(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
日本競馬の頂点といわれる日本ダービーを最短のキャリアで制覇した馬といえば、1996年の日本ダービー馬フサイチコンコルドの名前が挙がる。
フサイチコンコルドは、英オークス馬サンプリンセスの孫、世界的種牡馬Caerleonの子という血統的な背景から期待を集めていたものの、同時に体質の弱さや特異さに悩まされ続け、レースに向けた仕上げは困難を極めた。新馬戦とすみれS(OP)を勝っただけの2戦2勝、それもすみれSから中84日で日本ダービーに挑むという異例のローテーションに対するファンのレース前の評価は、単勝2760円の7番人気というものだった。このオッズは、フサイチコンコルドの血統とデビュー前の評判を考えれば、驚くほど大きなものだったが、レース前の雰囲気は、
「そんなに買ってる奴がいるのか…」
「まさか来ることはないだろう…」
という方が、よほど強かった。
そんなフサイチコンコルドが、2分26秒1のレースの後に、世代の頂点を極めた。ファンのある者は、人気の盲点から見事にはばたいたフサイチコンコルドとその関係者を称え、ある者はフサイチコンコルドを馬券の対象から外した自らの不明を恥じ、またある者は見せつけられた光景を人知の及ばぬ「奇跡」と定義し、己が脳を焼いた。
だが、競馬ファンの少なからぬ者から「奇跡」とも呼ばれたフサイチコンコルドの快挙は、決して人知の及ばぬ神の配剤の結果などではなく、生産者、調教師、馬主、騎手、その他多くの関係者たちが人知を極めた努力の結果として生まれたものにほかならない。
第63代日本ダービー馬フサイチコンコルドは、果たしてどのような星の下に生まれ、人々との絆を結び、ライバルとの戦いによって自らを磨きあげ、そして「奇跡」と呼ばれる快挙を成し遂げたのだろうか。
競馬の本場とされ、クラシック・レースのあり方を始め、日本競馬が多くの部分で模範としている英国では、時に日本では考えられない椿事が起こることが少なくない。
1983年6月4日、通算205回目を迎えた英国オークスで、4番人気馬サンプリンセスが、2着に12馬身差という英国オークス、そして当時の英国のクラシックレース史上最大となる着差をつけて圧勝した(2021年オークスでSnowfallが16馬身差で勝って更新)。驚くべきことに、サンプリンセスの通算成績は、この時点で2戦未勝利であり、英オークスが初勝利だった。
実は、英国では未勝利馬がクラシックレースで有力馬に推されることも、まれにある。競馬が歴史というより伝説だった時代まで遡れば、「馬名未登録馬が勝利」「未勝利馬が英ダービーで優勝」「1戦1勝の英国ダービー馬」といった、現代の感覚では信じがたいエピソードも多数出てくるが、ごく最近でも、2018年の英オークスを未勝利馬Forever Togetherが4馬身半差で圧勝したり、2021年の英ダービーで未勝利馬Mojo Starが2着に入り、134年ぶりとなる「初勝利がダービー」という快挙をあと一歩で逸したり(その後、Mojo Starは未勝利戦を勝っている)といった椿事が現代でも実際に起こっている。
もっとも、サンプリンセスは、単に英オークスで初勝利を挙げた「だけの」幸運な馬では終わらなかった。英オークスの次走となるキングジョージⅣ世&QEDSでは3着に食い込み、ヨークシャーオークス、そしてセントレジャーでGl勝ちを2つ積み上げ、さらに凱旋門賞では、All Alongから1馬身差の2着に迫った。サンプリンセスの競走成績は10戦3勝だったが、その3勝はすべてGlである。
そんな栄光に満ちた実績とともに繁殖生活に入ったサンプリンセスと欧州最大の種牡馬Sadler’s Wellsの間に生まれた娘であるバレークイーンは、やがて英国タタソールのセリに上場されることになった。サンプリンセスの栄光から、娘のバレークイーンの上場までの約10年間にも、彼女たちの一族は、近親から多くのGl馬や重賞馬を輩出しており、名門という触れ込みは決して誇大広告ではなかった。
日本最大の生産牧場である社台ファームの創業者吉田善哉氏の次男である吉田勝己氏は、繁殖牝馬を仕入れるためにセリに訪れた際、バレークイーンに出会った。その時の彼女の印象について、勝己氏は、
「血統はもちろんですが、とにかく馬体が素晴らしい牝馬で、しばらくその場から動けなかったほどです」
と語っている。
勝己氏に10万ポンドで競り落とされたバレークイーンは、93年1月に日本の社台ファームへやって来て、日本での繁殖生活を開始した。この価格は、彼女の血統からすると破格に安いものだったため、予算が余った勝己氏が同時に17万ポンドで買い付けたのが、「薔薇一族」の祖となるローザネイとのことである。
閑話休題。日本へやって来たバレークイーンが2月11日に産み落とした鹿毛の牡馬が、後のフサイチコンコルドであった。
フサイチコンコルドの父親は、「最後の英国三冠馬」Nijinskyllの直子であり、自らもフランスダービーを制し、そして種牡馬としても既に英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを輩出したCaerleonである。「Caerleon×バレークイーン」という血統は、母の父であるSadler’s Wellsとあわせて、当時の日本競馬の水準を大きく超えた世界的な水準だった。
ただ、血統への期待とは裏腹に、彼の誕生がすべてから祝福されていたわけではなかった。彼を拒んでいたのは、ほかならぬバレークイーンであり、出産直後に興奮状態となり、牧場のスタッフが場を離れた際、自らが生んだ子馬に襲いかかり、かみ殺そうとしたのである。
その場は異変に気付いたスタッフが母子を引き離して大事には至らず、時間の経過とともに、母子関係は徐々に落ち着いていったため、牧場関係者は安堵した。しかし、フサイチコンコルドの首筋には、成長した後も、母につけられた傷跡が残ったという。
]]>(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
「日本ダービーとは何か」
―競馬関係者たちに対してこの問いを投げかけてみた場合、果たしてどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、「日本競馬界最高の格式を持つレース」というのが、最も当り障りのない優等生的な答えであろう。
しかし、このようなありふれた答えだけでは、魔力ともいうべきダービーの魅力を語り尽くすには、到底物足りない。かつて岡部幸雄騎手とともに関東、そして日本の競馬界をリードした柴田政人騎手は、1993年(平成5年)にウイニングチケットと巡り会うまでの約二十数年に渡る騎手生活の中で、通算1700勝以上の勝利を重ねながらもなかなか日本ダービーを勝つことができず、ついには
「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい」
とまで公言するに至った。また、1997年(平成9年)にサニーブライアンでダービーを制した大西直宏騎手は、実力が認められず、乗り鞍すら不自由して地方遠征でようやく食っていけた不遇の時代にも、ダービーの日だけは東京に帰ってきて、レースを見ていたという。たとえその週末に乗り鞍がひとつもなくても、
「ダービーだけは特別だから・・・」
と言って、一般のファンに混じってスタンドでレースを見ていたというのだから、その思い入れは生半可なものではない。
このようなダービーへの思いは、何もここで取り上げた一部の騎手に限った話ではない。むしろ、騎手、調教師、馬主、生産者…いろいろな段階で競馬に関わるホースマン達のほとんどが、ダービーに対して特別な感情を抱いているという方が正確である。
ダービーがこれほどまでにホースマンたちの心を虜にする魔力の要因として「一生に一度しか出られないこと」を挙げる人がいるが、これだけではダービーの特別さを説明することができない。一生に一度しか出られないのは、他のクラシックレースだって同じである。また、最強馬が集まるレースという意味であれば、他世代の強豪や外国産馬の強豪とも対決する有馬記念、あるいは世界の強豪が招待されるジャパンC(国際Gl)の方がふさわしいとも言いうる。さらに、格式の高いレースという意味であれば、ダービーと並ぶ格があるとされる春秋の天皇賞(Gl)も、「特別なレース」になる資格はあるはずである。
しかし、実際には、これらのレースに最高のこだわりを見せる人は、ダービーに最高のこだわりを見せる人と比べると、はるかに少ない。ダービーは今なお大部分のホースマンにとっての等しき「憧れ」であり、他のGlレースと比べても「特別なレース」であり続けているのである。
1990年(平成2年)5月27日、年に一度の特別な日にふさわしく、東京競馬場は地響きのような大喚声に包まれた。そして、その喚声は、年に一度繰り広げられる恒例の喧騒には留まらず、やがて競馬史に残る伝説へと変わっていった。この日のスタンドは、社会現象ともなったオグリキャップ人気によって、新しい競馬の支持層である若いファン、そして女性の姿も流入して華やかさを増し、まさに競馬新時代の幕開けを告げるものだった。そして、彼らの見守った戦場では、そのような形容にまったく恥じない死闘が繰り広げられ、その死闘を制した勝者・アイネスフウジン、そして鞍上・中野栄治騎手に対して20万人近い大観衆が投げかけた賞賛は、特別なレースという雰囲気と合体して、これまでにない形として表れることになった。
戦いの後、スタンドは一体となって死闘の勝者に対して祝福のコールを浴びせた。いまや伝説となった「ナカノ・コール」である。今でこそGlの風物詩となった騎手への「コール」だが、当時の競馬場に、そのような慣習はなかった。その日繰り広げられた戦いに酔い、そして自らの心に浮かび上がった感動を表現するために、大観衆の中のほんの一部が始めた「ナカノ・コール」は、周囲のファンの思いをたちまち吸収しながら瞬く間に約20万人に伝播し、広がっていった。彼らがひとつになって称えたのは、疾風のように府中を駆け抜けた第57代日本ダービー馬アイネスフウジンと、その鞍上の中野栄治騎手だった。
アイネスフウジンは、浦河・中村幸蔵牧場で生まれた。中村牧場が馬産を始めたのは幸蔵氏の父・吉兵衛氏ということになっているが、これは当時はまだ跡取り息子だった幸蔵氏が父に強く勧めてのことだった。最初は米とアラブ馬生産の兼業農家だったという中村牧場は、やがて稲作をやめてサラブレッド生産に手を広げ、いつしか馬専門の牧場となっていった。
大規模というには程遠い個人牧場として馬産を続けていた中村牧場に黄金期が到来したのは、1968年(昭和43年)のことだった。中村牧場の生産馬であるアサカオーが、クラシック戦線を舞台にタケシバオー、マーチスと共に「三強」として並び称される活躍を見せ、菊花賞を制覇したのである。菊花賞の他にも弥生賞、セントライト記念などを勝ったアサカオーは、通算24戦8勝の成績を残して、中村牧場にとって文句なしの代表生産馬となった。
しかし、その後、中村牧場からは音に聞こえる有名馬は出現しなくなり、一時は経営危機の噂すら流れることもあったという。そんな中村牧場を支えたのは、かつて彼らが送り出したアサカオーの存在だった。経営が苦しくて馬産をやめたくなることもあったという吉兵衛氏と幸蔵氏は、そのたびに
「菊花賞馬を出した牧場を潰せるものか」
と自らを奮い立たせ、その誇りを支えとして牧場を守り続けたのである。
アイネスフウジンの血統は、父がスタミナ豊富な産駒を出すことを特徴とした当時の一流種牡馬シーホーク、母が中村牧場の基礎牝系に属するテスコパールというものである。しかし、この配合が完成するまでには、少なからぬ紆余曲折が必要だった。
アイネスフウジンの出生の因縁を語るには、アイネスフウジン誕生よりもさらに10年ほど時計を逆転させる必要がある。最初吉兵衛氏がシーホークを交配しようと思いついたのは、テスコパールの母、つまり、アイネスフウジンの祖母であるムツミパールだった。シーホークは当時多くの活躍馬を出しつつあった新進の種牡馬である。もともとシーホークの種付け株を持っていた吉兵衛氏は、代々重厚な種牡馬と交配されてきたムツミパールの牝系に、さらにスタミナを強化するためシーホークを交配しようと考えていた。
しかし、突然状況は一変した。吉兵衛氏が「だめでもともと」という程度の気持ちで応募していたテスコボーイの種付け権が、高倍率をくぐりぬけて当選したのである。
テスコボーイは生涯で五度中央競馬のリーディングサイヤーに輝いた大種牡馬である。後にモンテプリンス、モンテファストの天皇賞馬兄弟、そしてダービー馬ウイナーズサークルを出したシーホークも、種牡馬として充分な実績を残したと言えるが、トウショウボーイを筆頭とする歴史的な名馬を何頭も送り出したテスコボーイと比べると、やはり一枚落ちるといわざるを得ない。
テスコボーイは、日本軽種馬協会の所有馬であり、抽選に当たりさえすれば、小さな牧場でも手が届く価格で種付けをすることができる。そして、産駒が無事生まれさえすれば、その子はテスコボーイの子というだけで引く手あまたになり、高い値で売れる。それゆえに、テスコボーイの種付け権の抽選の倍率は、いつの年でも高かった。その年用意されていた50頭弱の種付け枠に、応募はなんと700頭あったというから、テスコボーイの人気がどれほどだったかは想像に難くない。その高倍率の中での当選は、中村牧場にとって大変な幸運だった。
その気になって血統図を見返してみると、代々ムツミパールの牝系にはスタミナタイプの重厚な種牡馬が交配されている反面、スピードには欠けており、弱点を補うために日本競馬にスピード革命を起こしたテスコボーイを付けることは、理にかなっているように思われた。そこで吉兵衛氏は、急きょ予定を変更してこの年はムツミパールにテスコボーイを交配することにした。
そうして生まれた子が後にアイネスフウジンの母となるテスコパールだった。彼女が無事産まれると、
「中村牧場でテスコボーイの子が産まれた」
と聞きつけた二つの厩舎から、たちまち
「うちに入れてくれないか」
という申し出があったという。
だが、テスコパールと名付けられて中村牧場の期待を一身に集めた牝馬は、2歳の夏に大病を患ってしまった。セン痛を起こして苦しんでいるところで発見され、獣医に見せたところ、
「手の施しようがありません」
と宣告されたという。テスコパールには競走馬としてはもちろんのこと、引退後にも繁殖牝馬にして牧場に連れて帰ろうと大きな期待をかけていた吉兵衛氏は、すっかり落ち込んでしまった。そして、
「どうせ死ぬのならうまいものを食わせてやりたい」
と、獣医のもとからテスコパールを無理矢理に牧場へ連れ戻した。
すると、獣医と大喧嘩をしてまで連れ戻したテスコパールは、水を好きなだけ飲ませてうまいものを食わせていたら、なんと死の淵から持ち直したという。
結局、テスコパールは、病気の影響で競走馬にはなれなかったものの、繁殖牝馬としては、受胎率が極めて高い、中村牧場のカマド馬ともいうべき存在になった。吉兵衛氏はテスコパールに毎年いろいろな種牡馬を交配していたのだが、ふとテスコパールにムツミパールと交配し損ねたシーホークを交配してみたらどうかと思いついた。テスコボーイでスピードを注入した血に、もう一度シーホークをかけることで、スピード、スタミナのバランスがとれた子が生まれるのではないか。そう考えたのである。
そしてテスコパールがシーホークとの間で生んだ第七子は、黒鹿毛の牡馬で体のバネが強い子だったため、中村父子も
「いい子が生まれた」
と喜んでいた。・・・とはいえ、この時点でその牡馬、後のアイネスフウジンがやがてどれほどの活躍をしてくれるのかを知る由はない。
次に持ち上がるのは、彼を託される調教師が誰になるのかという問題だった。
中央競馬の調教師ともなると、自厩舎に入れる馬を探すために自ら北海道などの馬産地を飛び回るのは普通のことで、美浦の加藤修甫調教師もその例に漏れなかった。そして、加藤厩舎と中村牧場には、加藤師の父の代からつながりがあった。そのため、加藤師が北海道に来るときには、いつも中村牧場の馬も見ていくのが習慣だった。
この時も中村牧場へやってきた加藤師は、この牡馬をひと目見たときに
「こいつは走る・・・!」
という直感がひらめいたという。加藤師は、自らの直感に従ってこの牡馬を自分の厩舎で引き取ることに決め、新たに馬主資格をとったばかりの新進馬主・小林正明氏を紹介した。かくして競走名も「アイネスフウジン」に決まったこの子馬は、加藤厩舎からデビューすることが決まったのである。
大器と見込んだアイネスフウジンを自厩舎に入厩させた加藤師だったが、アイネスフウジンの成長は、彼の眼鏡を裏切らないものだった。アイネスフウジンは、いつしか評判馬として美浦に知られる存在となっていた。
アイネスフウジンの調教は順調に進み、加藤師は、夏には早くもデビューを視野に入れるようになった。そろそろ追い切りをかけて本格的にレースに備える時期になり、加藤師はアイネスフウジンの鞍上にどの騎手を乗せるかを考え始めた。当時の感覚として、追い切りでどの騎手を乗せるという問題は、その先のレースで誰を乗せるかにも直結する。これはアイネスフウジンの将来にとって大問題である。
加藤師は、アイネスフウジンの騎手を誰にするかを考えながら、美浦トレセンのスタンドに足を運んだ。時は夏競馬の真っ最中で、現役馬たちの多くは新潟や函館に遠征している。馬に乗ることが商売の騎手たちには、馬のいない美浦に留まる理由もない。馬も騎手もほとんどいないコースは、閑散としていた。
ところが、そこで加藤師が目にしたのは、本来ならばこんなところにいるはずのない男がぼんやりとたたずんでいる光景だった。・・・それが、中野栄治騎手だった。
中野騎手は、当時既に36歳になっており、騎手としてはとうにベテランの域に達していた。もっとも、「いぶし銀のように玄人受けするタイプ」といえば聞こえはいいが、ライト層のファンには彼の名前を知らない者も多く、またそれによってさしたる不都合もない…というのが正直なところだった。
ただ、中野騎手がもともとこの程度の騎手でしかなかったかといえば、決してそうではない。
「ヨーロッパの騎手みたいにきれいなフォームで、僕が(中野騎手の騎乗を)最初に見たとき、『あ、日本にもこんなにおしゃれな競馬をできる騎手がいたんだ』と思いました」
と語るのは、当時調教助手であり、その後調教師試験に合格して調教師へ転進し、日本を代表する名調教師への道を歩んでいく藤澤和雄調教師である。彼は
「岡部(幸雄)や柴田(政人)ぐらい勝てても不思議はなかった」
と、往年の中野騎手の騎乗スタイルを絶賛している。
しかし、実際に中野騎手が挙げた勝ち星は、18年間の騎手生活でようやく300強に過ぎなかった。この数字は、同期の出世頭・南井克巳騎手がそれまでに記録した勝ち星の3分の1よりは少し多いぐらいである。1971年の騎手デビュー以来、最も多くのレースを勝ったのは78年の26勝で、そう多くなかった勝ち星はここ数年間さらに落ち込み、前年の88年は年間10勝がやっとだった。世間の耳目を引き付けるような活躍とは無縁になっていた中野騎手は、いつしかローカル競馬でなんとか人並みの稼ぎを確保する騎手生活に甘んじるようになっていた。
もっとも、そのような状況にあるベテラン騎手にとって、本来、夏競馬はまさに稼ぎ時のはずである。現に彼は、この年もいったん新潟へと出張していた。ところが、夏競馬真っ盛りの中、彼は新潟ではなく美浦に帰ってきていた。
実は、このとき中野騎手は引退の危機を迎えていた。伸びない騎乗数、増えない勝ち鞍に苛立つあまり、酒量が限界を超えることがしばしばで、ただでさえ太りやすい体質がさらに太ってしまい、ついには騎手としての体重が維持できなくなった。日本で騎手を続ける以上、重くとも50kg強以下に抑えなければならない体重が、ひどいときには60kg近くになっていたこともあった。これでは、鞍を着けずに騎乗したとしても、レースの負担重量を大きくオーバーしてしまう。もちろん鞍も着けずに乗れるレースなど、最初からありはしない。騎乗依頼の管理が甘かったこともあり、せっかく騎乗依頼があっても週末に体重を落とせず、乗り替わりを強いられたことさえあった。
調教師たちは、依頼を受けてもらった以上、中野騎手に乗ってもらうことを前提として、懸命に馬を仕上げてきていた。それが、直前になって
「体重を落とせなかったから乗れなくなりました」
では、たまったものではない。他の騎手に依頼しようにも、そんな頃には実力のある騎手はあらかた騎乗馬が決まってしまっており、実力的にはかなり落ちる騎手を乗せざるを得なくなる。調教師やスタッフの怒りは、当然、中野騎手に向けられることになる。
「体重を維持することぐらい、騎手の最低限の義務だろう。それすら果たせないあいつに、大切な馬は任せられない。あいつに頼まなくても、他に騎手はいくらでもいるんだ。もっと若くて生きがよく、何よりも体重維持がしっかりできていて、直前で『乗れません』なんて言わない騎手が、いくらでも・・・」
こうして、中野騎手への騎乗依頼は、目に見えて減っていった。たまに依頼があっても、とても勝ち負けを狙えるような馬ではない。厩舎サイドからしてみれば、いつキャンセルされるか分からない騎手を期待馬に乗せるわけにはいかない。
しかし、それでますます勝ち星が伸びなくなった中野騎手は、やけになってさらに酒を飲んだ。完全に悪循環である。
しかも、この年中野騎手は、悪循環を断ち切るのでなく、逆に決定的にする事件を起こしてしまった。夏になって例年通り新潟に遠征していた中野騎手は、バイクの運転中に自分の不注意でバスとの接触事故を起こしてしまったのである。ただでさえ敬遠されがちだった中野騎手の状況は、これによって決定的になってしまった。競馬場が最も賑わう開催日なのに、待てど暮らせど中野騎手のところには騎乗依頼がこなかった。
馬に乗るのが商売の騎手にとって、馬に乗せてもらえないほどつらいことはない。自分より一回り以上若い騎手たちがたくさんの依頼をもらって一日に何レースも騎乗しているのを横目で見ながら、自分は馬に乗ることすらできない。中野騎手にとって、この年の新潟遠征は、デビュー以来最も寂しい旅となってしまった。
中野騎手はこのとき、半分はやけになって、そしてもう半分は居たたまれなくなって、新潟開催が終わってもいないのに、新潟から早々に引き揚げてきていた。とはいえ、新潟を引き揚げても、行くあてがあるわけでもない。することもないままに、フラフラと人も馬もいない美浦トレセンでひとりたたずんでいたのである。
加藤師は中野騎手に声をかけた。
「おい栄治、どうしたんだ、今頃。」
中野騎手は、こう返したという。
「乗る馬がいないんで、こっちへ帰ってきたんです。」
中野騎手にしてみれば、言いつくろいようのない事実を述べたに過ぎなかった。加藤師も美浦の調教師として、中野騎手の近況を知らないはずがない。しかし、それを聞いた加藤師は、中野騎手が正直に答えたことが気に入った。
「こいつもまだまだ捨てたものではない。こいつほどのジョッキーを、このまま埋もれさせてしまうには惜しい…。」
次の瞬間、加藤師の口からこんな言葉が飛び出していた。
「うちの(旧)3歳で、まだヤネが決まってないのがいるんだが―。お前、ダービーをとってみたいだろ?」
中野騎手は、震えた。
中野騎手自身、こんな生活を続けていても仕方がないことは誰よりもよく知っていた。「引退」の二文字が頭にちらついたこともあった。妻から
「引退するのなら、どうぞご自由に。でも、自分で納得できる辞め方じゃないと、後悔するんじゃない?」
と励まされ、騎手生活を続けることこそ決意したものの、失った信用まで戻ってくるわけではなく、騎乗馬は集まってこない。そんな中野騎手が引き会わされたのが、デビューを間近に控えたアイネスフウジンだった。
中野騎手が見たアイネスフウジンは、競走馬にしては実に人なつっこい、とても気の優しい馬だった。手を近付けてやるとぺろぺろとなめて甘えてくるその姿は、中野騎手に
「きっと人にいじめられたことなんかない馬なんだろうなあ」
と思ったという。
しかし、実際に馬にまたがってみて、中野騎手は直感した。
(こいつは走る!)
柔らかい馬体、素直な気性、そして抜群の乗り味。彼は知った。苦しいときに差し伸べられた救いの手は、彼がこれまでの騎手生活の中で出会ったことのないほどの大器だということを。
「―お前、ダービーをとってみたいだろ? 」
中野騎手は、加藤師の言葉が頭の中を繰り返しこだまするのを感じていた…。
]]>冬の北天に輝く一等星のひとつに、おおいぬ座のシリウスがある。地球上から見ることのできる星の中で最も強く輝くこの星は、東洋では古くから「おおかみ星」「天狼星」と称されてきた。天空にひときわ強く輝くその姿ゆえに、群れを離れた天駆ける孤狼を思わせる「天狼星」は、多くの人々に称賛よりは畏怖を、幸福よりは不幸を連想させてきた。古今東西を問わず、「天狼星」が占星術の上で兇星として位置付けられることが多いのも、おそらくはそのせいであろう。
かつての日本の競馬界に、その兇星の名前を馬名に戴くダービー馬がいた。1985年の日本ダービーを制し、第52代日本ダービー馬にその名を連ねたシリウスシンボリという馬である。
シリウスシンボリは、1着で入線しながら失格となったレースが1度あったものの、5戦3勝2着1回失格1回という成績で臨んだ日本ダービー(Gl)で、3馬身差の圧勝を収めた。前年のダービー馬である「絶対皇帝」シンボリルドルフと同じシンボリ牧場に生まれた彼は、故郷にダービー2連覇をもたらすという快挙を成し遂げたのである。
さらに、ダービーを勝った後の彼は、日本を離れて実に約2年間に渡る欧州4ヶ国への長期遠征を行っている。1999年に日本を離れ、欧州への長期遠征を決行したエルコンドルパサーは、当初「無謀」といわれながらも徐々に欧州の深い芝に適応していき、ついには海外Gl制覇、そして凱旋門賞2着という偉大な成果を挙げた。こうしてみると、シリウスシンボリがとった方法論は決して間違っておらず、むしろ日本競馬の時代を10年以上先駆ける偉大な挑戦だったということができる。
ところが、こうした多くの記念碑を残したように見えるシリウスシンボリに対する競馬界の評価は、決して高いものではない。それどころか、過去の多くの名馬たちの海外挑戦が時には華々しく、時には悲しく語られる中で、シリウスシンボリの遠征については語られることさえめったにないように思われる。
確かにシリウスシンボリは、エルコンドルパサーとは違って約2年間の遠征の中で、ついに1勝も挙げることができなかった。しかし、彼の欧州での戦績には、勝てないまでもGl3着、重賞2着という戦果も残っている。そうであるにもかかわらず、シリウスシンボリの海外遠征が具体的な検証すらろくにされないまま「失敗」の2文字で語られがちなことの背景には、彼の遠征自体が背負った、彼自身の意思とはまったく無関係な悲しい宿命があった。今回のサラブレッド列伝は、宿命に翻弄され、競走馬としてあまりに数奇な運命を辿ることとなったシリウスシンボリの馬生について触れてみたい。
シリウスシンボリが生まれたのは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場である。
シンボリ牧場を大きく育て上げた原動力が、日本競馬に大きな影響を与えた偉大なホースマン・和田共弘氏の存在だったことに、おそらく議論の余地はない。そして、シリウスシンボリの馬生を語る上では、彼の生産者であり、オーナーでもあった和田氏のことを落とすことはできない。
和田氏は、シリウスシンボリ以前から、スピードシンボリ、シンボリルドルフをはじめとする多くの名馬を生産し、日本の馬産に大きな功績を残した人物である。ただ、彼を「馬産家」と言い切ってしまうことには、若干の語弊もあろう。確かに、馬産家としての実績が和田氏の成功にかなり影響していることは否定できない。和田氏は競走馬の配合については独自の哲学を持っており、現にそれで大きな実績を上げてきた。そのため和田氏は、イタリアの名馬産家になぞらえて「日本のフェデリコ・テシオ」とも呼ばれていた。
しかし、和田氏の生産馬の活躍を基礎づけたのは、馬産の配合のみにとどまらず、幼駒や競走馬の育成、調教といった競馬全体に関わる和田氏流の一貫したプロセスがあったゆえである。ヨーロッパ流の育成、調教を次々とシンボリ牧場に取り入れていったその試みは、常に前向きであり、かつ挑戦的ですらあった。
当時、日本の二大オーナーブリーダーといえば、社台ファームの吉田善哉氏と和田氏のことを指していた。この2人は、馬を作るだけでなくその育成、調教においても多くの工夫を取り入れた独自のスタイルを編み出し、実践したことで知られている。だが、和田氏のライバルとして語られる吉田氏は、常にアメリカ流の放牧を中心とした馬づくりを図っており、和田氏とは対極的な立場にあった。方法は違ったものの、吉田氏は和田氏をライバル視しながらも敬意を払っており、牧場の規模では遥かに勝るはずの吉田氏は、倒れて死を目前にしたとき、
「和田に会いたい」
とつぶやいたという。そんな和田氏は、日本競馬の多様な局面に大きく貢献した、まさに「ホースマン」の称号に相応しい人物だった。
和田氏は、当時から海外進出にも積極的であり、スピードシンボリ、シンボリルドルフなどでたびたび海外の大レースへと挑戦もしていた。時代を常に先取りしようとしたその試みには、残念ながら結果に結びつかなかったものも多いが、和田氏が見せた時代の先駆者としての冒険心は、後の多くのホースマンたちに大きな影響を与えた。
シリウスシンボリが生まれたのは、そんな和田氏のホースマン人生がいよいよ絶頂を迎えようとする時期だった。
シリウスシンボリは父モガミ、母スイートエプソムとの間に生まれた。スイートエプソムの父はパーソロンであり、モガミとパーソロンは、いずれもシンボリ牧場の当時の主力種牡馬である。
モガミは、もともと和田氏が世界的名種牡馬リファールを買いに行った際に、案の定というべきか、リファールの売却をあっさりと断られてしまい、リファールそのものの代わりに売ってもらったリファールの種付け株で、現地で買った繁殖牝馬にリファールを付けて生まれた馬である。
和田氏は、こうして生まれたモガミをすぐには日本へ連れてこず、ヨーロッパの厩舎に入れて実戦を走らせ、競走生活を引退した後、メジロ牧場と共同して日本へ輸入した。そんなモガミは、和田氏とメジロ牧場の期待に応え、三冠牝馬・メジロラモーヌ、ジャパンC(国際Gl)馬・レガシーワールドなど多くの活躍馬を輩出したことで、当時の馬産を支えた名種牡馬の1頭に数えられている。
もっとも、その配合相手であるスイートエプソムは、パーソロンの娘であるという血統的価値のほかには、特に見るべきものはない馬だった。自身は不出走馬で馬体にもこれといった特徴があるわけでもなく、さらに一族をみても、さしたる活躍馬はいなかった。シリウスシンボリの1歳上の姉であるスイートアグネスは、当歳時から体質が弱かったため、とても競走馬になることには耐えられないだろう、ということで、未出走のまま繁殖に上がってしまったほどだった。
このような状況のもとでは、シリウスシンボリが出生の直後から特別な期待を集める要素は、決して多くなかった。
しかし、出生直後は目立たない存在だったシリウスシンボリだったが、成長してくると、次第に良いところを見せるようになってきた。シリウスシンボリは、幼いながらも心肺能力が高く、強い運動をしてもほとんど呼吸を乱さなかった。また、疲労の回復力も素晴らしかった。他の馬と比べてもひときわ強い存在感を放つようになったシリウスシンボリは、いつのまにかシンボリ牧場の同世代の中で、一番の期待馬としての地位を勝ち取っていた。
]]>皐月賞、日本ダービー、菊花賞。3歳馬たちが約半年にわたって世代の頂点を賭けて争う「クラシック三冠」の戦いを、人は「王道(クラシック・ロード)」と呼ぶ。これまで無数のサラブレッドたちが繰り広げてきた三冠をめぐる戦いは、日本競馬の華・・・というよりも、日本競馬の歴史そのものである。過酷な戦いの中から現れた三冠馬であるセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、コントレイルの存在は伝説としてファンに語り継がれ、三冠馬になれなかった名馬たちの物語も、ファンの魂に刻みつけられてきた。
時空を超えて輝く王道の美しさは、2000年春、「大世紀末」とも呼ばれた20世紀最後の年に生まれた約8000頭のサラブレッドたちにとっても、なんら異なるところはない。彼らもまた先人たちが歩み、築いてきた王道を受け継いで新たな物語を刻み、そして歴史の一部となっていった。
彼らが刻んだ物語・・・2003年クラシックロードの最大の特徴は、21世紀に入って初めて「三冠馬」への挑戦がクローズアップされたことにある。21世紀に入った後、2001年と2002年のクラシックロードは、いずれも春の二冠の時点で勝ち馬が異なっており、ダービーが終わった時点で「三冠馬」誕生の可能性は断たれていた。だが、2003年は皐月賞、日本ダービーをいずれも同じ馬が制したことによって、競馬界は騒然となった。
「ナリタブライアン以来の三冠馬が出現するのか」
同年の牝馬三冠戦線では、やはりスティルインラブが桜花賞、オークスを制して86年のメジロラモーヌ以来17年ぶりとなる牝馬三冠に王手をかけた。20世紀最後の年に生まれた彼らの世代の王道は、「三冠」の重みを我々に何よりもはっきりと思い知らせるものだった。
大きな期待を背負って三冠に挑んだその馬の挑戦は、残念ながら実らなかった。だが、新世紀を迎えた競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させた彼の功績は大きい。そして、三冠の歴史が勝者のみの歴史ではなく、夢届かず敗れた者たちの歴史でもある以上、彼の物語もまた日本競馬の青史に深く刻まれ、王道の物語は今日も脈々と流れ続けている。今回のサラブレッド列伝は、2003年クラシックロードで三冠という夢に挑み、そして破れた二冠馬ネオユニヴァースの物語である。
2003年のクラシック二冠馬・ネオユニヴァースは、2000年5月21日、千歳の社台ファームで生まれた。彼が生まれた日は、日本競馬の聖地・東京競馬場で20世紀最後のオークスが開催された日である。
すべてのサラブレッドが背負う背景が血統ならば、ネオユニヴァースが背負う背景は、「父サンデーサイレンス、母ポインテッドパス」というものだった。サンデーサイレンスは1989年の米国年度代表馬であり、種牡馬としては日本競馬の勢力図を一代で塗り替えた名馬の中の名馬だが、ポインテッドパスは、競走馬としてフランスでデビューしたものの2戦未勝利に終わった無名の存在にすぎない。また、彼女の繁殖牝馬としての成績を見ても、フランスにいた92年に産み落としたFairy Pathがカルヴァドス賞(仏Glll)を勝ったのが目立つ程度で、とても「名牝」として注目を集めるような実績ではない。
そんなポインテッドパスが日本にやって来ることになったのは、彼女が上場された94年のキーンランドのセリ市で、社台ファームが彼女を競り落としたためである。とはいっても、彼女に対する評価を反映して、その時の社台ファームによる落札価格も30万ドルにすぎなかった。
しかし、社台ファームにやってきてからのポインテッドパスは、95年春に持込馬となるスターパス(父Personal hope)を生んだ後、6年連続でサンデーサイレンスと交配され、不受胎の1年を除いて5頭の子を生んでいる。日本競馬界の歴史を塗り替え続けたリーディングサイヤーとこれだけ連続して交配された繁殖牝馬は、いくらサンデーサイレンスを繋養していた社台スタリオンステーションと同一グループに属する社台ファームの繁殖牝馬であるといっても、その数は極めて限られている。
ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配にこだわった理由について、社台ファームの関係者は、
「チョウカイリョウガの物凄い馬体が忘れられなかった・・・」
と振り返っている。チョウカイリョウガは、ポインテッドパスがサンデーサイレンスと最初に交配されて、96年春に産み落とした産駒である。生まれた直後のチョウカイリョウガの馬体の美しさは群を抜いており、社台ファームの人々は、
「今年の一番馬は、この馬だ」
と噂しあった。
だが、競走馬としてのチョウカイリョウガは、通算36戦4勝、主な実績は京成杯(Glll)2着、プリンシパルS(OP)2着という期待はずれの結果に終わっている。テイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガらと同世代にあたる彼は、日本競馬の歴史の片隅に、あるかないか分からない程度に小さくその名をとどめたにすぎない。
「こんなはずではなかった・・・」
生まれた直後のチョウカイリョウガの中にサラブレッドの理想像を見ていた社台ファームの人々は、無念だった。一度手にしたかに思えた「理想像」の結果は、理想とはほど遠いものに終わった。どこかで生じてしまったほんのわずかな狂いが、「理想像」に近いサラブレッドの歯車を大きく狂わせてしまったのである。
しかし、実らなかった結果は、彼らがチョウカイリョウガの中に見たものまで間違っていたことをも意味するわけではない。彼の大成を阻んだものは、生まれた後の彼に生じたわずかな狂い。ならば、今度こそはその「わずかな狂い」のない馬を作りたい。
「チョウカイリョウガより美しく、そしてチョウカイリョウガより強いサラブレッドを作る!」
それは、彼らにとって「理想のサラブレッド」をつくるという誓い以外の何者でもなかった。そして、チョウカイリョウガと同じ出発点に立つために最も可能性が高い方法が、ポインテッドパスとサンデーサイレンスの交配だったのである。
こうしてポインテッドパスとサンデーサイレンスとの交配という試行錯誤は続けられたが、結果はついてこなかった。99年春に生まれた時に
「チョウカイリョウガ以上かもしれない・・・」
と期待されたのはアグネスプラネットだったが、彼も通算成績27戦3勝と、やはり大成は果たせなかった。
最初から高い評価を受けていたチョウカイリョウガやアグネスプラネットと異なり、生まれた直後におけるネオユニヴァースの評価は平凡なものだった。見るからに筋肉が発達し、力強さを簡単に読み取ることができた兄たちと比べて、ネオユニヴァースの馬体は普通の域を出ず、腰も甘かった。
「兄たち以上の成績をあげられるか、というと疑問だった」
それが、ネオユニヴァースに対する社台ファームの人々の偽らざる評価である。当時から毎年二百数十頭の産駒が産声をあげていた社台ファームの生産馬たちの中で、彼は特別の期待馬として認識されていたわけでもない。社台ファームの「期待馬」として真っ先に名前を挙げられるのは、同じサンデーサイレンス産駒ではあってもダンスパートナーやダンスインザダークを兄姉に持つダンシングオンであり、「ダンシングオンに負けない力強さを持つ」ブラックカフェらであって、ネオユニヴァースではなかった。
]]>(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
かつて競馬サークル内に厳然として伝えられてきた迷信に、「芦毛馬は走らない」というものがあった。確かに、日本競馬においては、大レースを制するような強い馬の中に、芦毛馬がほとんどいなかった時代もあった。しかし、だからといって芦毛馬の能力が劣っているわけではないことは、近年芦毛の強豪たちを数多く見てきた私たちには明らかだろう。
芦毛馬が大レースを勝てなかった理由は、ただ単に絶対数が少なかったから、というべきだろう。今でも芦毛馬はサラブレッド全体の1割弱と、それほど多いわけではないが、さらに時代を遡ると、芦毛馬がもっと少ない時代があった。
かつて日本のサラブレッド生産と競馬は、優れた軍用馬を供給するという建前で始まった。アジアに冠たる軍事大国を目指した大日本帝国では、優れた軍用馬も数多く必要としていたため、その安定的な供給に資するため、海外からサラブレッドを輸入して将来の軍用馬生産の基礎としようとした。・・・少なくとも、その必要性を説くことによって、軍部をはじめとする当時の権力者たちの協力を得てきた。
サラブレッド生産と競馬自体がこのような建前で始まった以上、芦毛馬は冷遇されざるを得なかった。芦毛馬は、遠目からでも目立つ馬体ゆえに、軍用馬には向かないからである。そのせいで、競馬草創期には、芦毛馬が日本へ輸入されること自体が稀だった。
芦毛馬は、遺伝の法則上、父、母のいずれかが芦毛でなければ絶対に生まれることはない。芦毛の親が少ない以上、芦毛の子が少なくなるのも当然のことである。絶対数が少なければ、強豪が生まれる可能性も少ない。
しかし、いったん「走らない」というイメージが関係者たちに定着すると、たとえ迷信であっても、一定の影響を生じることは避けられない。関係者が有望な子馬を芦毛であるという理由だけで「走らないだろう」と先入観を持って接したがために、持てる才能を発揮できずに消えていったことも、少なくなかったことだろう。馬の才能は、それを見抜く人がいない限り、決して生かされることはない。
1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏したことで解体の道をたどり、戦後の日本は平和憲法のもと生まれ変わり、競馬も軍用馬生産という従来の建前とは切り離されていった。…しかし、長年に渡って関係者たちの間に培われてきた芦毛への偏見まで、一朝一夕で消滅することはなかった。
競馬界では、戦前と同様に芦毛馬は敬遠され続けた。芦毛馬が初めて天皇賞を勝ったのは戦後25年が経った1970年秋のメジロアサマ、クラシックレースを勝ったのは1977年に菊花賞を勝ったプレストウコウを待たなければならなかった。
迷信を迷信と証明する現実なしに迷信を打ち破ることは、非常に難しい。まして競馬界とは、特にそういう迷信を気にする世界である。ファンとてそれを笑う資格はない。20世紀の競馬界において
「天皇賞・秋は1番人気が勝てない」
「ジャパンCも1番人気が勝てない」
という迷信がどれほど語られてきたか。そして、今日においても
「青葉賞に出走した馬は日本ダービーでは用なし」
「皐月賞を勝っていない日本ダービー馬は、菊花賞を勝てない」
・・・そんな理屈では説明がつかない迷信が、「ジンクス」という形ではあっても、単に公然と語られるばかりか、馬券の検討にも大きな影響を与えていることは、公知の事実なのだから。
このように競馬界に確かに存在していた「芦毛馬は走らない」という迷信が、明確な形で打ち破られたのは、昭和の終わりから平成の初めにかけてのことである。後世に「芦毛の時代」と呼ばれるとおり、この時期には芦毛の名馬が次々と現れて多くのGlを勝ち、一時代を築いた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ・・・。彼らはいずれも時代を代表する最強馬と呼ばれるにふさわしい馬たちだった。その後、芦毛旋風は一時期やんだかに見えたものの、芦毛の強豪が定期的に現れるようになり、さらに近年は白毛の強豪まで現れるようになった。こうした時代の中で、芦毛馬の競走能力に対する偏見は、いまや完全になくなったと言っていい。
このように多くの栄光を積み重ねてきた芦毛の名馬たちだが、その彼らにどうしても手が届かなかった勲章がある。それが、日本競馬の最高峰たる日本ダービーである。
もちろん、これらの馬たちがダービーを勝てなかったことには、それぞれの理由がある。しかし、「芦毛の時代」と呼ばれた時代に生きた名馬たちが1頭もダービーを勝っていないというのは、やはり競馬界の不思議のひとつである。これほどの名馬たちですら手が届かなかったことからすれば、そんな競馬界の中で、芦毛馬として唯一ダービーを勝ち、長年語られてきた「芦毛馬は走らない」というジンクスの嘘を象徴的に証明した馬の功績は、もっと語られていい。
もしその馬が存在しなかったとすれば、2021年まで経ってなお、「芦毛馬は日本ダービーを勝てない」ままであり、「芦毛馬は走らない」という迷信の残滓がジンクスと名を変えて、生き残っていたことだろう。そのジンクスが生き残っていた場合、日本ダービーを日本競馬の最高峰として憧れている人々が馬を見る際に、日本ダービーを狙い得る器を持った芦毛馬を見落とす理由となっていたかもしれない。
ウィナーズサークルの父であり、彼に芦毛という毛色を伝えたシーホークは、長らく日本の競馬を支えた種牡馬である。彼の代表産駒としては「太陽の帝王」モンテプリンスとその弟モンテファストという天皇賞馬兄弟が有名であり、さらにウィナーズサークルの翌年にはアイネスフウジンを送り出し、2年続けて日本ダービー馬の父となっている。
シーホークがウィナーズサークルを出したのは、24歳の時である。種牡馬としても晩成だったこの馬は、代表産駒の勝ち鞍を見ても分かるとおり、相当なステイヤー血統でもあった。
競走馬としては10戦1勝とさほどのものではなかったが、繁殖牝馬として栗山牧場に帰ってきて、なかなかの産駒を出していたクリノアイバーに、このシーホークを付けるよう勧めたのは、松山康久調教師だった。松山師・・・その人はかつてミスターシービーで三冠を制し、後にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げるその人である。
栗山牧場は茨城にあるため、周囲に良質な種牡馬がほとんどいない。そこで、交配の際には繁殖牝馬を日を決めて北海道へ連れていき、種付けしていたのだが、この年はもともと種付け予定だった種牡馬が急死したため、困って松山師に相談した。すると、松山師からは、かつて彼の父親である松山吉三郎師が管理したモンテプリンス・モンテファスト兄弟を輩出したシーホークを勧められた。そこで、栗山牧場の人々は、クリノアイバーを北海道へ連れていき、シーホークとの交配を実現させた。こうして生まれたのが、後のウィナーズサークルだった。
クリノアイバーが生んだシーホーク産駒は、他の馬と比べるとやや大柄な体躯の牡馬だった。また、この牡馬には一つおかしなところがあった。毛色は父と同じ芦毛で、それ自体は何らおかしなことではないが、なぜか生まれたときから真っ白だったのである。
普通の芦毛馬は、生まれたときは銀色というより真っ黒に近い。芦毛馬が真っ白になるのは晩年のことで、それまでは、年をとるにつれて少しずつ白くなっていく。ところが、ウィナーズサークルは、なぜか生まれたときから真っ白だった。
牧場の人々は、この不思議な馬におおいに驚いた。
「生まれたばかりなのに父親にそっくりだ」
「もしかすると、大物なのかも知れない」
「いや、神の馬かもしれないぞ」
皆でそう噂しあったという。
やがて、成長したウィナーズサークルは、栗山氏の所有馬として中央競馬で走ることになった。管理する調教師は、彼の出生にも関わった松山師である。松山師は当時、40代前半の若手調教師に過ぎなかったが、ミスターシービーで三冠を制したその手腕を高く評価されていた。
松山師は、ウィナーズサークルの1歳上の半兄にあたるクリノテイオーも管理し、若葉賞(OP)を含めて3勝を挙げ、日本ダービー(Gl)出走も果たしている(サクラチヨノオーの14着)。そんな半兄を超える馬に育ててほしい・・・そんな思いを込めて、栗山氏はウィナーズサークルを松山師に託し、さらには命名も任せてみたところ、松山師はウィナーズサークルという名前を付けた。
ウィナーズサークルとは、いうまでもなく勝者のみが立つことを許される表彰式や記念撮影を行うための場所で、競走馬の名前としては、これほど縁起の良いものはそうはない名前である。ちなみに、松山師が名付け親となったことで知られる馬としては、他に「ジェニュイン」などがいる。
ウィナーズサークルは、美浦でもすぐに「評判の期待馬」として有名になっていった。血統的にも距離が延びていいタイプと見られており、早熟さには期待できないものの、大いなる素質と将来性を感じさせる馬で、松山師も、預かった時から
「ダービーを意識して育てよう」
と思ったという。
松山師がウィナーズサークルのデビュー戦での北海道遠征を避け、美浦から近い夏の福島開催にしたのは、新潟開催でデビューしたシンボリルドルフを意識したからである。松山師は、福島開催で早めに1勝した後は休養に入り、堂々と中央開催へ乗り込む、という青写真を描いていた。
しかし、松山師の計算を狂わせたのは、予想を超えるウィナーズサークルの気性の難しさだった。彼は、どうしたことか、他の馬をかわして先頭に立つのを嫌がる癖を持っていた。先頭に立とうとすると、突然騎手に反抗し始める。そして、騎手と喧嘩しているうちに、他の馬にかわされてしまうのである。おかげでウィナーズサークルのデビュー戦は、1番人気に推されながら、勝ち馬から2秒以上離された4着に惨敗してしまった。
ウィナーズサークルの困った気性に頭を抱えた松山師は、この馬のために「剛腕」郷原洋行を主戦騎手として呼んでくることにした。2戦目から騎乗した郷原騎手は、引退まで一度も他人にウィナーズサークルの手綱を譲らない終生のパートナーとなる。
郷原騎手は、ウィナーズサークルに、まずは他の馬より早くゴールしなければならないという競走馬の宿命、そして競馬というものを教えるところから始めなければならなかった。先行して好位につけることはできるウィナーズサークルだが、先頭に立つのはどうしても嫌がる。これでは勝てない。勝てるはずがない。
郷原騎手が騎乗するようになった後も、ウィナーズサークルは未勝利戦を二度走ったものの、いずれも1番人気に応えられず2着に敗れた。能力がないわけではないのに、どうしても馬がその気になってくれない。松山師と郷原騎手は歯がゆい思いをしながらも、ウィナーズサークルのために調教を続けた。
]]>(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
1988年の第55回日本ダービーといえば、今なお日本ダービー史に残る名勝負のひとつとして知られている。勝ち馬サクラチヨノオーがメジロアルダン以下を抑えて第55代ダービー馬の栄冠に輝いたこのレースは、直線での差しつ差されつの死闘、ダービーレコードとなった勝ちタイム、そして勝ち馬につきまとったドラマ性・・・など、あらゆる要素において競馬ファンの記憶に残るものだった。
日本競馬にとっての1988年といえば、希代のアイドルホース・オグリキャップが笠松から中央に転入し、全国の競馬ファンの前に姿を現した年でもあった。多くのドラマを背負ったオグリキャップという特異な名馬の存在と、やはり名馬と呼ぶに値するライバルたちが繰り広げた熱く激しい戦いは、それまで「ギャンブル」から脱し切れなかった日本競馬を誰でも気軽に楽しむことができる娯楽として大衆に認知させるきっかけとなった。
だが、この年の日本ダービーは、皮肉にもそのオグリキャップの存在ゆえに、陰を背負ったものとならざるを得なかった。世代最強馬との呼び声高かったこの名馬が「クラシック登録がない」という理由で、レースへの出走すら許されなかったためである。そのため、この年のダービーは、レース前には一部で「最強馬のいない最強馬決定戦」とも批判されていた。
日本最高のレースとしての権威が危機を迎えた年の日本ダービーを勝ったのが、サクラチヨノオーだった。そのレース内容は、
「オグリキャップがいたら・・・」
という幻想が入り込む余地を与えない素晴らしいものだった。
時代は折りしも、翌1989年の年明け早々に昭和天皇の崩御によって「昭和」という時代が終わりを迎え、元号が「平成」へと変わった。つまり、サクラチヨノオーは「昭和最後のダービー馬」となったわけである。歴史の転換期にふさわしい大レースを素晴らしい内容で制したサクラチヨノオーは、日本ダービーの歴史と伝統を守るとともに、オグリキャップを機に競馬に関心を持ち始めていた新規ファンの魂に自らのレースを刻みつけ、大きな満足と深い感動を残した。サクラチヨノオーの走りを目の当たりにしたことによって、単なる「オグリキャップファン」から「競馬ファン」へと転換したファンも少なくない。彼の走りは、この時期に始まった競馬の黄金期にも大きく貢献したのである。
そんな第55代ダービー馬サクラチヨノオーは、多くのドラマを背負った名馬だった。自らの血、馬主、調教師、騎手・・・。「ダービーを勝つ」という誓いのもとで、彼の戦いは始まった。そんな男たちの戦いが実を結んだのが、第55回日本ダービーだった。
サクラチヨノオーは、ダービーを勝った後に屈腱炎を発症したこともあって、その後は満足な状態で走ることさえできないまま、競馬場を去っていった。しかし、その事実をもって、己の持てるすべてをダービーで燃やし尽くした彼の実力を過小評価することがあってはならない。そこで今回は、日本競馬の最高峰で完全燃焼した昭和最後のダービー馬サクラチヨノオーと、彼を取り巻く人々のドラマを追ってみたい。
サクラチヨノオーは、1985年2月19日、静内の谷岡牧場で生まれた。谷岡牧場が馬産を始めたのは1935年まで遡り、後にはサクラチヨノオーのほかにもサクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹、サクラローレルなど数多くの名馬を出している。当時の谷岡牧場の代表的な生産馬は天皇賞、有馬記念を勝った名牝トウメイであり、「トウメイのふるさと」として知られていた。
サクラチヨノオーの母であるサクラセダンは、当時の谷岡牧場の場長だった谷岡幸一氏が英国へ行って買い付けてきた繁殖牝馬スワンズウッドグローブの娘である。スワンズウッドグローブ自身は未勝利であり、それまでの産駒成績も凡庸だったが、グレイソブリンやマームードといった当時の世界的種牡馬の血を引く血統と馬体のバランスは、谷岡氏の目を引くものだった。
もっとも、谷岡氏が最初に目をつけていたのはジェラルディンツウという馬だったが、この馬については、一緒に買い付けに来ていた後の「ラフィアン」総帥・岡田繁幸氏が「あまりにもほしそうな目で見ていた」ことから、谷岡氏は
「若い奴にはチャンスを与えないといかん」
ということで岡田氏に譲り、自分は「第2希望」のスワンズウッドグローブを選んだとのことである。しかし、外国からの輸入馬が今よりはるかに少なかった当時の水準では、スワンズウッドグローブの血統は日本屈指のものであり、谷岡氏は彼女とその子孫を牧場の基礎牝系として育てていくことに決めた。
すると、スワンズウッドグローブの子は谷岡氏の期待どおりによく走った。その中でもセダンとの間に生まれたサクラセダンは、中山牝馬Sをはじめ6勝を挙げて牧場へと帰ってきた。谷岡氏は、サクラセダンにはスワンズウッドグローブの後継牝馬として、非常に高い期待をかけていた。
谷岡氏は、サクラセダンを毎年評判が高い種牡馬と交配し続けたが、その中でも最も相性がよかったのはマルゼンスキーだった。
現役時代に通算8戦8勝、全レースで2着馬につけた着差の合計は61馬身という驚異的な戦績を残したことで知られるマルゼンスキーは、種牡馬入りしてからも菊花賞馬ホリスキー、宝塚記念馬スズカコバンをはじめとする一流馬を続々と輩出し、たちまち日本のトップサイヤーの1頭に数えられるようになった。1997年に惜しまれながら死亡した彼は、まさに日本競馬史に残る名競走馬であり、かつ名種牡馬だった。
だが、マルゼンスキーを語る上では、決して欠かすことのできない悲劇がある。それは、彼が持ち込み馬であったがゆえにクラシック、そしてダービーに出走できなかったという悲劇である。
マルゼンスキーは、母のシルがまだ米国にいた時に、最後の英国三冠馬ニジンスキーと交配されて受胎した子である。その後シルが日本人馬主に買われて日本へ輸入されたため、マルゼンスキー自身は日本で生まれた内国産馬になる。しかし、当時の規則では、外国で受胎して日本で生まれた「持ち込み馬」は、規則によってクラシックレースから完全に締め出されていた。
朝日杯3歳Sなど多くのレースで圧勝に圧勝を重ねたマルゼンスキーが同世代の最強馬であるということについて、衆目は一致していた。だが、そのマルゼンスキーは、人間が作った規則によって、最強馬決定戦であるはずの日本ダービーに出走することすら許されなかった。主戦騎手の中野渡清一騎手は、
「賞金はいらない、他の馬を邪魔しないように大外を回る。だから、ダービーに出させてくれ」
そう叫び、馬のために哭いたが、その願いがかなうことはなかった。マルゼンスキーは、その無念をぶつけるかのよう日本短波賞(後のたんぱ賞)に出走して7馬身差で圧勝したが、この時7馬身ちぎり捨てられたプレストウコウは、秋に菊花賞馬となり、最優秀4歳牡馬に選出されている。
こうしてクラシックという表舞台から締め出されたマルゼンスキーは、その後真の一線級とは対決することはないままに、屈腱炎を発症して引退を余儀なくされた。結局彼は、その短い現役生活の中で、同期の皐月賞馬ハードバージ、ダービー馬ラッキールーラと直接対決することはなかった。しかし、当時を知る人々が惜しむのは、マルゼンスキーと彼らの対決が実現しなかったことではなく、1歳上の歴史的名馬であるトウショウボーイ、テンポイントとの対決が実現しなかったことだった。マルゼンスキーを日本競馬史上最強馬と信じるオールドファンは、今も少なくない。
現役を引退して種牡馬入りしたマルゼンスキーを迎えた人々は、マルゼンスキーの子で父が出走させてもらえなかったクラシック、特にその最高峰である日本ダービーを勝つことを誓った。トヨサトスタリオンステーションに迎えられて種牡馬生活を送ることになったマルゼンスキーの実力は、スタリオンステーションの人々のみならず、誰もが認めるところだった。なればこそ、人間の事情に翻弄され続け、意に沿わない形で馬産地へと帰ってこざるを得なかった名馬にその無念を晴らさせてやりたい、というのは、マルゼンスキーに期待をかけた人々の共通した思いだったのである。
]]>東京優駿・・・一般に「日本ダービー」と呼ばれることが多い日本競馬の世代別最強馬決定戦は、多くの物語を歴史に刻んでいる。
「ダービーに勝てたら、騎手をやめてもいい」という言葉が有名な1700勝騎手の柴田政人騎手は、騎手生活27年目を迎えた1993年にウイニングチケットとともに第60回東京優駿を制し、19回目の挑戦で悲願を成就させた。また、一時は「終わった」と言われた中野栄治騎手が90年のアイネスフウジンで見事な逃げ切りを果たした際には、府中のスタンドから「ナカノ・コール」が巻き起こった。その一方で、「モンキー乗り」の創始者の1人で「ミスター競馬」と称された野平祐二師は、騎手としては悲しいまでにダービーに縁がなく、騎手として25回挑戦しながら、ついに一度も勝つことができなかった。また、1958年から皐月賞3連覇を達成し、同レースの最多制覇記録を持つ渡辺正人騎手も、19度挑戦したダービーではことごとく敗れ続けている。
そんなさまざまな悲喜劇を生み出してきた日本ダービーの歴史だが、20世紀最後のダービー勝ち馬としてその名を刻んだアグネスフライトと河内洋騎手の物語は、その中でも異彩を放っている。
1974年に武田作十郎厩舎の所属騎手としてデビューし、「天才」と呼ばれた福永洋一騎手の落馬事故という悲劇の後を受けて関西騎手界に君臨するようになった河内騎手は、その後3度にわたって騎手全国リーディングを獲得し、さらにメジロラモーヌでの牝馬三冠達成や桜花賞4勝という実績により、「牝馬の河内」の異名をとるようになっていった。また、騎手としての技量のみならず、94年から日本騎手クラブ関西支部長をも長く務め(なお、会長は関東の柴田騎手、岡部騎手)、騎手、調教師、そしてファンから信頼され、親しまれ続けた。
そんな実力と信望を備えながらもダービーとは無縁だった河内騎手が、騎手生活27年目にして初めて夢を果たしたのが、第67回東京優駿である。前人未到のダービー3連覇を目指した弟弟子との壮絶な死闘の末に栄光を勝ち取った河内騎手だが、この時彼が騎乗したアグネスフライトは、かつて彼が祖母、そして母に騎乗したという因縁の血統で、さらに東京優駿の舞台である東京の芝2400mコースも、彼女たちが死闘を繰り広げた戦場でもあった。
アグネスフライト・・・河内騎手にダービーをもたらしたサラブレッドは、「騎手・河内洋」とともに歩んだ血統の末裔として、一族の夢を果たしたサラブレッドでもあった。祖母、母から受け継いだ血のもとに大輪の華を咲かせた彼の物語は、私たちに競馬のロマンの一端を教えてくれる。
アグネスフライトは、1997年3月2日、日本最大の生産牧場として知られる千歳の社台ファームで産声を上げた。彼の父は日本の馬産界に旋風を巻き起こした大種牡馬サンデーサイレンス、母は90年の桜花賞馬アグネスフローラとくれば、期待されない方がおかしい超良血馬だった。
アグネスフライトの牝系の物語は、1967年に持込馬として生まれた曾祖母イコマエイカンに始まる。競走馬としては9戦1勝という凡庸な成績に終わったイコマエイカンだったが、三石の折手正義牧場で繁殖入りしてからの実績はめざましいもので、初子のグレイトファイターが小倉大賞典を勝ったのを手始めに、2番子クインリマンドは桜花賞2着の実績を残し、3番子タマモリマンドは京阪杯を制した。
そんな兄姉たちに続いて生まれた4番子が、アグネスレディーだった。活躍馬が相次ぐイコマエイカンの子として生まれたアグネスレディーは、その兄姉をも大きくしのぐ実績を残した。1979年オークスを1番人気で勝ち、同世代の牝馬の頂点に立ったのである。その後も京都記念、朝日チャレンジカップを勝ったアグネスレディーは、イコマエイカン一族の中でも押しも押されぬ「出世頭」となった。
ところで、アグネスフライトは社台ファームで生まれているが、この一族が最初から社台ファームと縁があったわけではない。彼らと縁が深かったのは、むしろ三石の折手正義牧場だった。イコマエイカンが折手牧場に繋養されたため、アグネスレディーはこの牧場で生まれ、さらに引退後も、折手牧場へと帰ってきた。
繁殖牝馬としてのアグネスレディーに寄せる関係者たちの期待は大きく、初めての種付けでは、馬主である渡辺隆男氏のたっての希望により、英国に渡って初代欧州三冠馬・Mill Reefと交配された。こうして生まれたミルグロリーは、デビュー前に故障して未出走のまま引退してしまい、その後の産駒もいまひとつの成績が続いたものの、彼らはアグネスレディーへの希望を捨てなかった。渡辺氏と折手氏は、相談の上で
「母が勝てなかった桜花賞を獲りたい・・・」
という願いを込め、産駒がマイルから中距離で実績を残していたロイヤルスキーと交配することにした。こうして生まれたのが、アグネスフローラだった。
母から11年後、90年の牝馬クラシック戦線へと挑んだアグネスフローラは、血に込められた願いを果たし、無敗の5連勝で桜花賞を制した。その後、母子制覇をかけたオークスで2着に敗れたのを最後に脚部不安を発症して引退したアグネスフローラだったが、通算成績は6戦5勝2着1回というほぼ完璧なもので、その華麗なる軌跡は、今なおファンの記憶に残っている。
アグネスフローラが引退を決めるまでの間、多くの人々は、アグネスフローラが折手牧場で繁殖入りするものと思っていた。アグネスレディー、アグネスフローラと母子2代にわたって折手牧場で生まれ、そしてクラシックを制した彼女の一族の系譜を見れば、現役を退いた後は、アグネスフローラも折手牧場で繁殖入りするのが、自然な流れであるはずだった。
しかし、アグネスフローラの馬主である渡辺氏の意向は違っていた。アグネスレディー同様、アグネスフローラについても引退後の所有権を手放す意思がなかった渡辺氏は、母子2代にわたってクラシックを勝った名牝の系譜に対し、特別な待遇を望んだ。そんな彼の頭からは、桜花賞を勝った直後に話しかけてきた男の申し出が離れなかった。
アグネスフローラが桜花賞を勝った直後に渡辺氏に話しかけてきたのは、日本最大のサラブレッド生産牧場・社台ファームの後継者とされていた吉田照哉氏(現社長)だった。
「いい馬ですね。万が一売る時があったら、ぜひうちで面倒を見させて下さい・・・」
渡辺氏は、日本最大の牧場の後継者からも高く評価されるに至ったアグネスフローラの現実を見て、考えた。折手牧場は、繁殖牝馬が10頭もいない、典型的な日高の中小牧場である。渡辺氏は、母子二代のクラシック馬を輩出し、名牝系と意識されるようになったこの系統を、折手牧場に預け続けることに不安を感じていた。施設、牧草、そして殺到するマスコミへの対応・・・あらゆる局面で「最高」を求めた先にたどりついた結論は、ある意味で非情なものだった。オークス(Gl)の後に社台ファームに放牧に出されたアグネスフローラは、ターフ、そして生まれ故郷の折手牧場に帰ることなく、社台ファームで繁殖入りすることになったのである。
一族の運命を変えたこの決断は、ひとつの悲劇の遠因ともなった。アグネスフローラの引退の3年後、アグネスレディーも折手牧場から社台ファームへと移動することになった。しかし、社台ファームの馬運車が迎えに来た時、折手牧場には二度と戻ってこれないことを察したかのように、アグネスレディーは馬運車に乗ることを嫌がり、大暴れして激しく抵抗した。折手氏は、やむなく社台ファームの馬運車を帰し、自分が運転する馬運車で、アグネスレディーを社台ファームに送り届けなければならなかった。ところが、断腸の思いでアグネスレディーを手放した折手氏を待っていたのは、アグネスレディーがそれから10日も経たないうちに亡くなったという悲報だった。
社台ファームへと移動したアグネスレディーは、牧場内を移動するために乗せられた馬運車の中で、再び暴れた。その暴れ方たるやすさまじく、なんと背骨を骨折してしまい、そのまま帰らぬ馬となったのである。そんな悲劇によってアグネスレディーを手放した折手牧場に、アグネスレディーの血を引く血統は残っていないという。
]]>★本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。
すべてを捨てて戦い、そして散っていくことによって大衆の魂に感動を残したお前は、勝利によってよりも敗北によって輝いた日本競馬史上最大の叙情詩だった・・
20世紀も終わりに近づく2000年12月15日、師走の競馬界に小さからぬ衝撃が走った。1983年に牡馬クラシック三冠すべてを制し、歴史に残る三冠馬の1頭に名を連ねた名馬ミスターシービーの訃報が伝えられたのである。
三冠馬といえば、英国競馬のレース体系を範として始まった我が国の競馬においては、競走馬に許されたひとつの頂点として位置づけられている。ほぼ半年という長い時間をおいて、2000mから3000mという幅広い距離で戦われるクラシック三冠のすべてを制することは、身体能力、精神力、距離適性の万能性、そして運を兼ね備えた馬のみに可能な偉業である。三冠達成の偉大さ、困難さを証明するかのように、三冠馬は我が国の競馬の長い歴史の中でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、そしてナリタブライアンという5頭しか出現していない(注・2001年以降、ディープインパクト、オルフェーブル、コントレイルが三冠を達成している)。ミスターシービーは、2000年暮れの時点で生存する2頭の三冠馬のうちの1頭だった。
ミスターシービーといえば、20世紀の日本競馬に現れた5頭の三冠馬、そして日本競馬史に残る名馬たちの中でも、ひときわ強烈な個性の輝きを放った存在として知られている。ミスターシービーは、ただ「三冠馬になった」という事実ゆえに輝いたのではない。皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。ミスターシービーが行くところには常に波乱があり、感動があり、そして奇跡があった。時には出遅れての最後方からの追い込みがあり、時には失格すれすれの激しいライバルとのせめぎ合いがあり、そして時には掟破りの淀の上り坂からのまくりがあった。そんな常識破りの戦法を繰り返しながら、ひたすらに勝ち進むミスターシービーの姿に、大衆は歓喜し、熱狂し、そして最もドラマティックな勝ち方で自らの三冠を演出する名馬のドラマに酔いしれたのである。
しかし、そんなミスターシービーに、やがて大きな転機が訪れた。古馬戦線で自らの勝ち鞍にさらに古馬の頂点である天皇賞・秋を加えたミスターシービーだったが、彼がかつて戦ったクラシック戦線から絶対皇帝シンボリルドルフが現れ、前年にミスターシービーが制した84年のクラシック三冠をすべて勝つことで、ミスターシービーに続く三冠馬となったのである。ここに日本競馬界は、歴史上ただ一度しかない2頭の三冠馬の並立時代を迎えた。
ミスターシービーとシンボリルドルフ。それは、同じ三冠馬でありながら、あまりにも対照的な存在だった。後方一気の追い込みという不安定なことこの上ない作戦を得意とし、それゆえにファンの心に他のどの馬よりも強烈な残像を焼きつけ続けてきたのがミスターシービーならば、シンボリルドルフは先行抜け出しという最も堅実な作戦を得意とし、冷徹なまでの強さで後続を寄せ付けないまま無敗の三冠馬となった馬である。2頭の三冠馬は、果たしてどちらが強いのか。三冠馬を2年続けて目にした当時の競馬ファンは、誰もが「三冠馬の直接対決」という空前絶後の夢に酔った。
ところが、夢の決戦の結果は、一方にとってのみ、この上なく残酷なものだった。2頭による直接対決は、そのすべてでシンボリルドルフがミスターシービーに勝利したのである。2頭の三冠馬の力関係は、シンボリルドルフが絶対的にミスターシービーを上回るものとして、歴史に永遠に刻まれることとなった。
こうして三冠馬ミスターシービーは、自らも三冠馬であるがゆえに、不世出の名馬シンボリルドルフと同時代に生まれたという悲運によって、その名誉と誇りを大きく傷つけられることとなったのである。ミスターシービーは、三冠馬の誇りを泥にまみれさせられ、
「勝負づけは済んだ」
と決め付けられることになった。
しかし、ミスターシービーの特異さが際だつのは、その点ではない。シンボリルドルフに決定的ともいうべき敗北を喫したミスターシービーが選んだ道が、既に大切なものを失いながら、なお残る己のすべてを捨てて、あくまでシンボリルドルフに戦いを挑み続けることだったという点である。
「三冠馬の栄光を傷つけるな」
識者からはそう批判されたその選択だが、いつの世でも常に強者に優しく弱者に冷たいはずの大衆は、あくまでもミスターシービーを支持し、大きな声援を送り続けた。馬券上の人気はともかくとして、サラブレッドとしての人気では、シンボリルドルフはついにミスターシービーを上回ることはなかったのである。そうしてミスターシービーは、シンボリルドルフに戦いを挑み続けるその姿によって、競馬を支える大衆の魂に、勝ち続けていたころと同じように… 否、勝ち続けていたころよりもむしろ深く強く、自らの記憶を刻み続けた。
結局、ミスターシービーの挑戦が、彼の望んだ「勝利」という形で実を結ぶことはなかった。だが、勝ち続けることによって記憶に残る名馬は多くとも、敗れ続けることによって記憶を残した名馬は極めて稀有である。大衆は、ミスターシービーの戦いの軌跡の中で、初めて彼が単なる強い馬だったのではなく、ファンの魂を震わせる特別な存在だったことを思い知り、その心に刻み付けることとなった。
大衆の魂を動かす名馬には、必ず彼らが生きた時代の裏付けがある。果たして大衆は、一時サラブレッドの頂点を極めながらも、より強大な存在に挑戦し続け、そして最後には散っていったミスターシービーの姿の中に、自分たちが生きた時代の何を見出したのだろうか。
ミスターシービーは、群馬に本拠地を置くオーナーブリーダー・千明牧場の三代目・千明大作氏によって生産されたとされている。千明牧場といえばその歴史は古く、大作氏の祖父がサラブレッドの生産を始めたのは、1927年まで遡る。千明牧場の名が競馬の表舞台に現れるのも非常に早く、1936年にはマルヌマで帝室御賞典(現在の天皇賞)を勝ち、1938年にはスゲヌマで日本ダービーを制覇している。
千明家がサラブレッドに注ぐ情熱は、当時から並々ならぬものだった。大作氏の祖父・賢治氏は、スゲヌマによるダービー制覇の表彰式を終えて馬主席に戻ってきた時、ちょうど自宅から電話がかかってきて、長い間病に臥せっていた父(大作氏の曽祖父)の死を知らされたという。その時賢治氏は、思わず
「あれは、親父が勝たせてくれたのか・・・」
とつぶやいた。
そんな千明牧場でも、大日本帝国の戦局が悪化し、国家そのものが困難な時代を迎えると、物資難によって馬の飼料どころか人間の食料を確保することすら難しくなっていった。賢治氏は、それでもなんとか馬産を継続しようと執念を燃やしたものの、その努力もむなしく、1943年には馬産をいったんやめるという苦渋の決断を強いられた。この決断により、千明家が長年かけて集めた繁殖牝馬たちは他の牧場へと放出されることになり、広大な牧草地はいも畑と化した。
年老いた賢治氏に代わって牧場の後始末を行ったのは、息子である久氏だった。彼が牧場に残った繁殖牝馬の最後の1頭を新しい引き取り先の牧場に送り届け、そこで聞いたのは、賢治氏の死の知らせだった。馬産に情熱を燃やし、かつて帝室御賞典、ダービーをも獲った賢治氏は、牧場閉鎖の失意のあまり病気を悪化させ、亡くなってしまったのである。
二代の当主の死がいずれも馬産に関わった千明家にとって、もはやサラブレッドの生産は単なる趣味ではなく、命を賭けて臨むべき宿命だった。そんな深く、そして悲しい歴史を持つ千明牧場の後継者である久氏もまた、時代が再び安定期を迎えるとともに馬産の再開を望んだのは、もはや一族の血の必然であった。
戦後しばらくの時が経ち、事業や食糧難にもいちおうのめどが立ってくると、久氏は千明牧場を再興し、馬産を再開することに決めた。1954年、久氏は千明牧場の再興の最初の一歩として1頭の繁殖牝馬を手に入れた。その繁殖牝馬の名前は、チルウインドであった。
再興されてからしばらくの間、千明牧場は戦前に比べてかなり小規模なものにとどまっていた。戦前に長い時間をかけて集めた繁殖牝馬たちは既に各地へ散らばり、久氏は事実上牧場作りを一から始めなければならなかったからである。しかし、信頼できるスタッフを集めて彼らに牧場の運営を任せ、さらに自らも馬を必死で研究した千明家の人々の努力の成果は、やがて1963年にコレヒサで天皇賞を勝ち、そしてチルウインドの子であるメイズイで皐月賞、日本ダービーの二冠を制するという形で現れた。戦前、戦後の2度、そして父と子の二代に渡って天皇賞とダービーを制したというその事実は、千明牧場の伝統と実績の重みを何よりも克明に物語っている。そんな輝かしい歴史を持った千明牧場の歴史を受け継いだのが、ミスターシービーを作り出した千明大作氏である。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
サラブレッドを語る際によく使われるのが、生まれた年、すなわち「世代」による区別である。競馬では、完成した古馬と未完成の若駒を最初から一緒に走らせるのは不平等なことから、4歳(現表記3歳)の一定の時期までの間は同世代のみでその強弱を決し、その後に上の世代の馬たちとの世代混合戦に進むレース体系となっていることがほとんどである。そこで、日本競馬でサラブレッドを分類する場合、同じ年に生まれたサラブレッド全体をまとめて「○年クラシック世代」と呼ぶことが少なくない。
また、「世代」という概念は、単に同じ年に生まれた馬の総称にとどまらず、一定の方向付けを持った評価として使われることもある。
「○年クラシック世代は古馬になってからも活躍した名馬が多く、レベルが高い」
「×年クラシック世代は世代混合Glでほとんど勝てなかったから、弱い」
「△年クラシック世代は、実力は普通だったけれど、ファンに愛された個性派の世代だった」
等の評価は、「○年クラシック世代」という呼び方が、そこに属する馬たちを語るために不可欠なグループとしての意味をも持っていることを物語っている。
そうした数々の「世代」という概念の中で、ひときわ異彩を放っているのが、「1987年クラシック世代」である。
この世代を強弱という側面から語る場合、「強い世代」に属することは、おそらく多くの競馬ファンが同意することだろう。1987年クラシック世代からは、87年のサクラスターオー、88年のタマモクロス、89年のイナリワンという3頭の年度代表馬を輩出している。全世代の実力が均等だとすれば、1世代に1頭ずつとなるはずの年度代表馬を3頭出したという事実は、それだけでこの世代のトップクラスの馬たちが高い実力を持っていたことの証である。他に3頭の年度代表馬を輩出した世代といえば、G制度が導入された84年以降にクラシックを戦った世代に限ると、他にひとつもない。また、競馬の歴史全体に遡っても、「TTG世代」のように極めて限られた例しかない。
だが、この世代がファンに印象を残すのは、その強さより、むしろ儚さによってである。5歳(現表記4歳)になってから本格化したタマモクロス、6歳(現表記5歳)になってから中央へと転入したイナリワンは、クラシック戦線に出走していないが、この世代でクラシックに出走した有力馬たちは、その多くが悲劇と無縁ではいられなかった。皐月賞の1、2、3着馬が数年のうちにことごとくこの世を去ったことで、彼らは「悲劇のクラシック世代」とも呼ばれるようになるのである。
そんな世代の中で、世代の頂点というべき日本ダービーを制したメリーナイスは、不思議な存在感を醸し出している。彼は「強い世代」のダービー馬であり、また朝日杯馬であるはずだが、その彼を「強いダービー馬」と見る向きはほとんどない。メリーナイスといえば、日本ダービーを6馬身差で圧勝し、映画「優駿」のモデルになったことで知られているが、そんな彼につきまとうのは、属する世代のイメージとはあまりに対照的な「イロモノ」としてのイメージだった。
メリーナイスは、悲劇の世代に生まれ、悲劇のクラシックを戦いながら、その悲劇性とは無縁のままの競走生活を終えた。そして、かつて戦いをともにした戦友たちが生の歩みを止めた後も、流れ続ける時代とともに歩み続けた。今回のサラブレッド列伝は、そんな特異なダービー馬・メリーナイスの物語である。
メリーナイスの生まれ故郷は、静内の前田徹牧場である。当時の前田徹牧場は稲作と馬産の兼業で、繁殖牝馬はアラブとサラブレッドを合わせても、5頭程度しかいなかった。中央競馬には生産馬を送り込むことすら滅多にない地味で目立たない個人牧場で、1984年3月22日、未来のダービー馬は産声を上げた。
しかし、メリーナイスの血統は、小さな牧場なりの筋が通ったものだった。メリーナイスの母ツキメリーは、NHK杯勝ち馬マイネルグラウベンの姉であるとともに、自らも大井競馬で東京3歳優駿牝馬を制し、南関東の3歳女王に輝いた実績を持っていた。
ツキメリーは、前田徹牧場の生産馬ではない。これほどの実績馬である彼女が前田徹牧場程度の小さな牧場に繋養される理由はないように思われるが、実際には、ツキメリーの馬主は以前から前田徹牧場と付き合いがあり、その縁でツキメリーは前田徹牧場に預託されることになった。前田徹牧場にやってきた時、ツキメリーは以前にいた牧場で種付けされたコリムスキーの子を宿していた。無論、まだ生まれてもいないその子こそが未来のダービー馬となることなど、誰もが知る由もない。
メリーナイスの父・コリムスキーは、自分自身の成績は目立ったものではなかったものの、血統的にはノーザンダンサーの直仔であり、牝系も素晴らしいものだったことから、種牡馬としての供用開始当初は、それなりの人気を集めていた。
ところが、実際に産駒がデビューしてみると、コリムスキー産駒からはなかなか活躍馬が出なかった。メリーナイスが誕生する前後の時期、種牡馬としてのコリムスキーの人気は、むしろ低落傾向にあった。
コリムスキーとツキメリーという配合は、南関東の3歳女王を母に、産駒はダート馬の傾向を示す父をかけた配合であり、地方競馬に対して一定のアピール力を持つものだった。
やがて生まれたのは、鮮やかな四白流星を持つ栗毛の牡馬だった。前田徹牧場では彼の行き先としてむしろ地方競馬を想定していたが、実際にはこの美しい栗毛の子馬は、地方競馬ではなく中央競馬に入厩することになった。
彼を預かることになった橋本輝雄師は、美浦に厩舎を構えており、騎手時代にはカイソウでダービーを勝った経験もある人物だった。
当初、メリーナイスの最大の特徴は、四白流星の栗毛という外見であると思われていた。競馬歴の浅いファンでもひとめで区別できるこの美しい馬は、血統的にはそこまで期待を集める存在ではなかった。
しかし、このグッドルッキングホースが非凡なのが外見だけではないことに周囲が気づくまで、そう長い時間はかからなかった。牧場にいたころや入厩当初のメリーナイスの気性は、とても穏やかなものだった。だが、美しい馬体は、人間たちが追い始めると、その気配は一転して鋭い瞬発力と負けん気を発揮するようになった。馬体も成長するにつれて、充実したものとなっていった。
メリーナイスの仕上がりは順調で、夏の函館では早々にデビューを飾った。その時には、メリーナイスは美浦の評判馬の1頭に数えられるようになっていた。
函館で戦いの舞台に降りたったメリーナイスは、期待どおりにデビュー戦での勝ち上がりを果たした。ここで彼が破った相手には、後の名脇役ホクトヘリオスも含まれていた。
デビュー勝ちを果たした後も、メリーナイスは3歳戦線を戦っていった。後から考えれば、メリーナイスが戦った3歳戦線の相手関係は、非常に充実したものだった。スタートで出遅れて4着に敗れたコスモス賞(OP)の勝ち馬は、後の阪神3歳S(Gl)馬ゴールドシチーだった。また、東京へ戻っての初戦となったりんどう賞でアタマ差差された相手は、天馬トウショウボーイを父に、三冠馬シンザンを母の父に持つ内国産馬の傑作サクラロータリーだった。
こうした強敵たちとの戦いを通じ、メリーナイスは確実に強くなっていった。彼は続くいちょう特別を勝って2勝目を挙げると、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl)へと駒を進めたのである。
朝日杯3歳S(Gl)でのメリーナイスは、単勝200円のホクトヘリオスに続く単勝360円の2番人気に支持された。メリーナイスとホクトヘリオスといえば、新馬戦で一度対決しており、この時はメリーナイスが勝利を収めている。しかし、メリーナイスに敗れたホクトヘリオスは、その後折り返しの新馬戦、函館3歳S、京成杯3歳Sを3連勝し、一度は遅れをとった評価を取り戻しつつあった。
ただ、このレースの馬柱には、もし出走できていれば確実に1番人気となったであろうある馬の名前が欠けていた。それは、りんどう賞でメリーナイスに勝ったサクラロータリーである。
サクラロータリーは、りんどう賞の後に府中3歳Sに出走し、名門シンボリ牧場が送り込んだ大器マティリアルを破って、無傷の3連勝をレコードで飾った。
「今年の朝日杯はこの馬で決まった」
とも噂されたサクラロータリーだったが、その後骨折によって戦線を離脱し、朝日杯に駒を進めることはできなかったのである。
本命馬が消えた朝日杯は、メリーナイスとホクトヘリオスの一騎打ちムードとならざるを得なかった。メリーナイスの鞍上・根本康広騎手は、どうすればいかにホクトヘリオスに先着するかを考えた。そして、ホクトヘリオスが追い込み一手の不器用な馬であることを見越して、道中はとにかく中団、ホクトヘリオスより前でレースをする作戦を採ることにした。ホクトヘリオスが後ろにいる間に前方へと進出し、直線で早めに先頭に立つことで、直線に入る前にホクトヘリオスに可能な限り差をつけておき、瞬発力に優れたホクトヘリオスが届かない展開に持ち込むためだった。
そうすると、根本騎手の作戦は、見事に当たった。直線に入るとホクトヘリオスが猛然と追い込んできたものの、早目に進出していたメリーナイスには1馬身半届かなかったのである。メリーナイスは、同世代の馬たちに先駆けて、見事Gl馬となった。
こうしてGl馬となったメリーナイスだが、その一方で、この勝利は「サクラロータリーの故障で転がり込んだ」とみられることも避けられなかった。
「サクラロータリーが出走していれば、結果はどうなっていたか・・・」
「サクラロータリーこそ実力ナンバーワン」
そうした声もあがっていたが、メリーナイスにはそれらを払拭するすべはない。あるとすれば、それはサクラロータリーと再戦し、そして勝つよりほかに道はない。
しかし、実際にはメリーナイスにその機会が与えられることはなかった。サクラロータリーは、故障の回復が思わしくなく、ついに3戦3勝、不敗のまま引退してしまったのである。
血統的にいうならば、トウショウボーイ×シンザンの血を持つ内国産馬の星が「ただの早熟馬でした」とはなかなか思われない。素晴らしい血統を持つスター候補生の引退は、多くのファンを残念がらせ、彼を惜しむ声は彼のことを「幻の朝日杯馬」と呼ぶという形で表れた。「幻の朝日杯馬」の前では、「現実の朝日杯馬」の影はその分薄くならざるを得なかった。
メリーナイスがサクラロータリーの故障によって、朝日杯をより楽に勝てたことは否定できないが、その引退によって後々まで、朝日杯3歳Sの栄光をサクラロータリーの幻に支配されることになってしまったことも事実である。果たしてサクラロータリーの故障と引退は、メリーナイスにとって幸運だったのだろうか、不運だったのだろうか。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
わが国の中央競馬における最高のレースは何か・・・そう聞かれた時に、最も多くのホースマンがその名を挙げるのが日本ダービーであろうことは、想像するまでもなく明らかであろう。1932年に初めて開催された「東京優駿大競走」に端を発する日本ダービーの歴史は、英国のクラシックを範にとって発展してきたわが国の中央競馬の発展の歴史そのものだった。戦争による中断はあったものの、同じ年に生まれたサラブレッドたちが、同世代で1頭にしか与えられることのない「日本ダービー優勝馬」の称号と名誉を得るために繰り広げてきた数々の死闘は、多くの物語と伝説を生み出してきた。
ダービーの歴史が区切りの第60回を迎えた1993年日本ダービーも、日本ダービー、そして日本競馬の歴史に残る名勝負のひとつに数えられている。ハイレベルといわれた有力馬、そしてそれぞれの騎手たちの激しい駆け引きと死力を尽くした激戦は、今なお多くのファンの語り草となっている。そんな歴史に残る死闘を制し、第60代日本ダービー馬の栄冠に輝いた名馬が、ウイニングチケットである。
ウイニングチケットが語られる際には、必ず
「柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」
という評価とともに語られるという特徴がある。日本競馬の歴史を紐解いても、彼のような扱いを受けるサラブレッドは、決して多くない。ウイニングチケットというサラブレッドは、日本競馬界の中でも特異な存在なのである。
柴田騎手もまた、日本競馬の歴史の中で、独特の地位を占める存在である。騎手として通算1767勝を挙げたその実力と技術が一流だったことは、疑いの余地がない。だが、柴田騎手の最大の特徴は、数字によって表される実績より、彼自身の「侠気」ともいうべきその誠実な人柄とされる。
柴田騎手がトップジョッキーとして君臨した時代は、騎手がある程度勝てるようになると、所属厩舎を離れてフリーとなり、なるべく多くの厩舎から勝てる馬の騎乗依頼をひとつでも多く受けようとするのが当たり前というドライな思想が、競馬界の主流となりつつある時期だった。しかし、同世代や自分より若いトップジョッキーがそうしたやり方で勝利数を伸ばしていく中で、柴田騎手は、デビュー時から所属した高松厩舎の所属騎手であり続けた。また、有力馬が大レースに臨む際、大レースの直前に、それまで騎乗していた実績のない騎手から実績のある騎手に乗り替わることは、現在はもちろんのこと、古い時代でも珍しいことではなかった。しかし、柴田騎手は自分が依頼を奪われる側ではなく新たな依頼を受ける側に立った時であっても、それまで馬を育ててきた騎手の心を思い、大レース直前で乗ったことがない馬に乗り替わるという依頼を避け、自らが大レースで騎乗するのは、あくまでもそれまで自らと戦いをともにしてきた馬・・・という理想に忠実であろうとしたことでも知られている。
そのような騎乗スタイルは、勝利数や重賞、Gl勝ちといった数字によって表される実績を積み上げるためには、マイナス材料としかなり得ない。現に、柴田騎手が騎手として晩年を迎えるころには、彼のようなスタイルはもはや旧時代の遺物として、ほぼ淘汰されつつあった。だが、柴田騎手は、そのことを誰よりも理解していながら、あくまでも自らの思い・・・信念に忠実であり続けた。そして、ファンもまた、そんな無骨で不器用な生き方しかできなかった彼を愛したのである。
そんな古風な男が最後までこだわったレースが、日本ダービーである。時代の変化とともに、ドライになっていく一方の日本競馬の中で、最後まで自分の生き方を貫きながら超一流の実績を残してきた彼が、どうしても手にすることのできなかった勲章・・・皮肉なことに、それが日本競馬の伝統を象徴し、最高のレースとして位置づけられてきた日本ダービーだった。年齢を重ね、自身に残された騎手生活はわずかであることを悟って
「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい・・・」
と言い続けた柴田騎手の熱情にもかかわらず、ダービーの女神は彼を袖にし続けてきた。
そんな柴田騎手に、「ダービー・ジョッキー」の栄光をもたらしたのが、ウイニングチケットだった。それまで幾度もの挫折と危機を経てようやく最高の栄誉を手にした彼ら・・・柴田騎手とウイニングチケットは、間違いなく日本競馬史上最高の名場面の主役として輝いていた。ゆえに人はウイニングチケットのことを
「政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」
と呼んだのである。
今回のサラブレッド列伝では、日本ダービーの歴史の1ページを飾ったサラブレッドであるウイニングチケットの、柴田騎手とともに歩んだ戦いの軌跡に焦点を当ててみたい。
ウイニングチケットは、過去にサクラユタカオー、サクラスターオーなど多くの名馬を生産した歴史を持つ静内の名門牧場・藤原牧場で生まれた。その血統は、父が凱旋門賞馬トニービン、母が未出走馬パワフルレディというものである。
ウイニングチケットが出現するまでの間、繁殖牝馬としてのパワフルレディの成績は、決して芳しいものではなかった。マルゼンスキーの娘であり、名牝スターロッチ系の末裔・・・という血統背景自体は魅力的なものだったが、問題は肝心の産駒成績である。ウイニングチケットの兄姉たちにはろくな成績を残した馬がおらず、中には「尻尾がない馬」までいたという。
しかし、藤原牧場の人々は、毎年期待を裏切り続けるパワフルレディとその子供たちを見ながら、
「こんな筈はないのに・・・」
と思い続けていた。パワフルレディの血統、そして彼女自身に眠っている底力を引き出せないのはなぜなのか、どうすればそれらを引き出すことができるのかを、懸命に分析してみた。
そして藤原牧場の人々がたどり着いた結論は、それまで体の柔らかそうな種牡馬ばかりと交配していたことがいけなかったのではないか、というものだった。パワフルレディ自身はたいへん柔らかい体を持っており、藤原牧場では、その長所をさらに伸ばそうとして、それまでは、やはり体の柔らかい種牡馬ばかりを交配していた。だが、実際に生まれてくるのは体が柔らかいというよりは、競走馬としての丈夫さ、頑丈さに欠ける子供たちばかりだった。そこで一念発起した藤原牧場の人々は、それまでの配合とは反対に、体が堅いタイプの種牡馬を付けてみることにした。
パワフルレディの新しい配合相手として選ばれたのは、社台ファームがポスト・ノーザンテーストの担い手として輸入したばかりの新種牡馬トニービンだった。トニービンは、欧州競馬の最高峰である凱旋門賞(国際Gl)を勝った名馬である。トニービンは、引退直前の1988年ジャパンC(国際Gl)に出走してペイザバトラーの5着に敗れているが、藤原牧場の当主である藤原悟郎さんは、その際にパドックでトニービンの馬体の素晴らしさに目を引かれ、シンジケートに加入していたのである。
最初、トニービンとパワフルレディとの間に生まれたウイニングチケットは、「鹿のような」線の細い馬格しかなかったため、牧場の人々をがっかりさせた。しかし、そんな華奢な子馬の資質を誰よりも早く見抜いた男がいた。それは、馬の出産シーズンを迎え、少しでも多くの生まれたばかりの当歳馬を見てその資質を見極めるため、北海道を飛び回っていた伊藤雄二調教師だった。
伊藤師によれば、馬の資質を図る上で重要なのは、生まれた直後の立ち姿であるとのことである。生まれた直後の姿こそがその馬の持って生まれた素質を最も素直に反映している、というのが伊藤師の考え方であり、ゆえに伊藤師は、少しでもいい馬を確保するため、このシーズンは神出鬼没で馬産地を歩き回り、様々な牧場に顔を出していた。そんな伊藤師が藤原牧場へとやってきたのは、ウイニングチケットが生まれた3日後のことだった。
伊藤師は、生まれたばかりのウイニングチケットの様子をかなり長い間つぶさに見ていたかと思うと、やがて何も言わずに栗東の伊藤厩舎へと帰ってしまった。しばらくして伊藤師が再び藤原牧場にやって来た時には、もうウイニングチケットを厩舎に迎え入れるための手配が何もかも終わっていたという。
当時、トニービンの産駒は海のものとも山のものとも知れないため、初年度産駒を厩舎に入れる気はなかったという伊藤師だが、ウイニングチケットを見た瞬間
「この馬は走る!」
という直感が走ったという。伊藤師とウイニングチケットがここで出会ったことにより、ウイニングチケットの競走馬としての運命は、大きく動き始めた。
]]>