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サラブレッド – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Thu, 30 Jan 2025 00:25:01 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 シリウスシンボリ列伝 ~漂泊の天狼星~ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/ https://retsuden.com/horse_information/2023/15/306/#respond Sat, 15 Apr 2023 14:03:23 +0000 https://retsuden.com/?p=306 『悲しき天狼星』

 冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。

 かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。

 シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。

 さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。

 ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。

 確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。

『不世出のホースマン』

 シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。

 シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。

 和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。

 しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。

 当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、

「和田に会いたい」

とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。

 和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。

 シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。

『シンボリの血』

 シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。

 モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。

 和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。

 もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。

 このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。

 しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。

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ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~ https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/ https://retsuden.com/horse_information/2023/23/109/#respond Thu, 23 Feb 2023 13:52:05 +0000 https://retsuden.com/?p=109  2000年5月21日生。2021年3月8日死亡。牡。鹿毛。社台ファーム(千歳)産。
 父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス(母父Kris)。瀬戸口勉厩舎(栗東)
 通算成績は、13戦7勝(新2-4歳時)。主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、皐月賞(Gl)、
 スプリングS(Gll)、産経大阪杯(Gll)、きさらぎ賞(Glll)。

『王道』

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞。3歳馬たちが約半年にわたって世代の頂点を賭けて争う「クラシック三冠」の戦いを、人は「王道(クラシック・ロード)」と呼ぶ。これまで無数のサラブレッドたちが繰り広げてきた三冠をめぐる戦いは、日本競馬の華・・・というよりも、日本競馬の歴史そのものである。過酷な戦いの中から現れた三冠馬であるセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルの存在は伝説としてファンに語り継がれ、三冠馬になれなかった名馬たちの物語も、ファンの魂に刻みつけられてきた。

 時空を超えて輝く王道の美しさは、2000年春、「大世紀末」とも呼ばれた20世紀最後の年に生まれた約8000頭のサラブレッドたちにとっても、なんら異なるところはない。彼らもまた先人たちが歩み、築いてきた王道を受け継いで新たな物語を刻み、そして歴史の一部となっていった。

 彼らが刻んだ物語・・・2003年クラシックロードの最大の特徴は、21世紀に入って初めて「三冠馬」への挑戦がクローズアップされたことにある。21世紀に入った後、2001年と2002年のクラシックロードは、いずれも春の二冠の時点で勝ち馬が異なっており、ダービーが終わった時点で「三冠馬」誕生の可能性は断たれていた。だが、2003年は皐月賞、日本ダービーをいずれも同じ馬が制したことによって、競馬界は騒然となった。

「ナリタブライアン以来の三冠馬が出現するのか」

 同年の牝馬三冠戦線では、やはりスティルインラブが桜花賞、オークスを制して86年のメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠に王手をかけた。20世紀最後の年に生まれた彼らの世代の王道は、「三冠」の重みを我々に何よりもはっきりと思い知らせるものだった。

 大きな期待を背負って三冠に挑んだその馬の挑戦は、残念ながら実らなかった。だが、新世紀を迎えた競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させた彼の功績は大きい。そして、三冠の歴史が勝者のみの歴史ではなく、夢届かず敗れた者たちの歴史でもある以上、彼の物語もまた日本競馬の青史に深く刻まれ、王道の物語は今日も脈々と流れ続けている。今回のサラブレッド列伝は、2003年クラシックロードで三冠という夢に挑み、そして破れた二冠馬ネオユニヴァースの物語である。

『兄の幻影』

 2003年のクラシック二冠馬・ネオユニヴァースは、2000年5月21日、千歳の社台ファームで生まれた。彼が生まれた日は、日本競馬の聖地・東京競馬場で20世紀最後のオークスが開催された日である。

 すべてのサラブレッドが背負う背景が血統ならば、ネオユニヴァースが背負う背景は、「父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス」というものだった。サンデーサイレンスは1989年の米国年度代表馬であり、種牡馬としては日本競馬の勢力図を一代で塗り替えた名馬の中の名馬だが、ポインテッドパスは、競走馬としてフランスでデビューしたものの2戦未勝利に終わった無名の存在にすぎない。また、彼女の繁殖牝馬としての成績を見ても、フランスにいた92年に産み落としたFairy Pathがカルヴァドス賞(仏Glll)を勝ったのが目立つ程度で、とても「名牝」として注目を集めるような実績ではない。

 そんなポインテッドパスが日本にやって来ることになったのは、彼女が上場された94年のキーンランドのセリ市で、社台ファームが彼女を競り落としたためである。とはいっても、彼女に対する評価を反映して、その時の社台ファームによる落札価格も30万ドルにすぎなかった。

 しかし、社台ファームにやってきてからのポインテッドパスは、95年春に持込馬となるスターパス(父Personal hope)を生んだ後、6年連続でサンデーサイレンスと交配され、不受胎の1年を除いて5頭の子を生んでいる。日本競馬界の歴史を塗り替え続けたリーディングサイヤーとこれだけ連続して交配された繁殖牝馬は、いくらサンデーサイレンスを繋養していた社台スタリオンステーションと同一グループに属する社台ファームの繁殖牝馬であるといっても、その数は極めて限られている。

 ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配にこだわった理由について、社台ファームの関係者は、

「チョウカイリョウガの物凄い馬体が忘れられなかった・・・」

と振り返っている。チョウカイリョウガは、ポインテッドパスがサンデーサイレンスと最初に交配されて、96年春に産み落とした産駒である。生まれた直後のチョウカイリョウガの馬体の美しさは群を抜いており、社台ファームの人々は、

「今年の一番馬は、この馬だ」

と噂しあった。

 だが、競走馬としてのチョウカイリョウガは、通算36戦4勝、主な実績は京成杯(Glll)2着、プリンシパルS(OP)2着という期待はずれの結果に終わっている。テイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガらと同世代にあたる彼は、日本競馬の歴史の片隅に、あるかないか分からない程度に小さくその名をとどめたにすぎない。

「こんなはずではなかった・・・」

 生まれた直後のチョウカイリョウガの中にサラブレッドの理想像を見ていた社台ファームの人々は、無念だった。一度手にしたかに思えた「理想像」の結果は、理想とはほど遠いものに終わった。どこかで生じてしまったほんのわずかな狂いが、「理想像」に近いサラブレッドの歯車を大きく狂わせてしまったのである。

 しかし、実らなかった結果は、彼らがチョウカイリョウガの中に見たものまで間違っていたことをも意味するわけではない。彼の大成を阻んだものは、生まれた後の彼に生じたわずかな狂い。ならば、今度こそはその「わずかな狂い」のない馬を作りたい。

「チョウカイリョウガより美しく、そしてチョウカイリョウガより強いサラブレッドを作る!」

 それは、彼らにとって「理想のサラブレッド」をつくるという誓い以外の何者でもなかった。そして、チョウカイリョウガと同じ出発点に立つために最も可能性が高い方法が、ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配だったのである。

『夢の跡から』

 こうしてポインテッドパスとサンデーサイレンスとの交配という試行錯誤は続けられたが、結果はついてこなかった。99年春に生まれた時に

「チョウカイリョウガ以上かもしれない・・・」

と期待されたのはアグネスプラネットだったが、彼も通算成績27戦3勝と、やはり大成は果たせなかった。

 最初から高い評価を受けていたチョウカイリョウガやアグネスプラネットと異なり、生まれた直後におけるネオユニヴァースの評価は平凡なものだった。見るからに筋肉が発達し、力強さを簡単に読み取ることができた兄たちと比べて、ネオユニヴァースの馬体は普通の域を出ず、腰も甘かった。

「兄たち以上の成績をあげられるか、というと疑問だった」

 それが、ネオユニヴァースに対する社台ファームの人々の偽らざる評価である。当時から毎年二百数十頭の産駒が産声をあげていた社台ファームの生産馬たちの中で、彼は特別の期待馬として認識されていたわけでもない。社台ファームの「期待馬」として真っ先に名前を挙げられるのは、同じサンデーサイレンス産駒ではあってもダンスパートナーやダンスインザダークを兄姉に持つダンシングオンであり、「ダンシングオンに負けない力強さを持つ」ブラックカフェらであって、ネオユニヴァースではなかった。

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1991年牝馬三冠勝ち馬列伝~彼女たちの祭典~ https://retsuden.com/horse_information/2021/12/56/ https://retsuden.com/horse_information/2021/12/56/#respond Fri, 12 Nov 2021 11:50:29 +0000 https://retsuden.com/?p=56  ~シスタートウショウ~
 1988年5月25日生。牝。栗毛。藤正牧場(静内)産。
 父トウショウボーイ、母コーニストウショウ(母父ダンディルート)。鶴留明雄厩舎(栗東)。
 通算成績は、12戦4勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、チューリップ賞(OP)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『牡牝の差』

 「牝馬は、牡馬よりも弱い」―これは、競馬界では近年まで一種の常識とされてきた。確かに、ごく最近だけをみれば、JRAのGl最多勝記録をついに更新したアーモンドアイだけでなく、グランアレグリア、クロノジェネシスらの歴史的名牝が中距離戦線を席捲しているが、日本競馬の歴史を振り返って牡牝混合Glの勝ち馬を並べてみると、牡馬の勝ち鞍がまだ圧倒的に多い。牝馬ながらに天皇賞・秋(Gl)を制し、ジャパンC(国際Gl)2着、有馬記念(Gl)3着の実績を残して1998年度代表馬に選出されたエアグルーヴは、近年の名牝たちと比較するとかなり控えめの戦績に見えてくるが、それでも彼女は「稀代の名牝」「女帝」などとして称えられた。これは、彼女がそれらの実績によって「牡馬よりも弱い牝馬」という大多数の原則から外れた例外として、十分な歴史的価値を認められたからにほかならない。

 では、「牝馬は牡馬よりも弱い」とされていた時代の牡牝の実際の能力差は、果たしてどの程度あったのだろうか。牝馬クラシック戦線のGlを勝った馬たちであっても、レースのほとんどが牡牝混合戦になる古馬戦線では、クラシック戦線と同程度、あるいはそれ以上に活躍することは、極めて稀だった。そのことをもって「牝馬は牡馬よりも弱い」とされていたことの根拠として挙げることは、可能かもしれない。

 しかし、このような考え方はできないだろうか。確かに、長らくの間、牝馬が牡馬に比べて、ある種の能力が劣っていたことは、事実として認めざるを得ないだろう。だが、競走能力のピーク時に激突した場合、牡馬の一線級と好勝負できた牝馬は、いつの時代にも少なからず存在したことも、また確かである。そうであるにもかかわらず、牝馬のGl馬たちの中に、古馬戦線で息長く活躍した者が少なかったのは、彼女たちが己の持つ能力のすべてを競走生活のごく限られた時期に燃やし尽くすからではなかっただろうか。もしそうであるとすれば、牝馬が牡馬よりも弱いということは、必ずしも当てはまらないことになる。

 1988年の春に生を享け、1991年の牝馬三冠戦線を戦った牝馬たちも、それぞれの大舞台に己の持てる能力のすべてを燃やし尽くした牝馬たちである。非常に高いレベルと言われた世代の三冠戦線の中で、彼女たちはGlという栄冠を目指し、激しくしのぎを削った。そして、その完全燃焼の度合いをあらわすかのように、栄冠を得た牝馬たちは、それぞれのGl勝ちの後は二度と勝利を得ることなく、また同世代の牝馬たちを含めて、彼女たちの世代が古馬Glを勝つことはなかった。

 今回のサラブレッド列伝は、1991年牝馬三冠戦線にスポットを当て、その勝ち馬である3頭、桜花賞を制したシスタートウショウ、オークスを制したイソノルーブル、そしてエリザベス女王杯を制したリンデンリリーについてとりあげてみたい。

その1 =シスタートウショウの章=

『桜花賞の異変』

 1991年4月7日、第51回桜花賞の発走予定時刻を迎えた京都競馬場のスタンドは、異様な空気に包まれていた。

 例年ならば阪神競馬場で開催されるのが通例となっている桜花賞だが、この年は阪神競馬場が改修工事中だったため、阪神でなく京都で開催される変則開催となっていた。例年と違う舞台なら、例年と違う雰囲気になるのは当然かもしれない。しかし、この時の空気の異様さは、場所の違いだけにはとどまらなかった。そのころスタート地点付近では、桜花賞戦線の中心になると思われていたある馬に、重大な異変が発生していたのである。

 この年の桜の女王争覇戦で、台風の目となることが予想されていたのは、それまで5戦5勝、ステップレースの4歳牝馬特別(年齢表記は当時の数え年)を含めて重賞2つを勝ち、出走馬の中でも実績ナンバーワンを誇るイソノルーブルだった。

 前年の牡牝混合の3歳重賞10レースでは牝馬が6勝をあげ、年が明けて4歳になってからも、シンザン記念、ペガサスS(現アーリントンC)を牝馬が制したというこれまでの重賞戦線の結果を受けて、この年の牝馬三冠戦線は、例年よりも相当高い水準での争いになるだろう、というのがもっぱらの評判となっていた。イソノルーブル以外にも、デイリー杯3歳S(年齢表記は当時の数え年)とペガサスSを勝ったノーザンドライバー、まだ重賞勝ちこそないもののチューリップ賞(当時はOP特別)を勝って戦績を3戦3勝とし、無敗のまま桜花賞へと進んだシスタートウショウ、クイーンCと札幌3歳S(年齢表記は当時の数え年)を勝ち、前走チューリップ賞でも2着に入ったスカーレットブーケといった面々が有力馬とされていた。

 しかし、こうした有力馬たちも、無敗のまま牝馬クラシックロードの王道を驀進するイソノルーブルの前では一歩譲らざるを得なかった。他の3頭のオッズが400円から500円台に集中して人気が拮抗していた中で、イソノルーブルだけは単勝280円の支持を集めていた。

 イソノルーブルは、血統的には、他の有力馬に比べて目立たないどころか、むしろ一枚も二枚も落ちる存在にすぎなかった。彼女は一般に安い馬の代名詞とされ、「走らない」と言われる抽選馬でもあった。そんな彼女が、並み居る良血馬たちを抑えて桜花賞戦線の中心にいる。春のGl戦線の始まりを告げる桜花賞を前にして、ファンの関心は

「イソノルーブルがシンデレラ・ストーリーを完成させることができるのか」

に注がれていた。

 ところが、その桜花賞発走直前になって突然発生したアクシデントは、人々を大きな混乱へと引き込み、発走時刻を過ぎてもレースが発走できない事態を招いてしまった。しかも、そのアクシデントの主人公がレースの主人公となるはずだったイソノルーブルだったとなると、人々の戸惑いと混迷はますます深いものとならざるを得なかった。

『始まりは喜劇のように』

 大アクシデントは、むしろコミカルな光景から始まった。発走を目前に控えて各馬が輪乗りをしている途中、イソノルーブルに騎乗していた松永幹夫騎手は、どの馬のものかが分からない蹄鉄がスタート地点付近に落ちていることに気付いた。そこで彼が

「誰か、蹄鉄落ちてますよー」

と声をかけたところ、返ってきたのは

「お前のだよー」

という返事だった。あわてて確かめてみると、確かにイソノルーブルの右前脚の蹄鉄がなかった。

 とはいえ、普通単なる落鉄だけで、ここまでの大混乱になることはない。レース前に出走馬が落鉄した場合、発走時刻を数分遅らせて蹄鉄を打ち直し、その後に発走となるのが普通である。JRAは、この時もいつもと同じように、イソノルーブルの蹄鉄を打ち直す時間をとるために発走を遅らせることにし、場内にもその旨がアナウンスされた。しかし、本当のトラブルが起こったのはその後だった。

 イソノルーブルは、Gl開幕を待ちかねたスタンドの大歓声に興奮してしまい、蹄鉄を打ち直すためにやってきた蹄鉄師を暴れて寄せ付けず、蹄鉄の打ち直しができない状態に陥ったのである。打ち直しができないまま、ただ時間だけが無為に過ぎていった。場内の歓声はざわめき、そして困惑へと変わっていった。

 イソノルーブルの「抵抗」の前に、主催者はついに蹄鉄の打ち替えを断念し、桜花賞のスタートを決断した。イソノルーブルを含めた18頭がゲートへと誘導されてゲートが開いた時、時刻は発走予定より11分も遅れ、そして何より、1番人気イソノルーブルの右前脚には、蹄鉄がないままだった。

『魔の桜花賞ペース』

 波乱の幕開けとなった桜花賞だが、レース直前のアクシデントは、レース展開にも影響を与えずにはおかなかった。それまでのレースでは、いつもスムーズに先頭を奪って単騎逃げに持ち込んできたイソノルーブルだったが、この日はハナを奪うことができず、レースの主導権を握ることができなかったのである。

 例年、桜花賞では「魔の桜花賞ペース」と呼ばれるハイペースが形成される。ただ、このペースには阪神芝1600mコースの構造も影響しているといわれているところ、この年は京都競馬場での開催だった。また、イソノルーブルという絶対的な逃げ馬がいることもあり、事前の予想では「魔の桜花賞ペース」とは縁がないだろうとされていた。

 ところがふたを開けてみると、すんなりとハナを切るはずだったイソノルーブルがトーワディズニー、テイエムリズムといった他の逃げ馬を引き離すことができなかった結果、先頭集団は何頭かが団子状で競り合う展開となってしまった。テイエムリズムが脱落したと思ったら、今度は第3コーナーでノーザンドライバーが先行集団から進出してきて先頭争いに加わる始末である。その結果は、1000m通過が57秒6という例年以上の激しいハイペースとなった。

 こんなハイペースでは、逃げ馬が残ることは難しい。それどころか、好位置にいる馬でさえ残ることは容易ではないはずである。この日も先行馬が総崩れになっても不思議はない展開だった。

『突き抜ける』

 このようなレースでは、先行馬の騎手がハイペースに気づいた場合、極力手綱を抑えて馬の行き脚を抑え、仕掛けどころを少しでも遅らせるのが常道である。そうでなければ、最後の直線でばてて末脚をなくしてしまう。

 しかし、この日の戦場には、そんな常識を無視した男がいた。角田晃一騎手である。スタートから騎乗馬を好位につけさせた角田騎手は、道中ずっとその位置どりを維持しただけでなく、第4コーナーから積極的に仕掛けていった。外を突いて上がっていった彼は、一気にイソノルーブルら先頭集団へと襲いかかったのである。

 5連勝中のイソノルーブルだったが、さすがにこのハイペースの中では逃げ粘れなかった。さらに、右前脚の蹄鉄がなかったことも影響した。蹄鉄がないまま走るということは、人間でいうなら裸足で走るようなものである。二流血統から桜の女王へと成り上がるはずだった「シンデレラ」が、まさか靴を忘れて裸足で走るところまで「シンデレラ」になるとは、誰も予想していなかった。イソノルーブルの逃げ脚にいつものようなしぶとさはなく、また彼女に続いたノーザンドライバーらも、やはりハイペースに巻き込まれて脚をなくしていった。

 しかし、先行馬たちが潰れていく中で、角田騎手の騎乗馬だけは騎手のゴーサインに合わせて上がっていった。先行するイソノルーブルらをとらえて先頭に立つと、そのまま食い下がる後続を引き離していく。馬群から完全に抜け出したその馬は、たちまち独走態勢を築き、中団待機策から追い込んできた人気薄ヤマノカサブランカの追い込みもまったく問題としないままにゴールを駆け抜けた。

 ゴール板の前を駆け抜けると同時に桜の女王へと突き抜けたその馬は、イソノルーブルと並ぶ無敗馬ではあったが、この日は4番人気にとどまっていたシスタートウショウだった。

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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~ https://retsuden.com/horse_information/2021/29/32/ https://retsuden.com/horse_information/2021/29/32/#comments Sun, 29 Aug 2021 11:20:55 +0000 https://retsuden.com/?p=32 ~ダイアナソロン~
 1981年3月18日生、1994年9月20日死亡。牝。鹿毛。ランチョトマコマイ(苫小牧)産。
 父パーソロン、母ベゴニヤ(母父ヒカルタカイ)。中村好夫厩舎(栗東)。
 通算成績は、13戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、サファイヤS(Glll)、
 エルフィンS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『失われた物語』

 歴史を振り返ってみると、古今東西を問わず、重要な出来事は、分散して起こるのではなく、特定の時期に連続・集中して起こることがある。そうした出来事の中には、ある出来事が他の出来事を誘発して起こるものもあるが、まったく無関係であるはずの出来事が、まるで天の配剤であるかのように偶然同じ時期に重なるものも少なくない。

 中央競馬を「歴史」という視点から振り返った場合に、非常に重要な意味を持つのが「1984年」という年である。この年の最も本質的な事件といえば、中央競馬でのグレード制度の導入とレース体系の大変革が挙げられる。現代へと続く近代競馬の原型は、この年にできあがったといっても過言ではない。この変革は、日本の競馬の基本に関わる大事件であるがゆえに、様々な方面に大きな影響をもたらした。

 だが、この1984年という年に、グレード制度の導入という制度面の改革では説明できない重大事件がいくつも重なったことも、否定できない事実である。この年は、シンボリルドルフが空前絶後の「無敗の三冠馬」として戴冠し、ジャパンCでは、カツラギエースが日本馬として初めて悲願の制覇を成し遂げ、さらにマイル戦線ではニホンピロウィナーが王者として君臨した。「名馬が時代を築く」といわれることがあるが、日本の競馬史を振り返ると、1984年に限らず、競馬そのものが大きく変わる時代の変革期には不思議と名馬が現れている。その観点からすれば、むしろ正しいのは、「時代が名馬を求める」という言葉なのかもしれない。名馬たちによって旧時代の遺物、悪弊が淘汰されてこそ、新しい時代は名実ともに幕を開けることができる。それが時代の変革というものである。

 しかし、牡馬三冠戦線、古馬中長距離戦線、短距離戦線といった、新制度における各レース体系で次々と名馬が現れる中で唯一、この年に歴史に特筆できる名馬が現れなかった路線があった。それが1984年牝馬三冠戦線である。

 1984年の牝馬三冠戦線は、桜花賞をダイアナソロン、オークスをトウカイローマン、そしてエリザベス女王杯をキョウワサンダーとまったく違った馬たちが分け合っている。彼女たちの戦いは、それぞれが絶対的な決め手を欠く同レベルでの争いであり、三冠を通じての絶対的な主役は、ついに現れることがなかった。牝馬三冠戦線に新時代を象徴する名馬が現れるのは、2年後の1986年、当時としては中央競馬史上初めてとなる20世紀唯一の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌの出現を待たなければならなかった。

 だが、そのことをもって1984年牝馬三冠戦線を過小評価することはできない。絶対的名馬によって淘汰されるものは、決して悪しきものばかりとは限らない。1984年以降の中央競馬は、近代化の波の中で合理的、論理的なものとなっていくが、その反面でファンの間には、それ以前の競馬が有していた非合理性、非論理性をこそ懐かしむ声が少なくないのもまた事実である。

 1984年牝馬三冠戦線の勝ち馬たちは、いずれも古色蒼然たる伝統を持った日本の古い牝系の出身だった。古い歴史を持つ牝系とは、競馬を単なるギャンブルとは区別する「血のロマン」の象徴であり、近代競馬において台頭する輸入牝馬の系統にはない独特の魅力でもある。そうした牝系が輝きを見せた1984年牝馬三冠戦線とは、急速に進む近代化とともに失われゆく競馬の非近代的なるものへの鎮魂歌だったのかもしれない。

『セピア色の残照』

 1984年の桜花賞(Gl)を制したのは、パーソロンとベゴニヤの間に生まれたダイアナソロンである。牝馬三冠戦線においては、桜花賞が最も「固く決着する」レースとされており、実際に桜花賞馬は、その後も長く活躍することが多い。この年も例外ではなく、3番人気の桜花賞を5馬身差の圧勝で制した彼女は、その後オークス、エリザベス女王杯で1番人気に支持され、1984年の牝馬三冠戦線の主役として活躍した。

 ダイアナソロンの血統は、父が当時のトップサイヤーだったパーソロン、母の父が史上初の南関東三冠馬であり、さらに「マル地」として初めて天皇賞を制したヒカルタカイというもので、これだけでもファンに与えるインパクトは強い。だが、彼女の血統を最も強く印象づけるのは、彼女の父でもなければ母の父でもなく彼女の曾祖母であり、その子孫を「亡霊の一族」と呼ばしめることとなった悲しくも数奇な物語だろう。

 ダイアナソロンの血統表を見ると、曾祖母の名前は「丘高」となっている。だが、「丘高」にはファンに親しまれたもうひとつの名前があった。彼女の競走馬時代の名前・・・「クモワカ」といえば、ある程度のキャリアを持つ競馬ファンはすぐにピンとくるに違いない。クモワカは1948年に生まれ、競走馬として32戦11勝、桜花賞2着、菊花賞4着といった戦績を残した牝馬である。

 ただ、彼女の名前は彼女自身の戦績より「流星の貴公子」テンポイントの祖母としての方が名高い。そして、クモワカの血統は、本来ならば後世に残るはずのない血統だった。1952年、京都競馬場でレースを走ったクモワカの体調に異変が生じた際に、獣医によって「ウマ伝染性貧血の疑いあり」という診断を下されたのである。

 「ウマ伝染性貧血」・・・一般に「伝貧」といわれるこの病気は、感染すると赤血球が減少して貧血症状を引き起こす。また、周期的に高熱を発しては解熱することを繰り返すが、その回数を重ねるごとに衰弱し、最後には100%死亡するという、サラブレッドにとっては不治の病である。しかも、ウイルスによって引き起こされるこの病気は、ハエ等を通して他のサラブレッドたちにも次々と伝染する性質を持つため、馬産家、厩舎関係者からは恐怖の死病として恐れられていた。日本では、伝貧の診断を受けた馬はもちろんのこと、その疑いがある馬についても殺処分としうることが法律で定められている。

 ただし、クモワカの場合、その診断は「伝貧の『疑い』あり」で、彼女の症状には、典型的な伝貧と一致しない点も多かった。・・・それでも、「京都競馬場で伝貧発生」という報告を受けた京都府は、獣医の診断に従ってクモワカを殺処分とするよう命令を下した。馬主による抗議は、聞き入れられなかった。

 やがて京都競馬場から、クモワカの姿が忽然と消えた。馬主からは殺処分の報告がなされ、セフトを父、月丘を母とする「クモワカ」の名前は、血統登録から抹消された。クモワカ騒動は、ここでいったん幕を閉じた。いや、この時点では、「騒動」ですらなかった。1952年当時の日本では、農耕馬、アラブ馬なども含めて年間約9000頭の馬が伝貧、またはその疑いがあるとして処分されていた。クモワカのことも、1頭の不運なサラブレッドが病気によって殺処分を受けた、ただそれだけのことだった。

『亡霊の一族』

 ところが、クモワカの姿が京都競馬場から消えた3年後、北海道の早来で大騒動が勃発した。3年前に死んだはずのクモワカが生きたまま、早来の吉田牧場に連れてこられたのである。

 クモワカが伝貧とは信じられない馬主やその周辺の人々によってひそかに京都競馬場から脱出させられていたクモワカは、「不治の病」であったはずなのに、なぜか健康を取り戻していた。別の獣医から「伝貧ではない」というお墨付きを受け、吉田牧場へと姿を現したクモワカのために、彼女の関係者たちは「丘高」という名前で血統登録するよう申請した。この日のために、彼女の血統登録書は、破棄しないまま大切に保存されていた。

 ・・・しかし、「丘高」の血統登録は、拒否されてしまった。いったん伝貧として殺処分を命じたクモワカの「復活」を認めることは、競馬界全体の秩序を乱すものとされた。登録をめぐって人間たちが争っている間に、クモワカは次々と子を産んだ。伝貧の発病に至った牝馬が出産することはありえない。後の北海道による検査によってクモワカへの診断は公式に誤診と認められ、殺処分命令は取り消された。それでも「丘高」の血統登録は、認められなかった。ついに裁判に持ち込まれ、その結果「丘高」とその子供たちの血統登録が認められたのは、クモワカが京都競馬場から姿を消してから実に11年目のことだった。

 クモワカの「復活」が認められた後、最初に生まれた産駒であるワカクモは、母の子として晴れてデビューし、かつて母が勝てなかった桜花賞を勝った。ファンは、一度死んだはずのクモワカを「亡霊」と呼びつつ、その一族の数奇な運命に喝采を送った。やがてこの一族からは、天皇賞・春、有馬記念を制して1976年の年度代表馬に輝き、「流星の貴公子」と呼ばれたテンポイントも現れた。・・・だが、歴史に残る真の名馬として日本の競馬界にその名を残したテンポイントは、かつて祖母が誤診によって競走生命と繁殖牝馬としての11年間を奪われた運命の地・京都競馬場で、粉雪舞う中に散っていった。「亡霊の一族」の物語は、そんな悲劇性から逃れられなかった。

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