TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~

オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~

1991年4月21日誕生。2011年8月29日死亡。牡。栗毛。加藤修甫厩舎(美浦)所属
父トニービン、母トウコウキャロル(母父ホスピタリティ)。村本牧場(新冠)。
旧3~8歳時28戦7勝。天皇賞・秋(Gl)制覇、七夕賞(Glll)、新潟記念(Glll)優勝。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『1998年11月1日』

 1998年11月1日という日付は、日本競馬における悲劇の一日として、多くのファンに記憶されている。日付を聞くだけではピンとこないファンも、「沈黙の日曜日」と聞けば、その日に何があったのかを思い出すのではないだろうか。

 この日、東京競馬場で行われた古馬の最高峰である第118回天皇賞・秋(Gl)において、当時…否、おそらくは日本競馬史上でも最高クラスの圧倒的なスピードで大逃げを打ったある馬が、ゴールを待たずして、故障による非業の最期を遂げた。このレースが大詰めを迎えたはずの直線の攻防は、本来競馬場を覆うべき喚声と歓呼ではなく、悲鳴と怒号の中で繰り広げられたと言っても過言ではない。

 しかし、果たしてこの1日は、日本競馬にとって、単なる悲劇としてのみ語り継がれるべき1日だったのだろうか。

 この日の競馬場が、誰も予期しない大きな悲劇の舞台となったこと自体は、確かに間違いのない事実である。だが、悲劇に塗り潰された府中の直線を、それでも一生懸命駆け抜け、そして古馬最高のレースを戦闘でゴールした1頭のサラブレッドの栄光は、果たしてどの程度正当に評価されただろうか。

 このレースの勝ち馬は、競走馬にとって不治の病とされる屈腱炎を3度にわたって発症しながら、決してあきらめることなく復帰に向けて戦い続け、8歳にして本格化して初めて重賞を勝ち、Glll連勝を果たし、そしてついには天皇賞・秋(Gl)で栄冠を勝ち取った。また、彼の馬主にとっては、父子二代で制覇を夢見た特別なレースをついに勝ち得た…はずだった。

 そんな彼らの栄光の象徴となるはずだった「1998年11月1日」という日付は、20年以上が経過した現在もなお、日本競馬の大多数から、「悲劇の日」として記憶されている。それは、彼らにとって、「悲劇」でなくて何と呼ぶべきなのであろうか。

 今回のサラブレッド列伝では、「1998年11月1日」に行われた第118回天皇賞・秋を制しながら、彼自身とは本来関わりのない事故によって栄光に翳を投げかけられる結果となった「悲劇」の主人公であるオフサイドトラップの軌跡をとりあげてみたい。

『ある一族の物語』

 1991年4月21日、オフサイドトラップは、繁殖牝馬トウコウキャロルと凱旋門賞馬トニービンの子として、新冠の村本牧場で生まれた。

 村本牧場の名前が、それ以前の日本競馬に華々しく登場したことはなかった。それもそのはずで、1954年の開設以来、村本牧場の生産馬が中央競馬の重賞を制したことはなかった。もっとも、優勝はなくとも、2着は過去に4回もあり、その中でも91年の金鯱賞(Glll)は、生産馬のトーワルビーが勝ち馬ムービースターにわずかにハナ差届かなかったという惜敗で、牧場の人々にも「何かの巡り合わせさえかみ合えば・・・」という思いは強かった。

 トウコウキャロルの牝系も、非常に筋の通ったものだった。彼女の牝系は、1907年に小岩井農場によって輸入された20頭の基礎牝馬の1頭であるアストニシメントまで遡る。

 アストニシメントは、小岩井農場の基礎牝馬の中でも特に成功した1頭とされており、彼女の子孫たちからは、現代にいたるまで多くの活躍馬が輩出されている。その中でもチトセホープは、61年クラシック戦線で桜花賞2着、オークス優勝の実績を残し、さらにはオークスからなんと連闘で臨んだ東京優駿でも、ハクショウとメジロオーによるハナ差決着から遅れることわずか1馬身での3着に健闘している。

 通算18戦6勝の戦績を残して引退し、繁殖牝馬となったチトセホープだが、直子の代から活躍馬を出すことはできなかった。彼女の娘で、後のオフサイドトラップに連なるミヨトウコウの戦績も、通算24戦4勝で、重賞での実績はない。しかし、彼女が馬主の渡邊喜八郎氏と出会ったことは、その後の一族の運命に、大きく深い影響をもたらした。

『宿命の邂逅』

 渡邊喜八郎氏は、「トウコウ」の冠名を持ち、1977年の菊花賞を制して「芦毛初のクラシックホース」となったことで知られるプレストウコウの馬主でもあった。そんな喜八郎氏は、「チトセホープの娘」と勧められて買ってきたミヨトウコウのことが、大のお気に入りだった。喜八郎氏は、ミヨトウコウの子はすべて自分か、息子でやはり馬主資格を取得した渡邊隆氏の勝負服で走らせるようになった。

 さらに、喜八郎氏は、繁殖に上がったミヨトウコウを、自身の所有馬であるホスピタリティと繰り返し交配したりもした。ホスピタリティは、南関東で羽田盃を勝った後、中央に転入してセントライト記念などを勝った名馬である。競走生活を通じて脚部不安と故障に悩まされ、Gl級のレースは勝てなかったものの、通算成績は11戦10勝2着1回で、唯一先着を許したのが国際競走となるオープン戦での外国馬ということで、「生涯国内の馬に先着を許さなかった」という逸話を持っている。自分の所有する種牡馬と繁殖牝馬の間に生まれた子を走らせることは「馬主冥利に尽きる」と言われるが、喜八郎氏の愛情と執念によって生まれたのが、オフサイドトラップの母となるトウコウキャロルだった。

 トウコウキャロルが競走馬時代に残した成績は8戦1勝で、重賞での実績もなかった。しかし、喜八郎氏は、トウコウキャロルが大成できなかった理由を、ホスピタリティから受け継いでしまった脚部不安とみていた。

「脚部不安さえなければ、もっと走ったはずだ…」

という喜八郎氏の思い入れは、彼女もミヨトウコウと同様に、子どもたちはすべて自分か隆氏の所有馬として走らせるという形で表現されることになった。

 そんな理由で、オフサイドトラップも、生まれた時には既に渡邊一族の所有馬として走ることが運命づけられていた。

『オフサイドトラップ』

 生産者の村本氏によれば、生まれたばかりのオフサイドトラップは、「薄っぺらくて、小さな馬」「ひょろっとした馬」だったという。これらの表現からは、期待よりも落胆が読み取れる。

 しかし、かつてトウコウキャロルも管理していた加藤修甫調教師は、当歳のうちにオフサイドトラップを見に来て、

「大きくはないけど、バランスは良いし、品のあるいい馬だな…」

と評価し、その場で加藤厩舎入りが決まった。馬主こそ前記の事情でほぼ決まってはいたものの、調教師まで決まっていたわけではなく、現に、彼の1歳下の妹、2歳下の弟は別の厩舎に入厩しているから、これはオフサイドトラップへの期待の高さを表すエピソードととってよいだろう。

 さらに、2歳の時に、オフサイドトラップは、新冠地区の品評会で最優秀賞を獲得した。そんな周囲からの高い評価が重なり、ようやく村本氏からも

「少しはやれるかもしれない・・・」

と思われ始めたオフサイドトラップへの期待は、1世代上にあたるトニービンの初年度産駒が競馬場でデビューし始めたことで、さらに大きくなった。トニービンの初年度産駒から有力馬が次々と現れ、翌年のクラシックで日本ダービー馬ウイニングチケット、二冠牝馬ベガが大輪の華を咲かせた。そんな強豪たちと同じ父を持つオフサイドトラップが評価を上げるのは、競馬界では当然の習わしだった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
TOPへ