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フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

『限界を超えた3×3』

 こうして、波乱とともに生を享けたフサイチコンコルドだが、彼自身も、血統の中に無限の可能性だけでなく、強烈なリスクを抱え込んでいた。それが「Northern Dancerの3×3」という、強度のインブリード(近親交配)である。

 フサイチコンコルドの血統表を見ると、「父の父の父」と「母の父の父」のどちらも「Northern Dancer」という馬名に行き着く。Northern Dancerの孫であるCaerleonと、孫娘であるバレークイーンの間の子であるフサイチコンコルドは、父系と母系の双方にNorthern Dancerを祖先として持っていた。

 Northern Dancerといえば、英愛リーディングサイヤー4回、北米リーディングサイヤー2回を数え、世界中にその血統を広めた歴史的種牡馬である。名馬の再現を狙って、名馬の血を引く子孫同士を近親交配するという馬産の手法自体は、決して特異なものではない。

 ただ、現代に残る馬の父系をたどれば、すべて「三大始祖」のみに行き着く閉鎖的な血統を特徴とするサラブレッドにおけるインブリードは、他の生物と比較して弊害が出やすいとされ、その限界は「4×3」と言われてきた。これより強いインブリードを持つ馬は、成功の可能性よりも、致命的な欠陥を抱える可能性が大きくなるというのである。凱旋門賞を4馬身差で勝った牝馬Coronationは、Tourbillonの「2×2」という極端なインブリードがあったため、その競走成績が「インブリードの成功例」と言われた一方、気が向かなければレースにならない激しい気性と、繁殖入りした後に1頭も産駒を出せなかった繁殖能力の薄さは、その弊害とされている。これほど極端な例は多くはないが、「3×4」を超えるインブリードは、強い弊害を伴うギャンブルと言われるのが一般的であり、フサイチコンコルドの「3×3」は、その限界を超えていた。

『魅入られた男』

 世界的な血統と、常識を超えたインブリードをその身に宿したフサイチコンコルドだったが、そんな彼に強い関心を持つ調教師が現れた。関西を代表する名伯楽の1人とされる小林稔調教師である。

 小林師は、騎手、調教師を務めた父のもとに生まれ、自身も騎手を経て1964年に調教師試験に合格、翌65年に自身の厩舎を開業した。その後は最多勝利調教師、最多賞金獲得調教師などを受賞し、92年にはアドラーブルでオークス(Gl)、タケノベルベットでエリザベス女王杯(Gl)を勝ち、最多勝利調教師、最高勝率調教師、最優秀技術調教師の「三冠」に輝いている。

 小林師がオークスを勝たせたアドラーブルは、社台ファームの生産馬だったこともあり、小林師と社台ファ-ムは近い関係が続いていた。社台ファームの93年の生産予定馬のリストを見せられた小林師は、バレークイーンの素晴らしい牝系に引きつけられ、そして出産予定となっていた父Caerleonという血統にさらに魅入られたという。

 競馬界における血統の重要性、そしてCaerleon、Sadler’s WellsとNorthern Dancerの存在意義の大きさからすれば、「Caerleon×バレークイーン」という配合を見た小林師は、当然そこに内包されたNorthern Dancerの3×3」というインブリードにも気づいたことだろう。だが、この名伯楽にとっては、「Northern Dancerの3×3」という極端なインブリードすら、世界的な血統へのロマンをさらにかきたてる燃料でしかなかった。小林師は、この時点で周囲に

「この馬が牡馬だったら、絶対にダービーを勝つ」

と予言し、社台ファームに

「生まれたら、是非見せてほしい」

と申し入れたという。

『始まりは、理不尽とともに』

 バレークイーンの子が生まれたという知らせを聞いた小林師は、実際に生まれた子馬に会いに行き、その姿を見て

「この馬でダービーを獲る!」

と心に決めたという。大正15年生まれの小林師は、日本ダービーに対して特別な思いが強い世代でありながら、騎手としても調教師としても、まだこのレースを勝ったことがなかった。99年2月に調教師としての定年を迎える小林師にとって、その子馬は、最後になるかもしれない夢を賭けるに値する存在だった。

 小林師は、最近馬を預かり始めた馬主とともに勝己氏に会うと、

「この馬は俺がもらう!」

と宣言したという。当時の日本におけるサラブレッド取引は、調教師等が馬主と同行したり、代理人になったりして生産牧場を訪ね、個別に売買交渉を行う庭先取引が主流であった。

 しかし、この時の勝己氏の反応は、決して芳しいものではなかった。当時の社台ファームの状況を見ると、大種牡馬サンデーサイレンスは既に輸入していたものの、初年度産駒はまだデビューしていない。サンデーサイレンスがまだ海のものとも山のものとも知れない中で、日本に滅多に入ってこないCaerleon産駒は、その世代の生産馬の中で、間違いなく最上級の期待馬の1頭だった。おそらく勝己氏は、この馬の馬主や管理調教師について、何らかの思惑を持っていたのだろう。

 小林師は、そんな勝己氏に対して一歩も退かず、ついにはこんなことまで言い出した。

「もしこの馬を売ってくれないのなら、ほか(の馬)も全部キャンセルや!」

 ・・・その意味するところは、小林師の社台ファームに対する絶縁宣言にとどまらず、小林師の仕切りで社台ファームから馬を買っている全ての馬主の契約が道連れとしてキャンセルされるということである。他の馬主にしてみれば、単なる巻き添え…というより、はた迷惑なことこの上ない暴走である。しかし、関西を代表する調教師の一世一代の啖呵に、勝己氏は押し切られた。

 こうして念願の子馬を手に入れた小林師は、同行した馬主に購入を勧め、他の2頭と抱き合わせて「1億円をかなり超える金額」で商談はまとまったという。小林師とその馬主との付き合いは始まったばかりで、最初に預託した馬もまだデビューしていなかったが、馬主は

「小林さんがむき出しになってまで選んだ馬を買えるなら…」

ということで、「1億円をかなり超える金額」を喜んで出したという。…その馬主は、「フサイチ」の冠名を持ち、後に日本ダービー馬の馬主となる関口房朗氏だった。

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