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ライスシャワー列伝~疾走の馬、青嶺の魂となり~

『気付かざる出会い』

 飯塚厩舎に入厩したライスシャワーは、ひ弱な体質に加えて脚部不安もあったことから、最初は
 
「この程度でどこまでできるんだろう」
 
と周囲の人々を不安がらせた。しかし、ライスシャワーの特徴である、人間の指示には従順に従う気性が、ここで幸いした。陣営の計画通り、あるいはそれ以上の仕上がりを見せたライスシャワーは、3歳夏でのデビューを果たしたのである。
 
 ライスシャワーの新馬戦は、後の晩成ステイヤーというイメージからはほど遠く、新潟芝1000mコースでのレースである。この時期のこの条件でデビューしたということは、当時のライスシャワーがクラシックや長距離レースを意識して育てられたというよりは、「勝てるところを勝ってくれればいい」という程度の認識しかされていなかったことを物語っている。
 
 ここでライスシャワーは、減量騎手の水野貴広騎手を鞍上に迎えて生涯初めての実戦に臨んだ。2番人気に支持されたライスシャワーは、好位から第4コーナーで先頭に立つと、直線でも1番人気のダイイチリユモンの追い込みをクビ差抑え、見事初勝利をあげた。
 
 ただ、この勝利によってライスシャワーの素質が完全に開花する、とはいかなかった。次走の新潟3歳S(Glll)では、馬場状態や短距離での内枠、レース前日の突然の乗り替わりなど多くの悪条件が重なって、ライスシャワーは3番人気を裏切り、勝ち馬ユートジェーンから大きく離された11着に敗退した。晩成ステイヤーの血が目覚めるまでには、まだ長い時間が必要だった。
 
 ところで、この時ライスシャワーが新馬戦で戦ったダイイチリユモン、新潟3歳S(Glll)の勝ち馬ユートジェーンは、いずれも関西からわざわざ遠征してきた戸山為夫厩舎の管理馬だった。ライスシャワーはこの約1年後、戸山厩舎が擁するまだ見ぬライバルと、激しくしのぎを削ることになる。しかし、神ならぬ飯塚師と戸山師には、お互いが1年後にそれぞれの前に大きな存在として立ちはだかってくる運命など、まだ知る由もなかった。

『好事魔多し』

 新潟3歳S(Glll)でいったんは底を見せた形となったライスシャワーは、新潟から美浦へと帰ってくると、次走には重賞ではなくオープン特別の芙蓉Sを選んだ。朝日杯を目指す強い相手が集まる重賞よりも、相手関係が楽な方を選んだのである。
 
 ただ、相手関係が楽とはいっても、この時期の3歳オープン戦には、完成度に勝る早熟馬たちが目標を絞って多数出走してくる。新潟3歳S(Glll)で惨敗したライスシャワーが楽に勝てるはずもない。さらに、ライスシャワー自身の状態も、新潟より落ち気味だった。2番人気に支持されてこそいたものの、飯塚師らの本音は、
 
「勝てないにしても、せめて着でも拾ってきてくれれば」
 
というところだった。
 
 ところが、ライスシャワーは第4コーナーで先頭に立つと、そのまま後続の追撃を押し切って、新馬戦に続く2勝目をあげた。これは飯塚師にとって予想外の喜びだった。
 
 これでライスシャワーは通算成績を3戦2勝とした。気がついてみれば3歳秋、それも重賞戦線が本格化していないうちのオープン入りである。飯塚師ら関係者が「これならば」とやる気になるのももっともなことだった。
 
 しかし、好事魔多し。ライスシャワーはその後まもなく骨折が明らかになり、結局、3歳戦線をまるまる棒に振ってしまった。一生懸命走りすぎる闘志が予想以上に早い2勝目につながったとはいえ、その反面、限界を超えてもなお走ろうとする気性が彼自身に強いた代償は重かった。

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