クシロキング列伝~忘れられた天皇賞馬~
『限界への挑戦』
こうして中距離重賞を2勝したクシロキングだったが、中野師は、いったん当初目標としていた天皇賞・春を回避し、京阪杯(Glll)を叩いて宝塚記念(Gl)に向かう予定を立てていた。これは、目黒記念の敗北を受け、天皇賞・春の距離を考慮してのローテーションだったと同時に、天皇賞・春には、本命馬として皇帝シンボリルドルフの後継者と目されていた二冠馬ミホシンザンが待ち受けていたこともあった。
ところが、そのミホシンザンは、天皇賞・春を前にして骨折し、戦線を離脱してしまった。シンボリルドルフとミスターシービーという2頭の三冠馬対決に沸いた前年と違って、この年はもともとミホシンザンの一本かぶりの人気となることが予想されていた。6歳になった絶対皇帝シンボリルドルフはアメリカ遠征で故障を発生して静養に入り(そのまま引退)、皇帝と同じ6歳世代の強豪であるスズパレード、ニシノライデンも、いずれも故障休養中だった。さらに、ミホシンザンと同じ5歳世代も、ダービー馬シリウスシンボリが海外遠征決行中で出走の意思なし、という状況では、そうなることは当然とも言える。
それらに加え、前年に二冠を制した本命馬まで離脱したことによって、一気に盾へのハードルは下がることになった。この時の有力馬は、ダービー、菊花賞で2着に惜敗したものの、5歳になってAJC杯(Gll)、京都記念(Gll)を制して勢いに乗るスダホーク、そして4歳春から大器といわれながら故障に泣き、ついに産経大阪杯(Gll)で復活を果たしたサクラユタカオーくらいのものだった。
中野師は、天皇賞・春への出否を最後まで迷ったが、本番5日前の変則追い切りで動きが良かったことから、ついに出走を決断した。不安材料とされる距離の壁は、騎手の腕で何とかしてもらおう。岡部騎手がかねてから
「距離は騎手の腕次第で何とかなる」
と広言していたことは、中野師の決断の後押しとなった。岡部騎手はシンボリルドルフでの米国遠征こそレース中の故障という残念な結果に終わり、その心中には悔しさが一杯だったに違いないが、帰国した後も皐月賞をダイナコスモスで勝つなど、その影響を感じさせない第一人者ぶりをいかんなく発揮していた。
中野師と岡部騎手は、中距離馬クシロキングで3200mを乗り切るための作戦を検討するため、話し合いを持ったという。このとき2人の意見は、奇しくもぴたりと一致した。
『一世一代の作戦』
クシロキングは、距離不安が囁かれたものの、スダホーク、サクラユタカオーに次ぐ単勝3番人気に推された。レースは人気薄のラウンドボウルが逃げる形となり、スローペースとなった。サクラユタカオーが中団に付け、追い込みに賭けるスダホークは最後方の指定席である。ここで、多くのファンは目を疑った。
「どうしてクシロキングがスダホークと同じ所にいるんだ?」
クシロキングはそれまで先行して好位からの抜け出しで実績を残してきた馬だった。金杯も中山記念も先行して勝ってきた。それが、この日は最後方からの競馬である。これは、騎手と馬との折り合いがついていないのではないか・・・?
実は、これこそが中野師と岡部騎手の作戦だった。「距離は乗り方でカバーできる」という信念を持つ岡部騎手は、中距離馬のクシロキングで3200mの勝負をするために、こう考えた。
「3200m持たないのなら、前半競馬をさせずに後半だけ競馬をすればいい」
前半はひたすら楽に走らせてスタミナの消耗を防ぎ、後半に、瞬発力だけの勝負に持ち込む。それならば、馬が全力で走るのは後半の1600mだけなのだから、いくら中距離馬のクシロキングでも、スタミナ切れはないはずだ・・・。そんな岡部騎手の作戦は、中野師の考えとまったく同じものだった。
これは、口で言うのは簡単だが、実行するにはかなりのリスクを伴う。前半最後方でトコトコいったとしても、他馬から引き離され過ぎると馬のリズムを崩してしまう。また、うまく追走しているように見えたとしても、レースのペースが遅すぎると、今度はいくら追い込んでも前が止まらない恐れがある。この作戦を成功させるには、レースの流れを見切った上で、仕掛けどころを正確につかまなければならない。
騎手の立場では、これまで成功してきた作戦を採って負ければ「相手が強かった」と言い訳ができる。しかし、作戦を変更し、それも極端なものに変えた上で惨敗しようものならば、
「騎手のせいで負けた」
という罵声を一身に浴びることになる。岡部騎手は、あえてそれをやった。すべては勝利のためだった。
クシロキングは、2周目の上り坂の辺りで動いた。最後方にいたはずのクシロキングがいつの間にやらスルスルと上がってきて、直線入口ではもう3、4番手にいる。この騎乗法は、京都競馬場における「ゆっくり上り、ゆっくり下る」という坂の鉄則の正反対をいくものだった。
『盾を我が手に』
クシロキングが手応え十分で上がってきたのに対し、人気のサクラユタカオーは、もう一杯の状態だった。後に毎日王冠、天皇賞・秋で連続レコードを樹立したこの馬も、クシロキングと同じく明らかな中距離馬だった。ただ、クシロキングと違ったのは、後半1600mだけの競馬ではなく、3200mの普通の競馬をしたことだった。これでは、スタミナが保つはずがない。
しかし、クシロキングは違っていた。京都の坂の鉄則を無視して坂で一気にペースを上げたにもかかわらず、その脚色は衰えない。
有力視されていたスダホークも、直線でその脚が止まった。もはや敵は前だけ。ラウンドボウルを難なくかわし、懸命に粘るメジロトーマスもかわしたところが、栄光のゴール板だった。それが、天皇賞馬クシロキングの誕生の瞬間だった。
レース後、グリーングラス以来8年ぶりの盾制覇となった中野師は
「すべてがうまくいった。岡部騎手の騎乗が完璧だった」
と絶賛した。岡部騎手自身さえ
「同じ騎乗をもう一度やれといわれても、できないだろう」
と語ったこの名騎乗によって、クシロキングは一世一代の大舞台で花開いたのである。
岡部騎手は、前年にもシンボリルドルフで天皇賞・春を勝っている。しかし、「勝って当然」といわれた前年の勝利とは違って、この年は「岡部だからこそ勝てた」と賞賛された。これこそ騎手冥利に尽きる、というものだろう。
生産者の上山牧場の人々にとっても、この勝利は喜びよりも先に驚きだった。上山夫婦にとっての天皇賞とは、かつて6連勝で駒を進めて本命に推された生産馬ロングホークを応援するために京都まで出かけたところ、エリモジョージにハナ差で敗れたという苦い思い出があるレースだった。中野師からは
「絶対勝つから、京都に出て来い」
と言われた上山夫妻だったが、
「わしらが応援に行くと、勝てるものも勝てなくなる」
という夫妻は、自宅のテレビで天皇賞・春を観戦することにした。
レースの前半、クシロキングが最後方をトロトロと走っている時はのんびりとテレビを観ていた上山夫婦だったが、後半に入ってクシロキングがみるみる前方へと進出し、直線で先頭に立とうかというころには、興奮の渦に巻き込まれていた。あまりに興奮したため、息子はテレビを押したり引っ張ったりで、妻はそのまま昏倒してしまったほどだった。上山氏は
「いくら天皇賞を勝ってもばあさんが死んだんじゃあ何にもならん」
と大騒ぎになった。中野師からは、
「ジイさん、勝ったぞ!」
と電話がかかったが、果たしてその時の上山牧場の様子はいかなるものだったのか。幸い上山氏の妻は大事に至らなかったが、それにしても人騒がせな馬である。
『戦い、終えて・・・』
こうして天皇賞馬となったクシロキングだが、闘志と運とを天皇賞・春で燃やし尽くしてしまったかのように、その後は天皇賞馬に相応しくない走りを続けた。
天皇賞の後、宝塚記念へと向かったクシロキングは、堂々の1番人気に支持された。本来の得意距離とはいえない3200mの長距離すら克服したクシロキングにとって、適距離に戻るこのレースは、負けるとは考えられない、と多くのファンは思っていた。「名馬の時代」に慣れていた当時の競馬マスコミは、ポスト・シンボリルドルフをミホシンザンと共に担っていくのはこの馬だ、と持ち上げた。
しかし、このレースでのクシロキングは、どうしたことか、先行してあっさりとばててしまい、7着に惨敗した。秋に入ってからの彼も、天皇賞・秋14着、ジャパンC8着、有馬記念10着と、見るも無惨な成績に終わってしまった。
それでもクシロキングは6歳になってから復調の兆しを見せ始め、Gllでは勝てないまでも惜しい競馬を繰り返した。しかし、連覇を目指した天皇賞・春は5着、そして宝塚記念も8着に終わり、その後屈腱炎を発症した時点で、クシロキングの競走生命は終わった。
半年の休養の後に復帰し、暮れの有馬記念に出走を果たしたクシロキングだったが、人気は16頭立て15番人気という状況で、中野師も
「もう昔のクシロキングじゃないよ」
と寂しいコメントを出すほどだった。結果も見せ場すらない9着で、それはもはや天皇賞馬の走りではなかった。・・・そして、クシロキングの引退が決まった。
『故郷を遠く離れて』
種牡馬となったクシロキングは、世に知られた名門牧馬であり、かつ自らの誕生にも関わった大塚牧場に繋養され、種牡馬生活を始めることになった。父のダイアトムは彼が競馬場で走っている間に死亡していたため、クシロキングにはその後継としての役割が期待されていた。大塚牧場によると、クシロキングは父よりも体つきが伸びやかだった上、人間には絶対服従する賢さも備えており、種牡馬としても大きな期待を持っていたという。
だが、馬産地は、日本で成功できなかったダイアトムの後継を求めてはいなかった。母系からも、目立つ活躍馬は上山競馬で8勝を挙げた半弟のアイネスカザン程度だったクシロキングは、天皇賞後の不振によってもその価値を下げ、シンジケートが組めないまま、馬主の個人所有の形になった。
それらの事情を差し引いて考えたとしても、天皇賞馬クシロキングの初年度産駒が2頭というのは、あんまりな数字だった。その翌年は15頭に増えたものの、結局この年が、種牡馬クシロキングの最良の年となってしまった。翌年以降、彼の産駒数は8、7、5、3、1頭と確実に減り続けていった。生まれ故郷である北海道へ凱旋したはずの天皇賞馬を迎えたのは、余りにも冷たい馬産地の風だったのである。
結局、クシロキングは、これといった産駒を出すこともないまま、1995年に種牡馬生活を事実上引退した。本州へ渡ったクシロキングは、山梨県の風林ファームというところへ迎えられることになった。
風林ファームでの彼の生活がどのようなものだったかは、明らかにされていない。明らかなのは、彼が本州へ渡った1年半後の1996年暮れに、放牧中の事故が原因で骨折し、安楽死となったという事実のみである。風林ファームもクシロキングの死を機に閉鎖されてしまい、天皇賞馬の終焉を現在に伝えるものの多くは散逸してしまった、と伝えられている。
『いつか彼を振り返るために』
混戦の天皇賞・春を制して天皇賞馬となったクシロキングだったが、その絶頂は天皇賞で終わりを告げ、その後は幸せだったとはいい難い運命をたどった。種牡馬として失敗した彼は、故郷を遠く離れた地に寂しく骨を埋めることとなってしまった。
経済動物であるサラブレッドに生まれた以上、種牡馬として失敗した場合の廃用、そしてその後の過酷な運命は、仕方がないという意見もある。だが、クシロキングの場合、いかんせん種付けの数が少なすぎた。種牡馬が成功するためには、一定の産駒数を確保しなければ、そもそも出発点にすら立てない。クシロキングに、果たしてそれだけのチャンスが与えられたということができるだろうか。数少ない産駒の中からは、地方競馬で活躍した子も複数出しているだけに、余計に彼への過小評価は惜しまれる。
競馬のレースとは、後世へ伝えるべき馬の能力検査を兼ねており、Glとはその頂点にあるレースである。まして天皇賞・春といえば、日本競馬の中でも最高の格式と実質を誇る大レースにあたる。それなのに、そのレースの勝ち馬に対して待っていたのがこのような運命だった、というのは、あまりにも残念である。
天皇賞とは、長い歴史と誇るべき伝統を持つ、日本の競馬の根幹レースである。特に天皇賞・春は、名馬が並ぶ歴代勝ち馬が物語るとおり、弱い馬では決して勝てない最高のレースだということを、私たちはもっと強く認識しなければならない。
そして、そのレースを勝ったクシロキングもまた、決して弱い馬ではありえない。ただ、その勝ち方があまりに劇的であり、また全盛期も短かったがゆえにその評価は低くなりがちだが、彼を否定することは、天皇賞・春とともに歩んできた日本競馬の歴史を軽視することにほかならない。
競走馬としても種牡馬としてもあまり評価されることなくこの世を去ったクシロキングの運命は、とても悲しいものだった。そんな悲しい馬を大量に出さない、という観点からも日本競馬のあり方、方向性を考えていく必要がある。短期的な売り上げのための、内実の伴わないGlの濫造や、その逆の現象ともいうべき、評価されるべき実績を残した内国産種牡馬に対する冷遇。これらの問題を先送りしたまま危機の時代を迎えたことが競馬人気の低落へとつながっているならば、それは悲運ではなく人災である。
クシロキングの時代に比べて、日本の馬産は大きく変わった。いまや、日本の馬産のレベルは、欧州や米国に比べてもなんら引けをとらないものとなっている。だが、実際には、今なお多くの内国産Gl馬がチャンスも与えられず、ひどい時には種牡馬にすらなれずに消えていく一方で、自分自身はろくな実績もないのに、ただ有名輸入種牡馬の直仔だからという理由だけで人気になる種牡馬は少なくない。日本競馬の血の多様性を広げ、有名輸入種牡馬たちの血を袋小路に陥ることもなく長続きさせるために、日本独自の系譜として、日本の基幹Glを勝つような血統を後世に伝えていくことは重要なはずである。
だが、実際にはこれまでに既に多くの天皇賞馬の系譜が消え、今もまた、いくつもの貴重な内国産の系譜が消えゆきつつある。80年代後半から90年代前半にかけての中央競馬の前例のない繁栄が、血のロマンに彩られたものだったことからすれば、これらに惹かれたファンをつなぎとめられなかった中央競馬の危機にあって、この点が占める割合は大きい。せめて、日本競馬の基幹となるGlを勝った馬に対してくらいは、「チャンスを与えた」と胸を張っていえるような質・量の牝馬が配合される馬産が現実のものとなる日は、いつになるのだろうか。忘れられた天皇賞馬・クシロキングの悲しい馬生が馬産界の教訓として振り返られる日は、果たしていつの日か訪れるのだろうか・・・。