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クシロキング列伝~忘れられた天皇賞馬~

 1982年5月18日生。1996年12月死亡。牡。黒鹿毛。上山牧場(浦河)産。
 父ダイアトム、母テスコカザン(母父テスコボーイ)。中野隆良厩舎(美浦)。
 通算成績は、25戦7勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・春(Gl)、中山記念(Gll)、中山金杯(Glll)。

『忘れられた天皇賞馬』

 競馬におけるグレード制度の特徴として、グレードが単なるレースの格付けにとどまらず、Glを頂点とする競馬界のレース体系を決する重要な要素となっている点が挙げられる。

 Glに格付けされたレースとは、競馬界の数あるレースの中である体系の頂点に位置づけられるものである。強い馬がGlで勝ち負けし、Glで勝ち負けする馬が強い馬として評価されることこそが、グレード制のもとでの競馬のあるべき姿である。無論ひとつのGlだけでは「体系」たり得ず、それ以前のGlやGll以下のステップレースを通じて「強い馬」がある程度見えてきたり、そうした馬がGlでころりと負けて意外な馬が勝ってしまうこともある。だが、そうした事態があまり続いてしまうと、それは「レース体系」としては欠陥があるといわなければならず、ハンデGlllあたりならいざ知らず、Glとしてのそのレースは、存在意義を疑われてしまう。

 その点、数あるGlの中でもフロックが少なく、実力どおりに決まるレースとされてきたのが、天皇賞・春(Gl)である。中央競馬のGlの中でも最も長い距離で行われる天皇賞・春の歴代勝ち馬を並べてみると、特に20世紀の勝ち馬たちは、そのほとんどが一時代を築いた名馬か、それに準ずる存在というに足りる存在である。京都3200mを舞台に行われるこのレースは、歴史と伝統を象徴する勝ち馬たちの名前が物語るとおり、フロックでは決して勝てない真の最強馬決定戦というにふさわしいレースとされてきた。

 グレード制度導入以降の20世紀における天皇賞・春の勝ち馬の中で、それ以外のGlを勝てなかったのは、わずか3頭にすぎない。84年のモンテファスト、86年のクシロキング、98年のメジロブライトだけである。そのうちモンテファストは、彼自身こそ天皇賞・春以外にGlを勝てなかったとはいえ、兄に続く天皇賞兄弟制覇を成し遂げたという血の物語を持っている。メジロブライトも、祖父アンバーシャダイ、父メジロライアンと継承された内国産馬の血脈は、十分な物語性を持っている。・・・ところが、「クシロキング」はそうではない。名馬たちの谷間の中でひっそりと勝ち馬に名を連ねる彼の存在は、歴代天皇賞・春勝ち馬の中でもあまりに希薄であり、彼の名前は、競馬ファンから完全に忘れ去られつつある。果たして歴史的名馬たちの狭間に埋もれて忘れ去られた天皇賞馬クシロキングとは、どのような馬だったのだろうか。

誕生』

 クシロキングは、北海道・浦河にある上山牧場で生まれた。上山牧場というと、かつてスプリングS、阪神大賞典など重賞を5勝したロングホークや、京都記念、日経新春杯を勝ったマサヒコボーイを出したことで知られている。当時の上山牧場にいた繁殖牝馬は14頭だったというから、個人牧場としては、普通よりやや大きめといった規模である。

 クシロキングの母・テスコカザンは、非常に骨格がしっかりした牝馬だったが、その身体があまりにも大きかったために仕上げがうまくいかず、ついに未出走のまま繁殖に上がることになってしまった。

 上山牧場では、そんなテスコカザンの配合をどうするか迷っていたところ、かねてから親交があった大塚牧場から

「ダイアトムを付けてみないか」

と誘われた。

 ダイアトムは、現役時代には、ワシントンDCインターナショナルやガネー賞を勝っており、種牡馬としてもアイルランドダービー馬を出し、英愛サイヤーランキング6位になったこともあった。しかし、14歳で日本へ輸入されてからのダイアトムは、大塚牧場で供用されてはいたものの、今ひとつ成績が上がらない状態だった。大塚牧場の人々は、欧州でも実績を残しており、実力があることは分かっているのに不遇な状態にいたダイアトムをなんとか種牡馬として成功させたいと、親しい牧場に種付けを勧誘していたのである。

 こうして決まったのが、ダイアトムとテスコカザン・・・天皇賞馬クシロキングを生み出す配合だった。テスコカザンは、翌春、ダイアトムとの間に第2仔となる黒鹿毛の牡馬、後のクシロキングを出産した。

 しかし、この仔は残念ながら、それほど見映えのする馬とはいえず、牧場の人々をがっかりさせていた。後世の結果を知っていれば

「後の天皇賞馬だから、どこかにタダモノではないと思わせるところがあったのではないか」

と期待しがちだが、クシロキングの場合は本当のタダモノだったようである。生まれた時点で目立ったものがなく、血統的にも人気といえなかった彼は、牧場にとってもあまり期待が持てない存在だった。運命がこの当歳馬のために劇的な出会いを用意していることなど、誰にも知るよしがない。

『袖を引く者』

 その年の上山牧場では、クシロキングを含めて13頭の当歳が誕生していたが、彼はその中ですら期待馬とは思われていなかった。

 ところが、そんなクシロキングの行き先は、同期の子馬たちの中でも一番先に決まった。幼いクシロキングは、彼の競走馬時代の馬主となる阿部昭氏と、運命的な出会いを果たしたのである。

 それは、クシロキングがまだ当歳の秋のことだった。阿部氏はこの年生まれた当歳馬を見に、上山牧場を訪れた。一緒に訪れた調教師が少しの間席を外したため、阿部氏は牧柵の所で子馬たちを何気なく見ていた。

 すると、1頭の子馬が突然母馬の所を離れて阿部氏のもとへ擦り寄って来た。子馬は、阿部氏の上着の匂いを嗅いだり袖口を軽く噛んでじゃれ付いてきたりして、一向に阿部氏のそばから離れようとしない。阿部氏の短からぬ馬主生活の中でも、こんな馬は初めてだった。

 阿部氏は、それまでにも多くの競走馬を所有していたものの、どの馬も条件戦止まりで、重賞はおろかオープンクラスの馬さえ持ったことがなかった。阿部氏は、

「この馬こそが自分の夢を叶えてくれる馬かも知れない」

という運命を感じとり、大喜びで上山牧場に対し、この馬をぜひ買いたいと申し出たのである。

 この申し出に驚いたのは、大塚牧場の方だった。普通庭先取引では、期待された馬、値段の高い馬から売れていく。クシロキングがそんなに早く売れるとは夢にも思っていなかった大塚牧場では、この子馬はまだ値段すら決めていなかった。

 しかし、阿部氏は牧場側があわてて決めた言い値の1500万円を即座に飲み、その場で手付け金として1000万円を支払ってまで運命の子馬を手に入れた。これが、天皇賞馬クシロキングの競走馬生活の始まりだった。

『遅れてきた大器』

 阿部氏は、自分自身が買ってきたこの子馬に、自らの出身地である釧路に因んでクシロキングという名前を与え、そのクシロキングは、美浦の中野隆良厩舎へ入厩した。中野師といえば、あのTTGの一角グリーングラスを管理したことで知られている。恵まれた環境の下で調教を積まれたクシロキングは、3歳の秋には早々にデビューした。

 もっとも、この頃のクシロキングはあまり一般の期待を集める存在ではなかった。彼が初勝利を挙げたのは4戦目の未勝利戦であり、2勝馬の身で幸運にも何とか出走を果たした皐月賞も、勝ったミホシンザンからはるかに離された13着に終わっている。

 皐月賞の後のクシロキングは、調教中に骨折したために、ダービーを断念することになった。秋に復帰は果たしたものの、実績がないだけに菊戦線に名乗りを上げることもできず、クラシック戦線は諦めて、条件戦を地道に戦うことになった。

 しかし、故障明けのクシロキングは、春とは別の馬のように成長していた。クシロキングのことを心配して電話をかけてきた上山牧場の場長に対し、中野師はこう答えたという。

「脚もとはきれいに治っているし、馬も張り切っているよ」

 その言葉を裏付けるように、クシロキングは、復帰戦を2着したあと自己条件を連勝し、阿部氏の所有馬の中で初めてのオープン馬となった。条件戦とはいっても勝ち方も抜群だったため、クシロキングはようやく、競馬界の将来を担う大器として注目を集めるようになり始めた。

『新たなる邂逅』

オープン馬となったクシロキングは、次走を中山金杯(Glll)に定めた。前走の準オープンで2着に4馬身差をつけて圧勝したことが評価され、堂々の1番人気に支持されての出走となった。

 ところが、この日クシロキングの鞍上に、主戦安田富男騎手の姿はなかった。彼は、もう1頭のお手馬だったアサカサイレントに乗るために、クシロキングを捨てたのである。1番人気でありながら鞍上に振られてしまい、レースの2日前に急遽鞍上に招かれたのは、岡部幸雄騎手だった。・・・この出会いは、クシロキングのその後の運命を大きく変えることになった。

 岡部騎手は既に前年の有馬記念でシンボリルドルフとともに連覇、そして七冠を達成するなど、この時期の大レースを一人で総なめにする、当代一の騎手だった。

 そして、名手の手綱は、クシロキングの実力を十二分に発揮させた。先行して直線で他馬を測ったように差し切るその勝ちっぷりは、クシロキングと岡部との呼吸がぴったりと合ってこそ可能となるものだった。クシロキングが見せた充実したレース内容に、そのクシロキングに直線であっという間に置いていかれたアサカサイレントの安田騎手は、唖然とするばかりだったという。こうして前年をシンボリルドルフの有馬記念で締めくくった岡部騎手は、この年のスタートもクシロキングで飾った。この勝利は、時代が単なるシンボリルドルフの時代ではなく、岡部幸雄の時代の到来であることを誰もに実感させるものだった。この勝利は、岡部騎手にとって通算999勝目にもあたっていた。

 シンボリルドルフと出会うまでの岡部騎手の評価は「一流ではあっても超一流ではない」という程度だったが、「ルドルフに競馬の深遠を教わった」と語る岡部騎手は、シンボリルドルフの引退後、ついに騎手界の第一人者としての地位を不動のものとした。シンボリルドルフなくとも、岡部は岡部。中山金杯は、そんな彼の王道の始まりだったのかもしれない。

『中距離の名馬』

 中山金杯を勝ったクシロキングの春の目標は、天皇賞・春(Gl)におかれることになった。日本のGlにおける最長距離のレースとなる天皇賞・春を目指す以上、長距離に対応できるかどうかが大きなポイントとなってくる。そこで中野師は、それまで2000mまでしか走ったことがないクシロキングの長距離適性を確かめるため、2500mの目黒記念に出走させることにした。

 このレースでのクシロキングは、ハイペースの先行集団についていったため、最後にはスタミナがなくなり、ゴール前で差されてしまった。しかし、先行勢の中ではよく頑張った3着に残っている。レース自体もレコードでの決着だったことを考えると、上々の出来といえた。

 だが、この当時は、クシロキングが乗り越えた不利はあまり意識されず、むしろ2500mで敗れたという事実のみが重視された。この敗北は、その後のクシロキングに対する距離不安説の根拠とされることとなった。

 「クシロキング中距離馬説」は、次走の中山記念で決定的なものとなった。目黒記念で3着となった後、クシロキングは中山記念へと出走することになった。このレースは、かつてミスターシービーの主戦騎手として知られた吉永正人騎手の現役最後の日でもあった。

 そんな吉永騎手の最後のレースを演出したのは、やはりクシロキングと岡部騎手だった。吉永騎手が騎乗したモンテジャパンは、「逃げか追い込みか」といわれた吉永騎手の騎乗スタイルを象徴するように逃げにかかったが、クシロキングはモンテジャパンの様子を窺うように先行集団につけ、第4コーナーあたりでは並びかけていった。「岡部乗り」ともいわれた好位からの抜け出しは、シンボリルドルフをもってミスターシービーを完膚なきまでに叩き潰した彼の得意技であり、持てる技術のすべてをもって、去りゆく吉永騎手に戦いを挑んだのである。

 最後は岡部騎手と同期の柴田政人騎手が手綱を取ったトウショウペガサスも加わり、3頭での激しい直線のデッドヒートとなったが、最後に抜け出したのはクシロキングだった。岡部騎手は、新時代の雄として、見事に旧時代の象徴たる吉永騎手に、引導を渡してみせたことになる。

 そんなドラマを演出したクシロキングにとっては、この日の勝利は中距離重賞2勝目となった。もはや、この馬が中距離ならば一線級であることを否定する者は、誰もいなくなった。こうしてクシロキングは、名馬への階段を着実に上がっていった。

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