フレッシュボイス列伝~雪、降りやまず~
『悪コンディションの下で』
そんな後方への嘆きをよそに、その嘆きをはるかに超える大きな期待を背負ったニッポーテイオーは、快調にレースを引っ張っていった。重馬場だろうが何だろうが、真の実力馬には関係ない。横綱相撲で押し切ってみせる。彼の競馬は、そういわんばかりの自信にあふれていた。スタート後ほどなく先頭に立ったニッポーテイオーは、第4コーナーを回ってもなお先頭を譲ることなく、自らの競馬を貫いていた。
・・・だが、馬場のコンディションは、目に見えない部分でニッポーテイオーから切れとスピードを奪いつつあった。素軽いスピードを最大の武器とするニッポーテイオーにとって、本来重馬場は、マイナス要因にこそなれ、プラス要因となることはない。それでも絶対的なスピードと優れたセンスによって、人間たちにそのマイナス要因を感じさせなかったニッポーテイオーだが、脚に絡まる湿った芝と荒れた馬場は、じわじわと彼のスタミナを削っていたのである。いつもならここから一気に後続を突き放しにかかるニッポーテイオーだが、この日はそこから抜け出すことができない。
ただ、悪コンディションにスタミナを削られるのは、ニッポーテイオーだけではない。ニッポーテイオーがいつもの走りに比べると順調さを欠いていたとしても、他の馬たちがそれ以上に順調さを欠けば、結果は同じである。いや、むしろ悪コンディションの方が、精神力による差が顕著となる。すなわち、悪コンディションに負けずに走り抜こうとする精神力を持つ一流馬と、悪コンディションに負けて走る意思すら失ってしまう一流ならざる馬との間の差は、より大きくなる。
ニッポーテイオーと後ろの馬たちの差は、なかなか縮まらない。重い馬場にスタミナを奪い尽くされ、1頭、また1頭と力尽きて脱落していくのは、後続の馬たちの方である。堅固な精神力で闘志を燃やし続けるニッポーテイオーの脚が止まる気配はなく、1番人気に応えての逃げ切り勝ちは、なるかに見えた。
しかし、大外から1頭が次元の違う末脚を見せて突っ込んできたのは、その時だった。・・・その馬こそが、フレッシュボイスだった。
『戦慄の脚』
フレッシュボイスは、直線入口地点では、まだ後ろから数えた方が早い位置にいた。いくら直線が長い東京競馬場でも、19頭だての多頭数でこの位置、しかも馬場状態が重馬場というのでは、普通の馬ではもはや勝ち目はない。だが、フレッシュボイスは違った。持ち前のパワーで重戦車のように馬場を引き裂くフレッシュボイスは、みるみるニッポーテイオーとの差を詰めていく。他の馬たちが苦しむ重馬場を、フレッシュボイスはむしろ助けとしながら末脚を炸裂させた。確かなパワーに裏打ちされた末脚・・・それは、まさに「鬼脚」と称えるに値する破壊力を持っていた。
ニッポーテイオーも、後のマイル界に君臨する王者となるべき名馬である。どんなレースでも実力を出すことができる安定感は、この時点でも相当の水準に達していた。だが、この日の馬場で生きるのは、王者の安定感ではなく、重戦車の力強さだった。
残り200m地点では、ニッポーテイオーにまだ3、4馬身ほどのリードがあるように見えた。しかし、2頭の脚色を見ると、どちらの馬が勝つのかはもはや誰の目にも明らかだった。フレッシュボイスは、並ぶ間もなくニッポーテイオーをかわし、そのままゴールへと駆け込んだ。その時既に、ニッポーテイオーには抵抗する余力は残されていなかった。
結局フレッシュボイスは、ニッポーテイオーに1馬身4分の1差をつけ、安田記念制覇を果たした。・・・文字どおりの快勝だった。彼は自分自身の持ち味を最大限に発揮し、ついにGlという栄冠を手にしたのである。
『夢よ、もう一度』
安田記念でフレッシュボイスの後塵を拝したニッポーテイオーは、次走の宝塚記念(Gl)でフレッシュボイスに先着したものの、スズパレードの2着に破れたため、Gl3連続2着という珍記録を作る羽目になってしまった。・・・だが、ニッポーテイオーの雌伏の時は、ここまでだった。秋には天皇賞・秋(Gl)で悲願のGl制覇を果たしたニッポーテイオーは、続いてマイルCS(Gl)も制覇した。6歳となった翌年には安田記念(Gl)を制して前年の雪辱を果たし、宝塚記念では天皇賞・春を勝ったタマモクロスとの一騎打ちに敗れて2着に終わると、そのレースを最後に栄光に包まれて引退していった。中央競馬の華というべき2400m以上のレースには出走しなかったために印象は薄いが、マイルから中距離において確かに「ニッポーテイオーの時代」というものは存在していた。
では、その間フレッシュボイスは何をしていたのか、というと、ライバルの栄光と退場を目の当たりにしながら、彼もまた自分自身の戦いを遂行し続けていた。・・・だが、その年の秋から翌年の春にかけて絶頂期を迎えたニッポーテイオーとは異なり、フレッシュボイスの絶頂期は、安田記念の時だったのかもしれない。その後のフレッシュボイスは、宿敵ニッポーテイオーと戦うこと4回、ついに一度も先着することはできなかった。
不器用なまでに追い込み一手のレースを続けたフレッシュボイスの競馬は、安田記念の後もまったく変わることはなかった。6歳時には、武豊騎手とのコンビで産経大阪杯(Gll)を勝ってみせた。だが、成績が安定しないのは極端な脚質の悲しさである。いつも最後にはそれなりに追い込んで、
「あとひとハロンあれば・・・」
と多くのファンにため息をつかせた。だからといって違う競馬をできるような馬でもないし、むしろ後方からいかなければ、フレッシュボイスの良さは生きてこない。そんなもどかしさこそが、フレッシュボイスのフレッシュボイスたるゆえんでもあった。
ニッポーテイオーが去った後も競争生活を続けたフレッシュボイスだったが、そんな彼も、年齢による衰えを避けることはできなかった。直線での末脚は少しずつ、しかし確実に衰え、それに対応して彼の着順も、時の経過とともに下がりがちになっていった。
フレッシュボイスが7歳にして宝塚記念に出走した時は、誰もが彼のことを見限りかけていた。この時の鞍上は、クラシックを共に戦った田原騎手でも、安田記念の美酒を分かち合った柴田騎手でも、また大阪杯でコンビを組んだ武騎手でもなく、関西の若手・松永幹夫騎手だった。16頭だての10番人気にとどまったフレッシュボイスは、前年の有馬記念(Gl)以来の実戦という不安材料があったとはいえ、「終わった馬」とみられていた。
フレッシュボイスが競走生活の中で最後の見せ場を作ったのは、この日のことだった。天皇賞・春(Gl)を勝ったイナリワンが馬群から抜け出すと、フレッシュボイスも後方から負けじと追い上げ、久しぶりに見る豪脚を繰り出すと、わずかにクビ差まで肉薄したのである。結果は惜しくも2着にとどまったが、「フレッシュボイス、老いてなお健在」をアピールするには十分なレースだった。
・・・そして、それがフレッシュボイスの最後の輝きとなった。その後も現役を続行したフレッシュボイスだったが、秋は3戦に出走したものの、1度も掲示板に載ることさえできず、有馬記念7着を最後についに現役を引退することになった。彼が残した戦績は26戦7勝、安田記念をはじめ重賞を5勝し、さらに皐月賞、宝塚記念で2着に入ったというものであり、一流馬として十分誇るに値するものである。
『天はなぜ分かっては下さらぬ』
種牡馬生活に入ることになったフレッシュボイスは、自らは3歳時から活躍する仕上がりの早さと、古馬になってから息長く走り続ける成長力をあわせ持っていた。彼の本質はマイラーだったと思われるが、菊花賞(Gl)で6着、有馬記念(Gl)でも5着、6着に入った経験があるように、距離が伸びてもそこそこの走りができる自在性、融通性も兼ね備えていた。
しかし、そんな彼の長所は、厳しい現実の前にかき消されてしまった。フレッシュボイスの初年度種付けのために集まってきた繁殖牝馬は、わずか6頭にすぎなかったのである。翌春生まれた産駒は、そのうち5頭だった。これでは種牡馬としての成功は望めない。
フレッシュボイスが種牡馬としてまったく人気が出なかった原因は、いくつか考えられる。血統的には主流と言い難いフィリップオブスペインの仔で、内国産種牡馬軽視の風潮もあって、血統的な魅力に欠けるとされていたこと、フレッシュボイス自身マイラーでありながら必ずしもスピードタイプとはいえず、むしろ近年冷遇されている典型的なパワー型の馬だったということ・・・。フレッシュボイスが示した適性は、本来種牡馬として魅力的な要素であるはずだったが、それらの要素がいとも簡単に無視されてしまうのが、日本の馬産の悲しい現実だった。
フレッシュボイスの現役時代は、その極端なレースぶりから、個性派としての人気を集めていた。女性ファンもなぜか多かった、とのことで、かつてフレッシュボイスが繋養されていたある種馬場で彼の世話をしていた担当者は、女性ファンがフレッシュボイスの見学に訪れるたびに
「これが人間じゃなくて馬だったらなあ」
とため息をついていたという。
『雪、降りやまず』
しかし、女性ファンではなく繁殖牝馬がフレッシュボイスのもとに殺到する日は、ついに来なかった。フレッシュボイスの種付けは増えることなく、彼の種牡馬としての成績は目を覆うばかりで、初年度の産駒がデビューした1993年の成績は、なんと898位だった。当時の日本のサイヤーランキングの順位がある種牡馬が1000頭前後であり、さらにそれはその年度に1頭でも産駒が出走した種牡馬はすべて含まれる・・・つまり、既に死亡した種牡馬や、事実上引退した種牡馬も含まれる。さらに、種牡馬の中には馬主が趣味で種牡馬入りさせたり、アテ馬として繋養されている馬もいることからすれば、フレッシュボイスの種牡馬成績は、内国産Gl馬としてはあまりに無惨なものだった。
さらに、種牡馬のサイヤーランキングは、デビューした世代が増えるに従って上がっていくのが普通だが、2年目以降の産駒自体がほとんどいないフレッシュボイスは、それ以降もまったく浮上の傾向はなかった。
それでも種牡馬生活を続けたフレッシュボイスだったが、ついに2001年を最後に、「用途変更」によって種牡馬登録を抹消され、それまで繋養されていた牧場からも姿を消した。
「フレッシュボイスはどこにいるのだろう―」
フレッシュボイスは、今や私たちには見えず、手も届かないところに行ってしまったのだろうか―。そんな疑問は、多くの競馬ファンの胸を詰まらせた。
幸い、その後しばらくして、フレッシュボイスの新しい繋養先が明らかになったことで、ファンが想像した最悪の結末は、杞憂に終わった。
雪の阪神競馬場で鮮烈な差し切り勝ちを収めて全国区に躍り出たフレッシュボイスも、その第二の馬生は目には見えない、しかしやむことのない雪にたたられる形となった。そんなフレッシュボイスが、2007年6月12日に天寿を全うすることができたのは、せめてもの幸運である。
競馬界・・・その厳しい競争社会に降りしきるささめ雪は、冷たく非情である。フレッシュボイスの生まれ故郷である小笠原牧場も、フレッシュボイスを出したしばらく後に、規模を縮小して場所も移転したという。そんな厳しい世界だからこそ、せめて実績を残した名馬たちの第二、第三の馬生は、静かで穏やかなものとなってほしい・・・。