ウイニングチケット列伝~府中が泣いたマサトコール~
『名騎手の原風景』
柴田騎手は、1993年牡馬クラシック路線・・・そして日本ダービーに向けた戦いを、ウイニングチケットとともに歩むことを決意した。柴田騎手にとって、日本ダービーとは騎手になった日からの憧れであり、生涯の目標でもあったが、そうであるにもかかわらず、彼が積み重ねてきたのはダービーとの因縁を物語るエピソードであり、また敗戦と苦渋の歴史だけだった。
柴田騎手のダービーをめぐる・・・というより騎手としての生き方の原点となったのは、柴田政人騎手の原点は、若き日の「アローエクスプレス乗り替わり事件」だといわれている。デビューして4年目だった若き日の柴田騎手は、所属する高松三太厩舎が送り出すクラシック候補の逸材・アローエクスプレスと出会った。朝日杯を勝って3歳王者となったアローエクスプレスは、この年の関東4歳世代のエースとして皐月賞、そしてダービー戴冠へと期待が持たれていた。しかし、クラシックの前哨戦であるスプリングSでは、後に宿命のライバルと呼ばれることになるタニノムーティエに屈した。
柴田騎手は皐月賞、そして日本ダービーでの雪辱を誓い、これらのレースでどうやってタニノムーティエを打ち負かすか、そればかりを考えていた。
ところが、皐月賞を直前にした柴田騎手は、突然師匠でもある高松師に呼び出され、その場でアローエクスプレスからの降板と、当時関東一の騎手とされていた加賀武見騎手への乗り替わりを命じられてしまった。柴田騎手にとっては寝耳に水の、突然の降板劇だった。
若き柴田騎手は、この乗り替わりにはどうしても納得できなかった。ミスをして降ろされるのなら仕方がない。確かに自分はスプリングSでタニノムーティエに敗れた。だが、それはスプリングSの展開のあやであり、騎手である自分のミスではないということは、彼本人だけではなく競馬界の大勢、そしてほかならぬ高松師も認めるところだった。それで柴田騎手は、この敗北を糧として、どんな展開になっても勝てるようにアローエクスプレスの乗り方、そして雪辱の方法を考えていた。そんな矢先の乗り替わりである。
師匠を敬愛することでは、誰にも負けない柴田騎手だった。だが、この時だけは怒った。泣いた。
「今日はお前のせいじゃない」
スプリングSの後、そう言ったのは嘘だったのか。飲めない酒を無理矢理飲んで怒りと悔しさを忘れようとしたものの、そうするには彼の怒りと悔しさは大きすぎた。それどころか、酒の勢いで高松師のもとへ乗り込み、涙ながらに抗議した。
「生意気を言うな!」
とぶん殴られるなら、それでもいいと思っていた。
『涙』
・・・だが、実際の高松師は、柴田騎手が想像したように彼をぶん殴るどころではなかった。柴田騎手が目にしたのは、予想もしていなかった高松師の熱い涙だった。
「政人、誰よりもアローにお前を乗せてやりたいと思っているのは、この俺だ。だが、アローはお前の馬じゃない、俺の馬でもない、関東のみんなの馬だ。関東一のアローが、関西一のタニノムーティエに勝つためには、関東一の騎手じゃないといかん。悔しかったら、政人、加賀武見を超えてみい」
柴田騎手は、高松師の自分への思いを全く察することができなかった不明を恥じた。結局、アローエクスプレスのクラシック戦線は、柴田騎手ではなく加賀騎手で臨むことになった。
加賀騎手とともに皐月賞、日本ダービーへと進んだアローエクスプレスは、そのいずれでも宿敵タニノムーティエに敗れ、クラシック制覇は果たせなかった。アローエクスプレスのダービーを、柴田騎手は落馬負傷のため病院のベッドで見ることしかできなかったが、かつての愛馬がライバルの前に敗れ去っていく光景をただ見ていることしかできなかった。
さらに、柴田騎手は、加賀騎手が都合がつかないトライアルでは、本番でアローエクスプレスに乗れないことが分かっていても、アローエクスプレスに乗らなければならなかった。自分が乗ったトライアルを勝って菊花賞へ向かうアローエクスプレスを見送る彼の目には、果たして何が映っていたのだろうか。この時の悔しさは、柴田騎手の「それから」を決定づけることになった。
柴田騎手は、自分をアローエクスプレスから降板させる際に高松師が流した涙の意味、そしてそれまで手塩にかけてきた馬を他の騎手に奪われる悔しさを身をもって思い知った。彼は、一方では師の思いに応え、自らも二度と悔しい思いをしないために「降ろされない」実力を持つ一流騎手になろうと決意する反面で、自分が一流になっても、若手騎手にそんな思いをさせるようなことはするまい、と心に決めた。
やがて柴田騎手は、若き日の決意とおり、関東を代表する騎手に成長していった。柴田騎手は、「政人」というと個性派騎手として知られた吉永正人騎手の「正人」と区別がつかないため、「柴政」と呼ばれることが多かった。そんな「柴政」の名前は、かつて関東の名手としての称賛をほしいままにした「加賀武見」に並び、そしてついには超える存在となっていった。
だが、日本を代表する名騎手となった後も、柴田騎手は若き日の誓いを守り続けた。誰よりも義を重んじた柴田騎手は、自分を育ててくれた高松厩舎から離れようとはせず、師匠である高松三太師の死後は、その息子の代に至るまで高松厩舎の所属騎手であり続け、引退までフリーとなることはなかった。また、柴田騎手が他の厩舎から依頼を受けるときでも、大レースの直前に、それまで他の騎手が手塩にかけてきた馬を奪うようなことは、決してしなかった。他の騎手の馬を奪わないということは、それだけいい馬に乗るチャンスが減ることを意味する。柴田騎手自身、そのマイナスは誰よりもよく分かっていた。それでも彼は、己の節を曲げることなく、自分の育ててきた馬、あるいは他の騎手が選ばなかった馬で大レースを次々と勝つことで、自分自身の実力を証明していった。当時の競馬界で柴田騎手と並び称されることが多かったのは、同期の岡部騎手である。成績的には勝ち鞍の数、格とも岡部騎手に見劣りする彼が、常に岡部騎手と並ぶ関東の名手とみなされ続けたことには、そんな背景があった。
『遠い悲願』
こうして名騎手への道を歩んでいった柴田騎手だったが、日本競馬の最高峰である日本ダービーへの道は、遠いままだった。デビューから26年目を迎え、ダービー騎乗も18回を数える柴田騎手に、ダービー制覇のチャンスがなかったわけではない。1978年にはファンタスト、85年にもミホシンザンで皐月賞を制し、日本ダービーに最も近い騎手とみなされたこともある。
だが、柴田騎手は18回負け続けた。ファンタストは、直前追い切りの後に腹痛を発症し、本調子で走れないまま惨敗した。ミホシンザンは、骨折によって日本ダービーには出走することさえできなかった。その後菊花賞も勝ったミホシンザンは、「幻の三冠馬」となった。だが、そこに欠けていたのは、柴田騎手にとって一番大切なレースだった。
柴田騎手が以前からダービー制覇に強いこだわりを見せていたことは、競馬界の常識となっていた。1984年にダービーをはじめとする無敗のまま三冠を制した「絶対皇帝」シンボリルドルフの主戦騎手の候補には、柴田騎手の名前も挙げられていた。だが、後にシンボリルドルフの新潟デビューが決まったことから、主戦騎手は夏競馬では新潟を本拠地にしていた岡部騎手の手にわたることになった。
翌年、シンボリルドルフが岡部騎手とのコンビで日本ダービーをあっさりと勝った後、馬主兼生産者である和田共弘氏が柴田騎手と遭遇した際に
「済まなかったな、政人」
と冗談を言ったところ、柴田騎手は運命の悪戯に本気で悔しがった、とも伝えられている。
不思議な運のなさ、めぐり合わせの悪さによってチャンスを逃し続けているうちに、柴田騎手は騎手としては老境に入る44歳を迎えていた。「騎手生活の終わり」を意識する年齢になっても、いまだ宿願は果たせていない。ダービーに乗るチャンスが、自分にあと何回残されているのだろうか。そんな思いもあって、いつしか彼からは、
「ダービーに勝ったら騎手をやめてもいい」
そんな言葉まで飛び出すようになっていた。
伊藤師は、だからこそ柴田騎手のために、ウイニングチケットを用意した。関西の調教師である伊藤師も、関東の柴田騎手の人柄と実力を深く認めていた。そうであるがゆえに、彼は関東と関西の枠を超えて、なんとしてもウイニングチケットと柴田騎手のコンビを実現させようとしたのである。ウイニングチケットでダービーを勝ち、柴田騎手にダービーを勝たせるために。