フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速
『鬼脚の前に』
残り100m地点でサクラケイザンオーは力尽き、残る2頭はほぼ横並びになった。フサイチコンコルドは、まだ余力を残すロイヤルタッチの追撃に懸命に抵抗していた。…だが、ロイヤルタッチよりさらに強烈な、異次元の末脚を繰り出す新手にまでは、もはや対抗することができない。
ダンスインザダークが抜け出したところで、第57回菊花賞は決着した。ダンスインザダークは、2着ロイヤルタッチに半馬身差をつけて最後にして悲願の一冠を制し、フサイチコンコルドはロイヤルタッチからクビ差遅れた3着に敗れた。
この時のダンスインザダークの末脚は、今なお語り草となっている。3000mの長距離戦である菊花賞では、ロイヤルタッチの上がり3ハロン34秒3、フサイチコンコルドの同34秒4の末脚でも十分異次元と言える。だが、ダンスインザダークのそれは、この2頭をも大きく上回る33秒8の鬼脚だった。藤田騎手も
「あれだけの決め手を使われたんだから仕方がないですね」
と負けを認めざるを得ない豪脚によって、第57回菊花賞、そして1996年クラシック三冠戦線は幕を閉じた。
…レースの後、ダンスインザダークは脚部不安を発症して屈腱炎と診断され、菊花賞のわずか5日後に現役引退が発表された。フサイチコンコルドとダンスインザダークの対決は1勝1敗で終わり、決着がつくことは永遠になくなった。
そして、この日のレースは、ダンスインザダークのみならず、フサイチコンコルドにとっても最後の戦いとなったのである。
『終幕』
菊花賞の後、フサイチコンコルドは、予定通りに休養に入った。もともと「古馬になってもっと強くなる」という小林師の目論見どおりならば、彼は翌年の天皇賞・春(Gl)に挑むはずだった。97年の天皇賞・春といえば、マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーの「三強」が激突し、後方からの末脚勝負に賭けたマヤノトップガンが優勝を果たしたレースである。もしフサイチコンコルドが無事に参戦を果たしていれば、その構図は大きく変わっていたことだろう。
ただ、歴史は人の願い通りにはならないものである。フサイチコンコルドの場合、もともと96年秋…というより、現役生活を通じて小林師の思い通りに調整できた時期などなかった。
一向に上向かないフサイチコンコルドの状態を見ていた小林師は、97年春から種牡馬入りするために早期引退を進言したものの、馬主の関口氏がもう一度フサイチコンコルドの復帰した姿を見たいと願ったため、実現しなかった。結局、フサイチコンコルドが、その後、二度とレースに出走できる状態に仕上がることはないまま屈腱炎を発症し、同年秋には現役引退が発表された。
同年11月16日、かつて日本ダービーを制した東京競馬場で、フサイチコンコルドの引退式が行われた。もっとも、脚の状態を慮るため、両前脚にバンテージを巻き、藤田騎手が騎乗することもなく、スタンド前を引かれて歩くことでファンに別れを告げるという異例な引退式だった。
こうしてフサイチコンコルドは、通算5戦3勝という少なすぎる戦績を残してターフを去り、種牡馬入りすることになった。もっとも、その戦績のわりに、「不完全燃焼」という感覚はなく、むしろ燃え尽きた感のある現役引退だった。
フサイチコンコルドの引退後の1999年2月、小林師は定年で調教師を引退した。調教師としては899勝を挙げ、「日本ダービーをフサイチコンコルドで勝つ」という宿願を果たした末の、満願なっての引退といえよう。
『諸行無常』
フサイチコンコルドが馬産地へ去っていった後、競馬界で存在感を増していったのは、馬主の関口氏だった。それまで「競馬にはいまひとつ興味が持てなかった」という関口氏の人生は、フサイチコンコルドの日本ダービー制覇によって大きく変わったと言えるかもしれない。
日本ダービー制覇の直後である96年メイテックの社長を解任され、最終的に同社を去った関口氏は、その際に株式の売却で多額の現金を手にしたとみられる。その後の関口氏は、再度自分の会社を創業する一方、競馬の魅力に脳を焼かれたかのように、競馬への傾斜を加速度的に深めていった。
関口氏は、98年のキーンランド・ジュライセールで400万ドルの大枚をはたいて競り落としたMr.Prospector産駒のフサイチペガサスを擁し、2000年5月にはケンタッキーダービーに乗り込み、ついに日米ダービー制覇を果たしたが、その際には舞妓軍団を引き連れていったことで話題を集め、2000年代にはフサイチリシャール(2005年朝日杯FS)、フサイチパンドラ(06年エリザベス女王杯)といったGl馬や、フサイチエアデール、フサイチホウオーなど多数の重賞馬を輩出した。
馬主としての関口氏を強烈に印象付けるのは、セリでの高額馬落札で、03年にフサイチジャンクを3億3000万円、04年にザサンデーフサイチを4億9000万円、ミスターセキグチを800万ドルで競り落とすなど、多くの高額落札で主役となった。なお、ザサンデーフサイチは、フサイチコンコルドのライバルだったダンスインザダークの産駒である。
これ以外にも、セレクトセールで後のマンハッタンカフェ、ボーンキングらを競り落としながら、デビュー時には別の馬主の勝負服に代わっていたということもあった。晩年には、地方競馬の振興に力を尽くすという顔も見せた。
もっとも、そんな彼の本業が時流の変化によって振るわなくなっていく中で、競走馬の高額落札で話題となるのと並行して、新卒採用者の内定を大量に取り消したり、整理解雇を行ったりといった経営は、強い批判の対象となることを避けられなかった。高額落札馬が走らなかったこともあって窮乏が報じられるようになっていった彼は2000年代後半に急速に没落していき、表舞台から姿を消していった。
『それからの歩み』
そんな関口氏の波乱万丈の人生の一方で、フサイチコンコルドの一族は、堅実に活躍している。
もともと世界レベルとされていたバレークイーンの血統的価値は、フサイチコンコルドによってさらに高まった。彼女から生まれたフサイチコンコルドの弟妹たちは注目を集め、アンライバルドは2009年の皐月賞を制している。また、妹の子であるヴィクトリーも04年の皐月賞の皐月賞を勝っており、彼女の一族は、現代においても繁栄している。
種牡馬となったフサイチコンコルドの産駒としては、ブルーコンコルドとバランスオブゲームが特に有名である。
1999年生まれの初年度産駒から出たバランスオブゲームは、セレクトセールに上場され、「ベストプレープロ野球」、そして「ダービースタリオン」などを開発したことで知られるゲームデザイナー薗部博之氏によって、870万円で落札された。薗部氏によれば、競りが終わった後、この馬に競りかけたとみられる「マイネル軍団」総帥・岡田繁幸氏から購買交渉を持ちかけられたという。
岡田氏の申し出を断った薗部氏の所有馬としてデビューしたバランスオブゲームは、Gl勝ちこそなかったものの、通算29戦8勝、重賞7勝を挙げ、獲得賞金は約6億1000万円にのぼった。彼の実績の中でも特筆するべき点はJRAのGllを6勝した(弥生賞、セントライト記念、毎日王冠、中山記念2勝、オールカマー)ことであり、これは今なおJRAのGll最多勝記録となっている。また、Gl未勝利馬の獲得賞金としても、キョウトシチー、ナイスネイチャに次ぐ3位(当時。現在はディープボンドも含めて4位)であった。
2000年生まれのブルーコンコルドは、ダート、特に地方のダートグレード戦線で長く活躍し、通算50戦15勝の戦績を残した。マイルCS南部杯(統一Gl,Jpnl)3勝、JBCスプリント(統一Gl)、JBCマイル(統一Gl)、東京大賞典(統一Gl)、かしわ記念(Jpnl)という交流Gl7勝を達成し、獲得賞金は約9億7000万円に達した。
このように、種牡馬入り直後にいきなり大物を輩出し、サイヤーランキングでもサラブレッド(中央)は14位(2005年)、サラブレッド(地方)は2位(2006、07年)まで押し上げたフサイチコンコルドは、その後も重賞級の産駒を複数出している。ただ、バランスオブゲーム、ブルーコンコルドに比肩するような大物をその後に出すことはなく、種牡馬としての存在感は薄れ、やがて青森の牧場へと移動していった。
フサイチコンコルドは、2014年9月6日に転倒して骨折して自力で立ち上がることができなくなり、同月8日に逝ったという。第63代日本ダービー馬の静かな最期だった。
『未来を示した戦い』
フサイチコンコルドは、このような形で波乱万丈の馬生を送り、ファンにその強烈な印象を焼きつけた。彼が「音速の末脚」「和製ラムタラ」といった異名で呼ばれたのは、その証である。
近年の競馬はローテーションについての考え方とともに、大きなレースに臨む前に「たたき台」を使うという20世紀の常識も大きく変わった。フサイチコンコルドの日本ダービー制覇から28年が経過した2024年10月現在、フサイチコンコルドと並ぶか、これより少ないキャリアで日本ダービーを勝った馬はまだ出ていないが、2021年の日本ダービーを制したシャフリヤールは4戦目であり、皐月賞では2023年、24年にソールオリエンス、ジャスティンミラノと立て続けにキャリア3戦目の皐月賞馬が誕生している。新馬戦ないし未勝利戦以外でのデビューがほとんどなく、これらのレースを1勝しただけで日本ダービーに出走できる例は少ないことからすれば、フサイチコンコルドを超えることは難しいにしても、近い将来、フサイチコンコルドに並ぶ3戦目で日本ダービーを制する馬が現れたとしても、不思議ではない時代となりつつあるように思われる。
しかし、そのような時代になった時、フサイチコンコルドの快挙は色あせるのではなく、むしろ時代を数十年先取りしたものだったことが改めて意識され、見直されるのではないだろうか。レースを使いながら仕上げていく時代に、その常識に真っ向から逆らいながら結果を出し、21世紀の競馬の姿を示したフサイチコンコルドと、彼を支えた人々の戦いの歴史と記録の価値は、むしろ高まっていると言える。彼らの名前が競馬の歴史の中に新たに刻まれることがなくなったとしても、その功績が消えることはない。