ライスシャワー列伝~疾走の馬、青嶺の魂となり~
『宿敵』
骨折当初の獣医の診断では年明け早々の復帰が見込まれていたライスシャワーだったが、実際には復帰まで6ヶ月という長い時間を要した。ライスシャワーが実戦に復帰したのは、クラシックの前哨戦が既に始まった3月下旬、それも皐月賞(Gl)に直接つながるトライアルであるスプリングS(Gll)でのことだった。
スプリングS(Gll)といえば、皐月賞(Gl)への出走権を求めて有望な4歳馬が殺到してくる伝統のレースである。そんな中で、戦績が3戦2勝とはいっても6ヶ月もの休養明けのライスシャワーの馬券は、そうそう気楽に買えるはずもない。14頭の出走馬のうち、ライスシャワーの単勝6890円は12番目の人気薄に過ぎなかった。そして、ライスシャワーはここで4着と頑張ったものの、勝ち馬のパフォーマンスが凄すぎて、「たかが4着馬」の頑張りなどは、全く問題にされなかった。
このレースで勝ったのは、前年には無敗のまま朝日杯3歳S(Gl)を制して3歳王者に輝き、この年緒戦としてスプリングS(Gll)を選んだ「栗毛の超特急」ミホノブルボンである。ミホノブルボンは、2着マーメイドダバンを実に7馬身ぶっちぎる大圧勝を遂げ、三冠街道への好スタートを切った。
ミホノブルボンは、二流のマイラー血統、逃げ一手の脚質ゆえに距離不安がささやかれていた。この日ミホノブルボンが無敗の3歳王者という実績にもかかわらず、屈辱とも言える2番人気に甘んじたのも、そのせいである。しかし、そのミホノブルボンがファンにたたき返した結果が、7馬身差の逃げ切り勝ちだった。
「影も踏ませぬ」という形容がぴったり来る鮮烈な圧勝劇は、この年のクラシック戦線の主役が誰なのかを人々にまざまざと思い知らせるものだった。関西の名伯楽・戸山為夫調教師が、栗東トレセン坂路での過酷なスパルタ調教によって作り上げた究極の馬体の前では、もはや血統も、距離の壁も問題ではなかった。
ライスシャワーはミホノブルボンから遅れることおよそ9馬身、1秒6遅れて入線した。1992年クラシック戦線は、事実上この日に幕を開けたといってよい。そして、ライスシャワーにとっては、この日こそが宿命のライバルとなるミホノブルボンとの戦いの日々の始まりだった。
『主戦』
スプリングS(Gll)で惜しくも4着に終わったライスシャワーは、3着以内に与えられる皐月賞(Gl)への優先出走権に一歩届かなかった。しかし、3歳時に芙蓉S(OP)に勝って賞金を上積みしていたことで、皐月賞(Gl)には本賞金上位馬として出走できる見込みとなった。そうなると浮上してくるのが、鞍上に誰を据えるかという問題である。
クラシックという特別の雰囲気に包まれた大舞台では、3歳時の主戦だった水野貴広騎手では、さすがに荷が重い。スプリングS(Gll)で騎乗した柴田政人騎手ならば経験、実力とも申し分ないが、残念ながら皐月賞(Gl)では他馬に先約があった。そこで飯塚師が白羽の矢を立てたのが、往年の大調教師・大久保房松師のもとで競馬を学んだ弟弟子に当たる的場均騎手だった。
『的場均』
的場均、当時35歳。騎手としては中堅を超えてベテランの域にさしかかりつつある、関東のトップジョッキーの1人である。
しかし、的場騎手がそこまでのし上がるには、一筋縄ではいかない苦労があった。的場騎手は、そのデビューの外観こそ、名伯楽として知られる大久保房松調教師最後の弟子として騎手デビューを果たしており、恵まれたスタートだったように見える。しかし、関西に比べて若手騎手を育てる気風が薄い関東で、しかも的場騎手のデビュー当時は岡部幸雄騎手、柴田政人騎手といった一世代上の名騎手たちが、まさに一流騎手としての地位を築き上げようとしていた時代だった。しかも、名門・大久保厩舎は声をかければ騎乗してもらえる一流騎手もたくさん抱えており、騎手に困ってもいなかった。大久保厩舎の馬たちさえ、勝ち負けできそうな馬はまず兄弟子たちへと回っていく。的場騎手のもとに勝ち負けできそうな馬が回ってくることも多くなく、的場騎手が初勝利をあげるまでには4ヶ月の月日を要した。
そんな中でも的場騎手は腕一本で次第に頭角を現し始めたが、そこからさらに一流騎手にのし上がろうとすると、より長くより遠い苦難の道が続かざるを得なかった。一流騎手として生き残るためには、ただ「うまい」だけではだめで、自分を他の騎手よりも強く印象付ける、そんな何かが必要になる。
一流騎手として競馬界に確固たる地位を築くべく、自らの道を探していた的場騎手がやがて自らの騎乗の特色としたのは、自分の馬の実力を100%引き出すだけではなく、他の馬の実力を封じ込める騎乗だった。出走馬の中で一番強い馬に狙いを定め、その馬を負かすために全身全霊を注ぎ込む騎乗。レースで一番強い馬を負かせば、勝利は後からついてきた。
そんな的場騎手を、人は誰からともなく、「マーク屋」と呼ぶようになった。ただし、特筆すべきは、的場騎手の騎乗は他の馬を封じ込めるといっても、その名から想像されるようなアンフェアな騎乗ではない。フェアプレー賞をそれまでにも既に4度も受賞していたことこそが、6度受賞した優秀騎手賞以上に的場騎手の騎乗技術、そして騎手としての魂を証明する勲章だった。
勝ち星は積み重ねるものの、大きな勲章にはなかなか恵まれなかった的場騎手だったが、1989年にドクタースパートで皐月賞を勝ってGl初勝利を果たしたことで、名実ともに一流騎手の仲間入りを果たした。前年の11月にはJRA通算800勝を記録し、当時の的場騎手は、まさに騎手としての絶頂期を迎えようとしていた。
飯塚師は、若い頃は大久保厩舎で調教助手を務めており、新人騎手のころから的場騎手の騎乗技術、人間性などをつぶさに観察し、信頼していた。ライスシャワーについても、既にスプリングS(Gll)の際にいったん的場騎手に声をかけたものの、騎乗予定が合わずに柴田騎手に依頼したという経緯があった。そのようなわけで、皐月賞(Gl)からライスシャワーの手綱は的場騎手に委ねられることになったのである。
『上昇線』
こうしてライスシャワーは的場騎手を鞍上に迎えたものの、すぐに結果がついてくるわけではなかった。皐月賞(Gl)では、ミホノブルボンの完全な逃げ切り勝ちの前に、なすすべもない8着に終わった。ミホノブルボンの壁はあまりに厚く、入線は1秒4も遅れての完敗である。少なくとも、この時点ではライスシャワーはミホノブルボンのライバルですらないどころか、ダービーの優先出走権が取れなかったため、賞金的にも出走できるかどうかさえ分からない状況に陥った。しかも、ダービー出走権を取るために急きょ出走したNHK杯(Gll)では、出走権を得るどころか、まさかの8着に敗れた。
飯塚師としても、皐月賞上位組が軒並み不出走で、とても強いとはいい難い相手関係だったNHK杯(Gll)で大敗したことには失望が大きく、
「さすがに一線級には及ばないのか」
とがっかりした。これは、飯塚師だけでなくライスシャワーの関係者のすべてが共有する思いであるかのように思われた。
しかし、的場騎手だけは、NHK杯(Gll)の後からライスシャワーの何かが変わり始めたことを感じ取っていた。そのころになってようやく、それまでどうしても不安があった脚もとがしっかりし、さらに馬体にも身が詰まってきたのである。そして何より、鞍上の的場騎手には、ライスシャワー自身の走る気力、他馬に負けまいという闘志が伝わってきていた。
「ミホノブルボンにはかなわないが、他の馬の実力は横一線。ダービーでは展開次第で2着はあるかも」
4歳春の戦績を見れば楽観的に過ぎるかのような見解だが、的場騎手にはそれを裏付ける自信があったことも、また事実だった。
『影を追いし者』
日本ダービー(Gl)当日、ライスシャワーの人気は単勝11410円で、18頭中16番目だった。人気薄もここに極まれりである。それもそのはず、春になってからは、着もろくに拾えな い戦績にとどまっている。それに加えて馬体重も430kgと、春になってからは減る一方で、デビュー以来最低の数字だった。
ライスシャワーに見向きもしない一般ファンの注目は、当然のように1番人気のミホノブルボンただ1頭に集中していた。こちらの人気は単勝230円である。無敗の5連勝で皐月賞(Gl)を制した栗毛の超特急に向けられたファンの興味は、もはや彼が真の王者への戴冠を果たすか否かに絞られていた。
スタートとともに飛び出したミホノブルボンは、自らの戦いをすべく先頭に立ってレースを引っ張った。後は、ゴールまで逃げ切るのみ。それがミホノブルボンの競馬である。まさに我が道を往く、最強馬のクラシックロード。他の馬に、その影を踏ませはしない。
それに対し、ライスシャワーはミホノブルボンを見ながら、馬群の先頭で競馬を進めた。その位置は、好位というよりも2番手といった方がはるかに分かりやすい。
もっとも、後方に控える馬たちも、差し脚勝負に賭けていた。ミホノブルボンは、直線でばてる。ばててもらわなければ、困る。ばてた皐月賞馬を捉えれば、ダービー馬の栄冠は…!そんな未来に希望をかける彼らの目には、2番手を行く馬の姿など、おそらく入ってもいなかった。
『驚きの三万馬券』
しかし、向こう正面を過ぎ、第3コーナー、そして4コーナーを回っても、ミホノブルボン、そしてライスシャワーの位置は変わらなかった。ミホノブルボンはともかく、2番手の馬は何だ?
直線に入っても、ミホノブルボンは突っ走る。躍動する筋肉の塊に、距離の壁などありはしなかった。その往く道は、栄光のゴールのみ。止まるどころか逆に後続を突き放しながら爆走するミホノブルボンの、史上8頭目となる不敗のダービー馬への道を阻む者は、誰もいなかった。
だが、その遙か後方では、凄まじい死闘が繰り広げられていた。少しでも順位を上げようと仕掛けてきた後続馬に対し、ライスシャワーが激しく抵抗し、2番手を死守していたのである。いったんは2番手に上がってきたマヤノペトリュースに対し、いったんかわされたはずの小さな馬体が懸命に抵抗し、逆に差し返そうとしている。
結局、ライスシャワーはミホノブルボンから遅れること4馬身、マヤノペトリュースと2頭並んでゴールした。ゴールの瞬間、16番人気のライスシャワーはほんのハナ差、5番人気のマヤノペトリュースより前に出ていた。人気薄でのダービー2着という大殊勲は、勝ったのがガチガチの本命馬であるにもかかわらず、馬連が29580円をつけるという形となって現れた。
しかし、ダービーはミホノブルボンの強さが圧倒的に目立つレースだったことも、まぎれもない事実である。距離の壁がささやかれながら、皐月賞よりさらに差を広げ、4馬身差で圧勝したミホノブルボンの強さにより、史上2頭目となる不敗の三冠馬という夢は、いよいよ現実のものとなりつつあった。
その一方で、ライスシャワーの日本ダービー(Gl)2着を馬の実力として見る人は、そう多くなかった。むしろ、
「展開に恵まれた」
「フロックだ」
という声の方が一般的だった。
―そんな声に対するごく少数の例外に、一人の初老の男がいた。その時の彼は、凱旋する無敗の二冠馬を育てたのが自分であることを思い、誇らしさと幸福のまっただ中にいた。けれども、歓喜に満ちた彼の胸中に、一滴のあるものがこぼれ落ち、波紋を広げつつあった。それは、ミホノブルボンのはるか後方で2番手争いを制しただけの小さな黒鹿毛の馬に対する、言い知れぬ不気味さだった。