ウイニングチケット列伝~府中が泣いたマサトコール~
『ダービーを勝ったら・・・』
皐月賞のレース後、評論家の間では、一部にウイニングチケットの皐月賞について、いつもより前でレースをさせた柴田騎手の判断が、敗因となる騎乗ミスとして語られた。ビワハヤヒデを意識して前で競馬をした分、直線での切れ味がなくなってしまい、ウイニングチケットの持ち味を引き出せなかった、というのがその論調だった。
柴田騎手は、悔しかった。彼自身には、皐月賞の騎乗を誤ったという意識は、レース後も含めてまったくなかった。だが、負けてしまった以上、どんな批判も黙って受け入れるしかない。勝ったのが弥生賞では完膚無きまでに叩きつぶしたナリタタイシンであり、その戦法も末脚勝負に賭けての後方待機策だったのだから、そう言われることはやむを得ない。柴田騎手は、悔しさを呑み込んで次・・・日本ダービーへの糧とした。日本競馬界の頂点であり、そして自分の人生の悲願としてきたダービーでの巻き返しこそが、彼の「すべて」となった。
第60回の区切りとなるダービーを控えて、競馬マスコミのビワハヤヒデ、ウイニングチケットにナリタタイシンを加えた「BWN」、3頭の有力馬への報道は、みるみる過熱していった。バブル経済の破綻があっても、中央競馬は無関係であるがごとく拡張を続け、大衆の関心も強かった。
だが、柴田騎手からネタをとろうと集まってきた記者たちは、柴田騎手の思わぬ「お願い」に戸惑うことになった。日本ダービーを前にした柴田騎手は、マスコミに対し、レース前の一切の取材を遠慮してもらいたい、という張り紙をもって彼らを迎えたのである。
それまでの柴田騎手は、大レースの前や後でも取材に丁寧に応じることで知られていた。柴田騎手は、競馬サークル内の人間関係のみならず、報道陣、そしてファンとの関係も非常に大切にする騎手でもあった。
大レースの直前に緊張した精神状態を維持するためには、マスコミの激しい取材攻勢に応じることは、決してプラスにはならない。記者は馬の調子や作戦を聞きたがるが、それを話すことは陣営の秘密や手の内を明かすことにもつながりかねない。それでも柴田騎手は、マスコミが自分たちとファンとをつなぐ重要な接点であることを知っていた。そうであるがゆえに、取材に応じたくない時、例えば人気馬に騎乗して大敗したレースの後、容赦なく質問を浴びせてくる記者に対しても、ファンのために、と自分を犠牲にするのが柴田騎手の日常だった。
そんな柴田騎手が、今回は日本ダービー前の取材を一切拒否するという。その理由は、
「ダービーへ向け、自分の中のテンションを高めたい」
というものだった。柴田騎手から取材を拒否されることなど予想していなかった記者たちは驚き、若い記者たちの中には不満を漏らす者もいた。だが、そうした記者たちは、柴田騎手をよく知るベテラン記者によってたしなめられたという。
「あの柴政が取材を拒否する。それがどういうことか、お前らには分からないのか。それが、最後かもしれないチャンスに賭ける思いというものだ・・・」
記者たちも、柴田騎手の思いを理解し、互いにうなずき合った。ダービーに特別なレースとしての憧れと敬意を抱きながら、不思議なほどにダービー制覇とは縁がなかった柴田騎手。騎手生活27年、19回目の挑戦となる彼に、今後ウイニングチケットほどの有力馬でダービーに挑戦できる機会はもうないかもしれない。彼が今回のダービーに賭ける一期一会の意気込みは、並々ならぬものだった。
柴田騎手から最新のコメントをとることを諦めたマスコミ各社は、代わりに柴田騎手が数年前のダービーでもらした
「ダービーを勝ったら騎手をやめてもいい」
という言葉を、彼のダービーへの情熱を象徴する言葉として伝えた。騎手として晩年を迎えた柴田騎手にとって、その言葉の重みは強まりこそすれ、弱まることはない。取材拒否をしてまで日本ダービーに賭ける古風な男の内面に燃えていたのは、崖っぷちに追いつめられて背水の陣を敷く武士の覚悟だった。
『決戦前夜』
ウイニングチケット陣営のみならず、ビワハヤヒデ陣営、ナリタタイシン陣営ともダービーに向けての気配は絶好で、本番では最高の調子で三強が相まみえることが予想され、かつ期待されていた。三強の牙城を崩すことを狙うそれ以外の馬たちも、虎視眈々と下剋上のチャンスを狙っていた。
この年の出走馬のレベルの高さを物語るのが、出走馬たちの本賞金の高さである。この年のダービー出走のための最低ラインは、1700万円だった。そのため、若草S(OP)勝ちを含めて3勝の実績があったロイヤルフェローは抽選によって、2勝に加えて毎日杯(Glll)2着の実績があったエアマジックに至っては、抽選に加わることすらできずに除外の憂き目をみた。そのような厳しい選別の過程を経てゲートへとたどり着いた出走馬たちの中で三強に続く支持を集めたのは、デビュー3戦目の皐月賞で3着に大健闘したシクレノンシェリフ、NHK杯(Gll)の勝ち馬でシンザン、ミホシンザンの血の系譜を継ぐマイシンザン、皐月賞でウイニングチケットに先着しながら降着の憂き目にあったガレオンなどだった。他にも、後の天皇賞・秋(Gl)を制するサクラチトセオー、名牝ダイナアクトレスの子で、菊花賞(Gl)と天皇賞・春(Gl)で2着に入るステージチャンプの姿もあった。
充実した出走馬、白熱する各陣営。ダービーを翌日に控えた競馬界に流れたのは、前年の二冠馬ミホノブルボンを育てた戸山為夫調教師の訃報だった。人々は、時の流れの速さにため息をついたが、それは決戦を前にした感傷にすぎない。翌日の決戦に向けて、時計の針は着実に動いていった。
『決戦の刻』
そしてやってきた日本ダービー(Gl)当日。3年前に日本で生まれた1万頭近いサラブレッドたちの頂点を決する競馬界最大の祭典、そして決戦の日である。この日出走を許された18頭のそれぞれが、どのような戦いを繰り広げるのか。夢をつかむのは、どの馬なのか。誰もがかたずを呑んで見守る中で、運命のレースのゲートが開いた。
スタートと同時に、マルチマックスが落馬した。人気薄で大勢に影響がないともいえたが、ターフに投げ出された南井騎手にとっての93年の夢は、スタートとともに終わってしまった。翌94年にはナリタブライアンで初めてのダービーを勝つことになる彼だが、そんなことは知る由もない。
レースの展開は、アンバーライオンが逃げて、ドージマムテキがそれに続く形となった。ビワハヤヒデはいつもよりはやや後ろで、ちょうど中団あたりにつけた。ウイニングチケットはというと、スタート地点こそ10番枠だったが、第1コーナーまでにすんなりと内ラチ沿いへと入り込み、ビワハヤヒデの後ろにつけている。柴田騎手は、日本ダービーでも、皐月賞と同じように中団からの差しで勝負する覚悟を決めていた。ナリタタイシンは、この日も思い切って一番後ろからの競馬を決め込んでいた。
内ラチ沿い、馬群の中で競馬を進めるウイニングチケットは、かかって実力を発揮しきれなかった皐月賞と異なり、今度は人馬一体となってぴたりと折り合っていた。この日の彼の行き脚は実に良く、レースの流れに乗り、じわじわと前へ進出していった。
だが、そんなウイニングチケットには、ひとつの難題があった。内で競馬を進める場合、走る距離は短く済ませられる反面で、前が壁になってしまうリスクも常に背負っている。馬群の中からの競馬では、なおさらである。ウイニングチケットの柴田騎手は、あくまで内を衝くのか、それともどこかで外に持ち出すのか、決断を迫られた。それは、内にいるビワハヤヒデの岡部騎手も同じことである。