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オサイチジョージ列伝 ~さらば、三強時代~

 1886年4月13日生。死没年月日不詳。牡。黒鹿毛。大塚牧場(三石)産。
 父ミルジョージ、母サチノワカバ(母父ファバージ)。土門一美厩舎(栗東)。
 通算成績は、23戦8勝(3-7歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、神戸新聞杯(Gll)、
 京都金杯(Glll)、中京記念(Glll)、中日スポーツ賞4歳S(Glll)、葵S(OP)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『ある時代の終わり』

 日本競馬史上「三強」と称された時代は多いが、それらが本当に「三強の時代」というに値したかどうかを検証していくと、必ずしもその呼び名がふさわしくない場合も少なくない。「三強の時代」というからには、傑出した3頭の名馬が互いにしのぎを削り、他の馬の追随を許さない状態で勝ったり負けたりを繰り返さなければ物足りない。しかし、同じ時代に、名馬と呼ぶにふさわしい馬たちが3頭も同じターフに立ち、実力の絶頂期が同じ時代に重なるなどという都合の良い事態は、なかなか起こるものではない。

 その点、昭和末期から平成初期にかけて、オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンという、いわゆる「平成三強」が繰り広げた戦いは、まさに「三強」と呼ぶにふさわしい時代だった。「平成三強」を形成した彼らは、それぞれがGlを4、3、3勝した超一流馬であり、彼らが勝ったGlレースを並べてみると、1988年菊花賞、有馬記念、89年天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋、マイルCS、有馬記念、90年天皇賞・春、安田記念、有馬記念・・・である。これを見れば、この3頭がいかにこの時期の中央競馬の主要レースを総なめにしていたかは一目瞭然である。

 しかも、この時代のおそろしいところは、三強以外の顔ぶれも決して貧しかったわけではないことである。89年春は、オグリキャップとスーパークリークが故障でレースに出走できなかったことから、「平成三強」が明確に意識されたのは同年秋に入ってからだが、後から見れば、この時代は、88年有馬記念でオグリキャップがスーパークリークを含めた出走馬たちを抑えて日本競馬の頂点に立った時に幕が上がっていたといっていい。その有馬記念でオグリキャップの前に立ちふさがったのは、1歳年上の世代で、同年に史上初めて天皇賞春秋連覇を果たした「白い稲妻」タマモクロスであり、またオグリキャップと同世代で、爆発的な末脚を武器として、既にGlを2勝していたサッカーボーイだった。また、三強時代の最中に彼らと競い、そして敗れていった馬には、皐月賞と天皇賞・秋のGl2つを制したヤエノムテキ、「無冠の貴公子」メジロアルダン、短距離Gl2勝に加えて中距離にも果敢に挑んだバンブーメモリー、ランニングフリーなどの名前があがる。さらに、三強時代の終わりに世代交代を狙って世代交代の闘いを挑んだ1歳下の世代の馬にも、メジロライアン、ホワイトストーン・・・といったそうそうたる面々が名を連ねている。

 そんな極めて充実したメンバーの中で、「平成三強」は、傑出した実力と結果を示し続けた。オグリキャップとスーパークリークが初めて対戦し、「平成三強」同士が初めて直接ぶつかった88年有馬記念からあるレースまでの約1年半にわたり、「平成三強」のうち2頭以上が出走したレースでは、外国招待馬ホーリックスが優勝した89年ジャパンC(Gl)以外のすべてのレースで、三強のいずれかが勝ち続けた。また、彼らの中で1頭だけが出走したレースでも、「平成三強」以外の馬に優勝を許したのは、成績にムラがあったイナリワンだけだった。何ともすさまじい時代であり、このような時代が、果たして今後再び来ることはあるのか、疑問ですらある。

 だが、どんなに素晴らしい時代にも、終わりは必ず来る。長きにわたって続いた「平成三強」の時代は、1990年の宝塚記念をもって大きな転機を迎えた。このレースには、オグリキャップとイナリワンという三強のうち2頭が出走しながら、他の日本馬が勝ってしまったのである。

 このレースをもって、「平成三強時代」は終わりを告げたといってよい。イナリワンはこの日が現役最後のレースとなり、二度とターフに戻ってくることはなかった。また、このレースを直前になって回避したスーパークリークは、秋に1戦した後、脚部不安によって引退した。そしてオグリキャップは、秋に戦線に復帰したものの、その後はかつての煌きを失ったかのように天皇賞・秋、ジャパンCと惨敗を繰り返した。これらの敗戦は、最後のレースとなる有馬記念によって伝説の一部として塗り替えられたとはいえ、「平成三強」の筆頭格だったオグリキャップには考えられないほど惨めな光景だった。

 その意味で、1990年の宝塚記念でオグリキャップを抑えて優勝した馬・・・オサイチジョージの存在は、もっと強く意識されてしかるべきである。宝塚記念でオグリキャップとイナリワンを破った彼は、その勝利によって、単にひとつのGlを勝ったにとどまらず、平成三強時代に幕を引いた存在なのだから。

『オサイチジョージ』

 オサイチジョージは、1986年4月13日、北海道三石郡三石町の大塚牧場で産声を上げた。

 オサイチジョージの母であるサチノワカバは、道営競馬で3勝を挙げている。サチノワカバの牝系は、大塚牧場が何代にもわたって育んできた牝系で、叔父に阪神3歳Sを勝ったカツラギハイデン、大伯父に菊花賞など重賞6勝を含む13勝を挙げて種牡馬になったアカネテンリュウがいる。

 オサイチジョージの父であるミルジョージは、当時のサイヤーランキング上位の常連であり、また平成三強の一角・イナリワンの父でもある。オサイチジョージとイナリワンは、牝系のみを兄弟の基準とする馬の世界でこそ「兄弟」とは呼ばれないものの、人間ならば「腹違いの兄弟」にあたる。

 ミルジョージの競走馬としての成績は、4戦2勝にすぎない。故障があったとはいえ、お世辞にも一流と呼ぶことはできない。だが、彼の父は英国ダービー、キングジョージ6世&QエリザベスDS、凱旋門賞という、いわゆる「欧州三冠」を史上初めて旧4歳で全て制した「英国の至宝」Mill Reefの産駒だった。そのため彼の血統に期待をかけた日本に輸入され、種牡馬として供用されていたのである。

 すると、日本競馬に合っていたのか、ミルジョージは種牡馬として大成功した。彼の代表産駒としては、イナリワン、オサイチジョージのほかにも、90年のオークス馬エイシンサニー、91年のエリザベス女王杯馬リンデンリリー、帝王賞と東京王冠賞を勝って絶対皇帝シンボリルドルフにも食い下がった南関東の雄ロッキータイガー、牝馬ながら南関東三冠、東京大賞典を総なめにしたロジータ、長距離重賞を2勝し、天皇賞・春でも2着に入ったミスターシクレノンなどの名前が挙がる。ミルジョージ産駒の特徴は、芝でも実績は十分だが、ダート戦で実力を発揮する仔が非常に多かったことであり、ミルジョージの産駒からは、地方競馬の雄も多数輩出されている。

 オサイチジョージは、ミルジョージが旧12歳の時に生まれた世代にあたる。5歳時から日本で種牡馬生活に入ったミルジョージにとっては、一流種牡馬としての評価が固まりつつある時期であり、後から見れば、ミルジョージの代表産駒とされる馬たちの多くは、この前後に生まれている。当時のミルジョージは、種牡馬として最も脂が乗った時期を迎えており、種付け料も高かった。

 もっとも、ミルジョージとサチノワカバとの間に生まれたオサイチジョージは、生産者である大塚牧場の目には、あまりできのよくない産駒と見えていたようである。当歳の時に庭先取引で売れたとされているオサイチジョージだが、実際にはこの時馬主が目を付けたのは同い年の別の牝馬であり、その際に大塚牧場が、

「ついでにもう1頭買っていってほしい」

と言って見せた3頭の中から、馬主がオサイチジョージを選んだということである。意地の悪い言い方をすれば、オサイチジョージは「抱合せ販売のおまけ」に過ぎなかったことになる。実際には、「おまけ」が宝塚記念をはじめ重賞を5勝したのに対し、本来の目的であった牝馬は未出走のまま繁殖入りしたというから、サラブレッドとは本当に難しい。

『人と馬と』

 旧3歳になったオサイチジョージは、土門一美調教師に入厩し、競走馬生活に入った。土門師は、オサイチジョージの主戦騎手として、自分の弟子である丸山勝秀騎手を起用することにした。

 丸山騎手とのコンビで3歳時を3戦1勝2着2回で終えたオサイチジョージだったが、脚部不安を生じたため、春のクラシックは断念することになった。4歳緒戦となったあずさ賞(400万下)、葵S(OP)を連勝したオサイチジョージの重賞初挑戦は、血統的には中距離馬と思われていたにもかかわらず、裏街道と呼ばれるニュージーランドトロフィー4歳S(Gll)だった。

 このレースで1番人気に推されたオサイチジョージだったが、直線で2度も前が壁になる不利を受けてしまい、3着に終わった。このレースの後、丸山騎手は、

「私の騎乗ミスです。馬には責任はありません」

と関係者に頭を下げて回ったという。

 丸山騎手は、デビューした年こそ21勝を挙げて注目されたものの、その後は伸び悩んでおり、オサイチジョージに出会うまでの6年間で通算91勝、重賞勝ちはなしという状態だった。目立った数字を残しているとはいえず、むしろ伸び悩んでいた当時の丸山騎手にとって、人気馬で重賞の騎乗機会を得ることは、大きなチャンスだった。しかし、そんなレースで結果を残せなかっただけでなく、その原因が騎乗ミスともなれば、チャンスはむしろピンチとなりかねない。オサイチジョージについても乗り替わりを命じられるおそれがあったが、丸山騎手は潔く謝った。

 土門師らは、そんな丸山の潔さと心意気を買い、次走もコンビを継続した。すると、丸山騎手はその温情に応え、当時1800mで行われていた中日スポーツ賞4歳S(Glll)を勝った。これは、オサイチジョージにとってはもちろん、丸山騎手にとっても初めての重賞だった。

『出揃うライバル』

 一方、オサイチジョージが駒を進めることができなかった1989年春のクラシック戦線は、空前の大混戦となっていた。皐月賞(Gl)は道営出身のドクタースパート、日本ダービー(Gl)はそれまでダートでしか勝ち鞍のなかったウィナーズサークルが制した。牝馬戦線でも同様に、桜花賞(Gl)こそ1番人気のシャダイカグラが勝ったものの、オークス(Gl)を制したのは10番人気のライトカラーだった。

 混戦となった春のクラシックの裏側で、オサイチジョージの戦績は、7戦4勝2着2回3着1回となった。オサイチジョージが春のクラシックに出走していたらどうなっていたかは、無意味な仮定であるが、無意味と知りつつそのような仮定を考えてみたくなるほど、この世代は本命なき混戦だった。この時期の安定したレースからいえば、オサイチジョージが勝ち負けできる可能性も、決して小さくはなかったといえるだろう。

 皐月賞馬ドクタースパート、ダービー馬ウィナーズサークルともいまひとつ信頼感に欠ける中で、オサイチジョージはいまだ底を見せていない上がり馬と評価され、秋に向けての巻き返しが期待できる有力馬の1頭とされていた。

 もっとも、秋・・・菊花賞を目指す新興勢力は、オサイチジョージだけではなかった。栗東にはもう1頭、急速に頭角を現しつつある馬がいたのである。その馬の名は、バンブービギンといった。

 バンブービギンは、ダービー馬バンブーアトラスを父に持つ内国産馬で、素質は早くから期待されていたものの、脚部不安を抱えていたこともあって出世が遅れ、未勝利を脱出したのは4歳5月になってからだった。だが、鞍上に南井克巳騎手を迎えて、デビューから7戦目の初勝利を挙げると、晩成の成長力を爆発させてあっという間に3連勝し、注目を集めるようになっていた。

 夏を挟んだオサイチジョージは、神戸新聞杯(Gll)から始動したが、そこには3連勝中のバンブービギンの姿もあった。オサイチジョージは、そのバンブービギンに3馬身半の差を付けて快勝し、まずは秋の緒戦を飾った。続く京都新聞杯(Gll)にも返す刀で出走したオサイチジョージは、ダービー馬ウィナーズサークルとの一騎打ちと予想されていた。

 しかし、京都新聞杯でのオサイチジョージは、前走で決定的な差をつけて破ったはずのバンブービギンに1馬身1/4差をつけられ、雪辱を許す形となった。単純に計算すれば、オサイチジョージは神戸新聞杯からたった1ヶ月で、バンブービギンに約5馬身、先を越されたことになる。

 バンブービギンの父バンブーアトラスは、今とは違って東高西低だった時代に、関西の星としてダービーに挑み、見事に優勝している。だが、秋に菊花賞を目指したバンブーアトラスは、前哨戦の神戸新聞杯で激しく追い込み、阪神の短い直線だけで3着に突っ込んだ。だが、その激走で故障を発生した彼は、菊花の舞台を踏むことなく、そのままターフを去った。・・・それから7年、バンブービギンの出現はまさに「父の無念を晴らす息子」という大衆受けしやすいドラマとして語られるようになった。京都新聞杯でオサイチジョージ、ダービー1、2着馬であるウィナーズサークルとリアルバースデー、弥生賞大差勝ち以来のレインボーアンバーをまとめて差し切った勝ちっぷりは、ファンに夢を見させるに充分なものだった。

『秋風』

 続く菊花賞(Gl)では、オサイチジョージとバンブービギンに対するファンの支持は逆転し、春のクラシックでは影も形もなかったバンブービギンが1番人気に支持された。

 2番人気に支持されたのは、京都新聞杯(Gll)4着からの巻き返しを図るダービー馬ウィナーズサークルだった。天皇賞馬2頭を出した父シーホークのスタミナは、淀3000mでこそ生きると思われた。神戸新聞杯(Gll)を圧勝した時点では死角なしと思われていたオサイチジョージは、3番人気に留まった。

 菊花賞は、クラシック最後の一冠であり、京都3000mコースを利用して行われるため、淀の「だらだら坂」を二度越えることが要求される過酷なレースである。皐月賞とダービーに出走することさえできなかったオサイチジョージにとって、菊花賞は文字どおり、生涯一度のクラシックへの挑戦だった。

 しかし、この日のオサイチジョージの鞍上にいたのは、デビュー戦以来のパートナーの丸山騎手ではなく、彼の兄弟子に当たる西浦勝一騎手だった。丸山騎手は、こともあろうに菊花賞を目前にして騎乗停止処分を受けてしまい、オサイチジョージの一生に一度の晴れ舞台に、パートナーとして上がることができなくなってしまったのである。

 レースが始まると、バンブービギンは1番人気の意気に感じたか、好スタートを切ってからすぐに6、7番手に抑え、オサイチジョージ、ウィナーズサークルがそれを見るような形で道中を進んだ。・・・本来オサイチジョージに流れるミルジョージの血は、スタミナに富むものであり、淀の長距離にも充分対応できるはずだった。

 そんな血の力を封じたのは、ほかならぬオサイチジョージ自身の気性だった。ゆったりとした流れに耐えきれなくなったオサイチジョージは、かかり気味となってスタミナを消耗していったのである。西浦騎手にはそれを抑えることはできず、バンブービギンが二度目の坂で徐々に進出を開始した頃、それについていくことさえできなくなったオサイチジョージは、ずるずると後退していった。

 直線に入ってからは、バンブービギンが一気に先頭に立ち、そのまま快勝した。2着には弥生賞を大差勝ちしながら故障で皐月賞とダービーを使えなかったレインボーアンバー、3着にはダービー2着馬リアルバースデーが入った。日本ダービー馬のウィナーズサークルは10着に敗れ、後にレース中の骨折が明らかになった。

 オサイチジョージは、骨折したウィナーズサークルにさえ先を越される12着という無残な結果に終わってしまった。長距離への適性の限界か、はたまた馬と人との呼吸が原因なのか。原因は不明のまま、オサイチジョージの生涯一度のクラシックは寂しく幕を閉じた。

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