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ウィナーズサークル列伝~芦毛の時代、未だ来たらず~

1886年4月10日生。2016年8月27日死亡。牡。芦毛。栗山牧場(茨城)産。
父シーホーク、母クリノアイバー(母父グレートオンワード)。松山康久厩舎(美浦)。
通算成績は、11戦3勝(3-4歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『芦毛の時代』

 かつて競馬サークル内に厳然として伝えられてきた迷信に、「芦毛馬は走らない」というものがあった。確かに、日本競馬においては、大レースを制するような強い馬の中に、芦毛馬がほとんどいなかった時代もあった。しかし、だからといって芦毛馬の能力が劣っているわけではないことは、近年芦毛の強豪たちを数多く見てきた私たちには明らかだろう。

 芦毛馬が大レースを勝てなかった理由は、ただ単に絶対数が少なかったから、というべきだろう。今でも芦毛馬はサラブレッド全体の1割弱と、それほど多いわけではないが、さらに時代を遡ると、芦毛馬がもっと少ない時代があった。

 かつて日本のサラブレッド生産と競馬は、優れた軍用馬を供給するという建前で始まった。アジアに冠たる軍事大国を目指した大日本帝国では、優れた軍用馬も数多く必要としていたため、その安定的な供給に資するため、海外からサラブレッドを輸入して将来の軍用馬生産の基礎としようとした。・・・少なくとも、その必要性を説くことによって、軍部をはじめとする当時の権力者たちの協力を得てきた。

 サラブレッド生産と競馬自体がこのような建前で始まった以上、芦毛馬は冷遇されざるを得なかった。芦毛馬は、遠目からでも目立つ馬体ゆえに、軍用馬には向かないからである。そのせいで、競馬草創期には、芦毛馬が日本へ輸入されること自体が稀だった。

 芦毛馬は、遺伝の法則上、父、母のいずれかが芦毛でなければ絶対に生まれることはない。芦毛の親が少ない以上、芦毛の子が少なくなるのも当然のことである。絶対数が少なければ、強豪が生まれる可能性も少ない。

 しかし、いったん「走らない」というイメージが関係者たちに定着すると、たとえ迷信であっても、一定の影響を生じることは避けられない。関係者が有望な子馬を芦毛であるという理由だけで「走らないだろう」と先入観を持って接したがために、持てる才能を発揮できずに消えていったことも、少なくなかったことだろう。馬の才能は、それを見抜く人がいない限り、決して生かされることはない。

 1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受け入れて連合国に無条件降伏したことで解体の道をたどり、戦後の日本は平和憲法のもと生まれ変わり、競馬も軍用馬生産という従来の建前とは切り離されていった。…しかし、長年に渡って関係者たちの間に培われてきた芦毛への偏見まで、一朝一夕で消滅することはなかった。

 競馬界では、戦前と同様に芦毛馬は敬遠され続けた。芦毛馬が初めて天皇賞を勝ったのは戦後25年が経った1970年秋のメジロアサマ、クラシックレースを勝ったのは1977年に菊花賞を勝ったプレストウコウを待たなければならなかった。

 迷信を迷信と証明する現実なしに迷信を打ち破ることは、非常に難しい。まして競馬界とは、特にそういう迷信を気にする世界である。ファンとてそれを笑う資格はない。20世紀の競馬界において

「天皇賞・秋は1番人気が勝てない」

「ジャパンCも1番人気が勝てない」

という迷信がどれほど語られてきたか。そして、今日においても

「青葉賞に出走した馬は日本ダービーでは用なし」

「皐月賞を勝っていない日本ダービー馬は、菊花賞を勝てない」

・・・そんな理屈では説明がつかない迷信が、「ジンクス」という形ではあっても、単に公然と語られるばかりか、馬券の検討にも大きな影響を与えていることは、公知の事実なのだから。

 このように競馬界に確かに存在していた「芦毛馬は走らない」という迷信が、明確な形で打ち破られたのは、昭和の終わりから平成の初めにかけてのことである。後世に「芦毛の時代」と呼ばれるとおり、この時期には芦毛の名馬が次々と現れて多くのGlを勝ち、一時代を築いた。タマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ・・・。彼らはいずれも時代を代表する最強馬と呼ばれるにふさわしい馬たちだった。その後、芦毛旋風は一時期やんだかに見えたものの、芦毛の強豪が定期的に現れるようになり、さらに近年は白毛の強豪まで現れるようになった。こうした時代の中で、芦毛馬の競走能力に対する偏見は、いまや完全になくなったと言っていい。

 このように多くの栄光を積み重ねてきた芦毛の名馬たちだが、その彼らにどうしても手が届かなかった勲章がある。それが、日本競馬の最高峰たる日本ダービーである。

 もちろん、これらの馬たちがダービーを勝てなかったことには、それぞれの理由がある。しかし、「芦毛の時代」と呼ばれた時代に生きた名馬たちが1頭もダービーを勝っていないというのは、やはり競馬界の不思議のひとつである。これほどの名馬たちですら手が届かなかったことからすれば、そんな競馬界の中で、芦毛馬として唯一ダービーを勝ち、長年語られてきた「芦毛馬は走らない」というジンクスの嘘を象徴的に証明した馬の功績は、もっと語られていい。

 もしその馬が存在しなかったとすれば、2021年まで経ってなお、「芦毛馬は日本ダービーを勝てない」ままであり、「芦毛馬は走らない」という迷信の残滓がジンクスと名を変えて、生き残っていたことだろう。そのジンクスが生き残っていた場合、日本ダービーを日本競馬の最高峰として憧れている人々が馬を見る際に、日本ダービーを狙い得る器を持った芦毛馬を見落とす理由となっていたかもしれない。

『ダービー馬の周辺』

 ウィナーズサークルの父であり、彼に芦毛という毛色を伝えたシーホークは、長らく日本の競馬を支えた種牡馬である。彼の代表産駒としては「太陽の帝王」モンテプリンスとその弟モンテファストという天皇賞馬兄弟が有名であり、さらにウィナーズサークルの翌年にはアイネスフウジンを送り出し、2年続けて日本ダービー馬の父となっている。

 シーホークがウィナーズサークルを出したのは、24歳の時である。種牡馬としても晩成だったこの馬は、代表産駒の勝ち鞍を見ても分かるとおり、相当なステイヤー血統でもあった。

 競走馬としては10戦1勝とさほどのものではなかったが、繁殖牝馬として栗山牧場に帰ってきて、なかなかの産駒を出していたクリノアイバーに、このシーホークを付けるよう勧めたのは、松山康久調教師だった。松山師・・・その人はかつてミスターシービーで三冠を制し、後にウィナーズサークルでダービー2勝目を挙げるその人である。

 栗山牧場は茨城にあるため、周囲に良質な種牡馬がほとんどいない。そこで、交配の際には繁殖牝馬を日を決めて北海道へ連れていき、種付けしていたのだが、この年はもともと種付け予定だった種牡馬が急死したため、困って松山師に相談した。すると、松山師からは、かつて彼の父親である松山吉三郎師が管理したモンテプリンス・モンテファスト兄弟を輩出したシーホークを勧められた。そこで、栗山牧場の人々は、クリノアイバーを北海道へ連れていき、シーホークとの交配を実現させた。こうして生まれたのが、後のウィナーズサークルだった。

『神の馬』

 クリノアイバーが生んだシーホーク産駒は、他の馬と比べるとやや大柄な体躯の牡馬だった。また、この牡馬には一つおかしなところがあった。毛色は父と同じ芦毛で、それ自体は何らおかしなことではないが、なぜか生まれたときから真っ白だったのである。

 普通の芦毛馬は、生まれたときは銀色というより真っ黒に近い。芦毛馬が真っ白になるのは晩年のことで、それまでは、年をとるにつれて少しずつ白くなっていく。ところが、ウィナーズサークルは、なぜか生まれたときから真っ白だった。

 牧場の人々は、この不思議な馬におおいに驚いた。

「生まれたばかりなのに父親にそっくりだ」
「もしかすると、大物なのかも知れない」
「いや、神の馬かもしれないぞ」

 皆でそう噂しあったという。

『いずれ立つべき場所』

 やがて、成長したウィナーズサークルは、栗山氏の所有馬として中央競馬で走ることになった。管理する調教師は、彼の出生にも関わった松山師である。松山師は当時、40代前半の若手調教師に過ぎなかったが、ミスターシービーで三冠を制したその手腕を高く評価されていた。

 松山師は、ウィナーズサークルの1歳上の半兄にあたるクリノテイオーも管理し、若葉賞(OP)を含めて3勝を挙げ、日本ダービー(Gl)出走も果たしている(サクラチヨノオーの14着)。そんな半兄を超える馬に育ててほしい・・・そんな思いを込めて、栗山氏はウィナーズサークルを松山師に託し、さらには命名も任せてみたところ、松山師はウィナーズサークルという名前を付けた。

 ウィナーズサークルとは、いうまでもなく勝者のみが立つことを許される表彰式や記念撮影を行うための場所で、競走馬の名前としては、これほど縁起の良いものはそうはない名前である。ちなみに、松山師が名付け親となったことで知られる馬としては、他に「ジェニュイン」などがいる。

 ウィナーズサークルは、美浦でもすぐに「評判の期待馬」として有名になっていった。血統的にも距離が延びていいタイプと見られており、早熟さには期待できないものの、大いなる素質と将来性を感じさせる馬で、松山師も、預かった時から

「ダービーを意識して育てよう」

と思ったという。

 松山師がウィナーズサークルのデビュー戦での北海道遠征を避け、美浦から近い夏の福島開催にしたのは、新潟開催でデビューしたシンボリルドルフを意識したからである。松山師は、福島開催で早めに1勝した後は休養に入り、堂々と中央開催へ乗り込む、という青写真を描いていた。

『謎の気性難』

 しかし、松山師の計算を狂わせたのは、予想を超えるウィナーズサークルの気性の難しさだった。彼は、どうしたことか、他の馬をかわして先頭に立つのを嫌がる癖を持っていた。先頭に立とうとすると、突然騎手に反抗し始める。そして、騎手と喧嘩しているうちに、他の馬にかわされてしまうのである。おかげでウィナーズサークルのデビュー戦は、1番人気に推されながら、勝ち馬から2秒以上離された4着に惨敗してしまった。

 ウィナーズサークルの困った気性に頭を抱えた松山師は、この馬のために「剛腕」郷原洋行を主戦騎手として呼んでくることにした。2戦目から騎乗した郷原騎手は、引退まで一度も他人にウィナーズサークルの手綱を譲らない終生のパートナーとなる。

 郷原騎手は、ウィナーズサークルに、まずは他の馬より早くゴールしなければならないという競走馬の宿命、そして競馬というものを教えるところから始めなければならなかった。先行して好位につけることはできるウィナーズサークルだが、先頭に立つのはどうしても嫌がる。これでは勝てない。勝てるはずがない。

 郷原騎手が騎乗するようになった後も、ウィナーズサークルは未勝利戦を二度走ったものの、いずれも1番人気に応えられず2着に敗れた。能力がないわけではないのに、どうしても馬がその気になってくれない。松山師と郷原騎手は歯がゆい思いをしながらも、ウィナーズサークルのために調教を続けた。

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