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ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~

 1985年4月11日生。2014年3月28日死亡。牡。栗毛。宮村牧場(浦河)産。
 父ヤマニンスキー、母ツルミスター(母父イエローゴッド)。荻野光男厩舎(栗東)。
 通算成績は、23戦8勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、天皇賞・秋(Gl)、皐月賞(Gl)、
 産経大阪杯(Gll)、鳴尾記念(Gll)、京都新聞杯(Gll)、UHB杯(OP)。 

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『平成三強時代の中で』

 競馬界が盛り上がるための条件として絶対に不可欠なものとして、実力が高いレベルで伯仲する複数の強豪が存在することが挙げられる。過去に中央競馬が迎えた幾度かの黄金時代は、いずれもそうした名馬たちの存在に恵まれていた。

 強豪が1頭しかいない場合、その1頭がどんなに強くても、競馬界全体はそう盛り上がらない。また、たとえレースのたびに勝ち馬が替わる激戦模様であっても、その主人公たちが名馬としての風格を欠いていたのでは、やはり競馬人気の上昇に貢献することはない。

 その意味で、これまでの競馬ブームの中でも競馬の大衆化が最も進んだといわれる1988年から90年にかけての時代・・・オグリキャップとそのライバルたちを中心とする「平成三強」の時代は、理想的な条件が揃っていたということができる。この時代における競馬ブームの火付け役となったのはオグリキャップだったが、この時代を語る際に、その好敵手だったスーパークリーク、イナリワンの存在を欠かすことはできない。「平成三強」の競馬を一言で言い表すと、「3頭が出走すればそのどれかで決まる」。しかし、「3頭のうちどれが勝つのかは、走ってみないと分からない」という時代だった。そんな彼らの活躍と死闘に魅せられた新しいファン層は、90年代前半に中央競馬が迎えた空前絶後の繁栄期を支え、競馬人気の拡大に大きく貢献したのである。「平成三強」なくして88年から90年代前半にかけての競馬ブームは存在しなかったというべく、オグリキャップをはじめとする「平成三強」が競馬界にもたらした功績は、非常に大きいといわなければならない。

 もっとも、競馬界に大きな貢献をもたらした平成三強だが、彼らと同じ時代に走った馬たちからしてみれば、迷惑なことこの上ない存在だったに違いない。大レースのほとんどを次元の違う三強によって独占されてしまうのだから、他の馬からしてみればたまらない。次元の違う馬が1頭しかいないのであれば、その馬が出てこないレースを狙ったり、あるいはその馬の不調や展開のアヤにつけこんで足元をすくうことも可能かもしれない。だが、そんな怪物が3頭もいたのでは、怪物ならざる馬たちには、もはや手の打ちようがないではないか・・・。

 しかし、そんな不遇の時代に生まれながら、なおターフの中で、自分の役割を見つけて輝いた馬たちもいる。1988年皐月賞(Gl)と90年天皇賞・秋(Gl)を勝ったヤエノムテキは、そんな個性あるサラブレッドの1頭である。

 ヤエノムテキ自身の戦績は、上記のGl、それもいわゆる「八大競走」と呼ばれる大レースを2勝しており、時代を代表する実力馬と評価されても不思議ではない。だが、彼の場合は生まれた時代が悪すぎた。同じ時代に生きた「平成三強」という強豪たちがあまりに華やかで、あまりに目立ちすぎていた。そのため、「Glで2勝を挙げた」といっても、そのひとつは「平成三強」とは無関係のレースであり、もうひとつは唯一出走したオグリキャップが絶不調だったため、その素晴らしい戦績にもかかわらず、ヤエノムテキが時代の主役として認められることはなかった。

 そんな彼だったが、自分に対するそんな扱いを不服とすることもなく、あくまでも脇役としてターフを沸かせ続けた。やがて、2度にわたって府中2000mを舞台とするGlを制した彼は、脇役の1頭としてではあるが、やはり時代を支えた個性派として、ファンから多くの支持を受ける人気馬になっていったのである。

『明治男の意地』

 ヤエノムテキは、浦河・宮村牧場という小さな牧場で生まれた。当時の宮村牧場は、家族3人で経営する家族牧場で、繁殖牝馬も6頭しかいなかった。宮村牧場の歴史をひもといても、古くは1963年、64年に東京障害特別・秋を連覇したキンタイムという馬を出したほかに、有名な生産馬を輩出したことはなかった。

 そんな宮村牧場の場長だった宮村岩雄氏は、頑ななまでに創業以来の自家血統を守り続ける、昔気質の生産者だった。宮村氏が独立する際、ただ1頭連れて来た繁殖牝馬が、ヤエノムテキの4代母となるフジサカエである。その後、小さいながらも堅実な経営を続けた宮村牧場は、フジサカエの血を引く繁殖牝馬の血を細々とつないだ。特にフジサカエの孫にあたるフジコウは、子出しのよさで長年にわたって宮村牧場に貢献する功労馬であり、ヤエノムテキの母であるツルミスターは、フジコウから生まれ、そして宮村牧場に帰ってきた繁殖牝馬の1頭だった。

 ただ、フジサカエの末裔は、ある程度までは確実に走るものの、重賞を勝つような馬は、なかなか出せなかった。一族の活躍馬を並べてみても、中央競馬よりも地方競馬での活躍が目立っている。そのため宮村氏は、周囲から

「その血統はもう古い」
「まだそんな血統にこだわっているのか」

とからかわれることも多かった。しかし、宮村牧場ではあくまでもフジサカエの一族にこだわり続け、この一族に優秀な種牡馬を交配し続けてきた。それは、馬産に一生を捧げてきた明治生まれの宮村氏の、男として、馬産家としての意地だったのかもしれない。

『消えた馬』

 このように、フジサカエの一族は宮村牧場の宝ともいうべき存在だったが、その中におけるツルミスターは、決して目立った存在ではなかった。彼女は中央競馬への入厩こそ果たしたものの、その戦績は3戦未勝利というものにすぎなかった。

 そんなツルミスターが宮村牧場に帰ってくることになったのは、彼女を管理していた荻野光男調教師の発案である。何気なくツルミスターの血統表を見ていた荻野師は、彼女の牝系に代々つけられてきた種牡馬が皆種牡馬としてダービー馬を出しているという妙な共通点に気付き、

「なにかいいことがあるかもしれん」

ということで、彼女を繁殖牝馬として牧場に戻すことを勧めてきたのである。調教師の中には、血統にこだわるタイプもいれば、ほとんどこだわらないタイプもいる。もし荻野師が後者であったなら、後のGl2勝馬は誕生しなかったことになる。これもまた、運命の悪戯といえよう。

『血統の深遠』

 荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。

 ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。父Nijinskyと母の父Backpasserの組み合わせといえば、やはりNijinsky産駒で8戦8勝の戦績を残し、日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーはマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、当然のことながら、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。

 やがてマルゼンスキーがデビューして残した圧倒的な戦績ゆえに、そんな怪物と同配合ということで注目を集めたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかったのである。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るものといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった笠松の安藤勝己騎手を乗せて優勝し、後の「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。競走馬としてのヤマニンスキーは、明らかに「二流以下」の領域に属していた。

 しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らない。競走馬としてはさっぱりだった馬が、種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。

 ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。・・・そうした馬産家たちが目を付けたのが、ヤマニンスキーの血だった。

 種牡馬ヤマニンスキーは、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬を集めた。マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇した「本家」の価値は、「代用品」の価値をも引き上げたのである。

 そして、「代用品」ヤマニンスキーの産駒も、周囲の予想以上に走った。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークス馬ライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年3月30日、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年での大往生を遂げた。ヤマニンスキーが種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。

 ヤマニンスキーを父、ツルミスターを母として生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキだった。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出した形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、

「忘れた」

と答えている。なんとも人を喰った話である。

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