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ヤエノムテキ列伝~府中愛した千両役者~

『再びの府中で』

 ヤエノムテキは、皐月賞を制した思い出の府中2000mコースへと帰ってきた。長らく「平成三強時代」の中にあった競馬界だが、この時期は再び激動期を迎えつつあった。平成三強のうちスーパークリーク、イナリワンは脚部不安を発症し、この日府中に姿を見せたのはオグリキャップ1頭だけである。しかし、そのオグリキャップも調教での動きなどから衰えの陰が指摘されていた。それでも単勝200円と断然の1番人気に推されたのはオグリキャップだったが、単勝530円で2番人気に支持されたのは宝塚記念でオグリキャップとイナリワンを破ったオサイチジョージで、気配絶好と伝えられたヤエノムテキは、単勝800円の3番人気だった。

 そして皐月賞では最内の1番を引いたヤエノムテキだが、今度の枠順は18頭だての7番と、前回ほど有利ではないにしろ、不利というほど外でもない。そして、ヤエノムテキは、外枠の馬たちが殺到する第2コーナーでも、内側の位置どりをキープしながら中団につけた。ヤエノムテキと岡部騎手が見ていたのは、先行した圧倒的1番人気オグリキャップだった。ヤエノムテキは、同世代であり「平成三強」の筆頭格として競馬界のみならず一般社会にも「オグリ・ブーム」を巻き起こしたオグリキャップと5度戦い、一度も先着していない。3歳時には毎日杯、4歳時には天皇賞・秋、有馬記念といずれも後塵を拝し、この年の春も、安田記念と宝塚記念の2度挑んだものの、安田記念はレコードでの圧勝を許し、宝塚記念でも2着に敗れたオグリキャップをとらえ切れなかった。
 
 しかし、時代は次なる世代へと動き始め、オグリキャップにも昔日の実力はない。無論、オグリキャップと同じ世代に属するヤエノムテキにも残された時間はもう長くはない。「最強世代」と呼ばれる同期生たちの中で脇役とされ続けた彼が主役と呼ばれるために、オグリキャップを倒すことは不可欠であり、そして天皇賞・秋(Gl)こそは、彼にとっての最大の好機だった。

『一瞬の好機』

 ヤエノムテキは、第3コーナーから第4コーナー手前にかけて徐々に進出を開始した。オサイチジョージがヤエノムテキの前に入る素振りを見せたものの、岡部騎手はあわてず馬をいったん前に出し、オサイチジョージの動きを封じ、すぐに抑えることで、不利を受けることを未然に防いだ。ヤエノムテキが実力を出し切る素地は、名手によって整えられた。

 岡部騎手がこの天皇賞・秋(Gl)の最後にして最大の勝負ポイントと見ていたのは、第4コーナーを回った地点だった。中団でレースを進めるヤエノムテキの前が、果たして開いてくれるかどうか。もしここで前が開かなければ、外に持ち出すしかない。出走馬の中で図抜けた力を持つわけではないヤエノムテキでは、ここで外に持ち出した場合、そのことによって生じる距離的なロスをカバーして勝つことは、難しくなるだろう・・・。

 だが、岡部騎手は前が開くことに賭けた。他の馬の位置取り、動き、騎手の性格などから、この日は開くと読んだ。長年馬に乗ることで飯を食ってきた者だけが感じ取ることができる、勝負師としてのカンだった。

 すると、岡部騎手の予想どおり、他の馬たちのせめぎあいの中で、ヤエノムテキの前がぽっかりと開いた。少し早いが、ここで動かなければ、おそらく前はもう開かない。岡部騎手はここぞとゴーサインを出し、ヤエノムテキは、内を衝いて一気に上がっていった。天皇賞・秋は、いよいよ白熱の直線を迎えた。

『栄光のゴール』

 ヤエノムテキは、残り400m地点で馬群を抜け出した。

「あいつは、あいつはどうした?」

 満場のファンは、もう1頭の来るべき馬の姿を懸命に探した。猛然と飛び出したヤエノムテキをとらえるのは、緑の帽子に白い馬体のあの馬しかいない・・・。

 すると、後続の馬群からもう1頭、ヤエノムテキをとらえるべく襲いかかる馬がいた。しかし、それはみなが考えていた、オグリキャップではない。オグリキャップとは似ても似つかぬ黒い馬体のその馬は、岡部騎手が選ばなかったメジロアルダンだった。岡部騎手が選ばなかった馬が、岡部騎手が選んだ馬を追い詰める。

 だが、ヤエノムテキはライバルの急襲をアタマ差凌いで天皇賞馬の栄冠を勝ち取った。この日の勝ちタイムは1分58秒2であり、サクラユタカオーが86年に記録したレコードを0秒1更新するものだった。そして、ヤエノムテキの栄光は、同時にそれまで幾度となく敗れ去ってきたオグリキャップを破っての勝利だった。

 岡部騎手にとっても天皇賞制覇は4回目だったが、それまでの3回はすべて春で、秋を勝つのは初めてだった。自分が選んだ馬で、しかも自分のとった内からの進出策が当たっての勝利は、騎手冥利に尽きるものだったことだろう。ちなみに、彼は自分が選ばなかったメジロアルダンにあわやのところまで追い詰められたことを聞かれると

「残す自信はありました。(ヤエノムテキは)自分が選んだ馬ですから・・・」

と言葉を選びながらはっきり言い切った。そんな岡部騎手のインタビューを横目に見ながら、メジロアルダンの管理調教師である奥平師が、悔しそうに

「岡部もほっとしただろう」

と言ったという光景は、非常に印象的である。

 ちなみに、この日の表彰台には、生産者の宮村氏の姿もあった。皐月賞の日に府中に来なかった彼は、今度勝つときは表彰台に立とうと思って何度も競馬場に足を運んだものの、今度はなかなか勝てなくなってしまった。この日も

「俺が行くと勝てないから、行かない・・・」

と決めていたが、前日に突然気が変わって出かけたという。こうして宮村氏も、皐月賞の「借り」をきっちり返した形となった。

『さらば戦場よ』

 さて、天皇賞・秋(Gl)を勝ったことで、1年半ぶりの勝利をGl2勝目で飾ったヤエノムテキは、この年限りでの引退を正式に決定した。皐月賞(Gl)、天皇賞・秋(Gl)の勲章は、内国産馬としてはトップクラスに位置するものである。今度こそ胸を張って種牡馬入りできるはずだった。

 ところが、ヤエノムテキの引退式は、JRAから打診があったものの、荻野師らが相談の上、この話を断ってしまった。シンジケートも組まれつつあるヤエノムテキなのに、引退式の途中で大暴れして故障でも発生してしまっては、元も子もなくない。大人しい馬ならいざ知らず、素行の悪いヤエノムテキに関しては、荻野師も責任を持つことはできなかった。

 だが、この決定は、平成三強時代の狭間でヤエノムテキを応援し続けてきたファンにとっては残念なものだった。

「Glを2勝もした馬だし、別れを告げたかったのに・・・」

とひそかに悲しんだファンも、決して少なくはなかった。この時荻野師、そしてヤエノムテキを応援してきたファン、そしてすべての人々は、ヤエノムテキが彼らのために、一世一代のパフォーマンスをひそかに企んでいたことなど、知る由もない。

 ジャパンC(Gl)で6着に敗れた後、ヤエノムテキはラストランとなる有馬記念(Gl)へと向かった。この年の有馬記念は、時代を彩った名馬たちの世代交代を告げるレースとされていた。いわゆる「平成三強」のうちスーパークリーク、イナリワンは引退が決まり、オグリキャップも天皇賞・秋、ジャパンCと立て続けに惨敗し、有馬記念がラストランに決まっていた。「未完の大器」と謳われ続け、一部では平成三強に次ぐ「四強」にも数えられたメジロアルダンにも、かつてどのインパクトはない。ヤエノムテキとともに時代を支え続けた名馬たちに代わって人気を集めたのは、メジロライアン、ホワイトストーンといった、若い4歳世代の強豪たちだった。

 ヤエノムテキもまた、当然のことながら世代交代をされる側に属する。既に大きな勲章を2つ持っているヤエノムテキにとって、この日は無事にコースを回って戻ってきさえすればいい、文字どおりのただの引退レースとなるはずだった。

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