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モンテファスト列伝~愚弟と呼ばれた天皇賞馬~

『恐怖の再会』

 函館記念でのモンテファストは、重賞初挑戦ということもあって、53kgとハンデに恵まれた。「良血開化」と話題になった彼は、2番人気に支持された。後方待機策を採ったモンテファストは、向こう正面あたりからマクり気味に進出を開始し、第4コーナーで2番手に取りつこうかという勢いだった。

 ところが、もの凄い勢いで上がっていって、そのままいけば一気に突き抜けるかと思われたモンテファストは、なぜかそこでぴたりと止まってしまい、重賞初挑戦での制覇は果たせず3着に敗れてしまった。

 モンテファストの脚が止まった時に彼の前にいたのは、幼き日に彼を蹴飛ばしたブロケードだった。もしかすると、モンテファストは気づいてはいけないその事実に気づいてしまったのかもしれない。最終的には2着ブロケードと3着モンテファストの着差は2馬身半差あり、「セーフティーリード」がついていたが、後ろにいたモンテファストも、これだけ後ろにいれば、いくらブロケードの後ろ脚が長くても蹴飛ばされることはない。

 結局、函館記念はブロケードとモンテファストが同じレースで走った最初で最後の機会となった。ブロケードはこの日を最後に現役を引退し、この2頭がその後公式の場で互いに出会うことはなかった。

『愚弟の反撃』

 そんな話はどうでもいいとして、モンテファストはその後いよいよ本格化していった。あるいはブロケードの引退を知って元気が出たのかも知れない。彼を蹴飛ばしたワルい女はもういない。モンテファストはついに幼き日のトラウマを克服したのである。

 函館記念の次走である条件戦を勝って勝ち星を6つに積み上げたモンテファストは、秋には天皇賞・秋、有馬記念への出走も果たした。いずれもかつて兄が走った、一流馬しか出走することを許されない大レースである。「愚弟」とバカにされ続けたモンテファストだったが、兄が現役を退いた後になって、ようやく兄と同じ舞台に立ち、それぞれ4、7着という成績を残した。また、その2つのレースの間には、伝統の長距離レース・目黒記念に出走し、とても届かないと思われた位置から直線で10頭以上をゴボウ抜きにする追い込みを見せて重賞初勝利もなし遂げた。かつて「愚弟」とばかにされ続けた弟の反撃が、ようやく始まった。

『主役と脇役』

 もっとも、兄のモンテプリンスと比べると、この時点での弟の成績がまだインパクトに欠けるものだったことは否定できない。7歳緒戦の日経賞(Gll)は4着にとどまり、本番の天皇賞・春(Gl)でも、モンテファストが予想の中心になることはなかった。

 1984年の天皇賞・春は、グレード制度の導入によって当然のようにGlに格付けされた後、初めての天皇賞だったが、そんな歴史の区切りとは裏腹に、出馬表に当時の主役級の馬たちの姿はなかった。旧世代の名馬であり、それまで多くの名勝負を演じてきた「闘将」アンバーシャダイは前年限りで引退し、同じくシンザンの直仔であり時代を支えた1頭であるミナガワマンナも長期休養中(後にレースに復帰することなく引退)、他も6歳世代以上の馬の主力は引退したり、故障していたりで記念すべき天皇賞・春(Gl)に出てくることができなかった。また、新時代を担うべき5歳世代も、世代の雄であり、前年のクラシック三冠を制して新世代の旗手となるはずだったミスターシービーは、脚部不安で休養中だった。

 そんなメンバーの中、圧倒的な人気を集めたのは旧世代の一角たる6歳馬であり、アンバーシャダイやミナガワマンナとたびたび死闘を繰り広げてきた歴戦の勇者ホリスキーだった。

 ホリスキーは、2年前の菊花賞を3分05秒4という当時としては驚異的なレコードで制覇した強豪である。父マルゼンスキー同様に曲がった前脚で高過ぎる能力を支え切れないがゆえの脚部不安という爆弾を抱え、常に屈腱炎に悩まされていたホリスキーだったが、戦列を離れてもそのたびに不死鳥のように甦っては、強敵たちと互角に渡り合ってきた。無尽蔵のスタミナを持つ生粋のステイヤーとされ、前年の天皇賞・春でもアンバーシャダイの2着に健闘した実績もあった。その後、またも屈腱炎が悪化して長期休養を強いられていたホリスキーだが、6歳になってまた戦線に復帰し、前走のエイプリルS(OP)では60kgの酷量を背負いながら優勝し、天皇賞・春(Gl)に駒を進めてきていた。

 ホリスキーの単勝オッズは150円、単勝支持率にして約49%を占める人気となった。他に魅力馬が乏しかったとはいえ、2番人気テュデナムキングの780円を大きく引き離す、典型的な一本かぶりである。一方、モンテファストはというと、関西初登場だったこともあって、ファンには馴染みのない穴馬の1頭という扱いに過ぎず、単勝6番人気の1410円どまりだったで、レース前の京都競馬場には「ホリスキーで仕方ない」という雰囲気が漂っていた。

『理由』

 前年の天皇賞・春では、直線でいったん差したはずのアンバーシャダイの驚異的な粘りに遭い、もう一度差し返されて半馬身差に無念の涙を飲んだホリスキーだったが、そうだからこそ、陣営の人々は今度こそ、という盾制覇の野望に燃えていた。ホリスキーに騎乗した菅原騎手も

「自分との戦いだよ」

と言い切る自信の仕上げだった。

 強気のホリスキー陣営に比べ、他の陣営はなかなか意気が上がらなかった。

「ホリスキーには勝てそうにない・・・」

 そんな弱気の気配は、モンテファスト陣営も例外ではなかった。

 しかし、モンテファストに騎乗する吉永騎手は、モンテプリンスの主戦であるとともに、前年のミスターシービーで三冠も制した老練な騎手だった。その吉永騎手は、モンテファストも脚部不安さえなければホリスキーに引けを取らないと信じていた。そして何より、彼にはモンテファストを絶対に勝たせなければならない理由があった。吉永騎手は、モンテファストの馬主である毛利喜八氏に大きな借りがあったのである。

 吉永騎手はモンテファストの全兄モンテプリンスに騎乗したとき、日本ダービーと菊花賞でいずれも1番人気に支持され、負ける筈がないとまで言われながら、日本ダービーではオペックホース、菊花賞ではノースガストという伏兵に足許をすくわれて2着に敗れた。さらに、5歳の天皇賞・春でもホウヨウボーイにハナ差の2着に敗れ去ったときは、「騎乗ミス」「馬の力を発揮しきれていない」という非難を浴びせられ、ついにはモンテプリンスを管理する松山師までも、

「騎手を代えましょうか」

と毛利氏に提案するに至った。吉永騎手も、さすがにこの時は降板を覚悟した。

 ところが、毛利氏は

「モンテプリンスで吉永を男にしてやるんだ」

と主張して松山師の提案を拒み、モンテプリンスには吉永騎手以外は乗せないと言い張った。毛利氏の意見が通ってモンテプリンスの主戦騎手としての地位を長らえた吉永騎手は、見事に翌年の天皇賞・春と宝塚記念を勝った。

 吉永騎手は、この時毛利氏から受けた恩に深く感じ入っていた。確かに彼はモンテプリンスでふたつの大レースを勝った。しかし、それは勝って当たり前の馬に乗せてもらい、当たり前に勝ったにすぎない。吉永騎手の思いの中では、毛利氏から受けた恩をまだ返し切れてはいなかった。

 吉永騎手は、モンテプリンスの弟で、誰も「勝って当然」とは思っていないモンテファストで天皇賞を勝ち、天皇賞兄弟制覇の偉業を達成することでこそ、毛利氏への本当の恩返しを果たせると考え、静かに燃えていた。吉永騎手の執念を乗せた天皇賞の発走の時は、すぐそこに迫っていた。

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