ウイニングチケット列伝~府中が泣いたマサトコール~
『別離』
有馬記念の後、ウイニングチケットは笹針が施した上で、長期放牧に出されることになった。伊藤師は、菊花賞のレース内容から長距離適性に見切りをつけ、天皇賞・春(Gl)は回避することを早々に決めた。そのため、ウイニングチケットの5歳春の大目標は、宝塚記念(Gl)に置かれることになった。
しかし、十分な休養をとった上で復帰を目指していたウイニングチケット陣営に、予期せぬ不運が襲った。春シーズンがいよいよ本格化しようかという4月に入って、主戦である柴田騎手が落馬事故に見舞われたのである。首を負傷した柴田騎手は長期の戦線離脱を余儀なくされ、ウイニングチケットの鞍上は宙に浮いてしまった。
一方、ウイニングチケットの復帰も、予定していた宝塚記念には間に合わず、高松宮杯(Gll)にずれ込んだ。その復帰戦の鞍上に、柴田政人騎手の姿はなかった。この日彼の鞍上を務めたのは、柴田は柴田でも、柴田政人騎手の甥にあたる柴田善臣騎手だった。
新しいパートナーを迎えたウイニングチケットだったが、彼の末脚からは、4歳時の豪脚が嘘のように鳴りを潜めてしまった。出走してきたのは格下の馬ばかりで、メンバー的には負けるはずがなく、また負けてはならないウイニングチケットだが、その結果はナイスネイチャの5着というまさかの完敗だった。そのあまりにだらしない負け方は、まるで馬が柴田政人騎手でなければ走りたくない、と主張しているかのようだった。だが、そうは言っても、柴田騎手の戦線復帰はなかなかめどが立たない。ウイニングチケットがいない間に天皇賞・春(Gl)、宝塚記念(Gl)を楽勝し、最強馬としての地位を確固たるものとしたかつてのライバル・ビワハヤヒデと比べると、あまりにもふがいないものと言わざるを得なかった。
『さらば、柴政』
一刻も早い復帰が待望された柴田騎手だったが、彼が落馬事故で負傷した箇所は、以前にも痛めたことのある古傷部分であり、その回復は遅れに遅れていた。あくまで復帰を目指しての懸命のリハビリを続ける柴田騎手に対し、医師の診断は無情にも
「日常生活には支障がないものの、騎手として復帰することは難しい」
というものだった。この宣告を受けた柴田騎手の足は、知らない間に所属先の高松厩舎へと向かっていた。
高松邦男師をはじめとする主だった厩舎関係者は、そのころローカル開催に出張中しており、高松厩舎には柴田騎手の弟弟子である小野次郎騎手をはじめとする少数のスタッフしか残されていなかった。柴田騎手が訪れた時、小野騎手はちょうど所属馬の攻め馬をつけているところだった。
柴田騎手は、小野騎手が騎乗していた馬がおとなしい古馬だったため、何も言わずに小野騎手をつかまえ、
「馬を貸してみろ」
というなり、その馬を奪い取って調教をつけ始めた。そして、その古馬の調教を何の気なしにつけ終えると、今度は
「大人しい馬じゃ張り合いがない。もっといきのいい馬に乗せてくれ」
と言い出した。柴田騎手の故障の状況を詳しく聞かされてはいなかった小野騎手は、調教をつける柴田騎手が予想以上に元気なのを見て安心したものの、さすがにこの注文には首を縦に振らなかった。
すると、その数日後、調教に出てきた小野騎手は、今度は柴田騎手が他厩舎の所属馬で、気性が悪いと評判になっていた新馬の調教をつけている光景を見かけた。心配になって柴田騎手の様子をじっと見ていた小野騎手だったが、柴田騎手はその新馬を無難に乗りこなしているように見えた。下馬する際に笑顔を見せていた柴田騎手の様子を目にした小野騎手は、
「ああ、政人さんはこれで復活するんだ」
と思ったという。
しかし、この時の柴田騎手の心中は、小野騎手が思ったのとはまったくの逆だった。元気のいい暴れ馬に乗って調教をつけた彼は、その時はっきりと自分の限界を悟っていた。
「もう以前の俺には戻れない・・・」
これまでいつも馬と共に生き、馬と共に闘ってきた柴田政人は、暴れ馬が不測の事態を起こしたり、レースの極限状態の中で何かが起こった時には、もう自分の身体では十分に対応しきれないことをはっきりと悟ったのである。柴田騎手は、馬によってのみ、己の引き際を知ったのである。
その翌日、柴田騎手は騎手引退を発表した。日本ダービー制覇に賭けた男にとって、初めての悲願を果たした第60回日本ダービーは、その生涯で最後のダービー騎乗となった。
『熱い季節の終わり』
伊藤師は、残されたウイニングチケットのために、かつてはナリタタイシンの主戦騎手としてウイニングチケットの前に立ちはだかってきた武豊騎手にその騎乗を依頼した。幸いと言うべきか、ナリタタイシンは、当時戦線を離脱していたため、武騎手もこの依頼を快諾した。こうしてウイニングチケットは、武騎手との新コンビでオールカマー(Glll)に出走し、ビワハヤヒデとの再戦に臨むことになった。
他の馬の陣営は、ビワハヤヒデとウイニングチケットが出てくると聞き、勝算がないとばかりに次々と回避したため、レースは8頭だてで行われた。1番人気はビワハヤヒデ、2番人気はウイニングチケットで、この2頭の馬連は130円である。
しかし、ウイニングチケットの単勝支持率は、もはやビワハヤヒデの半分にも満たなかった。菊花賞以来久々のビワハヤヒデとの直接対決となったオールカマーだったが、この時2頭の差は、もはや歴然としていた。
レースに入ると、ビワハヤヒデは先頭のロイスアンドロイスを見ながらの2番手につけ、ウイニングチケットは後方待機策を採った。これは、それぞれの得意とする戦法そのものである。
ビワハヤヒデは、第3コーナーで先頭に並びかけていった。するとウイニングチケットも、やはり進出を開始して直線での末脚に賭けた。だが、いまや成長したビワハヤヒデの前には、ウイニングチケットの末脚さえも歯が立たなかった。ビワハヤヒデを差すどころか、ロイスアンドロイスをかわすことにも苦労する始末で、ようやくロイスアンドロイスはかわしたものの、ビワハヤヒデからは1馬身4分の3の差をつけられ、一度も脅かすことのないままレースは終わってしまった。
その後ビワハヤヒデとともに天皇賞・秋(Gl)へ進んだウイニングチケットだが、5着に敗れたビワハヤヒデとともに、8着に敗れてしまった。ビワハヤヒデは左前脚、ウイニングチケットは右前脚に屈腱炎を発症してしたのである。いずれも重症であり、競走能力への影響は深刻だった。
レースのわずか3日後、ウイニングチケットの現役引退と種牡馬入りが発表された。まるで柴田騎手の後を追うかのような、突然の引退劇だった。ビワハヤヒデも天皇賞・秋を最後に引退し、かつて平成新三強とうたわれたライバルのうち2頭は、くしくも同じ日、同じレースを最後に現役を退くことになった。ライバルたちが繰り広げた熱い季節は、その主役たちの退場によって、完全に終わりを告げた
『新たな夢に向けて』
ウイニングチケットは、種牡馬として馬産地へ帰ってきた。ダービー制覇以降は今ひとつ不完全燃焼に終わった感のあるウイニングチケットだったが、種牡馬としての人気は、実績と血統背景が評価され、かなり高いものだった。ウイニングチケットの父トニービンは、ウイニングチケット以降も多くの強豪を輩出して人気種牡馬であり続けたが、ウイニングチケットはその後継種牡馬としての需要も集め、当初は毎年70~80頭の種付け頭数を確保し、内国産種牡馬としては人気の部類に入る水準だった。
しかし、初期の産駒は地方でデビューする馬が多く、傑出した馬は表れなかった。3年目の産駒からはフェアリーS(Glll)を勝ったベルグチケットを送り出し、重賞馬の父となったものの、中央競馬の重賞を制した産駒は、そのベルグチケット以降出なかった。
父のトニービンは2000年に死亡したが、その後継種牡馬の地位は、サクラチトセオーやジャングルポケットといったより若い世代に奪われていき、2005年には種牡馬を引退することになった。
柴田騎手は、引退後は調教師に転身し、自身の厩舎を開業して後進の育成にあたった。馬の方は重賞制覇には至らないまま2019年に定年で退職している。
とはいえ、ウイニングチケットと柴田騎手改め柴田調教師の足跡は、しっかりと残っている。ウイニングチケットは、娘の1頭であるオイスターチケットの子であるレイパパレが2021年に産経大阪杯(Gl)を制し、Gl馬の血統にその名を残したことが特筆される。また、柴田調教師も、所属騎手として育てた石橋脩騎手はGl2勝をはじめとする多くの重傷を制しており、人づくりの実績を残したと言えよう。
日本ダービー制覇という悲願を目指してともに戦った柴田師とウイニングチケットの物語は、それから長い時が過ぎた現在でも、日本競馬界最高の祭典である日本ダービーを彩る伝説として語り継がれている。日本に競馬がある限り、誰よりも府中にはよく似合う柴田政人とウイニングチケットのコンビによって築かれ、そして府中を震わせた第60回日本ダービーの物語は、決して忘れられることがないだろう。