ハッピープログレス列伝~時代に消えた三冠の季節~
『新しい舞台』
こうして明確な目的意識を持って短距離戦線を歩み始めたハッピープログレスは、その後安定して好成績を残す・・・というほどではないにしても、まずは順調な競走生活を送った。ようやく本格化しかけたところで脚部不安を発症して休養を強いられたものの、82年の暮れに行われたCBC賞(重賞)では、9ヶ月ぶりという久々の不利をはねのけて重賞初制覇を果たした。1982年に入ってからは、阪急杯(重賞)を勝った。いずれも中団、またはその後方からの末脚を炸裂させたものである。他の馬がそうそうばてない短距離戦で、逃げ馬も先行馬も一気に差し切る彼の末脚は、非常に大きな破壊力を備えつつあった。
また、ハッピープログレスが阪急杯で破った相手の中には、ニホンピロウイナーもいた。皐月賞で大敗したことで日本ダービー、そして中長距離戦線への道をと諦め、4歳6月の時点で敢然と古馬に挑んだニホンピロウイナーは、この日単勝3番人気だったハッピープログレスを抑えて1番人気に支持されていた。しかし、後にマイル界の王者として君臨するニホンピロウイナーも、当時は不安定な部分を残した4歳馬に過ぎず、ハッピープログレスの豪脚の前に9着と歯が立たなかった。
ニホンピロウイナーは、その屈辱を胸に刻み、古馬たちにいずれ雪辱すべく、復讐の蹄を研ぐことになった。そして、このニホンピロウイナーは、その後のハッピープログレスの馬生と深く関わってくることになる。
もっとも、ハッピープログレスの豪脚は、脚部不安とも背中合わせのものだった。阪急杯の後、今度は深管に不安を発症して再度の休養に入ったハッピープログレスは、またも暮れのCBC賞(重賞)で復帰し、このレースの連覇を狙うことになった。・・・そのハッピープログレスの前に立ちはだかったのは、半年前にハッピープログレスに叩きのめされたものの、その後順調に成長して短距離界を代表する強豪に数えられるようになっていたニホンピロウイナーだった。ハッピープログレスは今度はいよいよ成長期を迎えた若きニホンピロウイナーの勢いをとめられず、2馬身半差で敗れた。
1983年の最優秀短距離馬に選出されたのは、ハッピープログレスではなくニホンピロウイナーだった。このころのハッピープログレスは、短距離戦線の常連とはいえても、「短距離王」というには、実績も安定性もあまりに不足していた。
『短距離三冠への道』
1984年、ハッピープログレスは7歳を迎えた。普通の馬ならば、そろそろ衰え、そして引退を意識しなければならない年齢である。ハッピープログレスの戦績は相変わらず安定しないままで、この年の初戦・淀短距離ステークスでは(OP)前年のCBC賞に続くニホンピロウイナーの2着、続くマイラーズカップでは、不良馬場に苦しんでローラーキングの4着に敗れた。
ただ、ハッピープログレス陣営が目指すものは、この時既にはっきりしていた。この年にGlとして生まれ変わった安田記念であり、またそれを含めた「短距離三冠」である。
中央競馬では、この年からG制度が導入されるにあたって、それまで未整備だった短距離戦線のレース体系が、本格的に整備され始めた。その改革によって新生短距離戦線の中核として位置づけられたのは、春の安田記念(Gl)と、新設されたマイルCS(Gl)だった。また、それとともに春については、安田記念とそれに先立つスプリンターズS(Glll)、京王杯スプリングカップ(Gll)との3つのレースをあわせて「短距離三冠」と称し、三冠をすべて制した馬には特別ボーナスが支給することが決まった。それは、中長距離戦線に比べると注目度が劣る短距離戦線に注目を集めるための新体系だった。
ハッピープログレス陣営は、この「短距離三冠」への挑戦を春の大目標に置いていた。幸いというべきか、最大のライバルとなるであろう若きライバル・ニホンピロウイナーは、春の短距離三冠の開幕を前に骨折で戦線を離脱してしまった。ニホンピロウイナーがいなければ、他の馬たちに負けるわけにはいかない。
1984年初頭はいまひとつの結果に終わったハッピープログレスだったが、それを機に調子は上向き始めた。・・・というよりも、晩成型のハッピープログレスがようやく本格化の時を迎えた、というべきなのかもしれない。ハッピープログレスは、7歳にしてようやく彼自身の全盛期へと突入していったのである。
『老雄、驀進す』
中山競馬場・芝1200m、スプリンターズS(Glll)。短距離三冠の第一弾とされるこのレースは、1990年からはGlに格付けされてスプリント王決定戦にふさわしい扱いを受けるようになったが、短距離戦線の整備が途についたばかりで、まだスプリント戦とマイル戦の区分すらされていなかった当時の格付けでは、Glllとされる代わりに「短距離三冠」のひとつとして扱われていた。
ニホンピロウイナーが故障、そしてマイラーズCでそのニホンピロウイナー、ハッピープログレスをまとめて下したローラーキングは天皇賞・春(Gl)を目指すため、やはり不出走・・・ということで、東上したハッピープログレスは、前々走、前走の敗北にも関わらず単勝260円の1番人気に支持された。ハッピープログレス陣営としても、ニホンピロウイナーがいないここでは負けるわけにはいかなかった。
そして、このレースでハッピープログレスが見せたのは、短距離最強馬と呼ばれるに値する豪快なレースだった。ハッピープログレスはもともと追い込みを得意としていたが、この日も速い流れを見切り、後方からレースを進めた。やがて第4コーナーから大外へと持ち出したハッピープログレスは、持ち前の瞬発力を爆発させた。
ただでさえ走る距離が短い1200m戦で、大外を回ることはかなりのロスになる。しかし、地力に勝るハッピープログレスには、その程度のロスは関係なかった。飯田明弘騎手は、ムチも飛ばさず軽く追っただけだったが、ハッピープログレスはそれでも鋭く反応し、2着ワールドキングに1馬身3/4差をつけて、ゴールへと飛び込んでいった。
「第4コーナーあたりで勝ったと思った。手応えがぜんぜん違っていた」
と胸を張ったのは、飯田騎手である。
続く京王杯SC(Gll)では、飯田騎手が落馬によって負傷したため、田原成貴騎手が代打として騎乗した。ここでも当然のように1番人気に支持されたハッピープログレスは、またも後方からレースを進めた。
しかし、ハッピープログレスは、他の馬たちが直線で激しい競り合いを展開する中、またも次元の違う末脚を爆発させた。短距離王を目指す西の古豪は、またも大外から末脚を爆発させると、粘るドウカンヤシマを測ったようにきっちりと差し切り、3/4馬身差をつけてゴールした。・・・これで、二冠達成である。
ハッピープログレスは、こうしてG制度元年に「短距離三冠」に王手をかけた。もはや残る関門はあとひとつ、この年Glに格付けされたばかりの安田記念だけだった。