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サクラホクトオー列伝~雨のクラシックロード~

『血の敗北』

 しかし、その結果は残酷なものだった。小島騎手の引退によって横山典弘騎手との新コンビで臨んだ皐月賞(Gl)では、スタート直後に先手を取れずダンディコマンドに絡まれる展開となり、直線入り口まで先頭を守ったものの、その後力尽きて7着に沈んだ。続く日本ダービー(Gl)では、皐月賞の反省もあってかスタート直後から単騎逃げに持ち込んだものの、レースの中盤以降は追い上げてきた他の馬に突っつかれる形となり、5着に敗れた。サクラスピードオーが敗れたこれらのレースを制したのは、サンデーサイレンス産駒のイシノサンデーであり、カーリアン産駒のフサイチコンコルドだった。

 かつて「名血」と呼ばれたサクラホクトオーの血統が、わずか数年後の日本で、米国や英国からやってきた名馬の前に蹴散らされていく様は、残酷な時代の流れを象徴するものだった。サクラスピードオーの敗北は、彼自身の敗退にとどまらず、日本の血が世界の血の前に敗れ去ったことをも意味していたのである。

 その後のサクラスピードオーは、故障が相次いだこともあって、さしたる戦績をあげることもなく地方競馬へと去っていった。98年の銀嶺S(OP)では、サクラホクトオーの同期で皐月賞に出走して直接対決したこともあるミスタートウジンと同じレースに出走して対決したことで話題になったものの、最下位に敗れて父ともども先着を許し(ミスタートウジンは皐月賞13着、銀嶺S8着)、それが彼のJRAでの最後のレースとなった。

 もともと初年度産駒がデビューしたころには低落傾向にあったサクラホクトオーの種牡馬としての人気だが、代表産駒と目されたサクラスピードオー、1歳下で小倉3歳S(Glll)2着、デイリー杯3歳S(Gll)3着のキタサンフドーも大成できず、これといった有力産駒を出せなかったことで、決定的なものとなってしまった。種付け頭数は落ち込み、少ない種付け繁殖牝馬の質も下がったまま、回復することはなかった。

 馬産界の掟は優勝劣敗、弱肉強食である。種付け希望すらほとんどなくなった種牡馬に商品価値はない。やがてサクラホクトオーは、種牡馬として十分な機会を与えられたというにはあまりに早すぎる1998年を最後に、事実上種牡馬を引退することになった。半兄サクラトウコウ、サクラチヨノオーが種牡馬生活を続行する中での決断だった。

『静かなる終焉』

 種牡馬を引退したサクラホクトオーは、功労馬として新和牧場で余生を過ごすようになった。当時のサクラホクトオーは、特に問題を起こすこともなく非常に扱いやすかったという。

 ただ、そんなサクラホクトオーの余生を見守った場長は、

「現役のときはもちろん、種牡馬になってからも様子は見ていたんだけど、その時と比べると覇気がないというか、ひと回り小さくなってしまっていたね。もう種牡馬でなくなって、自分の仕事は終わったということを理解していたのだと思う。ここの牧場に来てからおとなしくなったのは、気持ちの張りが抜けたからなんだね」

とも語っている。彼の背中には、未完のまま終わった大器ゆえの寂しさが漂っていた。

 それから時は流れ、20世紀の最後の年となる2000年の春遠からざるある朝、サクラホクトオーは突然倒れた。腸捻転だった。獣医たちは、サクラホクトオーに懸命の治療を施したものの、症状が好転することはなく、3月16日夕方に閉じられた彼の目は、二度と開くことはなかった。享年、15歳。あまりに早く種牡馬生活に自ら幕を下ろしたサクラホクトオーの、あまりにも早すぎる死であった。

『せめて、感傷の中に』

 サクラホクトオー・・・彼というサラブレッドを語る場合、常に「雨」のイメージがつきまとう。それまで栄光の晴れ舞台を突っ走ってきた良血馬は、土砂降りの弥生賞で大敗したことをきっかけに大きく躓き、その後も節目のレースでは必ずと言っていいほどに雨、道悪にたたられ続けて大成することができなかった。雨と道悪を嫌ったサクラホクトオーのクラシックロード、そして競走馬生活は、まさに雨と泥にまみれて傷だらけになった。そして、種牡馬としても実績を残せなかった彼は、ついに汚名を雪ぐことができないまま天へと帰っていった。

 雨や雪といった悪天候になるとすぐに中止にしたり、それを防ぐためにドーム球場までつくったりするのは、アメリカ発祥のスポーツである。ヨーロッパ発祥のスポーツは、雨が降ろうと雪が降ろうとあるがままの条件で戦い、優劣を決しようとすることが多い。それは、優劣の問題ではなく、思想の差異である。土砂降りの雨の中でプレーしたために思わぬアクシデントやハプニングが発生して結果が大きく変わることを理不尽と感じるか、それとも当然のことととらえるかは、一概に決め付けることができない感性の問題である。

 ヨーロッパを発祥とし、その中でも最も伝統と格式を重視する英国競馬を継受した日本の中央競馬は、まさにヨーロッパ的思想によって設計されたスポーツの最たるものである。台風でも来ればともかく、単なる雨で開催が中止になるということはまずない。もしも競馬がアメリカ発祥で、「大雨が降ったら開催は中止」という思想を持っていたとしたら・・・サクラホクトオーの生涯は違ったものとなっていたかもしれない。

 実際には、「悪条件をも乗り越えて勝てること」が名馬の欠かせない条件のひとつであることに異論はない。「悪条件でも勝つのが強い馬」・・・その思想のもとに、中央競馬の歴史は積み上げられてきた。サクラホクトオーと同じトウショウボーイを父に持つミスターシービーは、不良馬場の皐月賞を勝つことで、三冠ロード、そして名馬への道を踏みしめていった。そんな名馬に比べた場合、雨に泣き、そして雨を克服することなく消えていったサクラホクトオーが、歴史の中で「名馬」ではなく「名馬になれなかった一流馬」としてしか扱われないことは、むしろ当然であろう。

 だが、そんな歴史の審判の一方で、雨による敗戦を理不尽と感じる感性も、私たちの心の中に確かに存在している。弥生賞の大雨と極悪馬場だけでなく、一生に一度しかない皐月賞、日本ダービーで雨と重馬場にたたられ、涙を飲み続けた彼の姿に、

「雨さえ降らなければ・・・」
「もうちょっとまともな馬場で走れていれば・・・」

という感傷を持つこともまた、競馬を愛するファンの自然な感情といえよう。少なくとも、弥生賞までのサクラホクトオーが、意味のない仮定をしてみたくなるほどの可能性を秘めた存在であったことだけは間違いない事実なのだから。

 1989年の牡馬クラシック戦線の中心にあったサクラホクトオーは、自分自身の実力ではどうにもならない悲運に泣き続けた。関係者、そしてファンの嘆息もむなしくかつての輝きを取り戻す機会を得られなかったサクラホクトオーは、ついに再び輝きを取り戻すことなくその競走生活・・・そして、その生涯をも閉じた。

 代表産駒であるサクラスピードオーやキタサンフドーの挫折により、彼の子孫を見ることで彼を思い出す機会すら、もはや失われてしまった。そんな今、亡き彼を思い、雨に泣いた彼を偲ぶことは、ファンの単なる感傷でしかないのかもしれない。だが、そうした感傷の中にこそ、ファンが競馬に惹かれる本質的な何かがあることも忘れてはならない。

 かつてあまたの大波乱、そして名勝負を生み出す立役者となった雨。だが、そんな雨に泣き、輝きを取り戻す機会すら与えられることのないままその競走生活、そしてその生涯をも閉じた馬もいた・・・

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