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フレッシュボイス列伝~雪、降りやまず~

1883年5月9日生。2007年6月12日死亡。牡。鹿毛。小笠原牧場(静内)産。
 父フィリップオブスペイン、母シャトーバード(母父ダイハード)。境直行厩舎(栗東)。
 通算成績は、26戦7勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、安田記念(Gl)、産経大阪杯(Gll)、 日経新春杯(Gll)、毎日杯(Glll)、シンザン記念(Glll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『常識を超えた馬』

 競馬界には、「常識」と呼ばれるものが無数に存在している。馬の血統、個性、レースの展開、騎手の手腕、性格、人間関係など、様々な局面で気まぐれに顔を覗かせる「常識」は、ファンの予想に大きな影響を与える。時にはとんでもない誤解や勘違いで道を踏み外しながら、自分自身の「常識」を発見していくのも、競馬の楽しみ方のひとつである。自分自身の「常識」が、不特定多数の議論を経て競馬界の新しい「常識」としてとりいれられていくことは、インターネット時代を迎えた現代においては、それほど珍しいことではない。

 世に広く受け入れられている「常識」の中のひとつに、「湿った芝では差し脚が殺されるため、前残りになる」というものがある。少なくとも芝のレースの場合、雨や雪によって馬場状態が悪化すると、直線での加速がつきにくくなり、最高速度も低下せざるを得ないことから、直線の瞬発力に賭けるタイプの馬たちに不利となることが多い。このような馬場で後方からの差しや追い込みタイプの馬が届きにくいことは、確かな事実として存在する。

 しかし、時にはこのような「常識」を覆す存在が現れるのも、競馬の奥深さと面白さである。1987年の安田記念(Gl)を制したフレッシュボイスは、そんな常識破りの馬の1頭だった。彼は極端な追い込み一手の脚質でありながら、不良馬場や重馬場を得意とする、日本競馬の「常識」を超えた特異な馬だったのである。

『名門牧場の危機』

フレッシュボイスは、1983年5月9日、当時静内にあった小笠原牧場で生をうけた。当時、小笠原牧場といえば、静内近辺では古い歴史を持つ名門牧場のひとつとして知られており、かつては1952年の皐月賞、ダービーでともに2着したカミサカエを出したこともあった。

 小笠原牧場の歴史を支えたのは、セフトニヤという繁殖牝馬まで遡る牝系である。太平洋戦争が終わった1945年に生まれたこの牝馬は、前記のカミサカエのほかにも京阪杯を勝ったタイセフトを出し、さらに彼女の娘たちからはさらに多くの活躍馬を出した。セフトニヤを祖とする一族の中でも、孫にあたるベロナは、1965年のオークスを制している。

 しかし、セフトニヤ系が繁栄する一方で、牝系の総本山とも言うべき小笠原牧場は、その恩恵に浴することができなかった。当時の当主が50歳にならない若さで急逝する悲劇に見舞われた小笠原牧場は、跡を継ぐべき子供たちが未成年であり、唯一の男手である婿も20代半ばだった上、馬産とはまったく無縁の公務員をしていた・・・という状況の中で、存亡の危機を迎えた。残された人々は、牧場を続けていくために、やむを得ず繁殖牝馬を大幅に整理して規模を縮小せざるを得なかったのである。その後競馬場で活躍したのは、ことごとくよその牧場に流出した繁殖牝馬の子供たちばかりだった。

 そんな苦境にあって、小笠原牧場に残った数少ないセフトニヤ系の繁殖牝馬の末裔が、フレッシュボイスの母となるシャトーハードだった。ただ、フレッシュボイスが活躍する以前のシャトーハードは、決して優れた繁殖牝馬として評価されていたわけではなかった。彼女自身はあまりの気性の激しさに競走馬としてデビューすることができなかったし、彼女の子供たちも、母の激しすぎる気性を受け継ぎ、大成を阻まれていた。

 こうした結果を受けて小笠原牧場の人々が考えたのは、

「穏やかな気性でシャトーハードの気性の激しさを打ち消してくれるような種牡馬はいないものか」

ということであり、そうして選ばれたのがフィリップオブスペインだった。

『血の神秘』

 フィリップオブスペインは、英国で9戦1勝という戦績を残している。生涯唯一の勝ち鞍が3歳限定の5ハロン戦であるニューS(英Glll)という重賞だという事実は、わが国の競馬とはまったく異なる本場のレース体系の奥深さを物語る。他にも、3歳限定の6ハロン戦ミドルパークS(英Gl)、ジムクラックS(英Gl)でクビ差の2着に入った実績があり、競走馬としては典型的な早熟のスプリンターだった。

 3年間英国で種牡馬生活を送った後に日本へ輸入されたフィリップオブスペインは、日本の水が合ったのか、なかなかの成功を収めた。フレッシュボイスのほかにも高松宮杯(Gll)を勝ったミスタースペイン、京王杯(現京成杯)SCを勝ったエビスクラウン、生涯103戦を走り抜いた文字通りの「百戦錬馬」(?)スペインランドなどを出したその種牡馬成績は、現役時代の競走成績に比べると上出来の部類に入るだろう。

 フィリップオブスペインの子供は、気性がおとなしく、長い活躍が見込めるという特徴があった。小笠原牧場の人々は、フィリップオブスペインの血にシャトーハードの気性難を打ち消す役割を託した。・・・そして、フィリップオブスペインの子として生まれたシャトーハードの6番目の子となる鹿毛の牡馬は、牧場の人々の狙いどおり、とてもおとなしく、賢い子馬だった。父の穏やかな気性を受け継いで人間の手もあまりわずらわせることがなかったという彼は、やがて「フレッシュボイス」という名を与えられ、中央競馬へとデビューすることになった。

『月見草のように』

 3歳になって境直行厩舎へと入厩したフレッシュボイスは、やがて福島へと連れていかれ、芝1000mの新馬戦でデビューすることになった。父の実績からすれば、平坦コースの3歳戦、それも短距離というのは、格好の稼ぎ時といえた。10月というデビュー時期も、有力馬が中央開催でデビューする中でのローカル開催にあたり、相手関係がかなり楽な時期である。

 ところが、このレースでのフレッシュボイスは、11頭だての7番人気に過ぎなかった。少なくともこの時期のフレッシュボイスは、ファンの注目を集める存在ではなかった。

 不良馬場でのレースとなったデビュー戦を、生涯ただ一度の逃げ切りで制したフレッシュボイスは、次走のきんもくせい特別(400万下)では、7頭だての6番人気ながら見事な差し切り勝ちを収め、2連勝を飾った。続く福島3歳Sでも、8頭だて5番人気の低評価に甘んじながら、鋭い追い込みで3着に入った。

 フレッシュボイスの3歳戦は、福島での3戦だけに終わった。しかし、その戦績は3戦2勝3着1回という立派なものだった。デビュー前の注目度、そしてこの3戦での単勝人気を考えれば、上々の戦果だった。

『始まりの季節』

 3歳時は勝っても勝っても評価が上がらなかったフレッシュボイスだったが、さすがにこれだけ好走を続けると、周囲の視線も変わってきた。4歳初戦で初めて重賞に挑むことになったフレッシュボイスは、そのシンザン記念(Glll)では、2番人気に支持された。

「早く追い出すと末が甘くなるから、坂を登り切るまでは行くな・・・」

 境師の指示を受けた古小路重男騎手も後方待機で待ちの競馬に徹し、最後はクビ差抜け出しての重賞制覇を果たした。後にフレッシュボイスの最大の武器となる瞬発力は、この時点から既に芽ぶきつつあった。

 だが、フレッシュボイスの名前が本当の意味での全国区になったのは、次走の毎日杯(Glll)でのことだった。当時の毎日杯は、クラシックを目指す関西馬が賞金を加算して皐月賞へと参戦する最後のチャンスであり、「東上列車最終便」とも呼ばれていた。フレッシュボイスの場合、シンザン記念優勝の実績があって賞金は足りているとはいえ、血統的に距離への対応力が疑問視されており、2000mの毎日杯での結果は、今後のクラシックに向けた大きな試金石と位置づけられていた。

 毎日杯当日、阪神競馬場には雪が降りしきっていた。フレッシュボイスの最大の持ち味である瞬発力が殺されてしまいかねない天候と馬場状態は、フレッシュボイス陣営の人々にとって、不安以外の何者でもなかった。

 しかも、フレッシュボイスは、本賞金の多さゆえに他の出走馬たちより1kg重い56kgの斤量を背負い、鞍上も障害戦で落馬して負傷した古小路騎手からテン乗りの田原成貴騎手へ乗り替わっていた。様々な要因が重なってファンの不安も募り、この日のフレッシュボイスはタケノコマヨシに次ぐ2番人気にとどまっていた。

『雪はやんだ・・・』

 しかし、そんな不安を振り払うかのように、フレッシュボイスは圧勝した。スタートから立ち後れ気味になって最後方からの競馬となったフレッシュボイスだったが、向こう正面でまだ一番後ろにいたにもかかわらず、第3コーナーを過ぎると、みるみる進出を開始した。そして、直線に入ると、一完歩、一完歩ごとに、他の馬とは次元の違うパワーで鬼脚を爆発させ、最終的には2着に3馬身半差をつけて圧勝を飾ったのである。

 この日の実況を担当した関西競馬中継の名物アナウンサー・杉本清氏は

「雪はやんだ、フレッシュボイスだ!」

と実況した。この実況はいわゆる「杉本節」のひとつとして後世に語り継がれているが、フレッシュボイスの名前も、当時の競馬界に「杉本節」の広がりとともに知られるようになっていった。・・・当日の降りしきる雪は、レースの間に弱まってはいたが、ゴール後も降り続いているようにしか見えなかったというのは、どうでもいい話である。

 毎日杯を勝ったことで2000mの距離にも対応できることを証明したフレッシュボイスは、1986年牡馬クラシックロードを歩んでいくことになった。毎日杯での見事な騎乗が評価され、フレッシュボイスの主戦騎手は田原騎手が務めることになり、古小路騎手がその後フレッシュボイスに再び騎乗することはなかった。古小路騎手にとって、乗り替わりの原因となった負傷は、あまりに痛いものとなってしまった。

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