TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

『フサローの夜明け』

 フサイチコンコルドの馬主となり、後には日米ダービー制覇を果たし、日本競馬の風雲児ともなっていく関口氏は、若いころに起業した会社を一度倒産させながら、その後再起を果たし、再度立ち上げた人材派遣業で大成功を収めたという実業界の異才だった。

 そんな関口氏が馬主になったきっかけは、自社の女性社員から、

「社長、うち(実家)の馬を買ってください」

と頼まれたことだという。その場の勢いで2頭の馬を買うと約束してしまった関口氏は、血統どころか、牡か牝かすらよく分からないまま、馬を買っただけで満足していたため、馬主資格の取得手続きが必要なことすら知らず、しばらくそのままになっていたという、ツッコミどころしかない馬主業進出だった。

 そんな行き当たりばったりな展開を反映してか、87年に初めて所有馬をデビューさせた関口氏の馬主成績は振るわず、同年から93年までの7年間で8勝のみで、勝った一番格上のレースは500万下だった。92年に過去最多の3勝を挙げたものの、翌93年には0勝に逆戻りである。所有馬が所有する世代の増加とともに増えているにも関わらず、この結果ではいささか物足りない。少なくとも、2年半後に日本ダービーを制する馬主の成績とは思えない。

 悲惨な成績に心が折れ、馬主業からの撤退も真剣に考えるようになった関口氏が、撤退を相談した馬主会の有力者から紹介されたのが、小林師だった。この出会いが、関口氏の馬主人生を大きく変えていくことになる。

『フサローの転機』

 関口氏を紹介された小林師は、関口氏をとりあえず社台ファームに連れて行き、馬選びの助言をするようになった。小林師が勧めた最初の1頭が、フサイチコンコルドの2世代上であるフサイチカツラである。

 フサイチカツラは、社台ファームが生産した持込馬で、当時の欧州の最強種牡馬Sadler’s Wellsを父、Krisを母父に持つ世界的良血馬である。彼女の弟には、96年朝日杯3歳Sで1番人気に推され、2001年富士S(Glll)を勝ったクリスザブレイヴがいる。

 関口氏がそれまで所有していたのは、当時の基準でも地味な血統の馬が多かった。また、実は小林師と知り合う以前に、他の調教師のつてで社台ファームと取引をしたことがあったが、その時はあまり血統のいい馬を売ってもらえなかった。「サンデーサイレンス産駒の期待馬を買えそうだ」と言われて大喜びで買うと返事をしたものの、いざ取引という段階になって、金額の提示すらないまま一方的に断られてしまった。…この馬は、後のフジキセキということである。

 そんな数々の「屈辱」を既に味わっていた関口氏は、競馬界の慣行に理不尽さを感じる一方、一緒に行くだけで自分の扱いまで変わる小林師に感服し、社台ファームにも一目置かれるその手腕に期待していたという。

 93年末に関口氏の所有馬として初めてデビュー戦で1番人気に支持されたフサイチカツラは、そのレースこそ人気を派手に裏切る15着に敗れ、さらにその後は長期にわたって戦列を離れた。しかし、翌94年9月に長期休養から復帰したフサイチカツラは、初勝利を挙げただけではなく、その後も好走を続け、復帰からわずか2ヶ月後には、エリザベス女王杯(Gl)への出走も果たした。

 当時のエリザベス女王杯は、旧4歳牝馬三冠路線の最終戦に位置づけられていた。怪物外国産馬ヒシアマゾンに内国産馬のプライドを賭けてオークス馬チョウカイキャロルが挑むGlに、通算成績4戦2勝、重賞初挑戦ながら、18頭立ての6番人気という穴人気を集めて挑んだフサイチカツラは、人気通りの6着に敗れたものの、その後も上級戦で活躍した彼女は、通算17戦4勝という成績を残している。

 フサイチカツラの活躍により、小林師への信頼をさらに強くした関口氏は、自分の目の前で勝己氏に啖呵を切ってまで手に入れたフサイチコンコルドのデビューを楽しみにするようになっていった。

『病弱な大器』

 こうして主に血統面の理由で多くの期待を集めたフサイチコンコルドだったが、現実には、血統が良く、故障などがあるわけでもないのに走らない馬は珍しくはない。

 しかし、フサイチコンコルドについては、調教を始めると、スタッフから「これは物が違う」という声が相次いだ。走る能力が高いだけでなく、走った後の息の戻り方が早く、心肺能力も高い。フサイチコンコルドの成長が気になる小林師は、1週間おきに北海道へ様子を見に来ていたが、その成長ぶりは、小林師の期待にたがわぬものだった。彼らの間の不協和音といえば、マスコミから「ダービー候補」を聞かれる牧場関係者が、フサイチコンコルドを推していたところ、小林師から

「あんまりいい、いいって言わないでくれ。入厩してから取材が多くなるから」

と、なぜかクレームが入ったことくらいだった。

 ただ、そう書くと期待しかなかったように思えるフサイチコンコルドには、大きな欠点もあった。体質が弱く、すぐに体調を崩してしまうのである。

 さらに、入厩の際にも大きなトラブルがあった。ノーザンファーム(94年1月に勝己氏を中心として分社化)と小林師は、フサイチコンコルドで日本ダービーを勝つために、早くから打ち合わせを重ね、最大の目標となる日本ダービーをゴールとして、そこから逆算したローテーションと育成スケジュールを組んだという。そのスタートとして、秋には小林厩舎へ入厩することが決まったフサイチコンコルドは、栗東へ向けて馬運車でノーザンファームから旅立った。

 ところが、馬の到着を楽しみにしていた小林師に届いたのは、休憩のために宮城県の山元トレセンで一時下車したフサイチコンコルドが、高熱を発したという悲報だった。山元トレセンでの治療は長引き、入厩は大きく遅れてしまった。

 フサイチコンコルドは、極端に輸送に弱く、長距離輸送のたびに熱発してしまう体質でもあった。この欠陥は、この後もフサイチコンコルドを再三にわたって悩ませることになる。

『原石の輝き』

 こうして入厩の段階から小林師をさんざん心配させたフサイチコンコルドだったが、調教で見せる走り自体は素晴らしいものだった。

 小林師は、フサイチコンコルドを800mの坂路で追う際、前半と後半で併せ馬の相手を入れ替え、楽をさせずに鍛え上げた。すると、入厩から1ヶ月程度しか経たない年末ころには、一線級の古馬が51秒前後かかる坂路コースで、50秒7を叩き出した。

 後にフサイチコンコルドの主戦騎手となる藤田伸二騎手も、この時期フサイチコンコルドに一度だけ乗せてもらい、普通に走った後、実際に出ていた時計があまりに速いことに驚いたという。跳びが大きいため、普通の走りだと感じていても、時計は感触以上に速く出るのがフサイチコンコルドの走りの特徴だった。

 ちなみに、小林厩舎では、原則として、調教で騎手を乗せることはない。おそらく、小林師は、フサイチコンコルドの主戦騎手として、この段階から藤田騎手をイメージしていたのだろう。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
TOPへ