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モンテファスト列伝~愚弟と呼ばれた天皇賞馬~

『最大の危機』

 ところが、生まれて間もないモンテファストは、早くも大きな危機に直面した。生後1ヶ月にもならない幼いモンテファストは、ある日激しい疝痛に襲われ、診断の結果、重度のヘルニアと診断されたのである。病気の影響で彼の睾丸は腫れ上がり、やがて生命も危険な状態に陥ってしまった。

 斉藤氏が連れてきた獣医は、モンテファストの病状を観察し、冷徹な診断を下した。子馬の命を救うには、手術をして睾丸を取ってしまうしかない・・・。

 しかし、睾丸を取る・・・すなわち去勢してしまった場合、モンテファストはセン馬になってしまう。せっかく牡馬として生まれた期待馬なのに、セン馬になってしまってはクラシックにも天皇賞にも出られなくなってしまう。将来種牡馬になる夢も絶たれる。斉藤氏は、なんとか去勢せずに済む方法はないのか、と獣医に涙ながらに訴えた。

 去勢を強く勧める獣医は、最初は

「完治させるには2個ともとった方がいい」

と主張していた。しかし、涙ながらに去勢に反対する斉藤氏に最後には根負けし、睾丸を1個だけ取る手術をして、そのまま様子を見ることになった。それでも斉藤氏は、手術の時、「自分の睾丸を取られてしまうような気持ち」になって縮み上がったという・・・。

 変則的な去勢手術の後も、モンテファストの病状は一進一退を続けた。斉藤氏は、

「馬が苦しんでいるのに寝てなんかいられん」

といって、モンテファストのことを懸命に看病した。すると、斉藤氏の献身的な介護のかいあって、幼駒の生命力は病気にうち勝った。ついに回復したモンテファストは、そのうち病気の後遺症を感じさせない動きを見せるようになっていったのである。

 牧場時代のモンテファストは、クールな優等生タイプだった兄と違って、何かと手のかかる馬だったという。斉藤氏も生まれてすぐに患った大病のこともあって、モンテファストにはひとかたならぬ愛着を持つようになった。モンテファストはこうして成長していき、いつしかモンテプリンスの全弟にあたる期待馬として、人々の話題に上るようになっていった。

『トラウマ』

 3歳になって兄と同じ美浦の名門・松山吉三郎厩舎に入厩したモンテファストは、「モンテプリンスの全弟」として周囲の熱い視線を集めた。兄はその春のクラシック戦線の本命として、日本ダービーでは1番人気に支持されている。その日本ダービーこそオペックホースとクビ差の2着に敗れたものの、負けてなお強し、というに足りるレース内容は、4歳世代の実力ナンバーワンであることをアピールするにふさわしいものだった。一方、その弟は生産者の評価では、そんな兄をも凌ぐものがあるという。モンテファストがデビュー前からどれほどの大器なのかという期待を集めたのも、むしろ当然のことだった。

 しかし、いよいよモンテファストがデビューを目前に控えた秋口になって、彼はもう一度、予想もしなかった奇禍に巻き込まれてしまった。そして、この事件はモンテファストの競走生活に、少なからぬ影を落とすことになった。

 ある日、デビューを目指して順調に調教が積まれていたモンテファストは、いつものようにダートコースへと連れて行かれて引き運動をしていた。すると、彼のすぐ前にいた1頭の牝馬が小さな物音に驚き、突然立ち止まって後ずさりを始めた。

 モンテファストは、最初何事が起こったのか分からず、急に後ずさりしてきた牝馬をかわすこともできずにぶつかってしまった。すると、牝馬はモンテファストに気がついていなかったのか、驚いてパニック状態となり、モンテファストを思い切り蹴飛ばしてしまったのである。

 不幸なことに、モンテファストを蹴飛ばした牝馬は、後の桜花賞馬ブロケードだった。桜花賞を勝つほどの能力と素質を秘めた彼女だから、後ろ脚のバネも並外れている。そんな強力な後ろ脚で蹴りを入れられる方は、たまったものではない。

 幸い怪我はたいしたことがなかったが、ブロケードの蹴りはモンテファストの別のところに深い傷を残してしまった。後の桜花賞馬の蹴りをくらったモンテファストは、さぞ痛かったのだろう、この事件の翌日からはすっかり馬群を怖がるようになってしまった。

『愚弟と呼ばれ続けて』

 しかし、モンテファストがブロケードに蹴飛ばされ、心に深い傷を負ったという事件は、一般にはあまり知られることもなかった。一般のファンにとって、モンテファストとはあくまで「モンテプリンスの全弟」「牧場時代の評価は兄より上」の馬であり、馬群を怖がるなどということはあってはならない存在だった。当然のことながら大きな期待を集めることになったモンテファストのデビュー戦は、鞍上として兄の主戦騎手である吉永正人騎手を迎え、晩秋の中山に降り立った。・・・ところが、彼のレースは期待を無惨に裏切るものでしかなかった。

 新馬戦は3回使ったものの、それぞれ4、9、8着と散々な成績に終わった。初勝利を挙げたのは通算4戦目となるダートの未勝利戦で、その時モンテファストは4歳になっていた。しかも、その後は脚部不安を発症して2度の長期休養を余儀なくされるなど競馬に使うことさえままならず、勝てない日々が延々と続いた。

 松山師は、モンテファストのレースや調教でのの様子から、素質の高さを十分に感じとっていた。松山師は、5歳時のモンテファストを、1勝馬であるにも関わらず天皇賞へ出馬登録している。何かきっかけさえつかめば、飛躍できるはず。そう信じていた。

 しかし、素質があるのは分かっているにも関わらず、モンテファストはとにかく勝てなかった。巨体ゆえに脚にかかる負担が大きいことから生じる脚部不安、そして勝負どころになるほど重くのしかかる、馬群を怖れ、内につっこむことができない精神的な弱さが彼の足を引っ張った。

 そうこうしているうちに、兄のモンテプリンスは、天皇賞・春、宝塚記念制覇を果たし、名実ともに最強馬の地位へと登りつめていった。兄が「無冠の帝王」から「帝王」になると、余計に引き立つのは兄に比べてあまりにだらしない弟の苦戦ぶりだった。ファンのある者は馬券、ある者は夢、それぞれに目がくらみ、モンテファストの痛みや苦しみを理解しようとはしなかった。期待を裏切られたファンは、モンテファストに対して「愚弟」という罵声を容赦なく浴びせかけた。いつの間にやら競馬界において、「賢兄愚弟」という言葉は、彼ら兄弟のことを表す代名詞になっていた。

『汚名を雪ぐため』

 モンテファストがようやく2勝目を挙げたのは、5歳秋になってからだった。通算11戦目でようやく2勝目をあげたこのころには、誰もがモンテファストへの期待を忘れ、

「こんなものなんだろう」

と諦め、あるいは見捨てつつあった。

 皮肉なことに、モンテファストはこの頃ようやく馬群を怖がる癖を克服し、2勝目できっかけをつかんだように勝ち進み始めた。奇しくも兄のモンテプリンスは、故障を押して出場した有馬記念で11着と大敗したのを最後に現役を引退することが決まった。モンテファストは、兄と入れ替わるように本格化してきたのである。

 モンテファストは、6歳となった翌年夏までに、着実に自己条件を勝ち上がっていった。5勝目を挙げた夏には函館記念に出走し、重賞初挑戦も果たした。

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