メジロデュレン列伝~黄金兄弟、運命の岐路~
『突然の幕切れ』
6歳になったメジロデュレンは、Glを2勝しながらもなかなか認めてもらえない自らの実力を証明するために、Gl2勝馬としては過酷ともいえるローテーションで7戦したものの、ついに未勝利に終わった。ステイヤーのメジロデュレンにとって、最大のチャンスは天皇賞・春(Gl)のはずだったが、輸送中に外傷を負うトラブルもあって、タマモクロスの3着に完敗した。有馬記念では、これから伸びようかという直線で、2歳年下の菊花賞馬スーパークリークの強引な割り込みに遭って5着に敗れ、有馬記念連覇の夢も露と消えた。スーパークリークはこれが原因で失格となったものの、勝機を逸した彼らには、何の慰めにもならなかった。
池江師は、不本意な成績に終わった6歳時の結果に満足せず、今度こそ天皇賞・春を目指してメジロデュレンに現役を続行させるつもりだった。ところが、有馬記念でゲート入りが悪かったメジロデュレンに下された処分は、予想以上に重い3ヶ月の出走停止処分だった。これでは天皇賞・春にはぶっつけで臨むしかない。叩かれて良くなるタイプのメジロデュレンにとって、前哨戦をまったく使わずに天皇賞・春で万全の状態にもっていくことは不可能だった。
こうしてメジロデュレンの現役引退、種牡馬入りが決定した。メジロデュレンが断念した天皇賞・春は、公営から来たイナリワンが武豊とともに圧勝した。時代は昭和から平成へと移り、競馬界もオグリキャップ、スーパークリーク、そしてイナリワンという平成三強の時代へと突入していく。時代が昭和から平成へと切り替わり、競馬界にも新しい時代が訪れようとしていたそのころ、メジロデュレンは寂しくターフを去っていった。
『賢弟愚兄』
種牡馬となったメジロデュレンは、引退して1年間はメジロ牧場でゆっくりと静養し、種牡馬としての体作りに専念した。メジロデュレンが種付けを開始したのは、1990年春からのことだった。・・・当時はステイヤー種牡馬に対する評価がまだ高かった最後の時代だった。メジロデュレンの初年度交配数は約30頭、次の年は約50頭だった。半弟メジロマックイーンが大活躍したことも、メジロデュレンの種牡馬としての人気を後押しするかに見えた。
しかし、メジロデュレンの子供たちは、人々の期待通りに走ってはくれなかった。メジロ牧場のバックアップはあったものの、それだけではどうにもならない。時代がスタミナ重視からスピード重視へと移行しつつあったことも手伝って、ステイヤー種牡馬であるメジロデュレンへの希望は、どんどん小さくなっていった。産駒が走らないメジロデュレンは、早々と馬産界から見切りをつけられていった。
結局、メジロデュレンは1995年には種牡馬生活から引退することになってしまった。種牡馬として供用されたわずか6年間で残された子供たちの中から、父の名を高らしめるような子は、ついに現れなかった。
その一方で、メジロデュレンと入れ替わるように競馬界にデビューした半弟のメジロマックイーンは、天皇賞・春(Gl)連覇、菊花賞(Gl)、宝塚記念(Gl)制覇という輝かしい戦績を残した。父がフィディオンからメジロティターンに代わったことで「父子三代天皇賞制覇」の金看板を得たメジロマックイーンは、ノーザンテーストやサンデーサイレンスといった主流血統と完全にアウトブリードとなる「異系の血統」ということもプラスに評価され、さらには不安材料として語られていた「兄の失敗」も吹き飛ばし、種牡馬としては恵まれた生活を送った。直子の実績という意味では決して期待通りとはいえず、「天皇賞父子制覇」も四代目につなぐことはできなかったが、ブルードメアサイヤーとして見せた成果は、出色のものと言えよう。・・・だが、「異系の血統」という意味では弟とそう変わりなかったはずのメジロデュレンと比較した場合、兄弟で残酷なまでに分かれた評価と現実は、馬産の厳しい現実を物語っている。同じ母から生まれ、競走馬としてはともに素晴らしい実績を上げた兄と弟だったが、その引退後については雲泥の違いとなってしまった。
『第三の馬生』
種牡馬を引退したメジロデュレンは、乗馬として新たなるスタートを切ることとなった。気性の荒さから乗馬として穏やかにやっていけるのかどうかが心配されていたメジロデュレンだが、静岡県のつま恋乗馬クラブで、無事に乗馬としての馬生を送り、2009年10月15日に天に召されたとのことである。
池江師のいうには、気性の荒さに隠れがちだが、メジロデュレンは頭の良い馬だったという。彼の競走生活を終わらせる直接の原因となったゲートの悪さも、ただ気性が悪かったからではなく、レースの前はいつもダッシュをつけようと思って後ろ脚に力を入れるため、ゲートが開くまでに時間がかかると我慢し切れなくなって立ち上がってしまったのだという。レース以外のゲート練習では、メジロデュレンが立ち上がるようなことは、一度もなかった。
種牡馬になってからも、メジロデュレンは自分のパドックがしっかりと分かっており、ほかのパドックに移すと絶対に草を食べなかった。また、引退が決まった後、厩舎から種馬場に連れていくためにメジロデュレンを馬運車へ乗せようとしたところ、メジロデュレンは悲しそうな嘶きを上げて、馬運車に乗るのを嫌がった。それ以前にレースに向かう際に、そんな態度を見せることは一度もなかったため、池江厩舎の人々は、
「ああ、こいつは自分が違う所に連れていかれることが分かっとんやなあ」
とため息をつきながら、メジロデュレンを見送ったという。そんな馬並外れた頭の良さをうまく生かして、乗馬としての生活に慣れてくれたのは喜ばしいことである。
『生きる』
しかし、種牡馬として失敗し、繁殖入りした娘が大物を出すこともなかったメジロデュレンが、今後の血統図に名を残すことは、望み薄である。彼の血を引く牝馬が比較的いたメジロ牧場も2011年に閉鎖されたことで、細かった可能性がさらに細ってしまった。
メジロデュレンが有馬記念を勝ったのは、1987年のことである。空前の競馬ブームが巻き起こり、それまでいかがわしいギャンブルとしてみられていた競馬場へ普通の人々が足を運びはじめたのは、1988年、笠松から来た4歳馬のオグリキャップによって始まった空前の「オグリ・ブーム」がきっかけだった。つまり、メジロデュレンが有馬記念を勝つ1年後のことである。
この1年のタイムラグが、メジロデュレンにとっては致命的だったのかもしれない。「オグリ・ブーム」によって一気にそのすそ野を広げた競馬ファンだが、そのすそ野の部分である若いファンは、悲しいかなメジロデュレンの最盛期を知らなかった。
「マックは知ってるけどデュレンなんて知らない」
そんなファンが多かったことも、こうした時代のめぐり合わせに原因があるのかもしれない。
長距離Glを2つも勝った彼の名は、2000年前後にはもう「過去の馬」として扱われ、ファンたちから忘れ去られた存在となっていた感がある。しかし、競馬ブームの前であろうと後であろうと、菊花賞、有馬記念という大レースの価値に変わりはない。これらを勝った馬の強さについても然り、である。
メジロマックイーンの強さ、偉大さについては、おそらくこれからも多くのファンによって語り継がれていくに違いない。だが、メジロデュレンの強さについては、おそらくそうではない。メジロデュレンは、「歴代菊花賞勝ち馬」「歴代有馬記念勝ち馬」の中に名をひっそりと残すだけの馬、あるいは自らの強さではなく「あのメジロマックイーンの兄」としてしか語られない馬となってしまっているのかもしれない。本来、そうであってはならないにもかかわらず。
競馬における競走馬の死は、3つあるといわれる。一つ目は、馬自身の死。二つ目は、馬の残した血統の滅亡。そして三つ目は、馬の思い出が忘れ去られること。
一つ目の死は、早かれ遅かれどの競走馬にも等しく訪れるものであり、その運命を避けることはできない。また、種牡馬として失敗したメジロデュレンに第二の死が訪れることも、もはや避けられないことだろう。しかし、第三の死は、私たちの手によって回避させることができる。
私たちは、メジロデュレンに第三の死が訪れないよう、メジロデュレンを後世に語り継がなければならない。「メジロマックイーンの兄」ではなく、「メジロデュレンそのもの」として。メジロデュレンの現役時代を知っている者は、それを友に語り、知らない者はそれを聞き、そしてまた知らない友に伝えていかなければならない。それが、兄弟でありながら弟とはあまりに違った扱いのまま競馬界を去っていったメジロデュレンへの、せめてもの手向けである。メジロデュレンの思い出が語られ続ける限り、メジロデュレンの存在が競馬界から滅び去ることはない。