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ハッピープログレス列伝~時代に消えた三冠の季節~

『老雄の誇り』

 スタートでは失敗したものの、その後は折り合いもついたニホンピロウイナーは、好位に控える競馬で、勝負の時機をうかがっていた。そんな彼らは、いつもならまだ最後方にいるはずのハッピープログレスが、第4コーナー付近で自分たちを凄い脚で抜いていったことに気がついた。驚いた。ハッピープログレスによる奇襲は、ここまでの段階では功を奏したように思われた。ニホンピロウイナーは、ハッピープログレスに完全に出し抜かれた・・・。

 しかし、若きマイル王の名に賭けて、ニホンピロウイナーも黙ってはいなかった。京都の下り坂で一気に動いたハッピープログレスは、第4コーナーの直線入り口で勢いがつきすぎ、うまくコーナーを回れずに大きく外へ振られる形となった。これが怖いからこそ、京都競馬場では「淀の坂はゆっくり下れ」といわれるのである。直線入り口で外に振られたことにより、ハッピープログレスは距離の面で大きなロスを強いられてしまった。ニホンピロウイナーと河内洋騎手は、ハッピープログレスが見せたその一瞬の隙を見逃さなかった。

 ニホンピロウイナーは、ここを絶好の勝機、とばかりに、好位置を利して最内の経済コースから、一気にスパートをかけた。田原騎手が懸命にハッピープログレスの立て直しを図っている間に、ニホンピロウイナーは一気に馬群から突き抜けていった。これで2頭の位置は再び逆転し、直線での一騎打ちは、やはり逃げるニホンピロウイナー、追いかけるハッピープログレスという構図となった。

 いったんは後続を突き放したニホンピロウイナーだったが、ハッピープログレスは大外から体勢を立て直すと、馬場の真ん中辺りまで切れ込んでいく。既に7歳秋を迎えた老雄ハッピープログレスは、年齢、距離不安、強引な仕掛けも何のその、最後の末脚を爆発させて、ニホンピロウイナーを追い詰めていった。2頭の差は、みるみる縮まっていく。

 しかし、下り坂でのマクりという奇襲で勝機を掴むかに見えたハッピープログレスにとって、ゴール板はわずかに近すぎた。掟破りの下り坂でのマクりという奇策の代償として彼らが支払った、直線入り口での外に振られたロスが、最後の最後にニホンピロウイナーとの距離としてハッピープログレスに重くのしかかったのである。ハッピープログレスがニホンピロウィナーをあと半馬身まで追い詰めたところが、無情にも戦いの終わりを告げるゴール板だった。脚色は明らかに追う老雄の方が良かったが、その執念もむなしく、彼は若きマイル王の戴冠を阻止することができなかった。

『南国の地で』

 ハッピープログレスはニホンピロウイナーとの最後の戦いに敗れ去った。2頭の対戦成績はハッピープログレスの1勝5敗となった。ハッピープログレスの1勝というのは、ニホンピロウイナーが本格化していなかった83年の阪急杯であることを考えると、この2頭の戦いはニホンピロウイナーの完勝に終わったといわなければならない。

 ただ、マイルCSの死闘は、春の短距離三冠馬の意地を見せるには充分なものだった。短距離においてニホンピロウィナーをここまで追い詰めた馬は、他にはいない。敗者たる彼に送られる賛辞と拍手も、決して小さなものではなかった。

 こうしてほんの少し意地を見せたハッピープログレスは、現役最後のレースとなるCBC賞(Gll)では、61kgを背負いながら優勝した。ニホンピロウイナー以外には負けないことを示し、4年間にわたる現役生活の有終の美を飾った彼は、「まだやれる」と惜しむファンたちに見送られながら、予定通りこのレースを最後に、現役を引退した。そんなハッピープログレスは、初代短距離三冠馬の功績が評価され、中央競馬界に購入された後に軽種馬協会に寄贈され、種牡馬になることになった。

 軽種馬協会といえば、多くの良質な種牡馬を安い種付け料で提供することによって、馬産レベルの底上げに大きく貢献しているが、同協会のもうひとつの特色として、全国に種馬場を持っており、各地に種牡馬を配属することでサラブレッド生産を可能にしていることも挙げられる。そして、後者の性格はハッピープログレスのその後の馬生にも大きな影響を及ぼした。ハッピープログレスが配属されたのは、馬産の中心である北海道ではなく、九州の種馬場だったのである。

 ハッピープログレスは供用初年度である1985年には26頭の牝馬に種付けして18頭の産駒を得た。翌86年は40頭に種付けして23頭の産駒が生まれ、その後もハッピープログレスは、毎年20頭前後の種付けで15頭前後の子を誕生させている。この種付け頭数は、北海道に比べて馬産の規模が小さい九州ではかなりの数字である。

 しかし、ハッピープログレスはこの中から優れた子を送り出すことができなかった。かつての宿敵ニホンピロウイナーが北海道で次々と活躍馬を出すのを横目に、ハッピープログレス産駒が重賞戦線を賑わすことはなかった。ハッピープログレスの代表産駒は中央競馬で2勝して、桜花賞(Gll)に出走したコウユウアサミという馬だったが、これもその桜花賞では16着に敗れ去り、実力の限界を示した。活躍馬を出せないハッピープログレスは、いつしか九州のエースの座も、競走馬としての実績には劣るはずのシンウルフに奪われていった。ハッピープログレスが勝ったレースも、そのうちスプリンターズSは1990年からGlに格上げされたものの、それに伴って施行時期も大きく変わり、「短距離三冠」も完全に解体され、過去の遺物となっていった。

 ハッピープログレスの名は、「短距離三冠」の風化とともに、急速に馬産界から忘れ去られていった。ハッピープログレスの種付け希望は減少の一途をたどり、その産駒を競馬場で見つけることも、どんどん難しくなっていった。

『競馬場の片隅に死す』

 いつしか種付け希望がほとんどなくなったハッピープログレスは、種牡馬としては完全に失敗に終わってしまった。そんなハッピープログレスは、やがて軽種馬協会の功労馬の養老施設となっている栃木県の日本軽種馬協会那須種馬場に移され、そこで事実上の隠居生活を送ることになった。軽種馬協会は、かつて名種牡馬ヴェンチアが種牡馬を引退した際の処遇について、激しく批判されたことがある。そのため協会は、功労馬の老後の処遇についても対策をとることにして準備を進めており、那須種馬場は、その集大成だった。

 ハッピープログレスは、那須種馬場で老後の生活を送った。この牧場には他にも二冠を達成した稀代の逃げ馬カブラヤオーや、日本ダービーと天皇賞・春を制したカツラノハイセイコ、天皇賞馬アイフルなどがおり、ハッピープログレスもここで静かな生活を送っていた・・・はずだった。

 しかし、ハッピープログレスが最期を迎えたのは、静かな牧場の片隅ではなかった。2000年4月8日、ハッピープログレスは23歳の老齢をおして、突然阪神競馬場へと姿を現した。JRA主催の桜花賞開催記念イベントに展示するため、カツラノハイセイコとともに長距離輸送の末、仁川まで連れてこられたのである。

 久しぶりに一般のファンの前に姿を現したハッピープログレスは、この日はさすがに疲れ気味で、元気がなかったという。また、競馬場を埋めたファンも、ハッピープログレスのことを知らないファンが多かった。そして・・・展示を終えて馬房へと連れて帰られる途中、ハッピープログレスは突然倒れた。係員があわてて駆けつけたものの、急性心不全を起こしたハッピープログレスは、既に息を引き取っていた。

 桜花賞の記念イベントのためにわざわざ栃木から仁川まで連れてこられるのが、なぜハッピープログレスでなければならなかったのか、その理由は判然としない。安住の地へたどり着いたかに思われたハッピープログレスだが、経済動物としての宿命からは、逃れることができなかったのだろうか。いったん短距離界の頂点に立ち、さらに時代が求めた名馬・ニホンピロウイナーをも追い詰めたハッピープログレスだったが、その彼自身は、一度は頂点を極めたがゆえに、天にふたつの太陽が両立し得ないように、ニホンピロウイナーにかき消され、最後は競馬場の片隅でひっそりと逝ったのである。

『栄光は遥かな時の彼方へ』

 ハッピープログレスは、短距離戦線が整備されたばかりの黎明期に登場し、ニホンピロウイナーというより強力な個性の前に輝きをかき消される形となったために、現役時代の栄光は高く評価されることがなかった。彼の最大の栄光だった「短距離三冠」も、時代とともに短距離戦線が改編されていく流れの中で解体、再編され、その実質を失っていった。「短距離三冠」という栄光は、短距離戦線という新しいレース体系を人々に認知させるという使命こそ果たしたものの、それを勝ちとったハッピープログレスにはさしたる恩恵ももたらさぬままに消えていったのである。いまや短距離レースが中長距離に勝るとも劣らぬ注目を集める時代となったが、それを支える若いファンにかつての「短距離三冠」を知る者はほとんどいない。

 最大の勲章が時代の流れの中に姿を消してゆく中で、栄光も色あせ、ついには名前すら忘れ去られていったハッピープログレス。そんな彼は、競馬場の喧騒の中でその生涯を閉じた。だが、ハッピープログレスというサラブレッドについては、そのような生涯を送ったこと自体忘れられている、というのが本当のところだろう。

 しかし、短距離競馬が隆盛を極めている今こそ、我々は知らなければならない。短距離の強豪にも中長距離の強豪と同等以上の評価が与えられるようになるまでには、正当な評価を得ることさえ許されないままに消えていった、ハッピープログレスのような多くの忘れられた強豪たちがいたということを。

 私たちは、現在走っている名短距離馬たちの栄光ばかりに目を奪われがちである。しかし、「生きる」とは「競走馬として走っている」馬だけではない。日本の各地では、今も時代に恵まれることなく、忘れられたままになっている多くの名馬たちが生活しているということも、決して忘れてはならない事実である―。

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