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ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~

『静かな心で』

 皐月賞当日、ヤエノムテキは単勝2520円の9番人気だった。前年の阪神3歳S(Gl)の覇者で皐月賞の最有力候補といわれていたサッカーボーイが出走を回避し、さらにクラシック登録がないために、世代の陰の実力ナンバーワンといわれるオグリキャップの姿もない18頭の中でのこの人気は、ヤエノムテキの世代内における地位を象徴していた。

 皐月賞前日、荻野師は近所の寿司屋で騒いでいたが、

「絶好調なんや!明日は勝てるで!」

と気勢を上げたところで見事に椅子からひっくり返ってしまい、周囲に散々笑われたという。

 もっとも、人気薄ということで、ヤエノムテキ陣営は、比較的楽な気持ちで、戦いの場へと駒を進めることができた。ヤエノムテキは、まずは内枠を生かして好スタートを切り、好位につけた前年の朝日杯3歳S(Gl)の勝ち馬サクラチヨノオーをぴたりとマークした。

 すると、事件は第2コーナーで起こった。関東の若手のホープ・横山典弘騎手が騎乗するメイブレーブ、さらにデビューして1年あまりの武豊騎手が騎乗したマイネルフリッセが内側に斜行し、それぞれラガーブラック、モガミナインの進路を妨害したのである。特にモガミナインは、スプリングSを優勝した実績を買われて1番人気に支持されていたにもかかわらず、進路が狭まって行き場をなくしたところで後ろの馬に乗りかかられるという二重の不利を受けてしまった。メイブレーブとマイネルフリッセは、この時の進路妨害が原因で失格となった。

 だが、西浦騎手とヤエノムテキは、内枠の有利を生かして無理なく好位につけていたため、そんなトラブルに巻き込まれることもなかった。西浦騎手が気を配ったのは、とにかくサクラチヨノオーをマークし、最後にかわす競馬をしよう、ということだけだった。

『予想外の爆走』

 この日の西浦騎手の判断が優れていた点は、サクラチヨノオーが第4コーナーを過ぎて一気にスパートをかけた時も、時期尚早と見て動かなかったことである。府中の長い直線ならば、あわてて動かなくても差し切れる。むしろ、相手が早く動いたなら、その相手がばてるところで一気に差し切る方がいい・・・。

 サクラチヨノオーと、それにつられて動いた馬たちが動いた後も、ヤエノムテキと西浦騎手は、まだ脚をためることに徹していた。・・・そして、待ちに待ったヤエノムテキは、サクラチヨノオーの脚色が鈍った直線坂下で、一気に仕掛けて馬群から飛び出した。その脚色はサクラチヨノオーを、そして他の馬たちを圧倒する。

 ヤエノムテキはサクラチヨノオー、そして他の馬たちをたちまちとらえ、そしてかわしていった。

「勝ったと確信したのは、ゴールまで1ハロンのあたりでした」

というのは、西浦騎手のレース後の談である。それは、スタンドが戸惑うほどのあっという間の逆転劇だった。気がつくと、9番人気のヤエノムテキは、そのまま他の17頭を押し切り、先頭でゴールしていた。最後にディクターランドに4分の3馬身差まで差をつめられてはいたものの、危うさを感じさせない完勝だった。

 伏兵と呼ばれたヤエノムテキの勝利は、11年ぶりの関西馬による皐月賞制覇だった。芝の初戦となった毎日杯で4着に破れた結果から彼のことをダート馬と思いこんでいた多くのファンは、完全に意表をつかれる形となった。

『報われたわがまま』

 ヤエノムテキの勝利に驚いたのは、ファンだけではなかった。ヤエノムテキの生産者である宮村氏は、この日ヤエノムテキが勝ってしまうとは夢にも思わず、同じ日に上京する友人に

「間違って勝ったら、代わりに口取り式に出て」

と頼んで送り出し、自分は牧場に残っていた。「まさか」の大激走に、テレビの前でひっくり返ったものの、後の祭りである。

 そんな宮村氏をよそに、友人は「約束」を守った。ヤエノムテキの皐月賞後の記念写真に収まっているのは、宮村氏本人ではなく、彼に頼まれた友人である。おかげで、その光景を見て彼をヤエノムテキの生産者であると誤解した人も多く、やはりサラブレッドの生産を手がける友人の家には、その後かなりの数の祝福の電話がかかってきたという。

 もっとも、一生を馬産に捧げてきた宮村氏にとって、クラシック制覇とは、あまりに遠い夢だった。自分がそのレースを見られなかった無念など、自分の生産馬がクラシックを勝ったことの喜びに比べれば、問題にならない。彼はこのレースについて

「フジコウが勝たせてくれた」

という。5年前に高齢のため繁殖牝馬を引退したものの、長年牧場のかまど馬として働いてくれた彼女を処分するのはあまりに忍びなく、ずっと功労馬として繋養してきた。

「この年寄りの最後のわがままを聞いてくれ。わしの目の黒いうちは、どんなに苦しくてもフジコウの処分だけはまかりならん・・・」

 そう言い続けてきた彼は、自分の思いがフジコウに通じたのだと信じて、ヤエノムテキの祖母に手を合わせて感謝したという。

『フロックにあらず』

 ファンを、そして競馬界をあっといわせた皐月賞制覇の後、ヤエノムテキは二冠・・・日本ダービー制覇を目指した。皐月賞の結果を「展開がはまっただけ」「人気薄ゆえの激走」とフロック視する声はあったが、ふたを開けてみると、彼はダービーでも単勝640円の2番人気に支持された。この年のダービーは、近年まれに見る混戦模様とされ、1番人気サッカーボーイの単勝は580円だったが、それに次ぐヤエノムテキへの支持は、皐月賞馬の名に決して恥じないものだった。

 この日も中団から追い込む競馬で皐月賞の再現を狙ったヤエノムテキだったが、この日2匹目のドジョウはおらず、その末脚に、皐月賞ほどの破壊力はなかった。第55回日本ダービーは、早めに抜け出した皐月賞3着馬サクラチヨノオーと、そのサクラチヨノオーを徹底してマークしてきたNHK杯勝ち馬メジロアルダンの一世一代の死闘で知られている。ヤエノムテキは、その歴史に残る名勝負には加わることができないまま、勝ったサクラチヨノオーから3馬身ほど遅れた4着に敗れ去った。最後にぴたりと止まってしまったその脚は、彼の長距離適性に若干の不安を抱かせるものだった。

 もっとも、荻野師は

「まあ、4着までは来たし、一冠はとっとることやし・・・」

と語っているが、皐月賞制覇に続いてダービーでも、馬券に絡めなかったとはいえきっちり掲示板を確保し、ヤエノムテキはようやく世代のトップクラスとしての実力をファンに認知させることに成功した。それ以降のヤエノムテキは、それ以前とはうって変わって彼らの世代を代表する馬の1頭に数えられるようになったのである。・・・長距離適性への一抹の不安を残しながら。

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