「チケゾーなくして列伝なし」説
ウイニングチケットの訃報に接しました…今なお存命だった20世紀のダービー馬最後の1頭に、ご冥福をお祈りいたします。orz
私にとってのウイニングチケットは、実は自分自身がリアルタイムで競馬を追うようになって2番めに認識した競走馬であり、そしてビワハヤヒデと並び、もしこの馬が存在しなかった場合、「サラブレッド列伝」が誕生していなかったかもしれなかった存在なのです。
生息地が競馬と無縁だった私は、ビワハヤヒデ・ウイニングチケット以前の名馬…オグリキャップやメジロマックイーンの名前もニュース等で知ってはいたのですが、その頃はまだ自分自身が競馬を追っていたわけではありません。
私が競馬に直接接するようになるきっかけは、1993年秋、菊花賞を控えた時期の高校の教室(!)でした。当時、生息地では珍しく競馬をたしなんでいたと思われる同級生が、始業前の時間帯にスポーツ紙を広げていたのです。
彼が読んでいる競馬面を飾っていたのは、ビワハヤヒデの見出しと写真でした。彼が競馬をたしなんでいることを知っていた私は、よせばいいのに、彼に声を掛けました。
「ビワハヤヒデ?いい名前だな。きっと、次のレースで勝つのはそいつだぞ」
…私がビワハヤヒデを強いと認識したのは、私が名前を知っていたオグリキャップとメジロマックイーンが「白い馬」=芦毛で、ビワハヤヒデも「白い馬」だったためで、「いい名前」と認めた理由は、ビワハヤヒデの名前の一部と私の名前の一部がかぶっていた、ただそれだけの理由でした。
しかし、それに対する同級生の返答は、実に冷淡なものでした。
「ビワハヤヒデ?こいつはダメだ、根性がない。・・・お前と同じでな。まあ、菊花賞はウイニングチケットのもんだ」
…当時の私は、成績こそ上位に位置し、かつ周囲からもそう認められていたはずなのですが、困ったことに、「適当に怠けていながら要領でいい点数を取っている。だから、本当に一線級にはなりきれない」という評価とワンセットでした。私の周囲では、「文句を言われない程度の結果を出したら後は適当に流す」ことを「笑六法る」(「笑六法」のルビが私の姓)などという単語も流通していたほどです。
しかし、そのようなことを正面から言われたら、私もカチンと来ます。
「何を言うか!ビワハヤヒデは強いのだ!なぜかといえば、白い!名前がいい!」
と主張し、同級生とは1週間分のパンか何かを賭けた気がします。・・・理由もへったくれもありませんが、結果は皆様のご承知の通りです。正義は勝利したのです。白い馬は強いのです。
その後、その同級生とは有馬記念で
「ビワハヤヒデは最強馬だ!」
という私に対し、
「皇帝の子、帝王こそ至高!」
という論争になり、結果はやはり皆様ご承知の通りです。当時は競馬に無知なうえにそんなに深く考えていなかったので気付いていなかったのですが、あの当時の状況でトウカイテイオー単一点を主張し、見事に雪辱を果たした彼は、相当にすごかった気がします。
ちなみに、当時の私は、父親が読んでいた漫画をチラ読みした際、その漫画の中で競馬好きのお父さんが、馬の蹄音を聞いて
「シンボリルドルフかミホシンザンか!」
と喜んでいたシーンが記憶に残っていたため、「シンボリルドルフ」という馬名は強い馬なのだろうという認識とともに知っていました(毛色は知りません)。父親は名馬で、その息子も私が魂をささげたビワハヤヒデを完膚なきまでに叩き潰すとはどれほどの名馬なのだろう、ということで、皇帝ー帝王のラインに対しても深い敬意を抱くようになっていきました。
そして、そんなやり取りを通じて競馬に興味を抱くようになった私は、「大学に進んだら競馬を追いかけたい」という野心を抱くようになっていったのです。
このように、私が競馬に関心を持ったのは1993年菊花賞であり、ウイニングチケットは、私が推すビワハヤヒデのライバルとして不可欠の役割を果たし、さらに私の反骨心に火をつけた名馬でした。もしビワハヤヒデとウイニングチケットが存在していなかった場合、「サラブレッド列伝&本紀」は誕生していなかった可能性が高いのです。