TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

『ダービーへの道』

 小林厩舎には、旧4歳世代の有力馬たちの名前と、彼らが獲得した本賞金の一覧が掲示され、毎週更新されていたという。…言うまでもなく、フサイチコンコルドの同世代の中での立ち位置、そして日本ダービーへの出走の可否に関する最新情報を常時確認し、厩舎全体で共有するためである。

 すみれSを勝ち、自らの本賞金を1300万円に積み上げたフサイチコンコルドは、望みさえすれば、皐月賞への出走も可能になった。…だが、この年の世代の上位馬たちは、本賞金が一定のラインを超える馬たちが多いうえ、クラシックの回避表明を早々にする馬が多くなかったため、優先出走権も考慮すると、日本ダービーの本賞金での出走枠争いは激しい。フサイチコンコルドも、現状のままで日本ダービーへの出走まで確実であるとまでは言えない。勝利や重賞2着でフサイチコンコルドの本賞金を抜いていく旧4歳馬が現れるたびに、小林厩舎は震える日々を過ごしていた。

 そうした状況の下で、フサイチコンコルドにとって最悪の可能性とは、皐月賞のための中山競馬場への長距離輸送で熱発した結果、皐月賞には出走できなくなり、日本ダービーにも本賞金不足で出走できなくなることだった。

 ここで小林師は、重大な決断を下した。皐月賞は回避する一方、日本ダービーへの優先出走権を獲るために、ダービートライアルをひとつ使う。

 長距離輸送のたびに熱発するフサイチコンコルドの弱点を考えると、関東への輸送はなるべく減らしたいが、日本ダービー当日が初めての東京競馬場…というのも、できれば避けたいのが陣営の本音だった。皐月賞に出走した場合、4着以内に入れば日本ダービーの優先出走権は得られるが、日本ダービー以前に東京競馬場のコースを経験することはできなくなる。小林師の選択は、「目標は日本ダービー」という出発点に、あくまでも忠実なものだった。

 「すべては日本ダービーを勝つため」と、口で言うことはたやすい。ただ、それを貫くということは、それ以外のすべてを切り捨てる覚悟を持つことでもあり、それを貫くことは存外難しい。その初心をあくまでも貫き通す小林師の覚悟には、関口氏をはじめとする他の関係者たちも、異論を差しはさむことなどできようはずもなかった。

 東京競馬場で行われるダービートライアルといえば、青葉賞(Glll)とプリンシパルS(OP)があったが、ゴールデンウィーク中の開催となる青葉賞では、輸送のための馬運車が、渋滞に巻き込まれてしまうおそれがあった。普通の長距離輸送でも熱発するフサイチコンコルドにとって、それは致命的である。フサイチコンコルドのダービーへの道は、自ずとプリンシパルSに決まった。

『現れた宿敵』

 プリンシパルSは、従来ダービートライアルとして行われてきたNHK杯が96年の番組改編でNHKマイルC(Gl)へと改編されたことに伴い、NHK杯に代わるダービートライアルとして新設されたレースである。…といっても、2024年時点まで、プリンシパルS勝ち馬はまだ日本ダービー馬を輩出できていないが、当時のJRAがそのような未来を想定していたわけでは、もちろんないだろう。

 そうはいっても、「日本ダービーの最有力トライアルは皐月賞」という現実は、グレード制導入以前からの鉄則である。同世代の有力馬たちの多くは皐月賞に出走し、上位馬になればなるほど、(皐月賞以外の)ダービートライアルには出走しない傾向が強い。

 しかし、この年に限っては、プリンシパルSに1頭の強力なライバルが出走してきた。「サンデーサイレンス四天王」(以下「SS四天王」)の一角ダンスインザダークである。

 「SS四天王」とは、96年クラシック戦線の有力馬たちのうち、サンデーサイレンスを父に持つ4頭のことである。

 1989年米国三冠のうちケンタッキーダービーとプリークネスSの二冠、そして米国競馬の最高峰ブリーダーズCクラシックを制し、「米国の80年代最強馬」との呼び声高かったサンデーサイレンスは、紆余曲折の末、社台ファームによって日本へと輸入された。そして、サンデーサイレンスの初年度産駒がデビューした95年クラシック世代は、当初大将格と目されていたフジキセキを故障で欠きながら、皐月賞はジェニュイン、オークスはダンスパートナー、日本ダービーはタヤスツヨシが勝ち、サンデーサイレンス産駒が3勝を挙げた。それに続く2世代目の96年クラシック戦線の中心となったのが、「SS四天王」と呼ばれる強力な牡馬たちだった。

 「SS四天王」の中でも筆頭格とされ、95年朝日杯3歳S(Gl)、96年スプリングS(Gll)を勝ったバブルガムフェローは、皐月賞を前に骨折で戦線離脱したが、その皐月賞では、残された3頭のうちの2頭であるイシノサンデーとロイヤルタッチが1着と2着を占めた。この2頭は、皐月賞上位馬のセオリー通りに日本ダービーへ直行するとされていた。…では、残る1頭のダンスインザダークは、どこにいたのか?

『ダンスインザダーク』

 サンデーサイレンスを父、ダンシングキイを母に持ち、前年のオークス馬ダンスパートナーの全弟として注目を集めたダンスインザダークは、もともと「SS四天王」の中で最も粗削りだが、スケールは大きいと噂されていた。その声を裏付けるかのように、ダンスインザダークは、ロイヤルタッチ、イシノサンデーと最初に相まみえたラジオたんぱ杯3歳S(Glll)では3着に敗れ、さらにロイヤルタッチとの再戦となったきさらぎ賞(Glll)でも2着に敗れている。ところが、彼の鞍上にいるのは、前記の2戦とも先着されたロイヤルタッチを管理する伊藤雄二調教師からの再三にわたる依頼を断った武豊騎手だった。

 2024年現在も騎手生活を続けて「生ける伝説」となっている武騎手だが、当時でいえば、88年にスーパークリークで菊花賞(Gl)を制したのを手始めに数々の大レースを制しながら、日本ダービーについては、90年のハクタイセイ(2番人気)以降、93年のナリタタイシン(3番人気)、95年のオースミベスト(3番人気)など、毎年のように上位人気馬に騎乗しながら、いまだに制覇を果たしていなかった。

「豊がダービーを勝つのはいつなのか」

「もしかすると、豊はダービーを勝てないのではないか」

 そんなことが競馬界の陰でささやかれ始めていたこの時期に、武騎手が悲願達成のためのパートナーとしてこの馬を選んだという事実は重い。

 そして、武騎手の選択に応えるかのように、イシノサンデーとの再戦となった弥生賞(Gll)では、ついに大器の片りんを現すスケールの大きな競馬で、重賞初勝利を飾った。

 弥生賞の優勝によって皐月賞の優先出走権を手にし、さらには皐月賞の本命という呼び声も高かったダンスインザダークだったが、その皐月賞では、数日前に熱発したことによって回避を余儀なくされた。そのダンスインザダークが、プリンシパルSに出走してくるという。

 ダンスインザダークを管理する橋口弘次郎調教師は、地方競馬の騎手からJRAに転じ、厩務員、調教助手を経て調教師となったという異色の経歴の持ち主である。格別の人脈を持たないながら、安馬と言われる馬たちを知恵と工夫で走らせ、ようやくそれなりの実績を残せるようになった橋口師は、なんとかいい馬を預かるルートを開拓したいと社台ファームに日参して懇願したところ、ようやく任せられたのが、牧場時代に「オチコボレ」と呼ばれていたほど気性が悪い、暴れん坊の安馬レッツゴーターキンだった。

 そのレッツゴーターキンが92年の天皇賞・秋(Gl)を勝ったことで認められた橋口師が、社台ファームの後継者となった吉田照哉氏から直々に託された有望馬が、ダンスインザダークだった。ダンスインザダークとは、ある意味、橋口師の調教師としての前半生の集大成であり、彼が馬に寄せる思いも、尋常なものではない。

「この馬で、ダービーを勝つ!」

 その思いは、小林師とフサイチコンコルドの専売特許ではない。橋口師も、ダンスインザダークに対して全く同じ決意で臨んでいる。プリンシパルSでは、そんな2頭、そんな2人それぞれの思いが激突する…はずだった。

『運を天に任せて』

 日本ダービーへと続くプリンシパルSを勝ったのは、単勝110円の圧倒的1番人気に応えたダンスインザダークだった。ここまでの彼の4戦すべてで鞍上を務めてきた武豊騎手は、ゲートが開いた瞬間から、その日のレースではなく、この先のダービーのことを考えて競馬をしたという。そんな武騎手の余裕の手綱に導かれたダンスインザダークは、2馬身差で勝った。最後の直線ではむしろ武騎手が手綱を抑えたにもかかわらず、出走馬の中で断然の最速となる上がり34秒8の末脚を叩き出す余裕のレース運びだった。

 このように、ダンスインザダークが

「あまり激しいレースをしたくなかったから、その意味でもいいトライアルでした」(武騎手)

という理想的な勝利を収めた一方で、フサイチコンコルドは同じ舞台に上がることすら許されなかった。

 フサイチコンコルド陣営も、目標だった日本ダービーにつながる重要なトライアルであり、同世代の一線級との初めての対決ともなるプリンシパルSに賭ける思いは強かったし、

「まともな状態で走ることさえできれば…」

という自信もあった。ところが、いよいよレースに向けて馬運車で東上し、あとは出馬投票…という段階になって、またしても「それ」は起こってしまった。熱発である。

 この時の熱発は、レースを使おうと思えば使える程度の微熱だったことから、小林師の悩みはなおさら深かった。プリンシパルSから日本ダービーまでの間隔は中2週で、プリンシパルSを回避してしまえば、熱発からの立て直しと常識的なレース間隔を前提とする限り、日本ダービーまでに使えるレースはなくなってしまう。つまり、日本ダービーの出馬投票には、優先出走権なし、本賞金1300万円という現状のままで臨むことを意味していた。本賞金順の出走枠に及ばなかった場合、彼らの日本ダービーは、戦わずして終わる。そうであれば、ここで無理をしても、レースを使うべきなのではないか?

 それでも小林師は、フサイチコンコルドのプリンシパルSへの出走を見送ることに決めた。競馬界には、古くから、こんな格言がある。「皐月賞は最も速い馬、ダービーは最も運のいい馬、菊花賞は最も強い馬が勝つ。」彼らはフサイチコンコルドが「最も運がいい馬」たりうるのかどうかを天に委ね、運命の前に立つ決意を固めた。

 その選択の結果、小林師らは、もともと本賞金で日本ダービーへの出走は確実なダンスインザダーク、新馬戦と500万下を勝っただけながら、この日2着に入ったトロピカルコレクターによって、残されていた日本ダービーの席がふたつ埋まる様を、ただ見守ることになったのである。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
TOPへ