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フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

『問題児たち』

 小林師と藤田騎手の縁は、1992年のエリザベス女王杯に遡る。小林師は、このエリザベス女王杯に、牝馬二冠を目指すオークス馬アドラーブルを送り込む一方、条件戦を3勝しただけのタケノベルベットも登録していた。もっとも、当初の見通しでは本賞金不足で出走が難しいと思われていたタケノベルベットだったが、賞金上位馬の回避が相次ぎ、最後はオークス3着馬キョウワホウセキも回避したことで、出馬投票直前には18番目、すなわち最後の出走枠にたどり着き、出走が可能になっていた。

 ところが、キョウワホウセキの回避を知らなかった小林師は、なんとタケノベルベットの騎手を確保していなかった。あわてて手が空いている騎手を探したものの、その日京都にいるがエリザベス女王杯には乗鞍がないという都合の良い騎手は、そう簡単には見つからない。その際に

「乗れる若手がいる」

という調教助手の推薦で騎乗依頼したのが、前年に騎手デビューしたばかりの藤田騎手だった。

 タケノベルベットにはレース前のパドックで初めて騎乗したという藤田騎手は、前目につけるようにという小林師の指示にもかかわらず、スタート後のダッシュがつかず、後方からの競馬となった。しかも、京都の下り坂で一気に進出するという強引な競馬をしたにもかかわらず、なんとそのままアドラーブルを含む17頭を押し切り、優勝してしまった。17番人気、単勝9130円、馬連に至っては70470円の大波乱を演出した藤田騎手の度胸と勝負強さに感銘を受けた小林師は、それ以降、藤田騎手に目をかけて騎乗依頼を出すようになっていたのである。

 閑話休題。走らせてみると大器の片りんをのぞかせるフサイチコンコルドではあったが、体質の弱さで体調管理が難しく、まともに走る機会は明らかに限られていた。

 もともと小林師が「この馬でダービーを獲る!」と思い定めた期待馬であり、また資質の高さも十分伝わっていただけに、その発揮を妨げる体質問題は、小林師の頭を悩ませた。厩舎では覇気がなく、

「いつ見ても寝起きの顔をしとる」

と言われたフサイチコンコルドだったが、小林師の悩みは、字面以上に深かった。それでも、日本ダービーを目標に、馬の成長と体調に合わせてじっくり育てるという方針だけは、決して変わることはなかった。

『戦慄のデビュー』

 小林厩舎での調教によって、競走馬としての資質をさらに磨きあげられたフサイチコンコルドは、年が明けた1996年1月5日、京都芝1800mの新馬戦に姿を現すことになった。

 この新馬戦の出走馬には、後に同年の第1回NHKマイルCで、序盤3ハロン45秒1というハイラップを刻んで話題となったバンブーピノ、同年暮れに世代混合戦の鳴尾記念(Gll)を制するマルカダイシスといった素質馬が揃っていた。そんな中で、藤田騎手を鞍上に迎えて参戦したフサイチコンコルドは単勝190円の圧倒的1番人気に推されていた。

 この日、藤田騎手は、調教助手から

「普通に走らせたら勝てるから…」

と言われていたという。この新馬戦は、フサイチコンコルドの生涯の中で唯一、小林師らが納得できる体調で臨めたレースだったという。

 彼らの自信を物語るように、フサイチコンコルドがこの日見せつけたのは、好位から抜け出す際の凄まじい末脚だった。最後の2ハロンを22秒2で走破した豪脚には、藤田騎手も舌を巻き、

「これは凄い馬に当たった…」

と震えた。

『裏の裏』

 ただ、デビュー勝ちの後、フサイチコンコルドはさらなる試練に突き当たった。定石通りならば、デビュー勝ちの次走は500万下を使うところだし、実際に使おうとしてはいたのだが、疲労や微熱の繰り返しで、レースを使えるほどには仕上がる気配がない。フサイチコンコルドの特異体質には「逆体温」というものが含まれており、朝起きた時が一番低く、その後、時間の経過とともに上がっていくのが一般的なサラブレッドの体温なのに、フサイチコンコルドは朝起きた時の体温が最も高く、時間の経過とともに下がっていくという問題点まであったが、関係者がそのことに気づいたのは、もっと後の話である。

 フサイチコンコルドの2戦目は、新馬勝ちの約2ヶ月後、皐月賞トライアルでも自己条件の500万下でもない、阪神競馬場のオープン特別・すみれS(OP)となった。

 この時期、関東では3つの皐月賞トライアルが組まれており、登録さえすれば出走できる可能性が高かった(実際、この年の3つのトライアルでフルゲートになったレースはなかった)。しかし、この場合、本賞金を加算できなかった場合は、皐月賞はもちろん、日本ダービーへの出走すら怪しくなってしまう。使って負けたのなら仕方がないが、輸送で熱発してレースを使えないまま終わったのでは、悔やんでも悔やみきれない。長距離輸送なしの地元で、可能な限りの本賞金を積み上げたいという思いの表れが、格上挑戦となるすみれSへの出走だった。

『かき消された快勝』

 1996年3月9日、メインレースの2つ前のレースであるすみれSに、Gl開催日でもない土曜日の阪神としては異例の約6万人の観衆の前に、フサイチコンコルドは再び現れた。

 単勝2番人気の外国産馬セイントリファールは、通算成績こそ8戦2勝ながら、朝日杯3歳S(Gl)やシンザン記念(Glll)4着などの重賞好走歴があった。3番人気のナムライナズマも、通算成績7戦2勝の中には、もみじS(OP)優勝、きさらぎ賞(Glll)4着などが含まれている。1戦1勝のフサイチコンコルドにとって、他の出走馬たちは基本的に格上の存在だったが、それでも単勝210円の1番人気に支持されたのは彼だった。1勝馬の未知の魅力が、他のOP馬たちの実績を上回ったのである。

 この日、先行馬不在の出馬表を見ていた藤田騎手は、この時期の旧4歳馬にはかなりの長い2200mという距離もあって、フサイチコンコルドがかかってしまうことを心配していた。案の定、ゲートが開くと、積極的に逃げる馬はおらず、レースの流れはスローペースに落ち着いたが、フサイチコンコルドは、藤田騎手の懸念とは違って、きっちりと折り合った。

 そして、勝負どころの第3コーナーから力強く前へ進出すると、直線では再び豪脚を見せつけ、2着セイントリファールに4分の3馬身をつけて差し切った。まさに「完勝」という評価がふさわしい勝ちっぷりだった。

 すみれSの直後、小林師は、レースを見ていた他の調教師から

「楽しみな馬ですね」

と声を掛けられたという。その中には、すみれSではなくメインレースの阪神大賞典に管理馬ハギノリアルキングを出走させていた橋口弘次郎調教師もいた。この約3か月後、小林師と橋口師は、日本競馬最高の舞台で対峙することになるが、果たして彼ら自身は、その運命をどこまで自覚していただろうか。

 すみれSの後、阪神競馬場では、メインレースの阪神大賞典(Gll)で、2年前にクラシック三冠と有馬記念(Gl)を制して年度代表馬に選出されたナリタブライアンと、95年秋に菊花賞(Gl)、有馬記念を連勝して年度代表馬に選出されたマヤノトップガンの「年度代表馬対決」が実現し、第4コーナー手前からの壮絶な叩き合いに熱狂した。すみれSで垣間見せたフサイチコンコルドの実力が、ナリタブライアンの復活劇によって目立たなくなったことの意味を、ファンも彼らも、まだ知る由もない。

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