★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
時代が「昭和」から「平成」に変わる直前に現れ、新世代の旗手に大きな壁として立ちはだかって「風か光か」と謳われた彼こそが、時代に求められ、時代を築いた名馬だった…
西暦1988年…それは、競馬界はもちろんのこと、日本全体にとって大きな意味を持つ1年間だったということができる。「1988年」とは、元号でいう「昭和63年」、つまり昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へと変わる前の年にあたる。昭和天皇の崩御は、1989年とはいえ1月7日のことで、元号も即日「平成」に改められていることからすれば、実質的には88年を「昭和最後の年」と呼んでいいだろう。1926年、大正デモクラシーの終焉と、戦争の足音迫る不安とともに始まった「昭和」は、多くの悲劇と犠牲、再建と繁栄を経て、63年の幕を閉じたのである。
時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年の競馬界は、日本競馬史に残る希代のアイドルホース・オグリキャップと彼を取り巻くライバルたち―いわゆる「平成三強」の時代へと突入していった。「オグリ・ブーム」を巻き起こし、社会現象ともなった希代の名馬の登場により、空前の規模で新たなファン層を獲得した競馬界は、歴史の新たな段階へと入っていった。
だが、この時代の競馬を語る場合、新時代の幕開けを告げた名馬だけではなく、旧時代の終焉を飾ったもう1頭の名馬の存在も忘れてはならない。大きな変革期には不思議と名馬が現れるのが競馬界の巡り合わせである。この時代もまた例外ではなく、オグリキャップによって新たな時代が到来する直前の競馬界では、「オグリキャップ以前」ともいうべき旧時代の最後を飾る1頭の名馬がひとつの時代を築き、やがてオグリキャップと、時代の覇者たる地位を賭けて血戦を繰り広げることになった。
日本競馬の最高の繁栄期の幕開けを告げた彼らの戦いは、当時の人々にはその毛色を冠し、「芦毛対決」と称された。その戦いの中で、新世代の旗手の前に大きな壁として立ちはだかった彼は、ファンの魂に熱い記憶を残した。旧世代から新時代への橋渡しの役割を務めた彼のことを、人は「昭和最後の名馬」と呼んだ。
名馬が時代を築き、時代が名馬を求める。日本にグレード制度が導入された年に、そして絶対皇帝シンボリルドルフが日本ダービーを制する4日前に生を受け、「昭和」最後の年に史上初めてとなる天皇賞春秋連覇を達成し、やがて新時代の担い手たちに覇権を譲って去っていったタマモクロスこそ、まさに自ら時代に求められ、また自ら次代を築きあげた馬だった。そんな彼こそ、「名馬」と呼ばれるにふさわしい資格を持っている。
タマモクロスは、現役時代に「白い稲妻」と呼ばれて直線一気の末脚を武器に目黒記念、毎日王冠をレコード勝ちした個性派シービークロスを父、通算19戦6勝の戦績を残したグリーンシャトーを母として、この世に生を受けた。
名門松山吉三郎厩舎に所属していたシービークロスは、引退式で同厩のモンテプリンスとともに、2頭の併せ馬での引退式を行ったことで知られている。そんなことから、後世のファンからは「松山厩舎の二枚看板だった」という誤解を受けることもあるが、実際には、シービークロスはモンテプリンスより2歳上であり、さらにモンテプリンスが古馬戦線に進出してきたのはシービークロスが脚部不安でほとんどレースに出られなくなった後のことだから、活躍時期は重なってすらいない。単純に実績を考えても、春のクラシックから常に主役級の扱いを受け、ついには天皇賞、宝塚記念を制したモンテプリンスと比べた場合、クラシックでは伏兵扱い、古馬戦線でも一流どころには届かなかったシービークロスは、一枚も二枚も劣る存在だった。
もっとも、シービークロスという馬は、当時の競馬ファンの間では実績以上の独特の人気を得ていた。
「テンからついていくスピードがなかったから、後ろから行くしかなかった」
シービークロスをそう評したのは、彼の主戦騎手だった吉永正人騎手である。おそらく、それは事実であろう。しかし、そんな不器用な脚質ゆえにシービークロスがとらざるを得なかった追い込みという作戦・・・宿命は、やはり馬群から離れた逃げか追い込みという極端な競馬で人気を博した吉永騎手とのコンビによって最も輝き、古きロマン派たちの心をしっかりとつかんだ。彼らはシービークロスの末脚に熱い視線を注ぎ、炸裂したときには歓喜、不発に終わったときには慟哭をともにした。そんなファンに支えられ、「白い稲妻」は競馬界の人気者となったのである。
もっとも、ファンからの人気では同時代を生きた名馬をも凌いでいたシービークロスだったが、競走馬としては「超二流馬」のまま終わった観を否めない。Gl級レースには手が届かず、血統的にも注目を集めるほどのものではなかったシービークロスは、現役を引退する際には種牡馬入りできず、誘導馬入りするのではないかという噂も流れた。
しかし、そんなシービークロスに対し、彼の人気や観光資源としての可能性ではなく、純粋な種牡馬としての資質に熱い視線を向ける男がいた。当時新冠で錦野牧場を開き、自ら場長を務めていた錦野昌章氏だった。
現役時代からシービークロスに注目していた錦野氏は、彼が直線で見せる強烈な瞬発力に、すっかり魅惑されてしまった。
「あの瞬発力が産駒に伝われば、きっと物凄い子が生まれるだろう…」
錦野氏の夢は、錦野牧場から日本一の名馬を送り出すことだった。しかし、社台ファームやシンボリ牧場、メジロ牧場のような大きな牧場とは違い、小さな個人牧場にすぎない錦野牧場で高額な繁殖牝馬を揃えることはできないし、種牡馬も種付け料が高い馬には手を出すことさえなかなかできない。そんな彼にとって、血統、成績こそ今ひとつながら高い資質を備えたシービークロスは、まさにうってつけの存在だった。一流の血統と戦績を備えた名馬では高すぎて手を出すことができないが、シービークロスならば・・・。
錦野氏は、シービークロスを種牡馬入りさせるべく、競馬界や馬産地を奔走した。関係者に頼み込み、同じ志を持つ友人を説き伏せ、シービークロスの種牡馬入りを実現させた。錦野氏を中心とする生産者たちがシンジケートを結成し、シンジケートの10株をシービークロスの生産者でありかつ馬主でもあった千明牧場に所有してもらう代わりに、千明牧場からシービークロスを無償で譲り受けることに成功したのである。こうしてシービークロスは、錦野氏の力によって種牡馬入りを果たし、北海道へと帰ってくることになった。
もっとも、当時の日本の馬産地は、「内国産種牡馬」というだけで低くみられる時代だった。血統も戦績も目立ったものとはいえない内国産馬のシービークロスが、種牡馬として人気になるはずがない。
初年度は49頭の繁殖牝馬と交配して38頭の産駒を得たシービークロスだったが、交配相手の繁殖牝馬たちを見ると、年齢のため受胎率が下がって引退が迫った老齢の馬や、一族に活躍馬もなく、自らの戦績も振るわない馬がほとんどであり、
「この程度の牝馬にシービークロスなら、ダメでもともと。」
「牝馬を引退させたり、処分させるくらいなら、その前につけてみようか。」
そんな思いが透けて見えていた。当時のシービークロスの状況を物語るのは、初年度の余勢の種付け料である。普通新種牡馬の種付け料は高く、2年目、3年目と落ちていく。ところが、シービークロスの場合は初年度から10万円だったというから、まったく期待されていなかったことが分かる。
しかし、そんなシービークロスに誰よりも熱い期待を寄せていたのが、彼の種牡馬入りにも大きく貢献した錦野氏だった。錦野氏は、自分の牧場で一番期待をかけていた繁殖牝馬であるグリーンシャトーをシービークロスのもとに連れていくことにした。
グリーンシャトーは、重賞勝ちこそないものの、通算19戦6勝の戦績を残していた。もともと別の牧場で生まれた彼女だったが、
「この馬の子供は走る!」
と直感した錦野氏に請われて錦野牧場へやってきた。彼女の初子のシャトーダンサーは、金沢競馬で12勝を挙げた後に中央競馬へと転入し、3勝を挙げている。
1984年5月23日、父シービークロス、母グリーンシャトーという血統の子馬が、錦野牧場で産声をあげた。この馬こそが、後に史上初の天皇賞春秋連覇を成し遂げることになるタマモクロスである。錦野氏にとって、自分が種牡馬入りさせたようなものであるシービークロスと、錦野牧場のかまど馬というべきグリーンシャトーの間の子供であるタマモクロスとは、まさに生産者としての夢の結晶だった。その年は、中央競馬に初めてグレード制が導入された年だったが、錦野氏の夢の結晶が生れ落ちたのは、グレード制のもとでの記念すべき最初の日本ダービーで、あのシンボリルドルフが無敗のまま二冠を達成するわずか4日前のことだった。
]]>(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
現存するサラブレッドの父系をたどると、いわゆる「三大始祖」・・・ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリータークの3頭に遡ることができることは、競馬ファンにとって長らく常識の範疇に属する基礎知識とされてきた。「サラブレッド」という種がこの世に存在しなかった古き時代から、「競馬」は存在していたようである。しかし、やがて天の与えたままの馬の姿だけでは満ち足りなくなった古人は、より速く走るために、より純粋に競走馬としての戦いに生きるために馬たちの品種改良を重ね、ついには「三大始祖」たちの血によって「サラブレッド」という究極の種を生み出した。
サラブレッドとは、彼らの祖先とは異なり、競馬という目的のため、人の手でつくりだされた種である。そうであるがゆえに、彼らは自らの存在、そして生命そのものを、競馬という戦いに捧げる宿命にある。彼らに求められるものは、いつの時代も変わらない。レースに勝って、ウィナーズサークルに立つこと。その一点こそが、サラブレッドの存在する理由である。
だが、彼らが自らの存在の理由を極めた時・・・競馬界の頂点に立った時、果たして彼ら自身は、何を思うのか。スタンドを埋めたファンの喝采を浴びながら、彼らは何に思いを馳せるのか。・・・おそらく、何も思いはしない。それらは、人ならぬ彼ら自身にとって、おそらく何の意味もないものである。彼らはなぜ戦うのか。それは、彼らがサラブレッドとして生まれたから。彼らは、ただ人のために走り、戦い、そして死んでゆく。それが彼らの現実であり、宿命である。
2005年8月28日、1頭のサラブレッドが7年あまりの短い生涯を閉じた。ダンツフレーム・・・2002年の宝塚記念(Gl)を制し、同年の中央競馬における夏のグランプリホースとなった彼は、それ以外にも重賞を2勝し、また2001年の皐月賞(Gl)、東京優駿(Gl)、そして2002年の安田記念(Gl)で2着に入った強豪であった。彼の競走馬としての戦績は、人のために走り、戦うべきサラブレッドとして、なんら申し分のない戦績であった。
そんな彼に罪があったとすれば、それは彼自身の血脈だった。彼を生み出した牝系・・・それは、急速に近代化する日本競馬の中では、もはや時代遅れとなりつつある異形の血脈だったのである。ダンツフレームは、誰もがうらやむ良血馬たち・・・アグネスタキオン、ジャングルポケットといった強豪たちと互角に戦い、やがて6度目の挑戦にして初めて悲願のGlを制した。だが、そんな彼を待っていたのは、生まれる時・・・否、それ以前から定まっていた血統ゆえの低い評価であり、過酷な運命だった。今回のサラブレッド列伝は、悲しい運命に翻弄され、やがて早すぎる終着駅を迎えてしまった1頭のサラブレッドに捧げる物語である。
ダンツフレームの生まれ故郷は、日本有数の馬産地である北海道・日高地方の中でも特に古くから馬産の中心となってきた浦河にある、信岡牧場である。この牧場の生産馬からは、かつて1981年の朝日杯3歳S勝ち馬ホクトフラッグ、95年の桜花賞馬ワンダーパヒュームなどが出ている。
ダンツフレームの母インターピレネーが競走馬として残した戦績は、21戦3勝にすぎない。しかし、実際の彼女は数字の羅列から想像されるような一介の条件馬とは一線を画した存在であり、名牝ベガが輝いた93年の牝馬クラシック戦線に参戦し、4歳牝馬特別(Gll)で3着に入って桜花賞(Gl)にも出走している(9着)。
インターピレネーの血統をみると、93年の中央競馬の血統水準の中ですら、一流とは言いがたいものだったことを否定できない。彼女の父であるサンキリコは、競走馬としても2歳時に英国のGll、Glllを合計3勝したという程度の実績しかなく、また種牡馬としても、関東オークスをはじめ南関東の牝馬限定重賞を中心に活躍したケーエフネプチューン、新潟3歳S(Glll)3着のワンダーピアリス、ガーネットS(OP)2着のユーフォリアなどを出した程度の存在に過ぎない。インターピレネーは、父の種牡馬成績を紹介する時には、重賞での入着という「実績」を持つという一点をもって、「代表産駒」に名を連ねられる資格を持っていた。
それでも、引退後は信岡牧場で繁殖入りして1996年に初子を産んだインターピレネーは、その後も繁殖牝馬としての使命を順調にこなしていた。
インターピレネーが97年春にマイニング産駒のマイニンハットを出産すると、信岡牧場の人々は、彼女をブライアンズタイムと交配することに決めた。種牡馬ブライアンズタイムといえば、既にナリタブライアン、マヤノトップガンという超大物を輩出し、同年のクラシック戦線にもサニーブライアン、ヒダカブライアン、エリモダンディー、シルクライトニングといった有力馬たちを大量に送り込み、種牡馬界にサンデーサイレンスの対抗勢力としての地位を確立しようとしていた。
インターピレネーとの関係でいうならば、ブライアンズタイムとの交配は「不釣合い」にも見える。だが、信岡牧場はブライアンズタイムのシンジケート株を持っており、また自分の牧場の基礎牝系に属するインターピレネーに大きな期待をかけていた。彼女自身、繁殖入り直後に既に一度ブライアンズタイムと交配され、初子ゼンノペッパーを産んでいた。競走馬としては大成できなかったゼンノペッパーだが、馬っぷりは生まれながらにすばらしい馬だった。同じ父、同じ母を持つ全兄弟として、ぜひ兄を超える存在になってほしい。それが、信岡牧場の人々の切実な願いだった。
「インターピレネーの10」・・・後のダンツフレームが生まれたのは、翌98年4月19日のことである。「ブライアンズタイム最高の当たり年」と評された97年クラシック戦線の季節に、その活躍によって集まった牝馬たちから生まれたブライアンズタイム産駒たちの1頭・・・それが「インターピレネーの10」である。
ところが、実際に生まれた「インターピレネーの10」は、信岡牧場の人々がひいき目に見ても、おせじにも走りそうな馬には見えなかった。
「決して見てくれのいい馬ではなかった。見た感じは、むしろボテッとした感じで・・・」
「インターピレネーの10」の牧場での担当者は、当時の思い出をそう語っている。体型は美しくないし、日ごろの行いを見ても、
「いつもおとなしいというか、放牧地でみんなが走り回っていても、黙々と草ばかり食っているような子供だった」
というもので、とても競走馬としての未来を感じさせるような存在ではなく、むしろ
「食ってばかりでぶくぶく太っていた」
「牛みたいな馬だった」
などという評すら伝えられていた。「インターピレネーの10」、幼い日のダンツフレームは、一部の生まれながらの良血馬がそうであるような輝き・・・スター性とは、あまりにかけ離れた存在だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
日本競馬の歴史の中で、我々に最も鮮烈な印象を残した馬として、サイレンススズカの名前を落とすわけにはいかないだろう。古馬になって本格化した後のサイレンススズカは、おそらく歴史上他に例を見ないほどの圧倒的なスピードで、スタートからゴールまで決して先頭を譲ることのないままに、常に馬群の先頭を走り続けた。果たしてこの馬が「差される」ということがあり得るのか。そう思わせるほどに、その走りはスピードに溢れ、金色の馬体以上に輝きを放っていた。
しかし、サイレンススズカの実績を見ると、かつて「名馬」と呼ばれてきた強豪たちと比べて、決して突出したものとはいえないことも、また事実である。確かに16戦9勝という戦績は立派だが、特に5歳春までに勝ったレースでは、相手関係が弱いところを選んで走ってきており、サイレンススズカが勝ったレースの中で、本当の意味で一線級の馬が走ったレースといえるのは、1998年宝塚記念(Gl)と、同年の毎日王冠(Gll)ぐらいしかない。
サイレンススズカのレースにそのような偏りがある理由としては、4歳時の彼が、期待の割には戦績が振るわなかったことから、陣営が慎重にレースを選んだことが大きい。しかし、最大の要因は、それよりもむしろ、サイレンススズカの距離適性に限界があったことにあるというべきだろう。サイレンススズカの勝ち鞍は明らかに中距離に偏っており、マイルやクラシックディスタンスのレースには、使われることすらあまりなかった。
5歳時のサイレンススズカであれば、出走しさえすれば、マイルやクラシックディスタンスのレースでも勝つことができたかもしれない。しかし、勝負の世界に「たら」「れば」が許されない以上、それは意味のない仮定に過ぎない。実際に意味を持つのは、中距離以外ではほとんど戦績がないという現実の記録である。ゆえに、サイレンススズカに対して
「その最期ゆえに過度に神格化されている」
という否定的評価がつきまとうことも、まったく理由のないことではない。
しかし、そうであったとしても、やはり多くのファンにとって、サイレンススズカが強烈な輝きを放った名馬であることは、間違いのない事実である。今回は、名馬たちの個性が薄れたといわれる現代競馬に現れた希代の逃げ馬サイレンススズカの馬生を振り返ってみることにしたい。
サイレンススズカが生まれた平取の稲原牧場は、スズカコバン列伝(皇帝のいない夏)で取り上げたとおりの実力派牧場であり、テルテンリュウ、スズカコバンによる宝塚記念制覇をはじめとして、その生産馬たちは素晴らしい実績を残してきた。
稲原牧場をほぼ一代で有力生産牧場に育て上げたとされる場主の稲原一美氏は、血統に対して強いこだわりを持った馬産家としても知られている。というより、そのこだわりこそが、彼に馬産家としての成功をもたらした原動力になったという方が正確かもしれない。
「強い馬を作るためには、良血の牝馬に良血の種牡馬を配合しなければならない。」
稲原氏は一貫してその信念に基づく馬産に取り組んできた。稲原牧場の規模は繁殖牝馬が20頭弱というところで、牧場の実績を考えるともっと大きくなっていてもいいし、またその気になりさえすれば不可能ではないはずである。しかし、それをしてしまうと、1頭の馬にかけられる手間も、そして費用も落ちてしまうことを、稲原氏はよく知っていた。
稲原氏は、牧場の生産成績が上がってくると、牧場の規模をさらに大きくしようとするのではなく、1頭あたりにかけられる手間と費用を増強することに心を砕いた。具体的には、牝馬に交配する種牡馬の質を上げ、繁殖牝馬も厳選したもののみを牧場に残し、さらに外部の牝系の導入によって積極的に血の入れ替えも図って、優れた血のみが牧場に残るように日々努力を重ねたのである。
そんな稲原牧場にとって、アメリカから輸入したワキアは、牧場の期待を集める繁殖牝馬だった。ワキアは稲原牧場と親交が深い橋田満調教師と稲原氏の長男が渡米した際に、橋田師が見付けてきた牝馬である。橋田師が目を付けた当時、ワキアはまだ現役の競走馬だった。しかし、ワキア自身が当時既にかなりの競走成績を挙げていただけでなく、その血統もまたミスタープロスペクター系のエース格種牡馬ミスワキで、牝系も多くの重賞勝ち馬を出しているという裏付けがあった。
ワキアの競走成績、力強くスピード感に満ちた走り、そして日本競馬と相性がよく、活力に溢れた血脈が集約された血統に心惹かれた橋田師から
「いい牝馬がいるので買ってみませんか」
と誘われた稲原氏は、その話を聞いてすぐに決断し、ワキアを買うことにした。当時はまだその決断の結果が分かるはずもないが、橋田師の相馬眼、そして稲原氏の決断の正しさは、やがて確固たる実績によって証明されることになる。
稲原氏が権利を購入したワキアは、5歳一杯アメリカで競走生活を続け、19戦7勝という成績を残して引退すると、その後日本へと輸入された。
日本へやってきたワキアは初年度ダンスオブライフの牝馬を産んだ。その牝馬がワキアの残す唯一の牝馬になるなどとは夢にも思わぬ稲原氏は、2年目
「今度こそ牡馬を」
という願いを託し、勝負を賭ける意味で、シンジケートに加入していたトニービンを交配することにした。
トニービンは当時、前年に初年度産駒がデビューしたばかりだったが、その中からいきなりダービー馬ウイニングチケット、桜花賞、オークスの牝馬二冠を制したベガなどを輩出し、その評価を高めていた。このまま順調に行けば、ポスト・ノーザンテースト時代の日本のリーディングサイヤーになることは確実といわれていたトニービンが相手なら、ワキアはどれほど良い仔を産んでくれるだろうか。稲原氏はそんな期待に胸を弾ませ、発情期を見計らってワキアをトニービンが繋養されている社台スタリオンステーションに連れて行った。
ところが、稲原氏が来てみると、その日は既にトニービンの種付け予定が埋まった後だった。株を持っているので次の機会に種付けをすることもできないわけではないが、それではせっかくの発情期をみすみす棒に振ることになる。また、次を待ったとしても無事受胎してくれるとは限らない。稲原氏は己の不運を呪い、頭を抱えてしまった。
すると、そんな稲原氏を気の毒に思ったのか、社台SSの方から予想もしない助け舟が出てきた。
「サンデーサイレンスなら今日は空いているので、付けていきませんか」
というのである。
サンデーサイレンスは現役時代に米国クラシック三冠のうち二冠、そして米国競馬の最高峰であるブリーダーズカップクラシックを制し、2年前に鳴り物入りで日本へ輸入され、供用が始まったばかりの種牡馬だった。サンデーサイレンスは、その後に初年度産駒が大活躍したことで、空前絶後の大種牡馬として日本種牡馬界に君臨する帝王となるのだが、このときは初年度産駒がデビューする直前で人気が落ちていたため、その日の予定が空いていたのである。今では信じられないことだが、そう言われた稲原氏も
「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか…」
ということで承諾し、この日、ワキアの相手は急きょサンデーサイレンスに切り替わった。
約1年が経った平成6年5月1日、ワキアは稲原牧場で一頭の栗毛の牡馬を産み落とした。父に米国80年代最強馬の呼び声高きサンデーサイレンス、母に米国で7勝を上げた実績馬のワキアを持って生まれたその子こそが、後にサイレンススズカという名を与えられ、希代の逃げ馬として名を残すことになる運命を背負いし馬だった。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドの強弱を語る時に欠かせない要素のひとつとして、そのサラブレッドが属する世代の強弱が挙げられる。日本の競馬体系は、まず世代限定戦から出発し、異世代との対決はクラシック戦線で同世代との決着をつけた後になる。そのため、同世代での対決では強く見えた馬でも上の世代との対決で馬脚を現したり、逆に同世代の中では二流とされていた馬が上の世代に混じって意外な健闘を見せてファンを驚かせることも、決してまれではない。強豪が揃った「強い世代」の中で埋没していた馬、逆に幸運に恵まれて「弱い世代」の中で栄冠を勝ち得た馬・・・様々なサラブレッドによる果てしなき戦いの過程を通じて、ファン、そして歴史は、真に「名馬」と呼ばれるべき存在を選別していく。
そうした過程をことごとく勝ち抜き、「日本競馬史上最強の名馬」との名誉をほしいままにしたのが、1984年に無敗のままクラシック三冠を制し、翌85年にかけてGl通算7勝を記録した「絶対皇帝」シンボリルドルフである。彼は、同世代との決着を「無敗の三冠達成」という形でつけたにとどまらず、その後も歴史上有数の「強い世代」とされる1歳上のミスターシービー世代の名馬たち、そして1歳下の世代を代表する二冠馬ミホシンザンなど、当時の日本競馬における一流馬をことごとく撃破し、中長距離戦線を完全に制圧した。競走馬の体調、騎手の騎乗、天候、馬場状態、展開・・・流動するあらゆる不確定要素の中で勝ち続け、自らの絶対的な能力を結果によって証明したシンボリルドルフは、今なお多くのファンから信仰に近い畏敬を捧げられる名馬とされている。
だが、その半面で、シンボリルドルフと同じ世代に生まれたサラブレッドたちは、シンボリルドルフとは違って厳しい評価に甘んじてきた。1981年に生まれた彼らの世代は「シンボリルドルフ世代」と呼ばれており、また他には呼ばれようがない。シンボリルドルフに負け続け、さらに上の世代、下の世代との対決においても常に苦渋をなめさせられ続けた彼らは、「弱い世代」という汚名を受ける羽目になっている。
なるほど、シンボリルドルフを除く「シンボリルドルフ世代」の顔ぶれは、前後の世代と比べてかなり見劣りするといわなければならない。ビゼンニシキ、ニシノライデン、スズマッハ・・・。世代の一流馬といわれた彼らも、しょせんはGl未勝利である。ミスターシービーを筆頭に、カツラギエース、ニホンピロウィナー、ギャロップダイナといった強豪が並ぶ「ミスターシービー世代」はいうに及ばず、ミホシンザンだけでなく、サクラユタカオー、タカラスチールらも世代混合Glを勝っている「ミホシンザン世代」にも劣るといわなければならない。というよりも、「シンボリルドルフを除くシンボリルドルフ世代」に劣る世代は、歴史を振り返ってもなかなか見つけられないというのが正直なところである。
だが、同世代の馬たちがシンボリルドルフ、そして異世代の強豪たちに敗れ、次々とターフから消えていく中で、数々の敗北にあってもなお夢を諦めずに走り、戦い続けた馬がいた。そんな彼がGlの大輪の花を咲かせた時、彼を苦しめ続けたシンボリルドルフはとうにターフを去り、彼自身も既に7歳(現表記6歳)になっていたが、彼の勝利は、シンボリルドルフを除いた彼らの世代唯一の世代混合Gl制覇となった。
皇帝のいない夏にようやく遅咲きの才を開花させた彼は、その後も戦い続けることに生きる意義を見出したかのように現役を続け、ターフを沸かせたのである。
シンボリルドルフと同じ年に生まれ、同じクラシックを戦い、低い評価に泣きながらもついにはGlを手にしたその馬とは、1987年の宝塚記念馬スズパレードである。
スズパレードの生まれ故郷は、当時門別に存在していた柏台牧場という生産牧場である。柏台牧場は、後にオグリキャップの宿敵・スーパークリークを生産したことで有名になるが、当時はまだGl馬を輩出していなかった。
スズパレードの母スズボタンは、競走馬としては4勝を挙げる実績を残していたものの、産駒たちの成績は今ひとつだった。スズパレードの上の3頭の兄姉は、いずれも特筆すべき成績を残していない。後にはスズドレッサー(父カツラギエース、中央5勝)やユウキスナイパー(父ミスターシービー、中央3勝)、クリールサンプラス(父イブンベイ、中央3勝)らを次々と送り出すスズボタンだが、スズパレードが生まれた当時は、血統的にさほど注目を集めてもいなかった。
ただ、牝系の方は目立たないスズパレードだったが、父の方は人々の耳目を集めやすい悲劇に彩られていた。
スズパレードの父ソルティンゴは、社台ファームの総帥・吉田善哉氏の所有馬として伊仏で走り、15戦5勝、イタリア大賞(伊Gl)、ミラノ大賞(伊Gl)を勝ち、伊ダービー(伊Gl)2着という2400mの大レースで実績を残した。それらの実績を買われたソルティンゴは、種牡馬として日本へ輸入されることになった。日本での「種牡馬・ソルティンゴ」に期待をかけていた人々は、彼にその後どのような運命が待ち受けているのか、知る由もなかった。
輸入初年度の種付けシーズンを無事に終えたある日のこと、ソルティンゴはいつものようにパドックに放牧される・・・はずだった。ところが、担当厩務員のミスによって、ソルティンゴは彼の本来のパドックではなく、隣のバウンティアスのパドックに、バウンティアス自身も放牧されているにも関わらず、放牧されてしまった。
怒ったのは、バウンティアスである。彼にしてみれば、自分の縄張りを闖入者に荒らされた形となる。悪いことに、バウンティアスは当時の種牡馬の中でも名だたる激しい気性を持っていた。怒り狂ったバウンティアスは、ソルティンゴに襲いかかってきた。
ソルティンゴは、怒りに燃えたバウンティアスに蹴飛ばされ、大けがを負ってしまった。しかも、怪我の箇所が悪く、種牡馬の命というべき受精能力を失ってしまったのである。ソルティンゴの担当厩務員は、自らの失態に責任を感じたのか、事故の数日後に割腹して果てている。
期待の種牡馬の将来だけでなく、担当厩務員の生命まで奪った悲劇に、社台ファームは悲しみに沈んだ。ソルティンゴについては、万に一つ回復するかも知れない、という淡い期待のもとに種牡馬登録を抹消せず、懸命の治療を続けたが、その熱意は実を結ぶことのないまま、スズパレードがデビューした1983年に死亡した。ソルティンゴは、わずかにスズパレードを含む1世代しか産駒を残すことができなかったのである。
スズパレードは、こうして生産界の歴史から姿を消したソルティンゴが遺した忘れ形見の1頭であり、その意味でわずかに注目を集める程度の馬だった。生まれてきたスズパレード自身は、小柄な体格であまり見栄えがせず、地味な存在だった。
ただ、スズパレードが育った柏台牧場には、他の牧場にはない特色があった。柏台牧場では、自然の地形を利用して、牧場の敷地内に大きな高低差をつけていた。
また、柏台牧場は、当時ようやく日本で採り入れられ始めたばかりだった自然放牧を、他の牧場に先駈けて導入していた。おかげで、柏台牧場の中では、馬が移動する際には天然の「坂路」を越えなければならず、馴致前から自然と幼駒の腰が鍛えられるというメリットがあった。
生まれながらに若干の脚部不安があったスズパレードだったが、天然の「坂路」で鍛えられ、次第に隠された資質を発揮するようになっていった。やがて馬主、所属厩舎も決まり、中央競馬でデビューすることになったスズパレードは、デビュー戦こそダートで3着に敗れたものの、折り返しの新馬戦では芝に替わって何と9馬身差の圧勝を見せた。
初勝利を挙げて意気上がるスズパレードは、その勢いを駆って400万下、オープン特別も勝ち、3連勝を飾った。3連勝の内容も、先行して直線で抜け出し、余力を残して勝つという横綱競馬ばかりだった。
3歳戦を終えて4戦3勝3着1回ならば、「クラシックの主役候補」といっても十分に通用する。富田六郎調教師をはじめとする関係者たちは、
「この馬は、思ったより走るぞ」
と驚き喜び、これならばクラシックも夢ではない、とひそかに胸を躍らせた。そんな彼らのクラシックロードの始まりは、共同通信杯4歳S(Glll。年齢は当時の数え年表記)だった。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬史上「三強」と称された時代は多いが、それらが本当に「三強の時代」というに値したかどうかを検証していくと、必ずしもその呼び名がふさわしくない場合も少なくない。「三強の時代」というからには、傑出した3頭の名馬が互いにしのぎを削り、他の馬の追随を許さない状態で勝ったり負けたりを繰り返さなければ物足りない。しかし、同じ時代に、名馬と呼ぶにふさわしい馬たちが3頭も同じターフに立ち、実力の絶頂期が同じ時代に重なるなどという都合の良い事態は、なかなか起こるものではない。
その点、昭和末期から平成初期にかけて、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンという、いわゆる「平成三強」が繰り広げた戦いは、まさに「三強」と呼ぶにふさわしい時代だった。「平成三強」を形成した彼らは、それぞれがGlを4、3、3勝した超一流馬であり、彼らが勝ったGlレースを並べてみると、1988年菊花賞、有馬記念、89年天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、マイルCS、有馬記念、90年天皇賞・春、安田記念、有馬記念・・・である。これを見れば、この3頭がいかにこの時期の中央競馬の主要レースを総なめにしていたかは一目瞭然である。
しかも、この時代のおそろしいところは、三強以外の顔ぶれも決して貧しかったわけではないことである。89年春は、オグリキャップとスーパークリークが故障でレースに出走できなかったことから、「平成三強」が明確に意識されたのは同年秋に入ってからだが、後から見れば、この時代は、88年有馬記念でオグリキャップがスーパークリークを含めた出走馬たちを抑えて日本競馬の頂点に立った時に幕が上がっていたといっていい。その有馬記念でオグリキャップの前に立ちふさがったのは、1歳年上の世代で、同年に史上初めて天皇賞春秋連覇を果たした「白い稲妻」タマモクロスであり、またオグリキャップと同世代で、爆発的な末脚を武器として、既にGlを2勝していたサッカーボーイだった。また、三強時代の最中に彼らと競い、そして敗れていった馬には、皐月賞と天皇賞・秋のGl2つを制したヤエノムテキ、「無冠の貴公子」メジロアルダン、短距離Gl2勝に加えて中距離にも果敢に挑んだバンブーメモリー、ランニングフリーなどの名前があがる。さらに、三強時代の終わりに世代交代を狙って世代交代の闘いを挑んだ1歳下の世代の馬にも、メジロライアン、ホワイトストーン・・・といったそうそうたる面々が名を連ねている。
そんな極めて充実したメンバーの中で、「平成三強」は、傑出した実力と結果を示し続けた。オグリキャップとスーパークリークが初めて対戦し、「平成三強」同士が初めて直接ぶつかった88年有馬記念からあるレースまでの約1年半にわたり、「平成三強」のうち2頭以上が出走したレースでは、外国招待馬ホーリックスが優勝した89年ジャパンC(Gl)以外のすべてのレースで、三強のいずれかが勝ち続けた。また、彼らの中で1頭だけが出走したレースでも、「平成三強」以外の馬に優勝を許したのは、成績にムラがあったイナリワンだけだった。何ともすさまじい時代であり、このような時代が、果たして今後再び来ることはあるのか、疑問ですらある。
だが、どんなに素晴らしい時代にも、終わりは必ず来る。長きにわたって続いた「平成三強」の時代は、1990年の宝塚記念をもって大きな転機を迎えた。このレースには、オグリキャップとイナリワンという三強のうち2頭が出走しながら、他の日本馬が勝ってしまったのである。
このレースをもって、「平成三強時代」は終わりを告げたといってよい。イナリワンはこの日が現役最後のレースとなり、二度とターフに戻ってくることはなかった。また、このレースを直前になって回避したスーパークリークは、秋に1戦した後、脚部不安によって引退した。そしてオグリキャップは、秋に戦線に復帰したものの、その後はかつての煌きを失ったかのように天皇賞・秋、ジャパンCと惨敗を繰り返した。これらの敗戦は、最後のレースとなる有馬記念によって伝説の一部として塗り替えられたとはいえ、「平成三強」の筆頭格だったオグリキャップには考えられないほど惨めな光景だった。
その意味で、1990年の宝塚記念でオグリキャップを抑えて優勝した馬・・・オサイチジョージの存在は、もっと強く意識されてしかるべきである。宝塚記念でオグリキャップとイナリワンを破った彼は、その勝利によって、単にひとつのGlを勝ったにとどまらず、平成三強時代に幕を引いた存在なのだから。
オサイチジョージは、1986年4月13日、北海道三石郡三石町の大塚牧場で産声を上げた。
オサイチジョージの母であるサチノワカバは、道営競馬で3勝を挙げている。サチノワカバの牝系は、大塚牧場が何代にもわたって育んできた牝系で、叔父に阪神3歳Sを勝ったカツラギハイデン、大伯父に菊花賞など重賞6勝を含む13勝を挙げて種牡馬になったアカネテンリュウがいる。
オサイチジョージの父であるミルジョージは、当時のサイヤーランキング上位の常連であり、また平成三強の一角・イナリワンの父でもある。オサイチジョージとイナリワンは、牝系のみを兄弟の基準とする馬の世界でこそ「兄弟」とは呼ばれないものの、人間ならば「腹違いの兄弟」にあたる。
ミルジョージの競走馬としての成績は、4戦2勝にすぎない。故障があったとはいえ、お世辞にも一流と呼ぶことはできない。だが、彼の父は英国ダービー、キングジョージ6世&QエリザベスDS、凱旋門賞という、いわゆる「欧州三冠」を史上初めて旧4歳で全て制した「英国の至宝」Mill Reefの産駒だった。そのため彼の血統に期待をかけた日本に輸入され、種牡馬として供用されていたのである。
すると、日本競馬に合っていたのか、ミルジョージは種牡馬として大成功した。彼の代表産駒としては、イナリワン、オサイチジョージのほかにも、90年のオークス馬エイシンサニー、91年のエリザベス女王杯馬リンデンリリー、帝王賞と東京王冠賞を勝って絶対皇帝シンボリルドルフにも食い下がった南関東の雄ロッキータイガー、牝馬ながら南関東三冠、東京大賞典を総なめにしたロジータ、長距離重賞を2勝し、天皇賞・春でも2着に入ったミスターシクレノンなどの名前が挙がる。ミルジョージ産駒の特徴は、芝でも実績は十分だが、ダート戦で実力を発揮する仔が非常に多かったことであり、ミルジョージの産駒からは、地方競馬の雄も多数輩出されている。
オサイチジョージは、ミルジョージが旧12歳の時に生まれた世代にあたる。5歳時から日本で種牡馬生活に入ったミルジョージにとっては、一流種牡馬としての評価が固まりつつある時期であり、後から見れば、ミルジョージの代表産駒とされる馬たちの多くは、この前後に生まれている。当時のミルジョージは、種牡馬として最も脂が乗った時期を迎えており、種付け料も高かった。
もっとも、ミルジョージとサチノワカバとの間に生まれたオサイチジョージは、生産者である大塚牧場の目には、あまりできのよくない産駒と見えていたようである。当歳の時に庭先取引で売れたとされているオサイチジョージだが、実際にはこの時馬主が目を付けたのは同い年の別の牝馬であり、その際に大塚牧場が、
「ついでにもう1頭買っていってほしい」
と言って見せた3頭の中から、馬主がオサイチジョージを選んだということである。意地の悪い言い方をすれば、オサイチジョージは「抱合せ販売のおまけ」に過ぎなかったことになる。実際には、「おまけ」が宝塚記念をはじめ重賞を5勝したのに対し、本来の目的であった牝馬は未出走のまま繁殖入りしたというから、サラブレッドとは本当に難しい。
旧3歳になったオサイチジョージは、土門一美調教師に入厩し、競走馬生活に入った。土門師は、オサイチジョージの主戦騎手として、自分の弟子である丸山勝秀騎手を起用することにした。
丸山騎手とのコンビで3歳時を3戦1勝2着2回で終えたオサイチジョージだったが、脚部不安を生じたため、春のクラシックは断念することになった。4歳緒戦となったあずさ賞(400万下)、葵S(OP)を連勝したオサイチジョージの重賞初挑戦は、血統的には中距離馬と思われていたにもかかわらず、裏街道と呼ばれるニュージーランドトロフィー4歳S(Gll)だった。
このレースで1番人気に推されたオサイチジョージだったが、直線で2度も前が壁になる不利を受けてしまい、3着に終わった。このレースの後、丸山騎手は、
「私の騎乗ミスです。馬には責任はありません」
と関係者に頭を下げて回ったという。
丸山騎手は、デビューした年こそ21勝を挙げて注目されたものの、その後は伸び悩んでおり、オサイチジョージに出会うまでの6年間で通算91勝、重賞勝ちはなしという状態だった。目立った数字を残しているとはいえず、むしろ伸び悩んでいた当時の丸山騎手にとって、人気馬で重賞の騎乗機会を得ることは、大きなチャンスだった。しかし、そんなレースで結果を残せなかっただけでなく、その原因が騎乗ミスともなれば、チャンスはむしろピンチとなりかねない。オサイチジョージについても乗り替わりを命じられるおそれがあったが、丸山騎手は潔く謝った。
土門師らは、そんな丸山の潔さと心意気を買い、次走もコンビを継続した。すると、丸山騎手はその温情に応え、当時1800mで行われていた中日スポーツ賞4歳S(Glll)を勝った。これは、オサイチジョージにとってはもちろん、丸山騎手にとっても初めての重賞だった。
一方、オサイチジョージが駒を進めることができなかった1989年春のクラシック戦線は、空前の大混戦となっていた。皐月賞(Gl)は道営出身のドクタースパート、日本ダービー(Gl)はそれまでダートでしか勝ち鞍のなかったウィナーズサークルが制した。牝馬戦線でも同様に、桜花賞(Gl)こそ1番人気のシャダイカグラが勝ったものの、オークス(Gl)を制したのは10番人気のライトカラーだった。
混戦となった春のクラシックの裏側で、オサイチジョージの戦績は、7戦4勝2着2回3着1回となった。オサイチジョージが春のクラシックに出走していたらどうなっていたかは、無意味な仮定であるが、無意味と知りつつそのような仮定を考えてみたくなるほど、この世代は本命なき混戦だった。この時期の安定したレースからいえば、オサイチジョージが勝ち負けできる可能性も、決して小さくはなかったといえるだろう。
皐月賞馬ドクタースパート、ダービー馬ウィナーズサークルともいまひとつ信頼感に欠ける中で、オサイチジョージはいまだ底を見せていない上がり馬と評価され、秋に向けての巻き返しが期待できる有力馬の1頭とされていた。
もっとも、秋・・・菊花賞を目指す新興勢力は、オサイチジョージだけではなかった。栗東にはもう1頭、急速に頭角を現しつつある馬がいたのである。その馬の名は、バンブービギンといった。
バンブービギンは、ダービー馬バンブーアトラスを父に持つ内国産馬で、素質は早くから期待されていたものの、脚部不安を抱えていたこともあって出世が遅れ、未勝利を脱出したのは4歳5月になってからだった。だが、鞍上に南井克巳騎手を迎えて、デビューから7戦目の初勝利を挙げると、晩成の成長力を爆発させてあっという間に3連勝し、注目を集めるようになっていた。
夏を挟んだオサイチジョージは、神戸新聞杯(Gll)から始動したが、そこには3連勝中のバンブービギンの姿もあった。オサイチジョージは、そのバンブービギンに3馬身半の差を付けて快勝し、まずは秋の緒戦を飾った。続く京都新聞杯(Gll)にも返す刀で出走したオサイチジョージは、ダービー馬ウィナーズサークルとの一騎打ちと予想されていた。
しかし、京都新聞杯でのオサイチジョージは、前走で決定的な差をつけて破ったはずのバンブービギンに1馬身1/4差をつけられ、雪辱を許す形となった。単純に計算すれば、オサイチジョージは神戸新聞杯からたった1ヶ月で、バンブービギンに約5馬身、先を越されたことになる。
バンブービギンの父バンブーアトラスは、今とは違って東高西低だった時代に、関西の星としてダービーに挑み、見事に優勝している。だが、秋に菊花賞を目指したバンブーアトラスは、前哨戦の神戸新聞杯で激しく追い込み、阪神の短い直線だけで3着に突っ込んだ。だが、その激走で故障を発生した彼は、菊花の舞台を踏むことなく、そのままターフを去った。・・・それから7年、バンブービギンの出現はまさに「父の無念を晴らす息子」という大衆受けしやすいドラマとして語られるようになった。京都新聞杯でオサイチジョージ、ダービー1、2着馬であるウィナーズサークルとリアルバースデー、弥生賞大差勝ち以来のレインボーアンバーをまとめて差し切った勝ちっぷりは、ファンに夢を見させるに充分なものだった。
続く菊花賞(Gl)では、オサイチジョージとバンブービギンに対するファンの支持は逆転し、春のクラシックでは影も形もなかったバンブービギンが1番人気に支持された。
2番人気に支持されたのは、京都新聞杯(Gll)4着からの巻き返しを図るダービー馬ウィナーズサークルだった。天皇賞馬2頭を出した父シーホークのスタミナは、淀3000mでこそ生きると思われた。神戸新聞杯(Gll)を圧勝した時点では死角なしと思われていたオサイチジョージは、3番人気に留まった。
菊花賞は、クラシック最後の一冠であり、京都3000mコースを利用して行われるため、淀の「だらだら坂」を二度越えることが要求される過酷なレースである。皐月賞とダービーに出走することさえできなかったオサイチジョージにとって、菊花賞は文字どおり、生涯一度のクラシックへの挑戦だった。
しかし、この日のオサイチジョージの鞍上にいたのは、デビュー戦以来のパートナーの丸山騎手ではなく、彼の兄弟子に当たる西浦勝一騎手だった。丸山騎手は、こともあろうに菊花賞を目前にして騎乗停止処分を受けてしまい、オサイチジョージの一生に一度の晴れ舞台に、パートナーとして上がることができなくなってしまったのである。
レースが始まると、バンブービギンは1番人気の意気に感じたか、好スタートを切ってからすぐに6、7番手に抑え、オサイチジョージ、ウィナーズサークルがそれを見るような形で道中を進んだ。・・・本来オサイチジョージに流れるミルジョージの血は、スタミナに富むものであり、淀の長距離にも充分対応できるはずだった。
そんな血の力を封じたのは、ほかならぬオサイチジョージ自身の気性だった。ゆったりとした流れに耐えきれなくなったオサイチジョージは、かかり気味となってスタミナを消耗していったのである。西浦騎手にはそれを抑えることはできず、バンブービギンが二度目の坂で徐々に進出を開始した頃、それについていくことさえできなくなったオサイチジョージは、ずるずると後退していった。
直線に入ってからは、バンブービギンが一気に先頭に立ち、そのまま快勝した。2着には弥生賞を大差勝ちしながら故障で皐月賞とダービーを使えなかったレインボーアンバー、3着にはダービー2着馬リアルバースデーが入った。日本ダービー馬のウィナーズサークルは10着に敗れ、後にレース中の骨折が明らかになった。
オサイチジョージは、骨折したウィナーズサークルにさえ先を越される12着という無残な結果に終わってしまった。長距離への適性の限界か、はたまた馬と人との呼吸が原因なのか。原因は不明のまま、オサイチジョージの生涯一度のクラシックは寂しく幕を閉じた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1984年11月25日―この日付は、日本競馬の歴史に残る1日として、その記録に深く刻まれている。海外から招待された強豪たちを東京芝2400mコースに迎え、日本を代表する強豪たちがこれに立ち向かうという趣旨のもとに始まったジャパンC(Gl)で、第4回にしてはじめて日本馬が外国招待馬を破って優勝したのである。
ジャパンカップは「日本競馬を世界に通用するレベルに!」という目標のもと、まずは世界の一流馬を日本へ招待し、国内の一流馬に世界の一流馬と戦う機会を設けようということで始まった。創設当初は
「2400mでは、万に一つも日本馬に勝ち目はない」
ということで、ジャパンCは2000m戦とすべきであるという意見もかなり強く主張されたが、最終的には2400m、それも日本ダービーとまったく同じ東京2400mコースで開催されることに決まった。その背景には、「クラシックディスタンス」といわれ、世界的にも最も価値ある距離であるとされる2400mで世界に通用する馬を作りたいという、日本競馬共通の強い願いがあった。
このような雄図のもとに創設されたジャパンカップだったが、初期の結果は、無残なものだった。記念すべき第1回ジャパンカップは、レース自体の認知度の低さに加えて開催者の不手際もあり、欧州からの参加はなかった。そのため中心となったのは米国やカナダからの招待馬だったが、こちらも日本側が期待したような一流馬はまったく参加せず、日本でいう準オープンクラス程度の二流馬がほとんどだった。それに対して迎え撃つ日本馬はホウヨウボーイ、モンテプリンスら当時を代表する名馬が顔をそろえ、日本競馬関係者が
「いくらなんでも、これなら勝てるだろう」
と思ったのも無理はなかった。
ところが、レースが終わってみると、米国では二流の牝馬に過ぎなかったメアジードーツの完勝に終わった。当時のベストメンバーをそろえたはずの日本馬たちはくつわを並べて討ち死にし、最先着はゴールドスペンサーの5着という悪夢のような結果になったのである。ある意味で「世界のレベルを知る」という開催者の目的は見事に果たされたわけだが、それにしてもこの結果はひどすぎた。日本競馬の関係者たちは、第1回ジャパンカップを機に誰もが「世界」の遠さを思い知らされることになったのである。
その後もジャパンカップは回を重ねたが、やはり日本馬はなかなか勝てなかった。第2回はヒカリデユール、アンバーシャダイといったこれまた当時のエース格たちが、やはり外国馬に苦もなくひねられた。第3回では、天皇賞馬キョウエイプロミスがレース中に故障を発症しながら激走し、競走生命と引き換えに日本馬初の連対を果たしたものの、それでも優勝には手が届かなかった。いつしか
「日本馬でジャパンカップを勝とう!」
「府中に日の丸を掲げよう!」
という目標が日本競馬の合言葉、悲願となり、ホースマンたちはジャパンカップに出走できるような馬を作り、育てようと精魂を傾けた。
しかし、4回目の挑戦にしてついにその悲願が達成されたとき、東京競馬場を支配したのは、場内を包む興奮でもなければ割れるような大歓声でもなかった。日本馬が外国馬を従えて先頭でゴールする・・・日本競馬が夢見た悲願が現実となったとき、府中は一瞬の静寂、沈黙に包まれたという。
日本馬として初めてジャパンカップに優勝し、府中に日の丸を掲げることで歴史に名を残したのは、黒光りするような黒鹿毛の馬体を持ち、それまでにも宝塚記念など多くの中距離重賞を勝ってきたカツラギエースだった。カツラギエースの戦績はこの日の勝利で10勝目、重賞制覇は7つめであり、本来ならば優勝してもなんら不思議はない一流の実績馬だった。それなのに、彼の勝利がこのような驚きで迎えられたのは、果たしてなぜだったのだろうか。
カツラギエースは、1980年4月24日、三石の片山専太郎牧場で生まれた。母タニノベンチャは、「タニノ」の冠名から察せられるとおり、もともとはカントリー牧場で生まれた牝馬だったが、その後片山牧場へと移動することになり、5番子のカツラギエースは、タニノベンチャが片山牧場で最初に生んだ産駒にあたる。
タニノベンチャの血統表だけを見ると、当時の人気種牡馬だったヴェンチアの娘であり、さらに京都4歳特別優勝、皐月賞4着などの実績を持つタニノモズボローをはじめ、4頭の兄姉がすべて中央で勝ち上がっている。タニノベンチャ自身の競走成績も、3戦1勝というのは優れたものではないが、日本で生まれたサラブレッドのうち中央でデビューできるのは一部であることを考えれば、悲観するほどのものではない。問題は、繁殖入りした後の彼女の産駒成績だった。
そこそこの期待とともに繁殖入りしたタニノベンチャだったが、彼女のカントリー牧場での産駒成績は、散々なものだった。カツラギエースの4頭の兄姉のうち、競馬場でデビューできたのは2頭だけ。しかも、勝ちあがったのはそのうち1頭というのでは、血統的な妙味以前の問題とならざるを得なかった。
その後、タニノベンチャはボイズィーボーイと交配された。ボイズィーボーイは、英仏で通算28戦9勝という戦績を残した。もっとも、主な勝ち鞍はストッカーロスS、ジョック・スコットSといったあたりで、日本人でも知っている大レースでの実績としては、夏の欧州マイル王決定戦のひとつであるムーラン・ド・ロンシャン賞でハビタットの2着になったことがあるくらいである。ボイズィーボーイの客観的な評価は、2000m以下の距離でそこそこ走る二流馬・・・というのが正確なところだった。種牡馬としても、最初に供用されたオーストラリアでヴィクトリア・ダービー馬ガレナボーイを出したのが関の山で、日本に輸入が決まった際にも話題に上ることさえほとんどなかった。輸入後2年で死亡してしまったボイズィーボーイは、結局カツラギエース以外には、これといった実績馬を日本に残すことはできなかった。
タニノベンチャが片山牧場へやってきたのは、彼女に見切りをつけたカントリー牧場が彼女をセリに出したところ、たまたまタニノベンチャに目をとめた片山氏が競り落としたからだった。彼女の購入価格である350万円という価格は、当時の繁殖牝馬の相場としても安いものであり、片山牧場も彼女に過大な期待をかけてはいなかった。まして、その彼女がセリの時にたまたま受胎していた無名種牡馬の仔に、期待される要素など何もなかった。
生まれた直後のカツラギエースは、「二流血統」以外の何者でもなかった。当然のことながら、生まれたばかりの彼にわざわざ注目しようというホースマンはおらず、生まれてしばらくの間、彼は競馬界ではまったくありふれた凡馬の1頭に過ぎなかった。
その後、馬体の成長によって少しは見所がある、と思われたのか、2歳馬の中でもある程度選抜された馬しか上場を許されない6月特別市場への上場を許されたカツラギエースではあったものの、肝心のセリの参加者たちに素質を見抜いてもらえず、売れ残って主取りになってしまった。
8月になって、今度は日高の定期せり市に出されたカツラギエースだったが、今度も最初のお台とされた600万円では声がかからず、500万円に落としたところでようやく声がかかり、数人の競合の結果、710万円で落札された。当時の競走馬の相場を考えると、安くはないが高くもないといったところの値段である。
この時彼を落札したのは、後にカツラギエースの馬主となる野出一三氏から馬選びを任された馬商だった。この時馬商に野出氏から出されていた注文は、
「1年に1勝はしてくれ、5歳いっぱいまで走れる馬。予算は1000万円まで。」
というものだった。カツラギエースは、そんな要望を満たす馬として選ばれた。この時点の彼は、それ以上のものではまったくなかったのである。
カツラギエースは、やがて栗東の土門一美厩舎に入厩することになった。しかし、土門師もカツラギエースが期待馬だったから引き受けたというわけではなく、馬主周辺の人間関係から預かったというのが正直なところらしい。土門師にとって、入厩したてのカツラギエースは、「どこがいいのか分からない」という程度の馬だった。
入厩したころのカツラギエースは、腰が甘くてろくに調教すらできない状態だった。何とか調教できるようになってからも、あまり強く追えないため、なかなか身体が絞れない。しかも、併せ馬をさせてみると、どんな馬と併せても、必ず遅れてしまう。併せ馬の相手にしてみれば、これでは併せ馬にする意味がない。土門師や、調教の様子を見に来た野出氏たちは、
「やっぱりセリで買った馬はダメやなア」
「クズ馬つかまされてしもうた」
などと、好き勝手なことをいって嘆いていた。9月の新馬戦に下ろされることになったのも、
「これ以上待ってもよくなる見込みはないから、さしあたってレースに使ってみて様子を見てみよう」
という、この上なく投げやりな理由からだった。
厩舎関係者ですらこんな状態だから、一般のファンからの支持などあろうはずもない。カツラギエースのデビューは阪神芝1200mの新馬戦だったものの、単勝人気は14頭だての6番人気に過ぎなかった。
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