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ウイニングチケット列伝~府中が泣いたマサトコール~

 1990年3月21日生。牡。黒鹿毛。藤原牧場(静内)産。
 父トニービン、母パワフルレディ(母父マルゼンスキー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
 通算成績は、14戦6勝(3-5歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、弥生賞(Gll)、
 京都新聞杯(Gll)、ホープフルS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『政人にダービーを勝たせるために』

 わが国の中央競馬における最高のレースは何か・・・そう聞かれた時に、最も多くのホースマンがその名を挙げるのが日本ダービーであろうことは、想像するまでもなく明らかであろう。1932年に初めて開催された「東京優駿大競走」に端を発する日本ダービーの歴史は、英国のクラシックを範にとって発展してきたわが国の中央競馬の発展の歴史そのものだった。戦争による中断はあったものの、同じ年に生まれたサラブレッドたちが、同世代で1頭にしか与えられることのない「日本ダービー優勝馬」の称号と名誉を得るために繰り広げてきた数々の死闘は、多くの物語と伝説を生み出してきた。

 ダービーの歴史が区切りの第60回を迎えた1993年日本ダービーも、日本ダービー、そして日本競馬の歴史に残る名勝負のひとつに数えられている。ハイレベルといわれた有力馬、そしてそれぞれの騎手たちの激しい駆け引きと死力を尽くした激戦は、今なお多くのファンの語り草となっている。そんな歴史に残る死闘を制し、第60代日本ダービー馬の栄冠に輝いた名馬が、ウイニングチケットである。

 ウイニングチケットが語られる際には、必ず

「柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

という評価とともに語られるという特徴がある。日本競馬の歴史を紐解いても、彼のような扱いを受けるサラブレッドは、決して多くない。ウイニングチケットというサラブレッドは、日本競馬界の中でも特異な存在なのである。

 柴田騎手もまた、日本競馬の歴史の中で、独特の地位を占める存在である。騎手として通算1767勝を挙げたその実力と技術が一流だったことは、疑いの余地がない。だが、柴田騎手の最大の特徴は、数字によって表される実績より、彼自身の「侠気」ともいうべきその誠実な人柄とされる。

 柴田騎手がトップジョッキーとして君臨した時代は、騎手がある程度勝てるようになると、所属厩舎を離れてフリーとなり、なるべく多くの厩舎から勝てる馬の騎乗依頼をひとつでも多く受けようとするのが当たり前というドライな思想が、競馬界の主流となりつつある時期だった。しかし、同世代や自分より若いトップジョッキーがそうしたやり方で勝利数を伸ばしていく中で、柴田騎手は、デビュー時から所属した高松厩舎の所属騎手であり続けた。また、有力馬が大レースに臨む際、大レースの直前に、それまで騎乗していた実績のない騎手から実績のある騎手に乗り替わることは、現在はもちろんのこと、古い時代でも珍しいことではなかった。しかし、柴田騎手は自分が依頼を奪われる側ではなく新たな依頼を受ける側に立った時であっても、それまで馬を育ててきた騎手の心を思い、大レース直前で乗ったことがない馬に乗り替わるという依頼を避け、自らが大レースで騎乗するのは、あくまでもそれまで自らと戦いをともにしてきた馬・・・という理想に忠実であろうとしたことでも知られている。

 そのような騎乗スタイルは、勝利数や重賞、Gl勝ちといった数字によって表される実績を積み上げるためには、マイナス材料としかなり得ない。現に、柴田騎手が騎手として晩年を迎えるころには、彼のようなスタイルはもはや旧時代の遺物として、ほぼ淘汰されつつあった。だが、柴田騎手は、そのことを誰よりも理解していながら、あくまでも自らの思い・・・信念に忠実であり続けた。そして、ファンもまた、そんな無骨で不器用な生き方しかできなかった彼を愛したのである。

 そんな古風な男が最後までこだわったレースが、日本ダービーである。時代の変化とともに、ドライになっていく一方の日本競馬の中で、最後まで自分の生き方を貫きながら超一流の実績を残してきた彼が、どうしても手にすることのできなかった勲章・・・皮肉なことに、それが日本競馬の伝統を象徴し、最高のレースとして位置づけられてきた日本ダービーだった。年齢を重ね、自身に残された騎手生活はわずかであることを悟って

「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい・・・」

と言い続けた柴田騎手の熱情にもかかわらず、ダービーの女神は彼を袖にし続けてきた。

 そんな柴田騎手に、「ダービー・ジョッキー」の栄光をもたらしたのが、ウイニングチケットだった。それまで幾度もの挫折と危機を経てようやく最高の栄誉を手にした彼ら・・・柴田騎手とウイニングチケットは、間違いなく日本競馬史上最高の名場面の主役として輝いていた。ゆえに人はウイニングチケットのことを

「政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

と呼んだのである。

 今回のサラブレッド列伝では、日本ダービーの歴史の1ページを飾ったサラブレッドであるウイニングチケットの、柴田騎手とともに歩んだ戦いの軌跡に焦点を当ててみたい。

『眠れる名血』

 ウイニングチケットは、過去にサクラユタカオー、サクラスターオーなど多くの名馬を生産した歴史を持つ静内の名門牧場・藤原牧場で生まれた。その血統は、父が凱旋門賞馬トニービン、母が未出走馬パワフルレディというものである。

 ウイニングチケットが出現するまでの間、繁殖牝馬としてのパワフルレディの成績は、決して芳しいものではなかった。マルゼンスキーの娘であり、名牝スターロッチ系の末裔・・・という血統背景自体は魅力的なものだったが、問題は肝心の産駒成績である。ウイニングチケットの兄姉たちにはろくな成績を残した馬がおらず、中には「尻尾がない馬」までいたという。

 しかし、藤原牧場の人々は、毎年期待を裏切り続けるパワフルレディとその子供たちを見ながら、

「こんな筈はないのに・・・」

と思い続けていた。パワフルレディの血統、そして彼女自身に眠っている底力を引き出せないのはなぜなのか、どうすればそれらを引き出すことができるのかを、懸命に分析してみた。

 そして藤原牧場の人々がたどり着いた結論は、それまで体の柔らかそうな種牡馬ばかりと交配していたことがいけなかったのではないか、というものだった。パワフルレディ自身はたいへん柔らかい体を持っており、藤原牧場では、その長所をさらに伸ばそうとして、それまでは、やはり体の柔らかい種牡馬ばかりを交配していた。だが、実際に生まれてくるのは体が柔らかいというよりは、競走馬としての丈夫さ、頑丈さに欠ける子供たちばかりだった。そこで一念発起した藤原牧場の人々は、それまでの配合とは反対に、体が堅いタイプの種牡馬を付けてみることにした。

 パワフルレディの新しい配合相手として選ばれたのは、社台ファームがポスト・ノーザンテーストの担い手として輸入したばかりの新種牡馬トニービンだった。トニービンは、欧州競馬の最高峰である凱旋門賞(国際Gl)を勝った名馬である。トニービンは、引退直前の1988年ジャパンC(国際Gl)に出走してペイザバトラーの5着に敗れているが、藤原牧場の当主である藤原悟郎さんは、その際にパドックでトニービンの馬体の素晴らしさに目を引かれ、シンジケートに加入していたのである。

『名伯楽の条件』

 最初、トニービンとパワフルレディとの間に生まれたウイニングチケットは、「鹿のような」線の細い馬格しかなかったため、牧場の人々をがっかりさせた。しかし、そんな華奢な子馬の資質を誰よりも早く見抜いた男がいた。それは、馬の出産シーズンを迎え、少しでも多くの生まれたばかりの当歳馬を見てその資質を見極めるため、北海道を飛び回っていた伊藤雄二調教師だった。

 伊藤師によれば、馬の資質を図る上で重要なのは、生まれた直後の立ち姿であるとのことである。生まれた直後の姿こそがその馬の持って生まれた素質を最も素直に反映している、というのが伊藤師の考え方であり、ゆえに伊藤師は、少しでもいい馬を確保するため、このシーズンは神出鬼没で馬産地を歩き回り、様々な牧場に顔を出していた。そんな伊藤師が藤原牧場へとやってきたのは、ウイニングチケットが生まれた3日後のことだった。

 伊藤師は、生まれたばかりのウイニングチケットの様子をかなり長い間つぶさに見ていたかと思うと、やがて何も言わずに栗東の伊藤厩舎へと帰ってしまった。しばらくして伊藤師が再び藤原牧場にやって来た時には、もうウイニングチケットを厩舎に迎え入れるための手配が何もかも終わっていたという。

 当時、トニービンの産駒は海のものとも山のものとも知れないため、初年度産駒を厩舎に入れる気はなかったという伊藤師だが、ウイニングチケットを見た瞬間

「この馬は走る!」

という直感が走ったという。伊藤師とウイニングチケットがここで出会ったことにより、ウイニングチケットの競走馬としての運命は、大きく動き始めた。

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