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フサイチコンコルド列伝・府中を切り裂く音速

『変わり始めた風向き』

 こうしてプリンシパルSを思わぬ形で見送る形になった小林師は、それ以降、フサイチコンコルドが日本ダービーに出走できるかどうかについて、さらに気の休まらない日々を送ることになった。この年は、前年の阪神3歳牝馬S(Gl)を勝った牝馬のビワハイジが、オークスではなく日本ダービーに出走してくるという予想外の乱入まであったから、なおさらである。運を天に任せ、運命の前に立った小林師の思いは、いかなるものだっただろうか。

 ところで、小林厩舎には、同世代、同馬主のノーザンテースト産駒であるフサイチシンイチもいた。こちらは新馬戦と500万下を勝って本賞金は800万円だったが、プリンシパルSの翌週に白藤S(900万下)を勝ち、本賞金ではフサイチコンコルドを上回っていたため、一部では

「日本ダービーでの登録状況によっては、シンイチを回避させてコンコルドを出走させるのではないか」

という観測も流れた。

 ただ、日本ダービーをめぐる狂騒が深まる中で、小林師の頭の中では、ひとつの心強いよりどころがあった。前年のダービー…といっても日本ダービーではなく、本場英国の「the Derby」、英国ダービーの勝ち馬ラムタラである。

 ラムタラも、旧3歳の8月に初勝利を挙げた後、約10か月ぶりとなる英国ダービーを61年ぶりのレコードで制した。ラムタラのレース間隔が大きく空いたことの背景に、彼自身の大病があったことは知られていただけに、小林師が

「調教をきちんと積んでいれば大丈夫だと信じた」

という思いの支えとなるのも、もっともな話である。そして、英ダービーの後も無敗のままキングジョージ、凱旋門賞という「欧州新三冠」をすべて制して「神の馬」と呼ばれたラムタラは、Nijinskyllの2×4という、割合こそ異なれどもNijinskyllの、それも「奇跡の血量」を超えたインブリードの持ち主だったことも、小林師の思いを後押ししたかもしれない。

 最終的には、日本ダービーの出走馬18頭の枠のうち、優先出走権を持つ馬は8頭が登録し、残る10頭の収得賞金順の馬たちの中で、フサイチコンコルドは単独8番目だった。こうしてフサイチコンコルドは、僚馬フサイチシンイチの回避の必要はないまま、2頭出しが可能になった。もっとも、最後の出走枠には、9頭が登録した本賞金800万円の馬の中からただ1頭、新馬戦と500万下を連勝したもう1頭の「2戦2勝馬」馬アドマイヤビゴールが滑り込んでいる。もしフサイチコンコルドがすみれSではなく500万下を使って勝っていた場合、本賞金800万円の登録馬の1頭として、極めて分の悪い抽選に臨まなければならなかったことを考えると、小林師のギリギリのレース選択が、ここで功を奏したと言えるかもしれない。

 何はともあれ、フサイチコンコルドは、日本ダービーに出走することを許された。どんなに強い馬でも、出走できなければ勝つ可能性はゼロである。トライアル段階までは様々な悲運に泣かされてきたフサイチコンコルドだったが、ダービーの出走枠争いでは、ついに幸運をつかんだ形となった。

『ただ一度の決意』

 しかし、日本ダービーへの出走が可能になっても、実際に出走できなければ意味がない。プリンシパルSでも輸送後に熱発しているが、同じことが本番でも起これば、万事休することになる。

 小林師は、馬の負担になる輸送時間を少しでも短くしたいと考え、それまで早朝だった馬運車の出発を、深夜に変更した。

 ・・・輸送の時間を変えたことの成果があったのかどうかは分からない。小林師の祈りにも似た願いとともに、異例の時間帯に輸送されたフサイチコンコルドだったが、この時も熱発した。微熱にとどまっていたため、出走をすぐに取り消すことはせず、しばらく様子を見ることになったが、この時はさすがの小林師も、半ばあきらめの境地に達したという。

 すると、その後、フサイチコンコルドは平熱に戻り、出走できそうな体調に戻った。それまで一貫して馬の体調を優先してきた小林師だが、この日だけはゴーサインを出した。

 小林師は、この時のフサイチコンコルドについて、

「もしダービーでなければ、使わなかった」

という。これまで、特別なレースに勝つために守ってきたものを、同じレースに勝つために、一度だけ破る。

 引退までに899勝を挙げた小林師だが、65年に厩舎を開業してから81年までは日本ダービーに出走馬を送り込むことができず、初めての出走となった82年(ロングヒエン)からフサイチコンコルドまでの15年間こそ9頭の出走馬を送り出したものの、彼に残されたあと2回のチャンスに出走馬を送り込める保証などない(実際には、98年にエモシオンを出走させた)。その決断にこそ、小林師の覚悟の強さが現れていた。

『すべてはこの日のために』

 しかし、日本ダービーへの出走が可能になっても、実際に出走できなければ意味がない。プリンシパルSでも輸送後に熱発しているが、同じことが本番でも起これば、万事休することになる。

 小林師は、馬の負担になる輸送時間を少しでも短くしたいと考え、それまで早朝だった馬運車の出発を、深夜に変更した。

 ・・・輸送の時間を変えたことの成果があったのかどうかは分からない。小林師の祈りにも似た願いとともに、異例の時間帯に輸送されたフサイチコンコルドだったが、この時も熱発した。微熱にとどまっていたため、出走をすぐに取り消すことはせず、しばらく様子を見ることになったが、この時はさすがの小林師も、半ばあきらめの境地に達したという。

 すると、その後、フサイチコンコルドは平熱に戻り、出走できそうな体調に戻った。それまで一貫して馬の体調を優先してきた小林師だが、この日だけはゴーサインを出した。

 小林師は、この時のフサイチコンコルドについて、

「もしダービーでなければ、使わなかった」

という。これまで、特別なレースに勝つために守ってきたものを、同じレースに勝つために、一度だけ破る。

 引退までに899勝を挙げた小林師だが、65年に厩舎を開業してから81年までは日本ダービーに出走馬を送り込むことができず、初めての出走となった82年(ロングヒエン)からフサイチコンコルドまでの15年間こそ9頭の出走馬を送り出したものの、彼に残されたあと2回のチャンスに出走馬を送り込める保証などない(実際には、98年にエモシオンを出走させた)。その決断にこそ、小林師の覚悟の強さが現れていた。

『彼が「来ない」理由』

 フサイチコンコルドがようやくたどり着いた第63回日本ダービー当日、東京競馬場には18万人を超える観衆が集まった。

 この日、単勝230円の1番人気に推されたのはダンスインザダークである。皐月賞を熱発で回避したものの、弥生賞とプリンシパルSの両トライアルを強い競馬で勝った馬の充実ぶりと仕上がりはマスコミに広く報じられ、武騎手のダービー制覇の悲願は今度こそ成るのではないか…というのが、競馬界の支配的な雰囲気だった。

 それに続くのがウイニングチケットとの日本ダービー兄弟制覇を狙うロイヤルタッチの390円、皐月賞馬イシノサンデーの600円が続き、「SS四天王」のうち故障で戦線を離脱したバブルガムフェローを除く3頭が上位人気を占める形となった。

 それに対し、フサイチコンコルドの単勝オッズは2760円で、青葉賞2着のカシマドリームが出走を取り消したために17頭となった出走馬の中での7番人気にとどまった。…それはそうだろう。「無敗」とはいっても、フサイチコンコルドの通算戦績は2戦2勝で、トライアルどころか重賞への出走経験すらない。そして、フサイチコンコルドが「来ない」と断じる理由は、いくらでもあった。

 まず、3戦目(以下)の日本ダービーを優勝した馬は、戦後には存在しない。それまでの日本ダービー馬の最短キャリアは、シンボリルドルフ、トウカイテイオー、ミホノブルボンらを含む6頭が達成した6戦目である。戦前には数例あり、その中には初代ダービー馬ワカタカ、種牡馬として名を残したカブトヤマ、伝説の名牝クリフジなどの著名馬もいたとはいえ、当時は旧3歳戦が存在しなかったため、同一視することは難しい。

 前走のすみれSから中84日というレース間隔も、グレード制導入後のダービー馬で当時最長だったシリウスシンボリの中56日を大きく上回る。

 当時の日本ダービーには、「関西の秘密兵器」という概念があった。皐月賞には間に合わない時期に関西の裏街道での圧勝や連勝によって注目を集め、日本ダービーで人気になる関西馬は、決まって「関西の秘密兵器」と呼ばれていたが、「関西の秘密兵器」は、日本ダービーではとにかく来ないのもお約束だった。むしろ問題は、フサイチコンコルドの知名度がそこまで高くなく、「関西の秘密兵器」の域にすら達していないのではないかという点だったかもしれない。

『落胆、失望、そして…』

 このように、ファンの期待という意味では、かなりの伏兵扱いになっていたフサイチコンコルドだが、ある意味で彼の陣営の人々の評価の方が辛辣だったかもしれない。

 この日の鞍上である藤田騎手は、1991年に騎手としてデビューし、実は92年から5年連続で日本ダービーに出走を果たしていた藤田騎手だが、馬質で言えば95年のダイタクテイオー(7番人気6着)以外は10番人気以下にすぎず、結果についても掲示板に載ったことはなかった。

 それだけに、小林師の依頼で、日本ダービー当日はフサイチコンコルドに騎乗する予定を入れ、本番を楽しみにしながら周囲に馬への期待を語っていたものの、輸送後の熱発の情報を聞いたときには、馬の体質を知っていたこともあって

「たぶん(出走は)ダメだろう」

と覚悟していたという。その後、一転して出走できることになったということで安堵したが、実際にパドックで騎乗してみると、フサイチコンコルドは

「こいつ、寝てるんやないか?」

と思うほど覇気がなく、勝ち負けどころではない、とがっかりしたそうである。

 馬の様子にがっかりしたのは小林師も同じである。直前の熱発から競馬場まで連れ戻すことはできたものの、

「競馬を使う馬にしては、ちょっと太かった」

という状態で、パドック、そして地下馬道での様子も、調教師生活30年以上の彼の目をしても期待できそうになく、

「ダメやな。もう、無事に走ってくればいい」

とまで思ったという。

 同様のエピソードは、馬主の関口氏にもある。後に名物オーナーとして知られるようになり、「ビッグ・マウス」のイメージが強まっていく関口氏だが、この当時はまだGlどころか重賞制覇歴すらない零細馬主の1人で、そこまでの存在感は放っていない。それでも、馬主として初めて臨む自分の日本ダービーに昂っていた関口氏だが、パドックではフサイチコンコルドより先にダンスインザダークの黒光りする堂々たる馬体が目に入ってしまい、

「こりゃ、この馬には勝てんわ…」

と内心しょんぼりしたという。

 ただ、彼の場合はそこで終わらず、よりによって彼にフサイチコンコルドを売った勝己氏が、ダンスインザダークを指して「あの目がいいでしょ」などと言ってきたり、JRA理事長が来賓として訪れていた農水相に

「一番強いのがあの馬ですよ」

と説明しているのを聞いたり、と周囲の反応に反骨心を燃やし、そこからフサイチコンコルドの単勝100万円を買い込んだ。

 このように、レースを前にして、落胆と絶望しかなかったフサイチコンコルド陣営だったが、そんな彼らが大きく変わったのは、本馬場入場の後だった。パドック、さらには地下馬道ですら、いつもに増して闘志が感じられなかったフサイチコンコルドだが、本馬場に入ると気配が一変し、突然元気になって気合をあふれさせ始めたのである。

 パドックと地下馬道の様子を見ていた小林師は、「あんなに劇的に一変した馬は、私の調教師生活の中でも、一度も見たことがありませんでした」というほど驚き、

「これなら…!」

という感覚が湧きあがってきた。

 実は、日本ダービー当日の「熱発」は、逆体温による体温上昇に過ぎなかった。フサイチコンコルドの体調は、問題なかったのである。ここまで目まぐるしく流転してきた局面は、ようやく整った。あとは、第63回日本ダービーの開幕を待つばかりである。

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