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メジロデュレン列伝~黄金兄弟、運命の岐路~

 1983年5月1日生。2009年10月15日死亡。牡。鹿毛。吉田堅(浦河)産。
 父フィディオン、母メジロオーロラ(母父リマンド)。池江泰郎厩舎(栗東)
 通算成績は、21戦6勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、菊花賞(Gl)、天皇賞・春(Gl)

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『黄金兄弟』

 日本の馬産界には、「一腹一頭」という格言がある。それは、どんな期待の繁殖牝馬であったとしても、その生涯で本当に走る産駒は1頭送り出せれば十分成功といえるのだから、それ以上を求めてはいけない、ということを意味している。

 牡馬であれば、人気種牡馬は1年で100頭以上、生涯では2000頭以上の産駒を残すことも不可能ではない。しかし、牝馬の場合は、どんなに頑張っても1年に1頭しか子を生むことができない以上、生涯で残すことができる産駒も、せいぜい十数頭に過ぎない。1頭の牝馬から名馬が生まれる確率が本来天文学的確率であることからすれば、「一腹一頭」という言葉の説くところは、至極もっともであるといえるだろう。

 「一腹一頭」の正しさを裏付けるように、毎年何十頭もデビューする「Gl馬の弟や妹」たちの中から兄や姉を超える名馬が現れることは、滅多にない。それでも、ごくまれにGlのきょうだい制覇を果たす馬が現れることもないではないが、「名馬」の必須条件ともいえる「Gl2勝以上」を両方が記録しているきょうだいとなると、その数はさらに限定される。

 日本競馬において、輝かしい戦績を挙げたきょうだいといえば、パシフィカスを母とするビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟、スカーレットブーケを母とするダイワメジャーとダイワスカーレットの兄妹、オリエンタルアートを母とするドリームジャーニーとオルフェーヴルの兄弟などの名前が挙がる。いずれも単独でも名馬と呼ばれる水準の産駒が同じ母から生まれるという奇跡は、もっと高い評価を受けてしかるべきであろう。

 しかし、兄弟合わせてGl6勝を挙げ、その勝ち鞍もいわゆる「八大競走」か、それに準ずるレースばかりという、競馬史に特筆すべき実績を残していることは明らかなのに、その栄光が忘れられがちとなっている例もある。

 その例とは、メジロオーロラを母とするメジロデュレン、メジロマックイーン兄弟である。厳密には、弟に対する評価は、現役を退いてから約30年が経過しつつある現在においても「天皇賞親子三代制覇」という金看板を背負って誰からも「名馬」と認められている。しかし、弟と同じ2400mを超える長距離でその実力を最大限に発揮したステイヤーであり、自身も菊花賞と有馬記念という根幹Glを制したはずの兄が、現役時、そして引退後ともぱっとしない扱いを受け続けたことは、極めて残念であるというよりほかにない。

 確かに祖父、父とも芦毛の天皇賞馬であり、自らの天皇賞制覇によって父子三代天皇賞制覇という奇跡を成し遂げた弟と違い、地味な輸入種牡馬を父としていた兄に、弟のような分かりやすい物語はなかった。また、2つのGl勝ちはいずれも人気薄の時でのもので、しかもレース中に有力馬のアクシデントがあったため、印象が薄くなりがちという不幸な面もあった。しかし、そうした要素はメジロデュレンにはあずかり知らぬことである。そもそも、実力がない馬ならば、Glを2つも勝てるはずがない。

 生涯を通じて堅実な成績を収め、どんなレースでもそれなりに走った優等生の弟とは違い、兄は調子の悪い時にはまったく勝ち負けにもならず、大崩れすることが珍しくなかったため、「気分次第の一発屋」というイメージがつきまとったことは事実である。しかし、兄が勝ったレース・・・菊花賞、有馬記念優勝という実績は、弟の存在を切り離したとしても、十分「一流」の賞賛を受けるに値するものである。こと長距離で能力を最大限に発揮した時に限れば、メジロデュレンの強さは、決してメジロマックイーンに引けを取るものではなかったのではないか。さらに、メジロデュレンは、名門メジロ牧場に初めて牡馬クラシックをもたらした馬であるということも、忘れてはならない重要な事実である。私たちは、メジロデュレンという馬について、もっと正当に評価する必要があるのではないだろうか。

『名牝アサマユリ系』

 メジロデュレンは、その冠名が示すとおりに「メジロ軍団」の馬ではあるものの、生まれはメジロ牧場ではない。メジロデュレンが生まれた浦河の吉田堅牧場は、当時の繁殖牝馬10頭のすべてがメジロ牧場の仔分けであり、メジロデュレンもそんなメジロ牧場の仔分け馬メジロオーロラの子として生まれている。ちなみに、「仔分け」とは、馬主が繁殖牝馬を自らの所有馬として牧場に預け、産まれた子供の所有権は馬主が得ることをあらかじめ約束しておく方法である。

 メジロデュレンの母メジロオーロラは、メジロ牧場の基礎牝系のひとつであるアサマユリ系に属している。アサマユリは、自らの現役時代こそ平地で21戦2勝、障害で4戦未勝利とパッとしない成績に終わったものの、繁殖に上がってからは2頭の重賞馬を出しただけでなく、さらに毎年のようにターフへと送り出した産駒のうちの娘たちを通じて、その血をさらに拡げたメジロ牧場の主流血統のひとつだった。

 アサマユリの初子メジロアイリスは、平地、障害でそれぞれ3勝ずつを挙げている。そのメジロアイリスに、英国の重賞を4勝して輸入され、ダービー馬のオペックホースやオークス馬のアグネスレディーやテンモンなどを輩出した名種牡馬のリマンドが交配されて生まれたのがメジロオーロラである。

『情熱が人を動かす』

 メジロオーロラが吉田牧場にやってくることになったのは、吉田堅(かたし)牧場の先代・吉田隆氏の情熱のたまものだった。

 吉田牧場がメジロ牧場の仔分けを始めたのは、1968年ころのことである。彼の牧場の仔分け馬からは、天皇賞、有馬記念で続けてハナ差の2着に入ったり、天皇賞6回、有馬記念5年連続出走という怪記録を作ったりして「個性派」として人気があったメジロファントム、牝馬ながらにセントライト記念で菊を目指した牡馬たちを完封したメジロハイネ、そして中山大障害を勝ったメジロジュピターが次々と重賞を勝った。そして、彼らの母はすべてアサマユリ系のメジロハリマだった。

 しかも、吉田牧場から重賞を勝った3兄弟が出たのと時を同じくして、やはりアサマユリ系の繁殖牝馬を預かっていた近所の牧場の生産馬からも、同じように活躍馬が何頭か現れた。不思議なことに、吉田牧場の近所では活力ある発展を見せていたアサマユリ系なのに、メジロ牧場を含めた他の地域からは、活躍馬がなかなか出てこない。吉田氏は、いつしか

「きっと、この周辺の土地が、アサマユリ系と相性が良いのだろう・・・」

と確信するようになっていった。

 そう思っていた矢先に、アサマユリ系の出身で、しかも吉田氏がかねてからその血を導入したいと思っていた種牡馬リマンドを父とする牝馬が、「メジロオーロラ」としてデビューするという噂が飛び込んできた。当時の日高にはリマンドの娘が滅多におらず、その血を持つ繁殖牝馬もなかなか手に入らない。吉田氏はこの機をおかず、メジロオーロラを引退後には自分の牧場で預からせてもらえるよう、メジロ牧場に頼み込むことにした。

 もっとも、メジロオーロラに競走馬としてあまり良い成績を挙げられると、「預からせてください」とはいいにくくなる。メジロ牧場自身も生産牧場を持っている以上、優秀な成績を挙げた繁殖牝馬は、なるべく自分の牧場に留めておきたいというのも人情である。・・・しかし、幸か不幸かメジロオーロラは、5歳いっぱいまで走ったものの、1勝を挙げたのみで引退することになった。

 吉田氏は、メジロ牧場の総帥・北野豊吉氏に直接会った際、

「ぜひオーロラを仔分けの繁殖牝馬として預からせてもらいたい」

と頼み込んだ。すると、北野氏は、

「そんなに気に入った血統なら、どうぞ連れて行ってください」

と吉田氏の頼みを聞き入れ、繁殖に上がったばかりのメジロオーロラを吉田牧場へと送り届けたのである。

 このような事情で、吉田堅牧場がメジロオーロラを預かった時点で、彼女から生まれる子馬が将来メジロの勝負服で走ることは、既に決まっていた。

『受け継いだもの』

 仔分けの繁殖牝馬の配合については、馬主と牧場の個別の協議によって異なるようだが、メジロ牧場と吉田牧場の間では、最終的にはメジロ牧場が決めるものとされていた。繁殖に上がったばかりのメジロオーロラの初年度の交配相手として選ばれたのは、メジロ牧場がシンボリ牧場などと共同でフランスから購入したフィディオンだった。

 フィディオンの競走成績は、通算8戦2勝に過ぎない。主な勝ち鞍がボワルセル賞・・・という彼は、英国ダービーに出走してはいるものの、グランディの8着に敗れており、競走馬としては二流のまま終わったと言わなければならない。

 しかし、フィディオンの馬主は、メジロ牧場の北野豊吉氏がシンボリ牧場の和田共弘氏をはじめとする有力馬主とともに結成した日本ホースマンクラブであり、その代理人として欧州に渡った野平祐二騎手(後に調教師)が、2歳の時点で将来的な種牡馬としての資質と未知の魅力を見出して、競り落とした馬だった。当初から競走馬より種牡馬としての資質に着目されていたフィディオンは、引退後にはダンディルートらとともに日本へ連れてこられた。

 こうして日本で種牡馬入りしたフィディオンだったが、北野氏や野平師にとって計算外だったのは、この馬がとんでもない気性難だということだった。輸入したての頃に、メジロ牧場の従業員に2人立て続けに大怪我を負わせたのである。あまりにも危険なために一時は種牡馬としての供用を中止することまで検討され、結局その案は思いとどまられたものの、メジロ牧場からは追われて別の牧場で供用されることになった。

 しかし、種牡馬としてのフィディオンは、野平師の目にかなっただけのことはあり、その子供たちはなかなかの実績を残した。そう多くもない産駒の中から、京都記念と金杯を優勝し、天皇賞・春と宝塚記念で2着に入ったメジロトーマス、阪神大賞典優勝のメジロボアール、ステイヤーズS優勝のブライトシンボリ・・・といった活躍馬を次々と輩出したのである。これらの馬たちの実績をみれば分かるとおり、フィディオンは真性のステイヤー血統だった。これは、天皇賞制覇を最大の名誉とし、強いステイヤー作りを究極の理想に掲げたメジロ牧場にとって、うってつけの血統だった。

 メジロオーロラの初めての種付けに当たっても、第一に意識されていたのは、「天皇賞を勝てる馬」を作ることだった。種牡馬として実績を残しつつあったフィディオンと交配されたメジロオーロラは、1983年5月1日、やや小柄な鹿毛の初仔を産んだ。この牡馬が、後に「メジロデュレン」と名づけられ、「メジロ軍団」に初めての牡馬クラシックをもたらすことになる。

『母の愛を知らず』

 ところが、メジロオーロラは、初仔であるメジロデュレンに対して冷たい態度しか示さなかったという。メジロオーロラは、もともと気性に問題のある馬だったが、初子であるメジロデュレンに対しては、乳を飲ませることすら嫌がった。幼いメジロデュレンが乳を飲むために母のもとへとすり寄っていくと、メジロオーロラは座り込んで、メジロデュレンが乳を飲めないようにしてしまう。メジロデュレンは、生まれながらにして母に疎まれるという悲しい運命を負っていた。

 それでも無事に成長したメジロデュレンは、当歳の10月にはメジロ牧場に移され、育成のための調教を積まれるようになった。狂気の血を持つ父、子をも拒む激しさがある母。そんな両親の血と気性を受け継いだメジロデュレンも、この頃から既に気性の激しさを見せていた。

 しかし、それと同時に、彼は当歳離れした勝負根性・・・他の馬たちに決して負けまいとする強い意思を持っていた。子別れ以前から母に突き放されて育った幼いメジロデュレンは、他の同期よりもはるかに早く、ひとりで生きていくための覚悟を身につけていたのかもれない。

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