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ダイユウサク列伝~世紀の一発屋~

『―そして、名前が叫ばれた』

 高々と左手を天に掲げたのは、熊沢騎手だった。世間に名高い「これはびっくりダイユウサク」である。

 ダイユウサクは、メジロマックイーンに1馬身4分の1の差をつけ、完勝した。これは、さすがのメジロマックイーンをしても届かない永遠の着差であり、勝ち時計の2分30秒6は、従来のイナリワンの記録を1秒1も縮める驚異のレコードだった。場内は悲鳴にも似た喚声で騒然となった。

 ダイユウサクは、道中ずっとメジロマックイーンの後方に待機していた。ツインターボの逃げでペースが吊り上がり、ツインターボの失速とともにプレクラスニーやメジロマックイーンがまくったことから形成された厳しいペースを衝いた、鮮やかな差し切り勝ちだった。無尽蔵のスタミナを誇るメジロマックイーンだったが、この一世一代の鬼脚の前にはまったく為す術がなかった。

 ダイユウサクの口取り式は、グランプリの割には関係者も少なく、やや寂しいものだった。ダイユウサクの馬主である橋元氏は、まさかダイユウサクが勝つとは夢にも思わず、中山競馬場に来ていなかったのである。橋元氏は内藤師から

「最高の仕上がりです」

と報告を受けて顔をほころばせてはいたが、本気にはしていなかったのだろう。ちょうどこの日に東京ディズニーランドに遊びに行くという娘と孫娘に

「ついでに有馬記念でも見て来いや」

という謎の言葉を与えて送り出し、自分は自宅でテレビ観戦を決め込んでいた。テレビを見ていた馬主ですらぶったまげた世紀の大波乱は、この年の、そして有馬記念史上の単勝最高配当というおまけ付きとなった。

 その日、ダイユウサクの担当厩務員の平田氏が夕食を終えてダイユウサクの馬房に帰ってくると、馬房の前には書き置きと缶ビールが置いてあった。書き置きを開いてみると、

「ダイユウサクとお先に祝杯を挙げました」

という熊沢騎手のメッセージが残されていたという。熊沢騎手とダイユウサクは、二人だけの祝勝会で何を語りあったのだろうか。結局、この年ダイユウサクは、1年の始まりである金杯と締めくくりの有馬記念を制し、1991年の中央競馬は文字どおり「ダイユウサクに始まり、ダイユウサクに終わった」1年となった。

『大きな木の下で』

 こうしてグランプリホースとなったダイユウサクだったが、有馬記念で一世一代の末脚を爆発させて燃え尽きてしまったのか、8歳時には6戦したものの、一度も掲示板に乗ることさえできなかった。その年限りで現役を引退することになったダイユウサクは、引退後は新冠の八木牧場で種牡馬生活に入ることになった。そして、『世紀の一発屋として鳴らしたダイユウサク、生涯一度の激走で後はウハウハの種牡馬生活』・・・といけば良かったのだが、さすがに世の中そんなに甘くはなかった。

 種牡馬の過剰供給、構造不況、外国産馬の大攻勢・・・。これらの要因が重なり、ダイユウサクの種牡馬としてのスタートは厳しいものとなった。初年度こそ有馬記念の印象がまだ強く残っており、また八木牧場が宣伝に力を入れてくれたおかげで何とか13頭の産駒を確保したものの、翌年以降は2頭、1頭と交配数が落ち込み、ついには種付け自体がなくなってしまった。

 それでも、八木牧場の関係者は、ダイユウサクの面倒を一生見続けていくつもりだった。牧場にとって、種付けのない種牡馬は牧草地と経費がかかるだけの存在に過ぎないはずである。しかし、彼らはそんな野暮なことは言わなかった。有馬記念をレコード勝ちしたほどの馬が老後も保障されないなんてあんまりではないか、と。そんな温かい視線に囲まれながら、ダイユウサクは大きな木の下で草を食みながら、のんびりと余生を過ごしていた。

『新天地へ』

 そんなダイユウサクに転機が訪れた。1998年春、北海道の浦河町に、日本有数の総合競馬観光施設「AERU」がオープンすることになった。その際、観光の目玉としてダイユウサクを招きたい、という申し出があったのである。

 「AERU」はファンが競走馬と親しめる施設であることを目玉とする観光施設である。設立当初は、その一環として種牡馬生活を引退した名競走馬の功労馬牧場を設けることが予定されていた。種牡馬として成功できずに不遇の後半生を送っている名馬達を引き取って繋養すれば、日本の競馬界の課題である競走馬の余生の保証に役立つばかりか、現役時代の彼らのファンの関心を引き、「AERU」に観光に来てもらう、という一石二鳥が可能ではないか。・・・そして、その第1号として白羽の矢が立てられたのが、ダイユウサクだった。

 このころには、ダイユウサクの種牡馬としての将来は、もはや見込みが立たなくなっていた。まだ数に恵まれたといえる初年度産駒の中から大物を輩出すれば復活の目もあったのだろうが、地方での活躍馬こそ出したとはいえ、中央で良績を残さないと種牡馬としての人気は上がらない。そして、中央入りした初年度産駒の中からは、父の名を高めてくれるような馬が登場する兆しはなかった。そうすると、いないに等しい2年目以降の産駒に淡い、余りに淡い期待を掛けるよりは、乗馬としてであっても多くのファンに愛されて余生を保障してもらえる方が、ダイユウサクにとって幸せかもしれない・・・。

 かくして、ダイユウサクは八木牧場から「AERU」へと移籍した。ダイユウサクが「AERU」入りした直後、ネームプレートはまだ備えつけられていなかったが、放牧地にいたダイユウサクを見て、

「もしかして、あの馬はダイユウサクでは?」

と訊ねた客もいたとのことである。そう特徴があるとは思えない毛色のダイユウサクだが、分かる人には分かるものだ、と職員を感心させた。その後、功労馬牧場計画は、諸般の事情から大幅に縮小されたものの、「AERU」にやって来ていた彼の処遇に影響はなかった。多くのファンを呼び寄せる彼の力は、「AERU」にとっても既に無視できないものとなっていたのである。

『私たちに会うために』

 種牡馬ダイユウサクが送り出した産駒は、後に中央競馬でホウライカップが平地で1勝、そして平地では未勝利に終わったシリウスランドが障害に転じて2勝を挙げた。だが、ダイユウサクは、そんなことなど素知らぬ顔で、「AERU」でのんびりとした余生を送り、天寿を全うしたという。

 かつて有馬記念の勝利を伝える新聞に「理不尽馬が世紀末を駆け抜けた」と伝えられたダイユウサクだが、新世紀の観光に力を尽くすという道を切り拓いた。彼によって切り拓かれた名馬の仕事とは、そこにいることによって私たちに競馬の素晴らしさを語り伝えるというものである。

 有馬記念を勝った時には「世紀の一発屋」「理不尽馬」などと好き勝手なことを言われたダイユウサクだが、彼によって切り拓かれた名馬のセカンドライフにより、多くの名馬たちが救われたに違いない。新しい未来は、いつも常識の枠に収まらないところから拓かれる。その意味で、ダイユウサクのセカンドライフも、どこまでも彼らしいものだったと言えるのではないだろうか―。

 ―そして、大観衆の驚愕の中、謎の鹿毛馬はゴールを突き抜けた

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