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安田記念 – Retsuden https://retsuden.com 名馬紹介サイト|Retsuden Sat, 27 Aug 2022 14:43:37 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 ダイイチルビー列伝~女は華、男は嵐~ https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/ https://retsuden.com/horse_information/2022/23/362/#respond Tue, 23 Aug 2022 14:16:06 +0000 https://retsuden.com/?p=362 1987年4月15日生。牝。黒鹿毛。荻伏牧場(浦河)産。
父トウショウボーイ、母ハギノトップレディ(母父サンシー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
通算成績は、18戦6勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、安田記念(Gl)、スプリンターズS(Gl)、京王杯スプリングC(Gll)、京都牝馬特別(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『華』

 日本においては長らく「ギャンブル」としてしかとらえられてこなかった競馬だが、その発祥地である英国での起源を探れば、この見方は明らかな誤りであることが分かる。競馬とは、もともと英国貴族たちが家門の名誉を賭けて、自らの所有する血統から名馬を送り出すことを競い合う「ブラッド・スポーツ」として始まった。馬とは直接関係のない大衆が勝ち馬を予想して金を賭けるという行為は、英国貴族たちの没落によって競馬が趣味から産業へと転換した後はともかく、競馬の発祥時においては競馬の本質ではなかったのである。

 古今東西を問わず、貴族社会の特徴は、貴族たる彼ら自身を貴族ならざる平民とは異なる尊いものとみなす点にある。だが、貴族を平民から分かつものは何かといえば、それは彼らの血統しかない。貴族の家に生まれた者は貴族、平民の家に生まれた者は平民。貴族としての地位と特権を正当化しようとする限り、彼らは血統による区別に絶対的な価値を認めざるを得なかった。そんな彼らの社会において、自らの所有する血統の優劣を競う競馬の価値観は、非常に適合的だった。そんな社会の中で発展した競馬自体、「優れた父と母からは、優れた子が生まれる確率が高い」という遺伝学上の確率論にとどまらない「血の連続性」が、独自の意味を帯びずにはいられなかった。

 とはいえ、サラブレッドとは、もともと祖先をたどるときわめて少数の始祖にたどり着く、近親交配を宿命とした非常に閉鎖的な品種である。いつの世にも、自家産の繁殖牝馬に自家産の種牡馬を交配することにこだわり、そんな中から名馬を生み出すことに固執する者はいるが、こうした手法では早晩近親交配の弊害を避けられず、長期間の栄光を保つことは難しい。そこで多くの貴族たちが重視したのは、年間に数十頭の産駒を得ることが可能な種牡馬を中心とする父系ではなく、1頭が年間に1頭、その生涯においても十数頭しか産駒を得ることができない母系を中心に据えた、いわゆる「牝系」を中心とする競馬独特の価値観だった。競馬において「一族」とされるのは牝系を共通とする馬のみであり、「兄弟」と呼ばれるのも同母の場合に限られる。そんな価値観を前提とした上で、多くの名馬を輩出した一族は「名牝系」としてその栄光を称えられ、その歴史は血統の物語として後世へと語り継がれる。競馬の血統を語る場合に、「牝系」という価値観を無視することは、もはや不可能といっていいだろう。

 このように「牝系」という価値観自体は、競馬の発祥たる英国貴族の独自の価値観を色濃く反映したものだが、英国競馬の体系や思想を継受した日本競馬においても、その影響は厳然と存在している。日本でも競走馬の血統が牝系を中心として語られることは同様であり、そしていくつかの牝系は、その実績によって「名牝系」として認知されてきた。

 その中で、古い歴史と高い知名度と人気を誇る一族のひとつが、1957年に日本に輸入されたマイリーを祖とする牝系である。牝祖の名をとって「マイリー系」とも呼ばれるこの牝系は、過去にイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーといった多くの記録と記憶に残る名馬を輩出し、いつしか「華麗なる一族」と謳われるようになっていった。今回のサラブレッド列伝の主人公であるダイイチルビーは、そんな「華麗なる一族」の正当な後継者として生を受けた牝馬である。

 「華麗なる一族」の栄光を代表する母、そして「天馬」と呼ばれた父との間に生まれたダイイチルビーは、その輝かしい血統ゆえに、生まれながらに注目を集める存在だった。そんな彼女のクラシック戦線での戦績は振るわず、一時「不肖の娘」とされたこともあったものの、古馬になって一族の宿命ともされていた「逃げ」から正反対の「追い込み」へと脚質を転換したその時から、彼女の栄光の道は始まった。名馬ひしめく古馬マイル路線に乗り込んだ彼女は、牡馬たちに伍するどころか、彼らを次々と叩きのめして1991年の安田記念(Gl)とスプリンターズS(Gl)を制し、名マイラーとしての名誉と賞賛をほしいままにしたのである。彼女がその名に背負う「ルビー」は、「情熱」「威厳」「不滅」「深い愛情」などを象徴する宝石とされているが、彼女の競馬は、そんな数々の言葉にも恥じないものだった。

 だが、そんな彼女の前に大きく立ちはだかったのが、嵐のような激しさでマイル戦線を荒らし回る同年齢の強豪マイラー・ダイタクヘリオスだった。ダイタクヘリオスは、派手とは言い難い一族に生まれながら自らの実力をもって人々の注目を集め、宿命に抗うようなしぶとく粘り強い先行力を武器としており、ダイイチルビーとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていった。

 そこで今回は、あらゆる意味で対照的な存在であり、そうであればこそ華のような華麗さと嵐のような激しさで、同じ時代のマイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にした2頭の軌跡を語ってみたい。

『名牝マイリーから』

 ダイイチルビーは、1987年4月15日、当時日本で屈指の名門牧場として知られていた浦河の荻伏牧場で生を受けた。父が「天馬」トウショウボーイ、母がハギノトップレディという血統は、内国産馬としては間違いなく最高級のものである。日本の馬産界が誇る名血を一身に注がれて誕生したダイイチルビーは、生まれながらにして名牝マイリー系、世に「華麗なる一族」とうたわれる名牝系の正統なる後継者となることを宿命づけられていた。

 ダイイチルビーについて語るためには、まず彼女自身を基礎づけたその血統、「華麗なる一族」について語らなければならない。牝系としてのマイリー系、人呼んで「華麗なる一族」と称される一族の始まりは、1957年、牝祖マイリーが英国から日本へと輸入された時に遡る。

 当時の荻伏牧場は、繁殖牝馬が一桁の小さな馬産農家にすぎなかった。しかし、当時の当主である斉藤卯助氏は、日本競馬の将来を見据えると、今のうちに海外の新しい血を導入しなければ、時代の変化についていけなくなると考えていた。1956年、そんな卯助氏が英国に飛び、現地で買い付けてきた何頭かの繁殖牝馬の中に、後の名牝マイリーが含まれていた。

 ところで、現在こそ繁殖牝馬の輸入には飛行機を使うことが当たり前になっているが、当時は繁殖牝馬を飛行機で運ぶなどということは考えられない時代だった。マイリーたちの輸送方法も飛行機ではなく船で、アフリカ大陸の南端からユーラシア大陸沿いの海路をとって日本へ向かった。

 ところが、マイリーたちを乗せた船の運航中、運悪く航路の中東は、スエズ動乱で大混乱に陥ってしまった。船は戦乱に巻き込まれることを防ぐため、やむなく航路を大幅に変更したが、それで大きな影響を受けたのは、船上のマイリーたちだった。マイリーは英国で受胎した英国2000ギニー馬ニアルーラの子の出産を控えていたが、大幅な航路変更のおかげで到着予定日が大幅に遅れたため、このままでは船上の出産になってしまいかねない状況に陥ったのである。荻伏牧場の人々は、おおいにあわてた。

「このままでは、子供が産まれてしまう!」

 もともとたくさんの繁殖牝馬の中からマイリーを選んだのは、マイリー自身の魅力に惹かれたというよりも、英2000ギニー馬ニアルーラの子を、海外で種付けした繁殖牝馬を日本へ持ち込むことによって日本で生まれた「持込馬」として走らせたいということの方が大きかった。しかし、もしマイリーが日本に入国する前にその子を出産してしまうと、その子馬は「外国産馬」となり、クラシックをはじめ、出走できるレースが大きく制限されてしまう。・・・後に持込馬マルゼンスキーによってクローズアップされる「持込馬はクラシックに出られない」という悲劇は、実は1971年に導入されたもので、それ以前の持込馬は、内国産馬と同じく普通にクラシックへの出走権があったことは、注意を要する。

閑話休題。到着予定日になってもいっこうに到着しないマイリーに、彼らの焦りは募ったが、馬が海の彼方にいるのでは、どうしようもない。彼らは胸をつく不安にさいなまれながら、船の到着を今か今かと待ちわびていた。

 マイリーたちを乗せた船が横浜港に入港したのは、年が変わった57年2月下旬で、馬産地は既に出産シーズンに入りつつあった。船を迎えに行った牧場の人々は、まだマイリーのお腹が大きいことを確認し、ほっとしたという。・・・そのマイリーが初子を出産したのは、なんと船の横浜港入港からわずか2日後のことだった。

『華麗なる一族』

 こうしてかろうじて持込馬=内国産馬の資格を得たマイリーの初子となる牝馬は「キユーピット」と名付けられ、現役時代を通じて通算35戦9勝の戦績を残した。牝馬ながらに9勝をあげた彼女は、高い期待とともに繁殖入りしたものの、3頭の子を残しただけで死んでしまい、その牝系はすぐに途絶えてしまうかとも思われた。

 しかし、その数少ないキユーピット産駒の1頭であるヤマピットは、早速マイリーの血の底力を競馬界に知らしめることに成功した。ヤマピットは島田功騎手を背にオークスを逃げ切ったばかりか、古馬になってからも大阪杯、鳴尾記念などを勝ち、重賞を5勝したのである。

 こうしてマイリー系の底力を最初に世に広く知らしめたヤマピットは、繁殖牝馬として子孫にその血を伝えていくことになった。ところが、そのヤマピットが牡馬を1頭生んだだけで急死してしまったため、ヤマピットの代わりとして急きょ牧場へ呼び戻されたのが、ヤマピットの妹のミスマルミチだった。

 重賞勝ちこそないものの、31戦8勝の戦績を残していたミスマルミチの系統が、現在につながるマイリー系である。ミスマルミチの初子は、「一刀両断」から馬名をとってイットーと名づけられたが、そのイットーは高松宮記念、スワンSを勝つなど15戦7勝の実績を残した。

 このころになると、それまでヤマピット、ミスマルミチ、イットーといった個々の馬の活躍としかとらえられていなかった彼女たちの活躍は、「マイリー系」という一族の活躍としてとらえられるようになり始めた。不思議と牡馬よりも牝馬が活躍するこの一族は、ある名門の女系家族における野望と権力闘争を描いた山崎豊子のベストセラーのタイトルにちなんで「華麗なる一族」と呼ばれるようになっていった。・・・ダイイチルビーの母ハギノトップレディは、そんな「華麗なる一族」の栄光を象徴する名馬の中の名馬である。

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フレッシュボイス列伝~雪、降りやまず~ https://retsuden.com/horse_information/2021/25/312/ https://retsuden.com/horse_information/2021/25/312/#respond Sat, 25 Sep 2021 04:28:07 +0000 https://retsuden.com/?p=312 1883年5月9日生。2007年6月12日死亡。牡。鹿毛。小笠原牧場(静内)産。
 父フィリップオブスペイン、母シャトーバード(母父ダイハード)。境直行厩舎(栗東)。
 通算成績は、26戦7勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、安田記念(Gl)、産経大阪杯(Gll)、 日経新春杯(Gll)、毎日杯(Glll)、シンザン記念(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『常識を超えた馬』

 競馬界には、「常識」と呼ばれるものが無数に存在している。馬の血統、個性、レースの展開、騎手の手腕、性格、人間関係など、様々な局面で気まぐれに顔を覗かせる「常識」は、ファンの予想に大きな影響を与える。時にはとんでもない誤解や勘違いで道を踏み外しながら、自分自身の「常識」を発見していくのも、競馬の楽しみ方のひとつである。自分自身の「常識」が、不特定多数の議論を経て競馬界の新しい「常識」としてとりいれられていくことは、インターネット時代を迎えた現代においては、それほど珍しいことではない。

 世に広く受け入れられている「常識」の中のひとつに、「湿った芝では差し脚が殺されるため、前残りになる」というものがある。少なくとも芝のレースの場合、雨や雪によって馬場状態が悪化すると、直線での加速がつきにくくなり、最高速度も低下せざるを得ないことから、直線の瞬発力に賭けるタイプの馬たちに不利となることが多い。このような馬場で後方からの差しや追い込みタイプの馬が届きにくいことは、確かな事実として存在する。

 しかし、時にはこのような「常識」を覆す存在が現れるのも、競馬の奥深さと面白さである。1987年の安田記念(Gl)を制したフレッシュボイスは、そんな常識破りの馬の1頭だった。彼は極端な追い込み一手の脚質でありながら、不良馬場や重馬場を得意とする、日本競馬の「常識」を超えた特異な馬だったのである。

『名門牧場の危機』

フレッシュボイスは、1983年5月9日、当時静内にあった小笠原牧場で生をうけた。当時、小笠原牧場といえば、静内近辺では古い歴史を持つ名門牧場のひとつとして知られており、かつては1952年の皐月賞、ダービーでともに2着したカミサカエを出したこともあった。

 小笠原牧場の歴史を支えたのは、セフトニヤという繁殖牝馬まで遡る牝系である。太平洋戦争が終わった1945年に生まれたこの牝馬は、前記のカミサカエのほかにも京阪杯を勝ったタイセフトを出し、さらに彼女の娘たちからはさらに多くの活躍馬を出した。セフトニヤを祖とする一族の中でも、孫にあたるベロナは、1965年のオークスを制している。

 しかし、セフトニヤ系が繁栄する一方で、牝系の総本山とも言うべき小笠原牧場は、その恩恵に浴することができなかった。当時の当主が50歳にならない若さで急逝する悲劇に見舞われた小笠原牧場は、跡を継ぐべき子供たちが未成年であり、唯一の男手である婿も20代半ばだった上、馬産とはまったく無縁の公務員をしていた・・・という状況の中で、存亡の危機を迎えた。残された人々は、牧場を続けていくために、やむを得ず繁殖牝馬を大幅に整理して規模を縮小せざるを得なかったのである。その後競馬場で活躍したのは、ことごとくよその牧場に流出した繁殖牝馬の子供たちばかりだった。

 そんな苦境にあって、小笠原牧場に残った数少ないセフトニヤ系の繁殖牝馬の末裔が、フレッシュボイスの母となるシャトーハードだった。ただ、フレッシュボイスが活躍する以前のシャトーハードは、決して優れた繁殖牝馬として評価されていたわけではなかった。彼女自身はあまりの気性の激しさに競走馬としてデビューすることができなかったし、彼女の子供たちも、母の激しすぎる気性を受け継ぎ、大成を阻まれていた。

 こうした結果を受けて小笠原牧場の人々が考えたのは、

「穏やかな気性でシャトーハードの気性の激しさを打ち消してくれるような種牡馬はいないものか」

ということであり、そうして選ばれたのがフィリップオブスペインだった。

『血の神秘』

 フィリップオブスペインは、英国で9戦1勝という戦績を残している。生涯唯一の勝ち鞍が3歳限定の5ハロン戦であるニューS(英Glll)という重賞だという事実は、わが国の競馬とはまったく異なる本場のレース体系の奥深さを物語る。他にも、3歳限定の6ハロン戦ミドルパークS(英Gl)、ジムクラックS(英Gl)でクビ差の2着に入った実績があり、競走馬としては典型的な早熟のスプリンターだった。

 3年間英国で種牡馬生活を送った後に日本へ輸入されたフィリップオブスペインは、日本の水が合ったのか、なかなかの成功を収めた。フレッシュボイスのほかにも高松宮杯(Gll)を勝ったミスタースペイン、京王杯(現京成杯)SCを勝ったエビスクラウン、生涯103戦を走り抜いた文字通りの「百戦錬馬」(?)スペインランドなどを出したその種牡馬成績は、現役時代の競走成績に比べると上出来の部類に入るだろう。

 フィリップオブスペインの子供は、気性がおとなしく、長い活躍が見込めるという特徴があった。小笠原牧場の人々は、フィリップオブスペインの血にシャトーハードの気性難を打ち消す役割を託した。・・・そして、フィリップオブスペインの子として生まれたシャトーハードの6番目の子となる鹿毛の牡馬は、牧場の人々の狙いどおり、とてもおとなしく、賢い子馬だった。父の穏やかな気性を受け継いで人間の手もあまりわずらわせることがなかったという彼は、やがて「フレッシュボイス」という名を与えられ、中央競馬へとデビューすることになった。

『月見草のように』

 3歳になって境直行厩舎へと入厩したフレッシュボイスは、やがて福島へと連れていかれ、芝1000mの新馬戦でデビューすることになった。父の実績からすれば、平坦コースの3歳戦、それも短距離というのは、格好の稼ぎ時といえた。10月というデビュー時期も、有力馬が中央開催でデビューする中でのローカル開催にあたり、相手関係がかなり楽な時期である。

 ところが、このレースでのフレッシュボイスは、11頭だての7番人気に過ぎなかった。少なくともこの時期のフレッシュボイスは、ファンの注目を集める存在ではなかった。

 不良馬場でのレースとなったデビュー戦を、生涯ただ一度の逃げ切りで制したフレッシュボイスは、次走のきんもくせい特別(400万下)では、7頭だての6番人気ながら見事な差し切り勝ちを収め、2連勝を飾った。続く福島3歳Sでも、8頭だて5番人気の低評価に甘んじながら、鋭い追い込みで3着に入った。

 フレッシュボイスの3歳戦は、福島での3戦だけに終わった。しかし、その戦績は3戦2勝3着1回という立派なものだった。デビュー前の注目度、そしてこの3戦での単勝人気を考えれば、上々の戦果だった。

『始まりの季節』

 3歳時は勝っても勝っても評価が上がらなかったフレッシュボイスだったが、さすがにこれだけ好走を続けると、周囲の視線も変わってきた。4歳初戦で初めて重賞に挑むことになったフレッシュボイスは、そのシンザン記念(Glll)では、2番人気に支持された。

「早く追い出すと末が甘くなるから、坂を登り切るまでは行くな・・・」

 境師の指示を受けた古小路重男騎手も後方待機で待ちの競馬に徹し、最後はクビ差抜け出しての重賞制覇を果たした。後にフレッシュボイスの最大の武器となる瞬発力は、この時点から既に芽ぶきつつあった。

 だが、フレッシュボイスの名前が本当の意味での全国区になったのは、次走の毎日杯(Glll)でのことだった。当時の毎日杯は、クラシックを目指す関西馬が賞金を加算して皐月賞へと参戦する最後のチャンスであり、「東上列車最終便」とも呼ばれていた。フレッシュボイスの場合、シンザン記念優勝の実績があって賞金は足りているとはいえ、血統的に距離への対応力が疑問視されており、2000mの毎日杯での結果は、今後のクラシックに向けた大きな試金石と位置づけられていた。

 毎日杯当日、阪神競馬場には雪が降りしきっていた。フレッシュボイスの最大の持ち味である瞬発力が殺されてしまいかねない天候と馬場状態は、フレッシュボイス陣営の人々にとって、不安以外の何者でもなかった。

 しかも、フレッシュボイスは、本賞金の多さゆえに他の出走馬たちより1kg重い56kgの斤量を背負い、鞍上も障害戦で落馬して負傷した古小路騎手からテン乗りの田原成貴騎手へ乗り替わっていた。様々な要因が重なってファンの不安も募り、この日のフレッシュボイスはタケノコマヨシに次ぐ2番人気にとどまっていた。

『雪はやんだ・・・』

 しかし、そんな不安を振り払うかのように、フレッシュボイスは圧勝した。スタートから立ち後れ気味になって最後方からの競馬となったフレッシュボイスだったが、向こう正面でまだ一番後ろにいたにもかかわらず、第3コーナーを過ぎると、みるみる進出を開始した。そして、直線に入ると、一完歩、一完歩ごとに、他の馬とは次元の違うパワーで鬼脚を爆発させ、最終的には2着に3馬身半差をつけて圧勝を飾ったのである。

 この日の実況を担当した関西競馬中継の名物アナウンサー・杉本清氏は

「雪はやんだ、フレッシュボイスだ!」

と実況した。この実況はいわゆる「杉本節」のひとつとして後世に語り継がれているが、フレッシュボイスの名前も、当時の競馬界に「杉本節」の広がりとともに知られるようになっていった。・・・当日の降りしきる雪は、レースの間に弱まってはいたが、ゴール後も降り続いているようにしか見えなかったというのは、どうでもいい話である。

 毎日杯を勝ったことで2000mの距離にも対応できることを証明したフレッシュボイスは、1986年牡馬クラシックロードを歩んでいくことになった。毎日杯での見事な騎乗が評価され、フレッシュボイスの主戦騎手は田原騎手が務めることになり、古小路騎手がその後フレッシュボイスに再び騎乗することはなかった。古小路騎手にとって、乗り替わりの原因となった負傷は、あまりに痛いものとなってしまった。

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ハッピープログレス列伝~時代に消えた三冠の季節~ https://retsuden.com/horse_information/2021/12/91/ https://retsuden.com/horse_information/2021/12/91/#respond Sun, 12 Sep 2021 00:10:00 +0000 https://retsuden.com/?p=91  1978年4月15日生。牡。2000年4月8日死亡。栗毛。村上牧場(三石)産。
 父フリートウィング、母シングルワン(母父ヴィエナ)。山本正司厩舎(栗東)。
 通算成績は、27戦11勝(旧3-7歳時)。主な勝ち鞍は、1984年安田記念(Gl)、
 1984年京王杯SC(Gll)、1984年スプリンターズS(Glll)、1984年CBC賞(Glll)、
 1983年阪急杯(重賞)、1982年CBC賞(重賞)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『短距離三冠馬』

 グレード制導入以前の日本競馬のレース体系を現在と比較した場合、最も目につく変化は、短距離戦線の位置づけであろう。かつては中長距離戦線で通用しなかった馬たちの敗者復活戦、あるいは二軍ともいうべき位置づけしかされてこなかった短距離戦線だが、やがて「短距離のスペシャリスト」ともいうべきサラブレッドたちの存在意義が広く認識されるようになり、高く評価されるようになってきた。1998年には、2000m以上のレースへの出走歴すらなかったタイキシャトルが、短距離戦線と海外での活躍を高く評価されてJRA年度代表馬に輝いており、日本競馬界では、短距離戦線の名馬が中長距離戦線の名馬と並び、場合によっては凌ぐ評価を受ける例も現れ始めている。「短距離レースは中長距離レースの二軍・・・」などと言われていた評価は、どうやら過去の歴史となりつつあるようである。

 かつて、1600m以下の短距離レースは、3歳戦ならいざ知らず、4歳以上では、レース体系も何もなく、ただ重賞やオープン等のレースが適当に組まれているような状態だった。日本競馬で短距離戦線のレース体系がまともに整備され始めたのは、グレード制が導入された1984年のことといってよい。この時に芝1600mが短距離戦線の基幹距離として位置づけられ、春はそれまでハンデ戦として行われていた安田記念を衣替えし、秋は新しくマイルCSを新設する形で、新たにGlとして格付けされたことになる。このふたつのレースを頂点とする短距離戦線が体系的に組み直されることによって、それまでの短距離不遇の時代がようやく終わりを告げ、現代短距離戦線の歴史が幕を上げたのである。

 そのことを前提として「初代短距離王はどの馬か」と尋ねられた場合、大多数のファンが挙げるのは、ニホンピロウイナーだろう。短距離戦線の夜明けとともに競馬界に台頭したニホンピロウイナーは、マイルCS連覇、安田記念優勝をはじめとする輝かしい戦績を残しており、この馬がマイル以下の短距離戦線で誇った絶対的な強さは、間違いなく短距離界のひとつの伝説だった。ニホンピロウイナーの名前は、短距離界の黎明期に現れた時代に求められし名馬として、その名を永遠に語り継がれることになるだろう。

 しかし、そんなニホンピロウイナーの栄光と名声の陰で、同じ時代を生きたもう1頭の名短距離馬は、何かと忘れられがちである。1984年の安田記念(Gl)、すなわち日本競馬史上初めての1600mでのGlを制したのは、ニホンピロウイナーではなく、7歳馬ハッピープログレスだった。しかも、ハッピープログレスが同年春に制したのは、当時、春の短距離戦線の中核として位置づけられていたスプリンターズS(Glll)、京王杯スプリングC(Gll)、そして安田記念(Gl)という「春の短距離三冠」のすべてのレースであった。

 そんなハッピーブログレスの実力と功績は、故障で戦線を離れていた2歳下のニホンピロウイナーが復帰した秋の直接対決で敗れて短距離界がニホンピロウイナーの名の下に統一されたこと、そしてハッピープログレスの最大の栄光となるはずだった「短距離三冠」自体が廃れてしまったことから、競馬界からは早い時期に忘れられてしまうに至った。しかし、長い時間をかけて熟成され、7歳にしてようやく花開いた晩成の短距離馬ハッピープログレスの戦いは、本来日本競馬の短距離戦線の歴史の中で、もっと語られてもよいはずである。

 短距離戦線が評価を高め、日本競馬の柱の一つとして認識されるようになった現在だからこそ、その黎明期に現れた名馬、そして今のファンから忘れられつつある存在を思い返す必要がある。旧時代と新時代の双方を生き、そしてその境目に一瞬の栄光をつかんだハッピープログレスという名短距離馬がいたことを、そしてその彼が、新時代の王者に時代を譲り、やがて自らは、「短距離三冠」といういまや忘れ去られつつあるレース体系とともに、人知れず遠い記憶の彼方へと消えていったということを・・・。

『 ルーツ 』

 ハッピープログレスが生まれたのは、北海道・三石の村上牧場である。村上牧場は、牧場自体の歴史は明治時代まで遡るものの、サラプレッドの生産を始めたのは1970年に入ってからだったという。

 村上牧場がサラブレッドの生産を始めたきっかけは、それまで馬産といえばアラブだった村上牧場に対し、レスリーカリムという繁殖牝馬を子分けとして預かってほしいという依頼が舞い込んだことだった。レスリーカリムは重賞での実績こそないものの、中央競馬で29戦3勝という実績を残しており、サラブレッドの生産を手がけていない農家がサラブレッド生産を始めようとしても、そのレベルの繁殖牝馬はそう簡単に手に入れられるものではなかった。村上牧場は、それを機会にサラブレッドの生産に乗り出したのである。

 村上牧場にやってきたレスリーカリムは、村上牧場の生産馬となる何頭もの子供たちを競馬場へと送り出してくれた。その中の1頭が、ハッピープログレスの母・シングルワンだった。

 シングルワンは、競走馬としてはまったく使いものにならず、中央競馬への入厩こそ果たしたものの、戦績は3戦して未勝利、それどころか3戦で負かした馬はたった1頭だった。そのため馬主は、シングルワンを手放すことにしたが、そのことを聞いた村上牧場は、馬主から彼女を譲り受けて牧場に連れ帰り、子分けではなく村上牧場の純然たる所有馬として、牧場の基礎牝馬にすることにした。

 シングルワンの一族は、短距離で確実に走る子が多く出る反面、故障で大成できないまま終わる馬が多いという特徴があった。村上牧場の人々は、配合にあたって、まずシングルワンの血統の弱点を補うことを考えた。そして初年度の交配相手に選ばれたのが、輸入種牡馬フリートウイングだった。

 フリートウイングは、米国で走って70戦26勝という成績を残しており、タフで頑丈さを売り物にしていた。また、彼自身は6ハロンから7ハロンのレースで実績を残しており、短距離血統のシングルワンとなら産駒の傾向も読みやすい。・・・実際には種牡馬としてフリートホープ(日経新春杯)、フリートマウント(京都大障害2回)などスタミナのある子も出したフリートウイングだが、当時はそうした傾向までは一般に広まっていなかった。

『師』

 丈夫な馬を作りたい、という狙いをこめて配合されたハッピープログレスだったが、生まれた当初の彼は、馬格があまり立派ではなかった。そのため村上牧場の人々は、この馬が本当に競走馬になれるのか、ということから心配しなければならなかった。

 しかし、幼いハッピープログレスは、馬体は小さくても態度は大きかったという。同期の中で一番のリーダー格だったという彼は、仲間を従えていつも偉そうにしていたという。心配されていた馬体の小ささも、途中で順調に成長して他の馬に追いつき追い越していったため、心配は杞憂に終わった。彼はデビュー当初から470kg前後の馬体重を誇り、現役末期には500kgを超えることもしばしばだった。

 閑話休題。3歳になったハッピープログレスは、幸い800万円で買い手が見つかり、栗東・山本正司厩舎に入厩することが決まった。山本師といえば、後には「松永幹夫騎手の師匠」として有名になるが、本来は彼も騎手出身であり、しかも騎手時代には、キーストンの主戦騎手としてダービージョッキーになっている。キーストンが生涯最後のレースとなった阪神大賞典でレース中に骨折して予後不良となった時、彼は落馬して地面に投げ出されたが、気を失っていた彼に三本脚のキーストンが懸命に歩み寄り、彼を気遣うように顔を寄せてきたという哀しいエピソードは、あまりにも有名である。

 山本師は、この事故の後

「キーストンの子に乗る楽しみがなくなってしまった・・・」

と悲しんだが、その5年ほど後には本当に騎手を引退し、調教師に転身することになった。調教師となった山本師は、1978年の桜花賞馬オヤマテスコを育てるなどかなりの実績を残している。

『距離の壁』

 山本厩舎に入厩したハッピープログレスは、将来性豊かな素質馬として、周囲の期待を集めた。デビュー戦こそ1番人気を裏切る5着に敗退したハッピープログレスだったが、その後は期待折り返しの新馬戦、400万下、そして中京3歳Sと3連勝を飾った。1980年の3歳戦線を4戦3勝で終えたハッピープログレスの周辺では、

「順調にいけば、クラシックも狙えるのではないか・・・」

という期待もささやかれるようになっていった。

 しかし、そんなハッピープログレスを待ち受けていたのは、クラシックを狙う馬なら必ず乗り越えなければならない壁・・・距離の壁だった。

 ハッピープログレスは、1981年の4歳初戦として選んだオープン平場戦で、2番人気を裏切る最下位に大敗した。先行しながら後半脚をなくしてずるずると沈んでいくさまに、山本師は

「これでは、さらに距離が延長されるクラシックでぶつかる強敵たちと渡り合えるはずもない・・・」

と判断し、クラシックをあっさり断念した。その後のハッピープログレスは、自分自身の距離適性と血統に合った短距離路線を歩むことになった。

『雌伏の時』

 しかし、せっかくクラシックを諦めてまで目標を短距離戦線に切り替えたハッピープログレスだったが、最初はなかなか結果が出なかった。4歳時は6戦走って3着が2回、あとは全部掲示板にも載れない惨敗だった。

 そんなハッピープログレスに対し、ファンから寄せられたのは、3歳時は4戦3勝ながら4歳時は1勝もできなかったことから早熟馬説、あるいは3勝のうち2勝がダート馬だったことからダート馬説なども流れたが、この成績では、ハッピープログレス陣営の人々がこれらの声に反論することもできない。

 ハッピープログレスが復調の気配を見せたのは、明け5歳になってからのことである。1981年を不本意なまま終えたハッピープログレスだったが、1982年は年明けすぐに、寿賞(準OP)、淀短距離S(OP)という短距離レースを2連勝したのである。着差もそれぞれ3馬身半、3馬身と大きな差をつけており、彼の本格化をうかがわせるものだった。

 山本師は、ハッピープログレスを2000mの中京記念に挑戦させることにした。2000mは明らかに彼の適距離から外れているが、気性的な成長も見られるこの時に距離の壁に挑んでおこう、とでも思ったのだろう。しかし、その結果は15着という大敗に終わった。この結果を見た山本師は、これで中長距離のレースを完全に諦め、それ以降ハッピープログレスが2000m以上のレースに出走することはなかった。

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