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ハクタイセイ列伝 ~怪物二世の光と影~

『それぞれの東京優駿』

 日本ダービー当日、ゲートが開いてすぐに飛び出したのは、大方の予想通りアイネスフウジンだった。鞍上のベテラン中野栄治騎手は、それまで長らくスランプに陥っていて、近年は騎乗依頼さえ大きく減り、引退の危機にあった。そんな危機にあって、中野騎手に与えられたチャンスがアイネスフウジンだったのである。

 アイネスフウジンとの出会いによって、中野騎手は甦った。一流馬に乗ることで騎手としての誇りを取り戻した中野騎手がアイネスフウジンにできる恩返しは、日本競馬界の頂点である日本ダービーを勝たせることだけだった。

 ただ、この日のアイネスフウジンは3番人気にとどまっていた。アイネスフウジンが軽視された理由は、主としてその脚質にあった。日本ダービーの逃げ切りは、カブラヤオー以来絶えており、アイネスフウジンも逃げ切りは難しいと思われたのである。

 確かに、直線が長いために差し馬や追い込み馬の末脚が届きやすい東京2400mコースで、道中ずっと他の目標にされながら逃げ切ることは難しい。まして、競馬界最高のレースである日本ダービーともなれば、なおのことである。

 しかし、アイネスフウジンの父シーホークからは2頭の天皇賞馬(モンテプリンス、モンテファスト)と1頭の日本ダービー馬(ウィナーズサークル)が出ており、血統に凝縮されたスタミナは十分である。

「2400mを逃げ切るスタミナは、ある。残り100mで先頭になっていれば、勝つのは俺の馬だ」

 中野騎手は、そう信じていた。「残り100mで先頭に立った馬が勝つ」・・・それは、その直前に中野騎手がまとめて見たダービーのビデオがそうだったというだけで、理屈も何もない話である。・・・だが、中野騎手に必要なものは、そもそも理屈などではなかった。中野騎手には、アイネスフウジンに乗り、この馬と戦ってきた感触があった。それさえあれば、あとはどんな屁理屈だろうと迷信だろうと、ほんの少し背中を押してくれるものがあれば、それだけでいい。

 1番人気メジロライアンは、中団からやや後方での競馬となった。後門の狼のように虎視耽々と前を狙うその姿。鞍上の横山典弘騎手、当時22歳の若武者は、皐月賞敗戦後も

「ぼくの馬が一番強い」

と広言していた。馬が一番強い。それは、馬が負けたら自分の責任であることを意味する。だが、横山騎手も、心から信じていた。直線で追えるだけ追えば、勝利の女神は彼らに微笑む。それも、前年からコンビを組んできた横山騎手だけが持つことができた確信だった。

 武騎手とコンビを組んだハクタイセイは、終始先頭集団の好位からアイネスフウジンを見るような形でレースを進めた。気性的には素直で、血統以外の面での距離不安はないはずだった。だが、血の宿命・・・ダービーをはじめとする大舞台で距離の限界に泣き続けたハイセイコーの血の縛りは、あまりにも重かった。その仔ハクタイセイに血の宿命はあるのか。テン乗りの武騎手が、中野騎手や横山騎手ほどに馬を信じることは、あるいは難しかったのかもしれない。

 向こう正面でアイネスフウジンが後続に付けた差は5、6馬身で、文字通りの「大逃げ」となった。無謀なハイペースではないが、道中決して緩むことのない厳しい流れの中で、アイネスフウジンの脚に乱れはない。後ろの馬には厳しいと感じられるペースではあったが、アイネスフウジンにとっては自分のペースで気持ち良く逃げることができていた。皐月賞の敗戦で人気が落ちたことも幸いし、後続は後方のメジロライアンが気になって、動こうにも動けない状態になっていた。中野騎手とアイネスフウジンが打った逃げは、絶妙のものとなっていた。

 そんなアイネスフウジンの逃げに対して積極的に仕掛けていったのは、ハクタイセイだった。アイネスフウジンは第3コーナーから第4コーナーの辺り、後続が差を詰めた辺りで息を入れる形になった。武騎手は、騎手としての本能の部分ではっきりと感じていた。アイネスフウジンは、強い逃げ馬である。ここで仕掛けなければ、2400mをまんまと逃げ切られてしまう。

 もう1頭の人気馬であるメジロライアンは、もともと直線の追い込み一手だから、自ら逃げ馬に鈴を付けに行けるタイプではない。鈴を付けに行くのは、2番人気の皐月賞馬しかいなかった。

『血の宿命(さだめ)』

 結果的に、武騎手の判断は裏目に出た。ハクタイセイは、いったんアイネスフウジンとの差を詰めに行ったものの、アイネスフウジンはなんとそこからもう一度加速したのである。究極のスタミナ勝負に持ち込んだアイネスフウジンの前に、ハクタイセイは完全に翻弄された。アイネスフウジンをとらえることはできないまま、むしろずるずると後退していく。前を行くアイネスフウジンより先に、後ろを行くハクタイセイの余力が尽きてしまったのである。

 そんなハクタイセイの横を雷電の如く駆け抜けていったのは、三強の一角メジロライアンだった。直線に賭けた横山騎手の目に映っていたのは、先頭を行くアイネスフウジンただ1頭だった。そればかりか、ホワイトストーン、ツルマルミマタオーといった格下の馬たちまでが、ハクタイセイをかわしていった…。

 レースはアイネスフウジンがレコードで逃げ切り、東京競馬場は「ナカノ・コール」に包まれた。今でこそGlの風物詩となった勝者を讃えるコールだが、その始まりは、この時の自然発生的なものである。メジロライアンもまた、アイネスフウジンの前に1馬身4分の1届かず、2着に終わった。だが、メジロライアンが三強の意地を見せたのに対し、ハクタイセイは5着に沈んだ。血の宿命は、やはりハクタイセイの脚を捕えて離さなかったのである。

『遥かなる試練』

 ハクタイセイにとって、この日のダービーは、不運な展開だった。距離適性で劣ることは分かっていたのに、直線でアイネスフウジンをとらえに動ける馬は、自分しかいなかった。早く仕掛ければスタミナが切れる最後の直線で、本来勝負を賭けるべき位置よりも早く勝負を賭けなければならない状況に追い込まれてしまったのである。レース後、一部で武騎手の騎乗を責める向きもあったが、これは酷というものだろう。第4コーナーでのハクタイセイは、まさに前門の虎・アイネスフウジンと後門の狼・メジロライアンの間にあって、勝つためにはそこで動くより他に策はなかった。

 しかし、ハクタイセイと武騎手は日本ダービーで敗れ、沈んだ。武騎手にとって、それまでのダービーで騎乗した馬たちは、もともと勝ち負けは期待できない人気薄の馬ばかりだったが、ハクタイセイは違っていた。2番人気の馬に騎乗しながら結果は5着なのだから、これは完敗である。

 その後、武騎手はダービーで多くの有望馬に騎乗したが、なぜかなかなか勝てなかった。ナリタタイシン、ダンスインザダーク、ランニングゲイル…。彼がダービージョッキーに輝くのは、1998年(平成10年)のスペシャルウィークまで待たなければならなかった。

『さらば、戦いの日々』

 ハクタイセイは、その後、調教中に屈腱炎に見舞われて長期休養を強いられることになった。その症状は重く、戦列離脱の期間は長引いた。それでも布施師ら関係者の苦労によって、ハクタイセイは翌年の安田記念(Gl)にようやく登録するところまでたどりつき、いよいよ出走がかなうか、とも思われた。

 しかし、運命は残酷だった。再発しやすく「不治の病」と呼ばれる屈腱炎は、安田記念直前のハクタイセイをまたも奈落へと突き落とした。屈腱炎が再発したハクタイセイは、安田記念への出走も取り消され、そしてついに引退へと追い込まれてしまった。結局、ハクタイセイにとって、日本ダービーが生涯最後のレースになった。

『流れ種牡馬』

 その後、皐月賞馬、そしてハイセイコーの後継として種牡馬生活に入ったハクタイセイだったが、その先行きは苦心に満ちたものとなってしまった。革新と淘汰が続く馬産界において、「ハイセイコーの血」は、既に時代遅れのものとなりつつあったのである。

 ハクタイセイが種牡馬として供用された初年度(1992年)は、26頭の繁殖牝馬に種付けして18頭の産駒を得るにとどまった。種牡馬の人気を示す種付け頭数は、初年度は多くなり、その後は産駒のデビューまでじょじょに落ち込んでいき、初年度産駒のデビュー後は産駒成績次第・・・というのが一般的である。初年度で産駒が18頭というのは厳しい数字だが、これがハクタイセイの人気の現実であった。

 1993年、ハクタイセイは、よりチャンスの多い活躍の場を求めて鹿児島へと旅立った。競合相手が多い北海道では早くも埋もれつつあるが、種牡馬の少ない九州の馬産界ならば、活路を見出せるかもしれないという願いを込めての早い移動だった。

 鹿児島での初めての供用年に、ハクタイセイは20頭に交配して16頭の産駒を得た。数の上では前年より減っているが、九州の馬産の規模を考えると、この数字は悪いものではない。皐月賞馬ハクタイセイはこのまま九州を安住の地とすることができるか、とも思われた。

 ところが、翌年(1994年)以降の種付けは激減し、サラブレッドとの種付けは年に2、3頭あるかどうかという状態になってしまった。もともと北海道でもなかなか有力視されていた輸入種牡馬のマークオブディスティンクションが、この年九州へ移動してきて、68頭の種付けを行ったのである。まさに九州の繁殖牝馬がすべてマークオブディスティンクションに集中したかのような感を呈する中で、ハクタイセイは、まともにそのあおりを受ける形となった。

 結局、ハクタイセイは鹿児島でも居場所がなくなり、再び北海道に戻ってきた。北海道に戻ったハクタイセイは、軽種馬農協の所有馬という立場から、毎年少数の産駒を得ることはできたものの、約2年ごとに居場所が変わりながら、まるで種馬場をたらい回しにされているような晩年を送った、といっては、いい過ぎだろうか。種付け自体がなく、他の種牡馬のアテ馬の役割のみを果たすことも珍しいことではなかった。

 やがて種牡馬を引退して余生を過ごすようになったハクタイセイは、2013年10月28日、芦毛特有の黒色腫による腸閉塞であるメラノーマによって死亡したという。

『今ひとたびの―』

 このように苦難に満ちた種牡馬生活を送ったハクタイセイの産駒たちは、地方では少数の産駒が勝ち上がった程度で、重賞での実績は残せなかった。中央での勝ち上がり馬は、いない。ハクタイセイの血を引くサラブレッドは、既に消滅しているようである。

 もっとも、血統的に苦しい戦いを強いられたのはハクタイセイだけでなかった。ハイセイコー産駒の種牡馬たちをみると、天皇賞とダービーを制したカツラノハイセイコは、高知の名馬テツノセンゴクオーやオークス2着のユウミロクなどを輩出し、南関東二冠を制したキングハイセイコーも、99年に交流重賞5勝を挙げ、生涯で21の競馬場でのレースに出走したスノーエンデバーを出している。しかし、このクラスの成績を残した種牡馬を複数輩出したはずのハイセイコーの血統ですら、牝系を通じたものはともかく、直系種牡馬は既に断絶してしまったようである。

 幸い、ハイセイコーを母の父に持つマイネルマックスは96年朝日杯3歳Sを勝っており、前記のカツラノハイセイコ産駒であるユウミロクは、ゴーカイ、ユウフヨウホウという障害の名馬を送り出している。ハイセイコーの血は、牝系を通じて現在にも生き残っている。

 ただ、牝系も含めて範囲を広げたとしても、ハイセイコーの血統が今後も存続できるかどうかは、予断を許さない状況にあると言わざるを得ない。「何かがハマる」ことで大きな飛躍を見せる傾向がある「怪物」ハイセイコーの血統が、今後再び甦る光景を我々が見ることはあるのだろうか。ハクタイセイをはじめとする産駒たちに多くの光と影をもたらしたハイセイコーの血に、さらなる夢まで望むことは、果たして競馬ファンのわがままなのであろうか。

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