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フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

1993年2月11日生 2014年9月8日死亡 牡 鹿毛 社台ファーム(早来) 小林稔厩舎(栗東)
父Caerleon、母バレークイーン(母父Sadler’s Wells)
4歳時5戦3勝。東京優駿(Gl)、すみれS(OP)優勝。

(列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『奇跡のダービー馬』

 日本競馬の頂点といわれる日本ダービーを最短のキャリアで制覇した馬といえば、1996年の日本ダービー馬フサイチコンコルドの名前が挙がる。

 フサイチコンコルドは、英オークス馬サンプリンセスの孫、世界的種牡馬Caerleonの子という血統的な背景から期待を集めていたものの、同時に体質の弱さや特異さに悩まされ続け、レースに向けた仕上げは困難を極めた。新馬戦とすみれS(OP)を勝っただけの2戦2勝、それもすみれSから中84日で日本ダービーに挑むという異例のローテーションに対するファンのレース前の評価は、単勝2760円の7番人気というものだった。このオッズは、フサイチコンコルドの血統とデビュー前の評判を考えれば、驚くほど大きなものだったが、レース前の雰囲気は、

「そんなに買ってる奴がいるのか…」
「まさか来ることはないだろう…」

という方が、よほど強かった。

 そんなフサイチコンコルドが、2分26秒1のレースの後に、世代の頂点を極めた。ファンのある者は、人気の盲点から見事にはばたいたフサイチコンコルドとその関係者を称え、ある者はフサイチコンコルドを馬券の対象から外した自らの不明を恥じ、またある者は見せつけられた光景を人知の及ばぬ「奇跡」と定義し、己が脳を焼いた。

 だが、競馬ファンの少なからぬ者から「奇跡」とも呼ばれたフサイチコンコルドの快挙は、決して人知の及ばぬ神の配剤の結果などではなく、生産者、調教師、馬主、騎手、その他多くの関係者たちが人知を極めた努力の結果として生まれたものにほかならない。

 第63代日本ダービー馬フサイチコンコルドは、果たしてどのような星の下に生まれ、人々との絆を結び、ライバルとの戦いによって自らを磨きあげ、そして「奇跡」と呼ばれる快挙を成し遂げたのだろうか。

『衝撃の邂逅』

 競馬の本場とされ、クラシック・レースのあり方を始め、日本競馬が多くの部分で模範としている英国では、時に日本では考えられない椿事が起こることが少なくない。

 1983年6月4日、通算205回目を迎えた英国オークスで、4番人気馬サンプリンセスが、2着に12馬身差という英国オークス、そして当時の英国のクラシックレース史上最大となる着差をつけて圧勝した(2021年オークスでSnowfallが16馬身差で勝って更新)。驚くべきことに、サンプリンセスの通算成績は、この時点で2戦未勝利であり、英オークスが初勝利だった。

 実は、英国では未勝利馬がクラシックレースで有力馬に推されることも、まれにある。競馬が歴史というより伝説だった時代まで遡れば、「馬名未登録馬が勝利」「未勝利馬が英ダービーで優勝」「1戦1勝の英国ダービー馬」といった、現代の感覚では信じがたいエピソードも多数出てくるが、ごく最近でも、2018年の英オークスを未勝利馬Forever Togetherが4馬身半差で圧勝したり、2021年の英ダービーで未勝利馬Mojo Starが2着に入り、134年ぶりとなる「初勝利がダービー」という快挙をあと一歩で逸したり(その後、Mojo Starは未勝利戦を勝っている)といった椿事が現代でも実際に起こっている。

 もっとも、サンプリンセスは、単に英オークスで初勝利を挙げた「だけの」幸運な馬では終わらなかった。英オークスの次走となるキングジョージⅣ世&QEDSでは3着に食い込み、ヨークシャーオークス、そしてセントレジャーでGl勝ちを2つ積み上げ、さらに凱旋門賞では、All Alongから1馬身差の2着に迫った。サンプリンセスの競走成績は10戦3勝だったが、その3勝はすべてGlである。

 そんな栄光に満ちた実績とともに繁殖生活に入ったサンプリンセスと欧州最大の種牡馬Sadler’s Wellsの間に生まれた娘であるバレークイーンは、やがて英国タタソールのセリに上場されることになった。サンプリンセスの栄光から、娘のバレークイーンの上場までの約10年間にも、彼女たちの一族は、近親から多くのGl馬や重賞馬を輩出しており、名門という触れ込みは決して誇大広告ではなかった。

 日本最大の生産牧場である社台ファームの創業者吉田善哉氏の次男である吉田勝己氏は、繁殖牝馬を仕入れるためにセリに訪れた際、バレークイーンに出会った。その時の彼女の印象について、勝己氏は、

「血統はもちろんですが、とにかく馬体が素晴らしい牝馬で、しばらくその場から動けなかったほどです」

と語っている。

『母と子』

 勝己氏に10万ポンドで競り落とされたバレークイーンは、93年1月に日本の社台ファームへやって来て、日本での繁殖生活を開始した。この価格は、彼女の血統からすると破格に安いものだったため、予算が余った勝己氏が同時に17万ポンドで買い付けたのが、「薔薇一族」の祖となるローザネイとのことである。

 閑話休題。日本へやって来たバレークイーンが2月11日に産み落とした鹿毛の牡馬が、後のフサイチコンコルドであった。

 フサイチコンコルドの父親は、「最後の英国三冠馬」Nijinskyllの直子であり、自らもフランスダービーを制し、そして種牡馬としても既に英愛ダービー、キングジョージを制したジェネラスを輩出したCaerleonである。「Caerleon×バレークイーン」という血統は、母の父であるSadler’s Wellsとあわせて、当時の日本競馬の水準を大きく超えた世界的な水準だった。

 ただ、血統への期待とは裏腹に、彼の誕生がすべてから祝福されていたわけではなかった。彼を拒んでいたのは、ほかならぬバレークイーンであり、出産直後に興奮状態となり、牧場のスタッフが場を離れた際、自らが生んだ子馬に襲いかかり、かみ殺そうとしたのである。

 その場は異変に気付いたスタッフが母子を引き離して大事には至らず、時間の経過とともに、母子関係は徐々に落ち着いていったため、牧場関係者は安堵した。しかし、フサイチコンコルドの首筋には、成長した後も、母につけられた傷跡が残ったという。

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