬勝ちを記録した後のサニーブライアンは、しばらく苦戦を続けた。早熟血統とは言い難いサニーブライアンだけに、この時期はまだ馬が本物ではなかったのかもしれない。
2戦目となる百日草特別(500万円下)では、新馬戦と同じく逃げに持ち込んだものの、当時「ノーザンテースト最後の大物か」と言われ、その年の朝日杯3歳S(Gl)で1番人気に推されるクリスザブレイブらに捕まって、5着に沈んだ。続いて格上挑戦で挑んだ府中3歳S(Glll)では、小倉3歳S(Glll)を勝ったゴッドスピードの7着に敗れた。ひいらぎ賞(500万円下)では、当時は「芦毛伝説の継承者か」と言われていた大物外国産馬スピードワールドの前に5着に終わった。結局、3歳時に4戦走ったサニーブライアンだったが、新馬戦を勝っただけで終わってしまった。
「何年か騎手をやっていると、デビュー戦で『これは凄い』と思わせる馬がいるんですけど、2戦目、3戦目と勝った者同士で走るとダメな馬もたくさんいるんですよね。そうして自分が『思い込みすぎたかな…』と気づかされる。サニーブライアンも、なかなか次が勝てませんでしたから…」
大西騎手も、苦笑いする結果だった。
そんなサニーブライアンに光が見えたのは、4歳1月のジュニアC(OP)でのことだった。前走、年明け緒戦の500万下でも2着に敗れ、さらにそれから中1週の強行軍になったこともあり、7頭だての4番人気と評価は低かった。しかし、サニーブライアンは、逃げて自らレースをスローペースに持ち込むと、直線でもしぶとく粘ってそのまま押し切った。新馬戦に続いて、今度も逃げ切り勝ちだった。
大西騎手は、ここまでレースを重ねたことで、ようやくサニーブライアンのレースの中からひとつの法則に気づいた。サニーブライアンは、道中に末脚を温存しようとして控えた競馬をしても、直線での瞬発力にはつながらない。当時のサニーブライアンの上がり3ハロンのタイムを見ると、デビュー戦こそ35秒2を出しているものの、あとは36秒0すら切っていない。その一方で、少々道中で無理をしてもなかなかばてず、勝った2戦はいずれもスタートから先頭に立っての逃げ切りである。大西騎手たちは、サニーブライアンの「逃げ馬」としての資質に注目するようになった。
『逃げて勝機あり』
ジュニアCを勝ったことで本賞金を大きく上積みしたサニーブライアンは、皐月賞(Gl)、そして日本ダービー(Gl)というクラシック路線を意識して、まず弥生賞(Gll)へと出走することになった。だが、このレースでのサニーブライアンと大西騎手は、スタートで後手を踏んで逃げそこなってしまった。好位から控える競馬でなんとか3着に入り、ぎりぎりのところで皐月賞の優先出走権を獲得したサニーブライアンだが、3着とはいっても、勝ったランニングゲイルから1秒以上離されており、レース内容からしても、さほど威張れたものではない。これでサニーブライアンの通算成績は、7戦2勝になった。持ち時計も平凡で、クラシックの有力馬というには、あまりにもインパクトが弱いといわざるを得ない。
また、弥生賞の時点でサニーブライアンに注目していた少数のファンも、なぜか次走として出走した若葉S(OP)でまたもや逃げそこない、しかも今度は馬群に包まれるという失態まで犯して1番人気を裏切る4着に敗れたことで、彼のことを見限っていった。
さらに、巷では、鞍上についての不安がささやかれ始めた。
「馬はいいにしても、鞍上が大西では心許ない…」
毎年ローカルを中心にようやく2桁勝利を挙げる程度の存在にすぎず、前年度の勝利数はわずかに8勝、騎手ランキング111位と低迷していた大西騎手が、騎手の中でもマイナーな存在だったことは否めない。騎手の格で言うならば大西騎手より上で、しかもこの年のクラシックのお手馬がはっきり決まっていない騎手などいくらでもいた。
サニーブライアンの馬主である宮崎氏の馬主成績を見ると、1年間に出走する所有馬はせいぜい2,3頭で、前年の96年に出走した所有馬はサニーブライアンだけだった。この当時、宮崎氏が所有している現役馬は、サニーブライアンしかいない。この程度の規模の馬主にとって、所有馬がクラシックレースに出走する機会など、そうそうあるはずもない。そうであるならば、名の知れた騎手に乗ってもらい、少しでも勝つチャンスを高めたいというのが人情だろう。クラシックレースを前に乗り替わりがあったとしても不思議はないし、現実に馬主サイドにそう勧める声もあった。直前の若葉Sで1番人気を裏切って4着に敗れたことは、乗り替わりの格好な理由となる。
皐月賞を前にして宮崎氏との打ち合わせに臨む時、中尾師と大西騎手は、宮崎氏から乗り替わりを言い出されることを覚悟していたという。
しかし、実際に宮崎氏の口から出た言葉は、中尾師の予想とはまったく違うものだった。宮崎氏は、
「大西君にはサニースワローの時から世話になっている。いい馬が来たからといって乗り替わらせるのでは申し訳ない」
と言って、むしろ大西騎手を激励したのである。87年の日本ダービーが特別な思い出となっていたのは、中尾師や大西騎手だけではない。同時に何頭もの馬を持てない零細馬主だからこそ、宮崎氏も抱く思いは同じだった。むしろ、近年は騎乗馬にあまり恵まれず、実績もあがらない大西騎手だからこそ、ここでチャンスを与えてやりたい…。
サニーブライアンの皐月賞への騎乗依頼を受けた大西騎手は、感激した。もし乗り替わりを言われれば、彼は何も言わずに身を引かなければならないと思っていた。だからこそ、宮崎氏の言葉がうれしかった。最高の騎乗をしたい、という気持ちが燃えあがった。
そして、ここで大西騎手から乗り替わらなかったのは、宮崎氏にとっても大正解だった。デビュー戦からサニーブライアンに騎乗し続けてきた大西騎手は、弥生賞、若葉Sの敗北を通じて、サニーブライアンの騎乗イメージを確固たるものとしつつあった。前々から薄々と感じていたように、弥生賞や若葉Sのような好位置に控える競馬は不向きだ。サニーブライアンは、自ら逃げてレースを支配することで、自分自身の勝機を切り拓いていくタイプの馬なのではないか。大西騎手の中で形になりつつあったイメージは、宮崎氏の決断によって実戦…それも皐月賞という大舞台で実際の作戦として表現される機会を得たのである。
『主役たちの陰で』
この年の皐月賞(Gl)の出走馬たちの中で人気を集めると見られていたのは、メジロブライト、ランニングゲイルという2頭の父内国産馬だった。
メジロブライトは、新種牡馬メジロライアンの初年度産駒である。メジロライアンは、現役時代にはGlで「差して届かず」という惜敗を繰り返し、カリスマ的な支持を集めた人気馬だったが、種牡馬としては初年度から3歳女王メジロドーベル、そしてメジロブライトを輩出し、競馬関係者やファンを驚かせていた。メジロブライトは、3歳暮れのラジオたんぱ杯3歳S(Glll)、4歳緒戦の共同通信杯4歳S(Glll)を連勝して皐月賞に駒を進め、春のクラシックの主役というに恥じぬ実績を誇っている。スプリングSでこそ展開が向かずに2着に敗れたものの、世代の実力ナンバーワンはこの馬と見る向きが多かった。
一方のランニングゲイルは、父がランニングフリーという血統の渋さで独特の人気を集めていた。ランニングフリーは、9歳まで現役で走って天皇賞に5回入着したという怪記録を持つ名脇役である。種牡馬入りしてからの彼はまったく人気がなく、初年度産駒は3頭、2年目産駒も9頭しかいないという惨状で、その数少ない産駒もさっぱり走らなかったことから、「もう駄目だ」といわれ始めていた。そんな時期に現れた3年目産駒…わずか4頭の中から現れたランニングゲイルは、その血統ゆえに父内国産馬ファンの感激の涙を誘ったばかりでなく、武豊騎手を鞍上に弥生賞で3馬身差の圧勝を遂げたことで、実績の面でも一気にクラシックの主役級にのし上がろうとしていた。
これに対し、毎年クラシックを沸かせる輸入種牡馬の仔も、皐月賞に大挙して押し寄せていた。2年続けて皐月賞で1、2着を独占したサンデーサイレンスが3頭、そしてこの年は産駒が絶好調だったブライアンズタイムに至っては、サニーブライアンなどの5頭を送り込むことに成功していた。
しかし、ブライアンズタイム産駒の大将格は、骨折による半年のブランクがありながら復帰戦の毎日杯(Glll)で2着に入って能力の片鱗を見せた3戦2勝のヒダカブライアンとされていた。ジュニアC優勝が最大の実績というサニーブライアンは、同じブライアンズタイム産駒ではあっても、ファンからはほとんど注目されていなかった。
『引き寄せた幸運』
戦前のサニーブライアンの扱いも、馬券上の人気に比例して、かなり小さなものにとどまった。大西騎手は、皐月賞への抱負を問われた際、敢然と「逃げ宣言」をしている。弥生賞、若葉Sで逃げられなかった悔いを、本番でも繰り返したくはなかった。だが、若葉S4着で株を下げたばかりの2勝馬による逃げ宣言を意に介するマスコミは、ほとんどなかった。多くのスポーツ紙が「ブライト必勝」「ゲイル急上昇」といった活字を大々的にぶち上げる一方で、大西騎手の逃げ宣言は競馬面の隅の方にちらりと載る程度で、展開の推理の材料くらいの扱いしかしてもらえなかった。
サニーブライアンの枠順の意味についても、ほとんど報じられることがなかった。抽選の結果、サニーブライアンのゲートは、8枠18番の大外となった。普通の逃げ馬にとって、大外枠を引くことは、最初のコーナーまでに余計に距離を走らなければならない分、不利になるとされている。
しかし、大西騎手は抽選の前から
「外なら外ほどいい。できれば大外がいい」
と語っていた。弥生賞、若葉Sのスタートで後手を踏んだことからも分かるとおり、サニーブライアンは、逃げ馬のくせにスタートがうまくない。スタートと同時に好位につけようとする馬たちが外から殺到してくる内枠だと、少しの出遅れで馬群に閉じ込められてしまう。その点、外枠からの発走ならば、スタートで少しぐらい出遅れても容易に挽回できるし、外からかぶせられることもないから気持ちよく逃げることができる…。皐月賞の状況は、大西騎手の思惑通りとなりつつあった。
『レースを支配する』
皐月賞当日、ふたを開けてみると、1番人気はメジロブライト、2番人気はランニングゲイルとなり、「父内国産馬」の人気の根強さを物語る情勢となった。もっとも、莫大な金が動く馬券の人気が、心情のみで大きく動くはずはない。この2頭が、いずれも人気にふさわしい実績と実力を兼ね備えていたことは事実である。
彼らに続く支持を集めたのは、輸入種牡馬の産駒たちが主体で、ブライアンズタイム産駒ではヒダカブライアン(3番人気)、サンデーサイレンスの仔では名牝ロジータとの間に生まれたオースミサンデー(4番人気)といったところが人気になっていた。翻ってサニーブライアンを見ると、単勝5180円の11番人気で、5頭のブライアンズタイム産駒の中では最も人気が低かった。
しかし、あまりの人気のなさは、大西騎手に思い切った競馬をさせやすくする結果となった。スタートと共に勢いよくゲートを飛び出したサニーブライアンは、スタート直後こそ外にヨレるような仕草を見せたものの、すぐに体勢を立て直し、そのまま先頭に立った。ここまでは大西騎手の計算どおりである。
その後、サニーブライアンに外からかぶせられる形となったテイエムキングオーが、口を割ってかかり気味に競りかけてきたことは、大西騎手にとって誤算だったかもしれない。だが、ここでの大西騎手は、無理してハナにこだわらずにテイエムキングオーを先行させ、自分は2番手で「実質逃げ」のレースをする作戦に切り替えた。
サニーブライアンは、気性が素直なため、騎手の思いどおりにレースを進めることができる馬だった。テイエムキングオーを行かせても、サニーブライアンはまったく折り合いを欠く様子がない。人気のメジロブライトは、予想どおりとはいえ最後方、さらにランニングゲイルも馬群のまっただ中で、ライバルの騎手たちの目は、明らかに後ろを向いていた。サニーブライアンの前にもう1頭いるとはいえ、それは計画性も何もなく行ってしまったに過ぎず、きっちり折り合ったサニーブライアンのそれとは異質である。この時レースの主導権を握っていたのは、あくまでもサニーブライアンだった。
スタートから飛ばしたテイエムキングオーは、案の定向こう正面あたりで後退を始めた。サニーブライアンは、テイエムキングオーがバテたと見るや、第3コーナーで再び先頭を奪い返し、そこからいつ仕掛けるかのタイミングをうかがいはじめた。サニーブライアンの余力は十分残っていたし、後方ばかりを気にしている後続との差も、縮まる気配はなかった。
『本命馬たちの誤算』
皐月賞で大西騎手が採った作戦は、ぴたりとはまった。好位置につけていた馬たちは、後方にいるはずのメジロブライト、ランニングゲイル、ヒダカブライアンといった有力馬がいつ仕掛けてくるか、そればかりに気を取られていた。ところが、人気馬たちはいっこうに上がってこない。そうこうしているうちに、逃げている前の馬が実にいい感じで追い出しを始めようとしている。
実は、人気馬が来ないのは当たり前だった。1番人気のメジロブライトは後方も後方、第3コーナーでまだ後ろに1頭いるだけの位置に取り残されていた。3番人気のヒダカブライアンに至っては、なんとメジロブライトよりさらに後ろのしんがり。
最も悲惨だったのは、最後方よりはマシなはずの中団に位置した馬たちだった。彼らがおかれた状況は、最後方よりもさらに過酷なものだった。完全に団子となった馬群によって、前が完全に壁になってしまったのである。中でも2番人気のランニングゲイルは、この陥穽に無残にはまり込み、前後左右を完全に他の馬に包まれて進退窮まっていた。天才の名をほしいままにする武騎手には珍しい、明らかな位置取りのミスだった。
『大波乱』
有力馬がレースの流れをつかみ損ねてもがいているのを尻目に、先頭に立ってからのサニーブライアンは、直線ではさらに二の脚を使って、後続を突き放し始めた。この期に及んで、ようやく馬群は事態の深刻さに気づいたのか、先頭を行くサニーブライアンにいっせいに襲いかかる。1番人気のメジロブライトが、大外を回って直線に入ると、ようやく父譲りの末脚を炸裂させる。
直線も半ばを過ぎると、それまで実質的にレースを引っ張ってきたサニーブライアンの脚は限界に近づいていた。人気馬の多くは前を馬の壁に阻まれてもがいていたが、それでも好位でレースをしていた馬たちが押し寄せてくる。大外からは、メジロブライトが力ずくの豪脚で牙を剥く。
しかし、前半完全に折り合ってレースを作ってきたサニーブライアンの脚は、ついに最後まで止まらなかった。2着シルクライトニングにクビ差をつけて、サニーブライアンはクラシック第一関門を制圧した。11番人気と10番人気の組み合わせになったことで、馬連は大荒れの51790円をつけた。一方、この展開ではいくら凄い脚があっても、最後方から中山のそう長くない直線だけで届くはずがない。1番人気のメジロブライトは4着に敗れ、父の雪辱を果たすことはできなかった。
大西騎手にとって、この日はクラシック、いや、Glはおろか、サラブレッド重賞の初制覇となった。かつて
「口が足りなすぎる」
と言われた寡黙な男は、年輪を重ねて成長したのだろうか、優勝に舞い上がって何がなんだか分からなくなる騎手も多い中、インタビューではなかなかの愛嬌を発揮した。ダービーへの抱負を聞かれた彼は、
「ダービーも逃げます! 」
と答えてファンを喜ばせた。さらに、レース後のファンの集いでは、
「皆さんの夢を砕いてしまって申し訳ありません」
という挨拶から入って聴衆をさらに笑わせたりもした。サニーブライアンの勝利は、それほどの大波乱だったのである。
『報われぬ勝利』
こうして皐月賞馬となったサニーブライアンだったが、その勝利に対する評価は、悲しいまでに低かった。一部の競馬評論家からは「展開に恵まれた」だの「実力馬が不利を受けた」だのとけちをつけられ、挙句の果てに「ただのフロック」と言い切られたりもした。
さすがに皐月賞馬をそこまでこき下ろす声はそう多くはなかったものの、11番人気での逃げ切りということで、多くのファンは、サニーブライアンの実力を測りかねていた。ノーマークで先手を奪い、2番手ながらこの上なく巧みにレースをスローに持ち込んで、ようやく2着とはクビ差の優勝…、しかも、彼の後方には、わずか2馬身の範囲内に4頭もの馬たちが押し寄せる大接戦だった。例年の皐月賞馬と違い、サニーブライアンが無条件で「ダービーの最有力候補」と呼ばれることはなかった。
サニーブライアンの実力を測りたい…そんな願いを持つファンが注目したのは、サニーブライアンの次走予定だった。皐月賞馬ともなれば、日本ダービー直行というローテーションをとることが多い。しかし、サニーブライアンはダービーまでの間にもう一度、トライアルレースのプリンシパルS(OP)を使うことになった。
中尾師によれば、それまでずっと短いレース間隔で走ってきたサニーブライアンは、むしろレース間隔を長くあけると、調子を崩したり飼い葉食いが落ちたりするおそれがあるということだった。中には
「どうせダービーはだめだろうから、弱い相手に賞金を稼いでおく腹積もりだろう」
という意地悪な見方をする者もいたが、この年のプリンシパルSには皐月賞で6着に敗れて巻き返しを図るランニングゲイル、皐月賞への出走は逸したものの大器と噂される快速馬サイレンススズカの出走も予定されていたことからすれば、「弱い相手」という批判は当てはまらない。むしろ、ただのトライアルというには充実しすぎたメンバーの中でサニーブライアンがどのような走りをするのかは、ダービーへ向けた大いなる手がかりになる。このレースは、サニーブライアンの実力がどの程度のものなのかを測るために、格好の物差しになる…はずだった。
『蹴飛ばされた皐月賞馬』
ところが、サニーブライアンは、突然プリンシパルSを回避してしまった。レースを前にしての調教中に、なんと未勝利馬に蹴飛ばされて外傷を負ってしまったのである。幸い軽症で、ダービーには間に合うとのことだが、調整過程が大きく狂ったことにより、プリンシパルSにはとても使える状態ではなくなってしまった。
他の馬に蹴飛ばされる…それは、サニーブライアンとその関係者にとっては不幸な事故だが、見方を変えて考えてみると、何とも情けない話である。馬は、もともと集団生活をする習性を持っている。集団生活をする動物にとって、仲間同士での序列は、自然の掟といっていい。馬も、本来ならば、自分よりも格上であると認めた相手に対しては「蹴飛ばす」ような失礼な行為に出るはずがない。つまり、サニーブライアンは未勝利馬によって「格下」と見られてしまったことになる。
確かに、「強い競走馬=リーダー格の馬」という公式が常に成り立つわけではない。しかし、高い身体能力と精神力を持った前者は、同時に後者としての資質をも兼ね備えることの方がはるかに多く、そこにいるだけで他の馬を威圧し、屈服させるというエピソードを持つ名馬も少なくない。ところが、皐月賞馬であるはずのサニーブライアンは、未勝利馬からも「格下」とみなされて馬鹿にされたのである。この話を聞いて、失笑しながらサニーブライアンの印を削ったファンも、少なくなかった。
そんな笑い話をよそに、騎手たちのダービーは既に始まっていた。大西騎手の戦いは、この時既に始まっていた。彼は、ダービーが始まる前、いや、皐月賞の直後から、早くもダービーのレースを支配し始めていたのである。
『逃げ馬二頭』
皐月賞を終えた4歳馬戦線は、一気にダービーに向けて加速していった。ダービートライアルの青葉賞(Glll)ではトキオエクセレントが勝ったものの、時計が悪く、レース内容への評価も高くなかった。むしろ、京都4歳特別(Glll)を大外からまくって豪快に差し切ったシルクジャスティスの方が、潜在能力に高い評価を得ていた。
そして、ダービー最後の切符を賭けたプリンシパルS(OP)で、サニーブライアン陣営がひそかに恐れていた敵が名乗りを上げた。サニーブライアンが回避したプリンシパルSを勝ったのは、未完の大器サイレンススズカだった。
サイレンススズカは、デビュー戦の新馬戦を大差で逃げ切ったものの、1戦1勝で駒を進めた弥生賞では、2番人気に支持されながらゲートをくぐる大暴れの末、大外発走の上に大きく出遅れて惨敗し、皐月賞への出走は果たせなかった。しかし、自己条件に戻っての500万下をまたも大差で逃げ切り、天性のスピードでファンを魅了していた。
サイレンススズカは、プリンシパルSではかかった馬に先頭を譲ったものの、図抜けた先行力に変わりはなく、2番手で折り合う競馬を進め、直線では早めに先頭に立ってそのまま後続の猛追を抑えるという王道の競馬で優勝し、見事ダービーへの切符を手にした。
後に稀代の逃げ馬へと成長し、「史上最強の逃げ馬」という呼び声もあがるほどの恐るべき先行力を持っていたこの馬は、サニーブライアンと大西騎手にとって、メジロブライトやランニングゲイルよりもはるかに恐ろしい存在だった。ダービーでも何としても逃げたいサニーブライアン陣営だったが、サイレンススズカのスピードで競りかけられた場合、自らレースを支配するどころではなくなってしまう。スピードという観点からは、それまでのレース内容からサニーブライアンよりもむしろサイレンススズカの方に分があるように思われた。ファンの間でも、
「ダービーでハナを切るのはサイレンススズカではないか」
という予測は決して珍しいものではなかった。
『心理戦』
しかし、サイレンススズカに競りかけられた時のことを記者に訊かれた大西騎手は、一笑に付した。
「皐月賞と同じ。とにかく逃げます。何が来ても関係ありません」
皐月賞直後のインタビューと同じ内容を、さらに強く断言したのである。
サニーブライアンの強みは、気性的には問題がなく、騎手の思い通りに競馬をすることができる点にある。本格化してきた今なら、逃げなくてもそれなりのレースはできるかもしれない。一方、サイレンススズカの方は、弥生賞でゲートをくぐる大騒ぎを起こしたことからも分かる通り、気性的にはかなり不安定なところがある。本来のところなら、どちらがより逃げたいか、といえばサイレンススズカ陣営のはずだった。
しかし、サイレンススズカがプリンシパルSで、2番手で折り合う競馬でも勝ったことにより、状況は変わった。2200mからさらに距離が200m延びるダービーでは、折り合えるものなら折り合ってレースをしたい…サイレンススズカ陣営に、そんな迷いが生じた。そんなところに皐月賞馬の陣営から飛び出したのが、絶対の逃げ宣言である。サニーブライアン陣営の作戦は、皐月賞直後から一貫して逃げ一本…そのことが、サイレンススズカ陣営の作戦に微妙な影響を与えたであろうことは、想像に難くない。
大西騎手は、各方面で強気の発言を繰り返した。
「絶対逃げます」
「今度は勝ちに行きます」
「今回は色気を持っていけます」
本番が近づくにつれて、収まるどころかむしろヒートアップしていくこうした発言の数々は、マスコミ、口コミなどを通じて、競馬界にみるみる広がっていった。ろくに注目されていなかった皐月賞前とは違い、皐月賞を制した騎手直々の発言ともなれば、さすがにそれなりの関心は集めざるを得ない。
有力馬の関係者がこの手の発言をあまりにやり過ぎると、他の陣営の反感を買うことがある。まして、目標にされやすい逃げ馬の場合はなおさらである。1963年に皐月賞は2馬身差、さらに日本ダービーは7馬身差のレコードで逃げ切ったメイズイも、森安重勝騎手が菊花賞数日前に
「菊は勝って当たり前。相手は時計だけ」
という不用意な発言をして大々的に報道されたため、菊花賞では、報道に反発した他の騎手からさんざん競りかけられてペースを乱されて暴走した結果、6着に敗退したとされている。
しかし、メイズイは皐月賞で2番人気、日本ダービーでは1番人気を背負っての逃げ切り勝ちで、菊花賞では不動の大本命だった。大西騎手は、皐月賞後の各陣営のサニーブライアンへの評価を、極めて冷静に考えていたふしがある。
サニーブライアンの皐月賞は11番人気で、しかもその皐月賞を逃げ切っても、実力への評価は高くなかった。自分の馬が実績を残しても評価されないことには、大西騎手も愉快な気はしなかった。ところが、彼は、評価の低さを逆手に取った。
「ならば、いっそのこと吹きまくってやれ」
自分の強気の発言の数々に、「大西は舞い上がっているぞ」という風評が流れているらしいことは、知っていた。サニーブライアンへの評価が上がらない現状でのこの風評は、反感よりもむしろ苦笑をもって受け入けられていた。もし本当に自分が舞い上がっていると思ってくれればこれ幸い、そんな騎手が東京の2400mを逃げ切れるはずがないと、マークを外してくれるだろう。また、逃げにこだわっていることを強調することで、そんな心理状態の騎手の後先も考えられない作戦に巻き込まれてはかなわない、と認識した他の先行馬たちが控えてくれれば、サニーブライアンはますます単騎逃げを打ちやすくなる…。
『無視された警鐘』
こうして各陣営が大西騎手の心理作戦に陥っていく中、ダービーの日は刻一刻と近付いていた。絶対的な本命がいないまま、混戦ダービーの様相ばかりが深まっていく。
そんな中で人気を集めたのが、皐月賞では1番人気を裏切る4着に敗れたものの、直線で鋭く追い込んで、サニーブライアンに1馬身差まで詰め寄ったメジロブライトだった。メジロブライトは、クラシックで惜敗続きだった父のメジロライアンの無念を晴らしてほしい、というファンの願い、そしてサンデーサイレンスやブライアンズタイムといった輸入種牡馬の中に伍して戦う内国産種牡馬の子として、カリスマ的な人気を集めつつあった。
しかし、メジロブライトを管理する浅見秀一調教師は、ダービー前にこんな警鐘を発している。
「自分でレースを作れないこの馬(ブライト)が1番人気になるようだと、また前残りになるぞ」
メジロブライトは後方一気の末脚が武器だけに、自らレースを作ることができず、レース展開に左右される部分が大きい。展開の不利を跳ね返して勝つほどの絶対的に抜けた能力があるわけでないことは、既にスプリングS(Gll)と皐月賞(Gl)の敗退で明らかだったはずである。しかし、浅見師の懸念は多数派の意見とはならず、ファンはもちろん、他の有力馬たちの関係者にすらほとんど顧みられることはなかった。
『見えざる力』
日本ダービーの枠順を決める抽選は、ダービー前々日の金曜日に行われる。サニーブライアン陣営からは、大西騎手がくじを引くために出席した。
大西騎手は、前々から枠順について「大外(18番)がほしい」と広言していた。理由は、皐月賞と同じである。皐月賞よりさらに400m距離が伸びるダービーだったが、自分のレースをするだけと心に決めた大西騎手にとって、もはや距離すらも関係ない。
大西騎手は、日々の調教の中で、皐月賞の時にはまだまだ未完成だったサニーブライアンが、日を追うごとに成長している様子を実感し、さらにすべての風が自分の後押しをしてくれるという実感を得ていた。皐月賞の翌週、場所を中山競馬場から日本ダービーと同じ東京競馬場に移して最初に行われた重賞であるニュージーランドT4歳S(Gll)では、15番人気のパーソナリティワンを自らの騎乗で3着に持ってきた。出走に強く反対しており、最後は「体を張っても止めたい」と思っていたプリンシパルSは、まさかの未出走馬の蹴飛ばし事故で回避できた。ダービーに備える併せ馬では。パートナーで「調教大将」として知られていたスピードワールドが、あまりにも素晴らしいサニーブライアンの動きについてこれずに実質単走になったりもした。ダービーの前週に調整ルームで打った麻雀では、「緑一色、四暗刻」というとてつもない手を完成させた。今なら、この勢いを競馬、すなわち日本ダービーに持ち込める。
皐月賞の時は「18番が出てくれ」と祈るような気持ちで抽選に臨んだという大西騎手だったが、この時は18番が出ることを確信していたという。「中に入っているのはすべて18番だという感覚で」くじを引き、そして番号を見た大西騎手は、思わずその場で叫んだ。
「18番! 」
間違いなく、彼が望んだとおりの番号だった。桜花賞のキョウエイマーチ、オークスのメジロドーベル、皐月賞のサニーブライアンと、97年春のクラシックは、なぜかすべて大外枠の馬ばかりが勝っていたのも実に縁起がよい。やはり、目に見えない何かがサニーブライアンと大西騎手の背中を押してくれている。そう信じずにはいられなかった。柳の下に二匹のドジョウはいない、と同情する他の陣営をよそに、大西騎手は、勝利への手応えをはっきりと感じ取っていた。
『人気はいらない』
枠順の抽選で自信を深めた大西騎手をよそに、ファンはサニーブライアンの大外枠をマイナス材料とみなした。理性、そして常識の視点からは当然の選択だったが、それにしてもサニーブライアンは人気がなさすぎた。皐月賞馬サニーブライアンが、ダービーでは1360円の単勝7番人気である。通常ならばほぼ無条件でダービーの有力候補とされる皐月賞馬には考えられない人気薄だった。
日本ダービー当日、1番人気に支持されたのは、大方の予想どおりにメジロブライトだった。予想では、メジロブライトを含めた何頭かの馬が300円台から400円台付近で横並びのオッズになると思われていたが、実際にはメジロブライトの単勝が240円で、2番人気の弥生賞馬ランニングゲイルと3番人気の京都4歳特別勝ち馬シルクジャスティスが620円(人気は得票数の差)だったから、メジロブライトの圧倒的な1番人気だった。
サニーブライアンより上位人気となった6頭をみると、メジロブライト、ランニングゲイル、シルクライトニングの3頭は、皐月賞で既に破った相手である。また、トキオエクセレントにはジュニアCで勝っており、サイレンススズカにも弥生賞で先着している。そうであるにも関わらず、これほどに低かったサニーブライアンへの評価は、当時のファンが、皐月賞の勝利をいかに軽く見ていたかを物語っている。
もっとも、サニーブライアンにあまり人気が集まりそうにないことは、前日売りのオッズによってある程度予想されていた。記者からそのことを聞かされた大西騎手は
「1番人気はいりません。1着がほしいです」
と笑ったという。逃げ馬は、人気が落ちれば落ちるほどレースがしやすくなる。彼は、そのことを知り尽くしていた。
『皐月賞馬は戦場に還る』
大西騎手のテンションは、ダービー前日もまったくとどまるところを知らなかった。毎年有力馬の騎手を集めてダービー直前に行われるダービーフェスティバルでも、大西騎手は吹きまくった。大西騎手いわく、
「単騎先行で行きます。どこかでセーフティリードを取ってしまおうかな。とにかく自分の競馬をするだけです」
と自信満々である。
「気になる馬は? 」
という問いに対しては
「シルクジャスティス。他はないです」
と言い切った。戦前の評価を見る限り、吹かし過ぎとしか思えないコメントである。
しかし、これは案外サニーブライアンの実力を信じ切った大西騎手の本音だった。敵がシルクジャスティスだけというコメントは、皐月賞で対戦済みのメジロブライトやランニングゲイルといった有力馬たちには負けない、という自信の表れでもあった。…そのことを見抜いた人は、ほとんどいなかったが。
大西騎手の自信を裏付けるように、ダービー当日パドックに姿を見せたサニーブライアンの馬体は、完璧に仕上がっていた。わずか2ヶ月前の皐月賞の時には幼さを残し、しかもその後の中間では順調を欠いたはずの馬とはとても思えない別の馬…王者となるにふさわしい風格を備えた馬が、そこにいた。日本ダービー当日のパドックではさすがに膝が震えていたという大西騎手だったが、パートナーの仕上がり具合、そして落ち着きを確かめると、「これならいける!」という手応えとともに、膝の震えもいつの間にか止まっていたという。
しかし、そんなサニーブライアンを見ても、やはり多くのファンの視線はそれぞれの夢にのみ注がれていた。彼らの目に、王者の姿はまだ映っていなかった。
『特別な日』
東京競馬場に戦いの開幕を告げるファンファーレが鳴り響き、スタンドを埋め尽くす十数万のファンが大喚声をあげる。
…ところが、戦いを目前にしたゲート入りの時に、トラブルは起きた。出走馬の1頭が落鉄した釘を踏んでしまって暴れたために発走除外となってしまったのである。その馬は、皐月賞で2着に入ってサニーブライアンと共に5万馬券の片棒を担ぎ、この日も皐月賞馬を上回る支持を集めていたシルクライトニングだった。フルゲート18頭のはずの日本ダービー(Gl)だったが、シルクライトニングのダービーは、この時点で終わってしまった。
そんな予期せぬトラブルに直面しても、サニーブライアンはまったく動じない。極限状態での予想外の事態にあっても常に冷静さを保ち続ける強い精神力は、まさに王者の条件である。サニーブライアンは何事もなかったかのようにゲートに入った。
サニーブライアンの鞍上にいる大西騎手にとって、日本ダービーでの騎乗は、87年のサニースワローに次ぐ2度目だった。不遇の時代、地方遠征でようやく食っていくことができた頃も、大西騎手は日本ダービーの日だけは必ず東京競馬場に戻ってきた。忘れ去られた騎手となりつつあった大西騎手に、日本ダービーの騎乗依頼などあろうはずがない。それどころか、日本ダービー当日の全レースで騎乗依頼がまったくないことさえ、しばしばあった。それでも大西騎手は、その日だけは東京競馬場へ帰ってくることに決めていた。
「騎手にとって、ダービーだけは特別だから…」
一日を通じて騎乗馬がまったくいない年には、彼はスタンドでファンに混じって日本ダービーの光景を目に焼き付けた。自分もかつて一度だけ立った夢の舞台。二度と立つことはできないかもしれないけれど、それを仕方がないとあきらめた時、自分の中に持ち続けていた騎手としての大切な何かが死んでしまうことを、彼は知っていた。そんな彼が、10年ぶりに再び立つことを許された神聖な舞台。ひそかに、しかし確かに栄冠を狙う彼は、ゲートの中で何を考えていたのだろうか。
『油断めさるな』
ゲートが開いて、大外からはサニーブライアンと大西騎手がするすると上がっていった。他の馬たちは、別に競りかけることもなく先頭を譲る。それはまったくの予定調和の光景に見えた。ただ、もしかすると先手をとりにいくかもしれないと思われていたサイレンススズカだけが、あがいている。馬は行く気満々なのに、上村洋行騎手が懸命に手綱を抑えていた。その光景は、まるで大西騎手とサニーブライアンの「絶対逃げる」という気迫に気圧されているかのようだった。
府中のスタンドは、皐月賞馬の逃げにどっと沸いた。もっとも、サニーブライアンと大西騎手の気迫は、直接の戦場から少し離れたスタンドにいるファンのところまでは伝わらない。ファンの様子は、沸いたというよりは、むしろ「面白いものを見た」と喜んでいる感じだった。彼らの多くは、「皐月賞馬が、勝った皐月賞と同じ戦法をとっている」とは考えていなかったし、大西騎手が手綱に込めた思いの強さも知りはしなかった。
ある番組で実況をしていた某名物アナウンサーは、この光景を
「おのおの方、油断めさるな、逃げているのは皐月賞馬だ」
と伝えた。「おのおの方」、それはすべての競馬ファンであり、また競馬ファンである。だが、真実を衝く言葉は、本当に油断しきっている人々の心には決して届かない。
『単騎逃げ』
レースの後、サニーブライアンの逃げと張り合うかもしれないとも予想されていたサイレンススズカを託されていた上村騎手に対し、何故逃げなかったのかという質問がされている。それに対し、上村騎手は次のように語っている。
「もし馬に任せて先手を奪いにいったとしても、相手(サニーブライアン)は絶対に退かない。それでは共倒れだと思った」
プリンシパルSの時とは違ってとにかく前に行きたがるサイレンススズカを懸命に抑えた上村騎手だったが、結果的に、それは馬の力をそぐことになってしまった。だが、そのことで上村騎手だけを責めることはできないだろう。
「サニーブライアンは、絶対に退かない…」
そう思っていたのは、上村騎手だけではない。すべての騎手が、すべての競馬関係者が、大西騎手によってこの先入観を植え付けられていた。彼らの全員が、レース前の時点で大西騎手の心理作戦の陥穽に陥っていたのである。
皐月賞馬は、16頭を引き連れて、堂々の大逃げをうつことに成功した。実は、中尾師から「サイレンススズカが来たら抑えて行かせろ」と指示されていた大西騎手だったが、その必要はなくなった。
『すべては彼らのために』
大西騎手は2番手のフジヤマビザンからセーフティリードを保ったまま、巧みにペースを落としていった。ただでさえ折り合いのつきやすいサニーブライアンなら、この日の道中でも苦しむことは何もなかった。第2コーナーを回って向こう正面に入っても、実に気持ちよさそうに逃げている。
「皐月賞よりもっといい手応えだった」
大西騎手は、そう胸を張る。それでも、サニーブライアンに鈴を付けに行こうとする馬はいなかった。他の騎手たちの目は、あくまでも後ろの馬たちにのみ注がれている。1番人気メジロブライト、2番人気ランニングゲイル、3番人気シルクジャスティス…。彼らは、いずれも後方、それもかなり極端な位置からしか競馬を進められない馬たちばかりである。そんな有力馬たちの末脚を活かしてやるために、自分たちから動いてわざわざ前崩れの展開にしてやることはない…。戦場にいる16人の騎手たちの視点から、先頭を走るただ1頭と1人の姿は完全に消えていた。いや、消されていた。すべては大西騎手の掌の上だった。いや。その頃、直前に騎乗予定だったシルクライトニングが発走除外となり、部外者として戦況を見つめるしかなくなっていた安田富男騎手だけが
「あいつらは何やってるんだ!?」
と怒号に近い唸り声をあげていたという。皐月賞でサニーブライアンの背中に最も迫り、それゆえにその実力を最も正当に評価し、唯一中盤までに潰しにくる可能性を持った敵が、開戦直前に舞台から引きずり降ろされたということまで踏まえると、もはやそれは神の配材の領域である。
大西騎手の完璧な策略によって始まった日本ダービーは、すべての歯車がかみ合って、サニーブライアンのためのダービーになろうとしていた。・・・だが、その真実に気づいている者は、この段階ですら、まだあまりにも少なかった。
『すべてを燃やし』
道中ずっとマイペースで、それも他の馬に邪魔されることすらなく自らレースを作ってきたサニーブライアンの逃げ脚は、レースが大詰めを迎えても、まったく衰えるところを知らなかった。第3コーナーを回ったあたりでようやくざわついた雰囲気がスタンドに広がり始め、後続の馬たちも差を詰めにかかった。
しかし、先頭が第4コーナーを回って直線に入ると、スタンドに波打つざわめきは、凄まじい絶叫へと変わった。そろそろ力尽きて沈んでいくはずのサニーブライアンが、ほとんどムチも入れないまま馬なりで加速し始め、もう一度後続を突き放し始めたのである。
完全にノーマークで逃げた皐月賞馬は、ここまでに十分すぎるほど脚をためていた。坂のあたりでようやく大西騎手のムチが入ると、後続との差はあっという間に3、4馬身ぐらいまで拡がっていく。残り200mを切っても、サニーブライアンが止まる気配は、まったくない。
「よしっ! 」
調教師席に、中尾師の絶叫がこだまする。
だが、そのままでは終わらないのが日本競馬最高のレース・日本ダービーである。サニーブライアンによって完全に出し抜けをくらわされた形となった後続馬たちも、坂を上りきったあたりでようやく追い込んできた。
6頭が、ほぼ団子状になって、ただ1頭を追い上げる。メジロブライトも、ランニングゲイルも来ている。その中でも、大外の馬の脚色は次元が違い、後続集団から突き抜け、他の5頭を引き連れてサニーブライアンを追いつめる。それは、戦前に大西騎手が恐れたただ1頭の敵、シルクジャスティスと藤田伸二騎手だった。
府中名物の直線の坂を越え、目前に迫る栄光のゴール。その一方で、背後に迫るライバルたちの蹄音。それまで一貫してレースを引っ張ってきたサニーブライアンの脚色にも翳りが見え、後続との差が一気に縮まっていく。それは、二冠を目前にしたサニーブライアンが迎える胸突き八丁だった。
『二冠馬誕生』
以前にも触れたとおり、サニーブライアンは、追ってしぶとい脚を長く使える反面、一瞬の斬れ味には欠ける馬だった。直線で持ち前の瞬発力を爆発させるシルクジャスティスに対抗するためには、前半の貯金を守り抜くしかない。さすがに、それまで2300m以上を先頭で力走してきたサニーブライアンには、もうもう余力は残っていない。一完歩ごとにその差を縮めてくるシルクジャスティスとの脚色の違いは、もはや歴然としている。
しかし、この日大西騎手が演出した逃げは、完璧なものだった。最後にその差を一気に縮められたものの、ゴール板の時点でのサニーブライアンは、シルクジャスティスより1馬身前にいた。2400mを走り切った時点で一番前にいた者が勝者となるのが日本ダービーである。大西騎手は、サニーブライアンが2400mを走り切った地点で先頭に立っていられるように、馬の力を完全燃焼させた。
サニーブライアンは、日本ダービーを勝った。6番人気の低評価(発走除外のシルクライトニングを入れると7番目)を覆しての、見事な逃げ切り勝ちである。皐月賞のときは「フロック」と言われたサニーブライアンだったが、馬の力を出し切り、完璧な逃げによって後続を封じ込めた競馬は、もはやフロックではあり得ない。府中の杜のスタンドは、二冠馬となったサニーブライアンに、今度こそ心からの祝福を送ったのである。
『あの初夏、最も幸福な人々』
サニーブライアンによる二冠達成は、彼の関係者たちにも大きな喜びをもたらした。大西騎手、中尾師、宮崎氏、生産者の村下ファーム…すべての人々にとって、それは初めてのダービー制覇だった。
サニーブライアンの関係者をみると、厩務員が代わった以外は、10年前のサニースワローのそれとまったく同じ顔ぶれだった。10年前に、22番人気をはねのけてサニースワローで2着に入り、競馬ファンを驚かせた彼らが、今度は6番人気をあざ笑うように、見事にサニーブライアンでダービーを逃げ切り、競馬ファンの度肝を抜いたのである。
ゴールに駆け込んだサニーブライアンの鞍上で、大西騎手には思わずガッツポーズが出た。そのとき彼の胸に去来したものは、おそらくデビュー以来18年間、必ずしも恵まれた境遇とはいえない騎手生活を送りながらも夢を捨てずに闘い続けた者だけが分かる喜びと昂揚だったのだろう。
レースの後、中尾師は
「僕も騎手も馬主さんも、ダービーは連対率10割なんですよ」
と笑った。皐月賞後は
「みんながフロックだとうるさいから、自分でもフロックだと言っていた」
という中尾師だが、内心では馬の力を信じ、不当な評価に憤っていた。そんな彼が、馬の実力を最高の形で証明したのである。
宮崎氏や村下喜幸氏も、馬主席で抱き合って喜んだ。村下氏に至っては、ぼろぼろと涙を流していたという。村下氏は、10年前はサニースワローを大欅の向こうで見失い、同枠の馬が馬群に沈むのを見てがっかりした後に勘違いに気付いて驚いたという。しかし、今度のサニーブライアンは、終始先頭を走っていたのだから見間違えようがなかった。
サニーブライアンを取り巻く人々は、10年の時を超えてダービーに挑み、ついには制覇に至る喜びを、全員で分かち合った。無論、彼らのそれぞれに10年という時は流れていったのだが、ダービーの時の彼らは、まるでそれぞれに過ぎた10年の時を忘れたかのようだったという。
『逃げられなかった菊花賞』
検量室へ戻り、ダービー制覇の興奮も覚めやらぬ大西騎手に対し、インタビュアーは早速「秋」のことを尋ねた。秋…それはもちろん夢の「三冠」のことである。
二冠ジョッキーとなった大西騎手は、その質問に対して
「菊も逃げます! 」
と力強く答えた。サニーブライアンと逃げ…それは、もはや切っても切り離せないほどに深く結びついたものとなっており、それは舞台が3000mであろうと三冠がかかっていようと、動かせるものではなくなっていた。
もっとも、皐月賞だけならともかく、ダービーも人気薄での逃げ切りを許してしまった他の馬も、今度こそ黙っているとは思えなかった。サニーブライアンは、いまや堂々たる二冠馬である。皐月賞、ダービーの二冠馬といえば、歴史を振り返っても名馬揃いである。サニーブライアンは、そのリストの最も新しいところに、彼らと対等の資格で名を連ねることになった。菊花賞では、おそらく上位人気は間違いないだろう。他の陣営は、「サニーブライアンを倒すこと」「三冠を阻止すること」を目標にレースを組み立ててくる。その挑戦を退ければ、もはやその実力にけちをつけることは誰にもできない。その意味で、サニーブライアンの菊花賞は、彼の正念場であると共に、彼の真価を人々へ知らしめるための絶好の舞台となるはずだった。
…しかし、彼の逃げが三度(みたび)実現される機会は、ついにやって来なかった。ダービーの数日後、サニーブライアンに骨折が判明し、全治半年と診断された。菊花賞(Gl)前の復帰は、絶望とされていた。三冠を逃げ切る夢は、夢のまま終わったのである。
『燃え尽きぬままに』
半年後、サニーブライアンが骨折癒えて帰ってきた時は、秋競馬が本格化しつつあった。復帰当初、有馬記念(Gl)を使って使えないことはない、と言われていたものの、中尾師は無理を嫌って、早々と回避を表明した。サニーブライアンの復帰は5歳になってからとされ、AJC杯(Gll)からもうひとつステップレースを使った後に、天皇賞・春(Gl)へ進むというローテーションが発表された。
しかし、半年間戦列を離れた影響は大きく、サニーブライアンの調教はなかなか思うように進まない。馬体がレースを使える状態に仕上がらなかったため、AJC杯も回避することになった。そして、目標を阪神大賞典(Gll)に切り替えて調整を進めていたサニーブライアンの脚部に、突然の異常が発生した。…競走馬の不治の病と言われる屈腱炎であった。
サニーブライアンの屈腱炎の症状は重く、治癒まで1年はかかると診断された。屈腱炎は、骨折と違って、いったん治っても競走能力に影響する上に再発しやすく、本当の意味での「完治」は不可能とされている。ダービー以降戦列を離れていたサニーブライアンに、さらに1年以上のブランクを経て、なお二冠馬の栄光に恥じない実力を維持させることは困難だった。
1997年の二冠馬サニーブライアンは、ダービー後はついにレースに使われることなく引退し、種牡馬入りすることになった。
『謎の二冠馬にあらず』
1997年の年度代表馬の選考では、皐月賞(Gl)、日本ダービー(Gl)を逃げ切ったサニーブライアンの他に、牝馬ながら天皇賞・秋(Gl)を勝ち、ジャパンC(国際Gl)2着、有馬記念(Gl)3着と活躍した女帝エアグルーヴ、マイルCS(Gl)、スプリンターズS(Gl)を連覇した外国産の短距離馬タイキシャトルの3頭が選考に残った。ところが、この3頭の選考では、サニーブライアンは、二冠馬でありながら候補から真っ先に外されてしまった(エアグルーヴかタイキシャトルかの論争では意見が割れたものの、結局エアグルーヴに決定している)。
サニーブライアンが真っ先に選考から外れた理由としては、「秋以降レースに出なかったため、異世代との力関係が分からない」ことがあげられていた。しかし、1991年に同じく二冠を制しながら秋を骨折で棒に振ったトウカイテイオーは、さしたる異論もなく年度代表馬に選ばれている。1991年はGlを2勝した馬が他にいなかったとはいえ、それをいうなら97年だってGl1勝のエアグルーヴを年度代表馬に選んでいるのだから、大差はない。また、91年には天皇賞・春(Gl)、阪神大賞典(Gll)、京都大賞典(Gll)を勝ち、宝塚記念(Gl)、有馬記念(Gl)で2着に入って一年通して活躍したメジロマックイーンを選ぶという選択肢もあったはずである。
そうはいっても、トウカイテイオーは年度代表馬に選ばれ、サニーブライアンは2頭の最終選考にすら残れなかった。そうすると、その理由はもうひとつの「大レースを人気で勝っていないこと」に求めるしかないだろう。
確かに、サニーブライアンが勝った日本ダービーは6番人気、皐月賞にいたっては11番人気の人気薄だった。その点、皐月賞、日本ダービーとも1番人気の重圧をはねのけて二冠馬となったトウカイテイオーに比べると気楽な立場だったことは否めない。
しかし、日本ダービーのビデオをもう一度見てみると、サニーブライアンが実に強い勝ち方をしていることがわかる。単騎逃げの利があったとはいえ、それは自らレースを支配してのものだから、それは馬の力以外の何者でもない。勝ち時計も、2分25秒9と歴代のタイムの中でも優秀な部類に入るものであり、奇しくもトウカイテイオーのダービーの勝ちタイムとまったく同じである。
この年のダービーはスローペースで前の馬に有利だったといわれるが、スローペースとは、裏を返すと差し・追い込みタイプの馬の瞬発力も爆発しやすいということである。現に、サニーブライアンに続く位置にいた先行馬たちは、後続の激流のような追撃にひとたまりもなく呑まれてしまっている。だが、サニーブライアンはシルクジャスティス、メジロブライトといった強力な差し・追い込み馬たちの追撃を抑え切った。シルクジャスティスはこの年4歳にして有馬記念(Gl)を制し、メジロブライトも翌年の天皇賞・春(Gl)で圧勝しているから、世代のレベルも他の世代に見劣りするものではない。そうすると、この年の二冠馬は、「謎の二冠馬」どころか、歴代二冠馬の中でもかなり強い二冠馬と評価してよいのではないか、と思われる。
結果として、サニーブライアンは年度代表馬の選考からいとも簡単に外されたばかりか、そのことに対し、ファンの間からもさしたる異論は出てこなかった。だが、そのことは必ずしも彼の実力を正当に反映したものではない。サニーブライアンとは、「謎の二冠馬」ではなく「強い二冠馬」なのである。
『いつの日か夢を』
現役生活を引退したサニーブライアンは、最初、新冠のCBスタッドで種牡馬生活に入った。「二冠馬」という金看板と、必ずしも高くない評価。二つの相克する要素を抱えた種牡馬サニーブライアンの将来は、不透明と思われていたが、実際の種牡馬生活では、初年度から104頭の種付け相手に恵まれ、2年目も100頭近い繁殖牝馬を集めた。
だが、繁殖牝馬の量と質とは必ずしも比例しないというのも、馬産の現実である。サニーブライアンの種付け相手には、中央の重賞を勝ったような一流牝馬の名前はほとんどなかった。
それでも、サニーブライアンの産駒たちは、予想以上によく走った。父は一度もダートで走ることがなかったが、産駒は意外なまでのダート適性を見せ、地方で堅実に走った。初年度産駒のデビュー時のフレッシュサイヤーランキングでも、フサイチコンコルドに次ぐ24位だったが、勝ち上がり頭数はサニーブライアンの方が多かったという。また、中央デビューを果たした産駒の中からも、愛知杯(Glll)を勝ったカゼニフカレテ、中日新聞杯(Glll)を勝ったグランリーオという2頭の重賞勝ち馬が現れた。
しかし、競馬の時代の流れは、種牡馬サニーブライアンを直撃した。1990年ころに約1万頭だったと言われる日本のサラブレッド生産頭数は、地方競馬の衰退や外国産馬の台頭を受けて急減し、2005年には8000頭を割ったとされている。しかも、技術の進歩によって人気種牡馬の大量交配が可能になり、かつては60~100頭だったトップクラスの種牡馬の年間種付け頭数も、この頃には200頭超が当たり前になってきた。馬産地全体のパイが減ったうえ、そのパイを少数の人気種牡馬が寡占するという傾向の中で、種牡馬の見切りは早まる一方となった。サニーブライアンの種牡馬成績は、「満足できる水準には達していない」とされ、交配頭数も急速に減少していった。
こうしてサニーブライアンは、2007年には種牡馬を引退し、観光施設で余生を過ごすことになり、2011年3月3日に疝痛によって死亡したという。皐月賞、ダービーを勝った二冠馬であり、大種牡馬ブライアンズタイムの産駒にして桜花賞馬の末裔、かつダービー2着馬を伯父に持つ良血馬でもあったサニーブライアンだったが、種牡馬としても成功した・・・とは、残念ながら言うことができない。
しかし、種牡馬として成功できなかったという事実が、大西騎手とサニーブライアンが1997年春にクラシック戦線で見せた競馬の価値を貶めるものではない。あの季節に競馬ファンが見た光景もまた現実であり、そしてその記憶は多くのファンの脳裏にいまだに刻まれている。日本ダービーの後に
「実は逃げは苦手なんです」
と衝撃の告白をした大西騎手が見せた一世一代の大勝負と、それに応えきったサニーブライアンの実力を「謎」などという1文字で語った気になるとしたら、それは悲しむべき語彙の貧困と言わなければならないだろう。
97年春当時にはそうした論評も決して少なくなかったことも事実だが、21世紀、そして令和の世となった今、彼のリアルタイムを見守った世代としては、声を大にして「サニーブライアンの実力は本物だった」と叫ぶのである。[完]
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